6-5

 鏡花垂涎の夕食も終わって、オレンジ色の温もりに溢れる廊下を、ふかふかの床をスリッパで踏みしめながら進んで部屋に戻る。


「はぁーー、久々に満腹になったぁー」


 鏡花が息を大きく吐き出しながら、腕をぶらぶらさせた。旅館の料理はとても美味しかったけど、それより満たされて口角が上がりっぱなしな鏡花のほうが、私にとってはご馳走だった。出汁の香りとか素材本来の味わいとか、そういう趣はわからないけど、鏡花の気持ちは外すことがない。それもそのはず、鏡花は私といられて、ずっと幸せなのだから。


「ねー」

「んー?」

「お腹触ってもいい?」

「お手柔らかにね」

「へいへい」


 支配人らしき人に睨まれ、小さい子に指を差され、その親にテレビに出てますか?とか聞かれるほど、一生懸命食い意地を張った後である。あの量が、全部この中に収まっているんだから、そして数時間もすれば元通りなんだから、もはや生命の神秘も禁じ得ない。


 それで、鏡花のお腹はとてもぽよぽよしていた。つきたての餅、あんな感じ。脇腹はもう少し肉厚。いつまでも触っていられるかも……なんて、トランペットのピストンを押すように揉んでいたら、反撃されて「ひゃふっ」と、私の変な声が通路に響き渡る。それで、鏡花が節度なく笑う。


「縁佳、不意打ちにもくすぐられるのも弱いよねー」

「否定はしないけど……。しょうがないじゃん」

「それに比べて私は。なんという威厳。縁佳の手さばきではびくともしない」

「直接触っていい?」

「えっ、いやそれは……。せめて、部屋に帰ってからにしようよ、ね」


 それもそうか。こんな所で浴衣に手を突っ込んでいたら、変態だと思われる。珍しく鏡花に諭されてしまった。きまりが悪いので、後ろで手を組みながら、何気なく会話を続けてみる。


「それにしても、よく太らないでいられるねぇ」

「そういう体質なのかな」

「突然体質が変わって、なんて無いといいけど」

「ふ、不吉なこと言わないでっ」

「でも、無いとは言い切れないでしょ?」

「……もしそうなったとして、縁佳はどうする……?」

「どうするとは」

「……太っててもいい?」

「いやー、太ってないほうがいいなー」

「そっか。食欲との両立、頑張るね」

「頼みますー」


 儚くて消えそうで折れてしまいそうで、私が支えなきゃダメなんだって外面をしておいて、その実、逆に依存させてくるような強かさに、私はまんまと引っかかったわけで、つまり簡単にまとめると、べっぴんさんな方がいい。まあ、薹が立たないと、人の深みだけで愛せるようにはならないんだと思う。向こうはどうなんだろうか。案外、似たような考えかもしれない。だって学生時代は、私の一挙手一投足に悶絶してたし。


 部屋に戻ると布団が敷かれていた。鏡花が無邪気に寝っ転がって感触を確かめているのを横目に、私は広縁の冷蔵庫を開けた。


「今から飲むの?」

「もちろーん。これが一番の醍醐味なんだから」


 酒とつまみの入ったレジ袋をを机の上に広げて、座椅子で存分に足を延ばす。威圧感すらある大ぶりの窓の外には、港の灯火が燦然と輝き、その合間を埋め尽くすように漆黒の海が広がっていた。朝が楽しみな景色に思わず酒を呑む……夜は夜なりの雰囲気があって、酒が進む。


「鏡花?」

「さっき触るって」


 だからってはだけた格好で迫ってくるなし。


「本当に、太らないでよ?ぺしぺし」

「きぃーつけますぅー」

「それはそうと、鏡花も飲む?」

「もう満腹なので。水の一滴もいらない」


 と、すっぱり断られてしまったので、鏡花のほうに一度寄せた缶をより戻す。食にストイックなせいで、鏡花はあんまりお酒を飲まない。そういうブレないところが好きだ。まあ、酔いが回ってほんのり紅潮して、舌足らずになってるのも最高だけど。


 そんな鏡花は這って反対の座椅子に横座りして、私の晩酌を見物している。


「そう言えばさぁ、前から気になってたんだけど」

「なっ、どうぞ……」


 私が鏡花を意識した途端、彼女の表情はぱぁーっと明るくなる。しかしすぐに、不満を垂れられると勘違いして勝手に動転し始めた。


「えぇーっと、鏡花って嫉妬とかするの?」

「しっと?」

「法界悋気」


 鏡花は下唇をつまみながら、生真面目に自分の感情を予測している。


「なんだかんだ言って、高校の時の人たちとは今も関わりがあるし。職場の人とも、時に飲み会に行ったりするわけじゃない」

「そうだね。だけど、昔に比べたらずっと落ち着いたかも」

「昔は、凄かったんだ」

「信頼だよ、縁佳が私のことを好きでいてくれるって確信があるから。昔の話は……もういいでしょっ」


 思い出して恥ずかしくなって、鏡花は語気を強めた。つまり、堅い絆のように見えるけど、私のさじ加減で鏡花の感情は乱高下させられるほど、脆いものってことらしい。まあ、私が寄りかかれる相手なんて、この先も鏡花だけだろうから、やっぱり崩れることのない永遠の栄華なのかもしれない。共依存というのは、こんなにも素晴らしい。


