6-4

 十筐体目ともなれば、いよいよ自信がみなぎってきたのか、パチンと心地良い音を立てて、滑るようにボタンを叩くようになる。しかも、カッコつけてちゃんと結果を残せている。アームが輪っかを見事に捉え、筒に入ったポテトチップスを釣り上げた。


「ふふふーん、これで今日のおやつには困らないな」


 鏡花が下から景品を取り出し、鼻を高くしながら顔を上げた。レースゲームに続いて、まさかクレーンゲームの才能もあったとは……。こっちはそこまで意外ではないけど。だって、上手ければ安くお菓子が入手できるわけだし。


「練習したの?」

「昔、クレーンゲームは常葉お姉ちゃんの金で散々修業したから」

「レースゲームは?」

「うーん?そうだねー、天賦の才?」


 鏡花じゃなきゃ許されない傲慢さだ。それとも、彼女のなりのジョークだったりするのだろうか。どちらにせよ、勝ち目がないことは分かっているので、「勝負する?」とレースゲームの筐体を指さして聞かれたけど、それは断っておいた。努力しなければ才能には勝てないのだ。


 来週になれば、またやってくるような普通の週末、今日は鏡花とお出かけしている。こうして、鏡花と休日に遊びに出かけるのは、明世へのバレンタインのお返しを買い出しに行った時以来だ。


 鏡花は新しい交流が増えて、私はそんな鏡花と程よい距離を保とうと邁進している。そんな風に後ろ向きな新生活を、どうにか切り抜けようとしている私たちの息抜きのために、二人きりで遊ぶことを提案してみたのであった。もちろん、鏡花の返答にプランク時間の躊躇もなかった。


「そろそろ次の場所に行こうか」

「美味しいパン屋さんができたんだって?」

「そうらしいよ。人伝てに聞いた話だけど」


 外は春を焼き払う真昼の直射日光と、アスファルトからの熱