「なにニヤニヤしてんのっ?だからって、同期の女の子に頼られて、鼻の下伸ばしてるのが許されるわけじゃないんだからね!」


 鏡花の指先には、太いワイヤーを介して油圧で引っ張っていそうなほど力が籠もっていた。


「いや、それは言いがかり……」

「頼られていいのは、私だけだからっ!」

「もちろん、心得てますとも。だから、そう気を立てないで」


 私は眉を八の字にして、苦笑を浮かべるしかなかった。鏡花は、嫉妬というより独占欲が横溢している。嫉妬というのは相手より自分が劣っているように感じるから起こるもので、鏡花自身も他の誰よりも私を好きだって自覚があるから、それは嫉妬ではなく独占欲なのだ。どちらにせよ、吐き出させられて良かったー。


 しかし、独占されて喜んでいる私も、中々の変人だなぁと、むっとして怒ってるアピールをしている鏡花を前に、ふと思った。


「逆にそっちはどうなの」

「鏡花が私を差し置かないから、原理的に起こり得ない事象なんだけど」

「えぇー。なんか嫉妬に狂って、多少強引になるとか…………」

「そんな、理性が微塵も感じられない姿がお好みなの?」

「感情の傀儡になってる縁佳、もっと見たい」

「んー、んんー……」


 一缶目をあおって空にしながら唸る。


「酒が入ったら、……待望の姿?になれるかもしれない」

「それはっ、ぜひ見たいけどっ、でも肝臓に悪いから勧められないんだけどっ……」

「今日ぐらい良いでしょー。二缶目~」


 頭を抱えたまま、ぶつくさ呟きながら顔を左右に振る鏡花に、見せつけるように持ち上げて、いい音鳴らしながら缶を開けてやった。んーっ、鏡花をあてにして飲む酒が一番旨い、究極酒じゃなくてもいい。



 完全に寝ている。頬を机に貼り付けて、飲み終わった缶に囲まれて、安らかに夢を楽しんでいる。すーすーと、縁佳の嚠喨たる呼吸の音だけが、この十畳の和室に響き渡る。耳を傾けると、気持ちが凪いでくるどころか、同じ夢を見られそうである。


 そして時折、何かを言いたげに口が動く。体を捻って耳を縁佳の口元に近付けてみる。……寝言、溢してくれないかなぁ。


 十分ぐらい粘ったけど、何も聞こえなかったから、諦めて体を起こす。すると、再び縁佳の寝顔の全貌が目に飛び込んでくる。私はこんな人の傍に居て、この表情を独占していいんだから、奇跡というのは反則だ。反対側には戻らず、縁佳の向いてる方向に正座して、明日のことも縁佳の体調のことも考えずに、今度はひたすらそれを眺める。どんな事も、五感で楽しむことしかできないこの世界が嫌になる。見て聴いて触って嗅いで口に含む、これ以上、何をしたいか名状できないのは困るのだ。


 それはそうと、人間の体の構造に文句を言ったくせに、実は大して近付けてない。眠りの邪魔をするのは良くない。でも旅行中に彼女をほったらかすのはもっと良くない。だから……慎重に髪をかき分けて、耳を舐めてみる。……なんでそんな事をしたんだろう、それより縁佳っていいにおいするなぁ。


「ひゃあっ!?」

「わっ、ななっなになに、おはようおはよう」


 縁佳は叫びながら飛び起きた。まあそりゃそうなるって話だけど、私も一緒になって吃驚して、まるで被害者を演じていた。それにしても良い声で鳴いたなぁ。挙措を失って、地に足をつけて堪能できなかったのが悔やまれるけど。じゃあ、私は概ねいい仕事をしたんじゃないだろうか。


 縁佳は私を睨み付け、はぁはぁと息を荒げてさえいる。離れていても熱を帯びている感じが何となく伝わってくる。


「寝落ちしちゃって悪かったけどっ。びっくりさせないでよ、心臓に悪いなぁ」

「だって……。そんな無防備で劣情を煽るような姿態を晒すからいけないんだよ」

「そっちが勝手に発情してるだけでしょっ」


 いつも己を律して生きている縁佳の、奇襲されて自分が意識の制御下から外れる瞬間がかわいくて、もう一回、あと今日は一回でいいからっ。膝をくすぐってみた。


「ひゃうっ」


 あぁ、これだよこれ。余裕のない縁佳からしか得られない栄養素がある。


「…………きょうかぁー?もう許さないよぉー?」


 調子に乗っていたら、ちょっと酒くさくて、すっかり酔いが回った縁佳が迫りくる。……鼓動が早くなっていく。縁佳に何をされるのも本望だけど、着飾ってない感情を行動でぶつけられるのが、一番幸せだから。


 私は縁佳の両手を取りに行って、指を絡める。そして、縁佳が影も巻き込んで押し倒す。……それで終わり。縁佳は再び眠ってしまった。本人にそんな意図も体重もないだろうけど、私を押し潰さんとしたまま、手もぎゅっと握られ、完全に身動きが取れなくなった。


 お酒のおかげで、普段以上の縁佳の熱が肌に染み渡る。そこに、少々息苦しくなるほどの重量がのしかかる。かつてないほど縁佳の存在を認識できている。縁佳はここにいる。私の隣で寝ている。世界で私のためだけの存在証明、多分、自分の命なんかよりよっぽど大切だ。


 苦しいはずなのに、気を良くした私は、視界の端に映る縁佳の寝顔にもう一度感動してから、目を瞑った。夜も更けてきた頃合いだったので、数秒のうちに意識は消えていた。


 こんな寝相だったのに、朝はちゃんと起きて朝風呂に行ったらしい。タフな奴だなぁと思いつつ、社会の荒波を素知らぬ顔で切り抜けるには、それくらいの胆力は必要なのかもしれない。ふあぁ……、今日も運転しなきゃいけないなんて……。昨日、欲に負けて、縁佳とじゃれ合わなければ良かった……。体の各所も軋むし……。自分の体は貧相だって、身の程を弁えるべきだった。

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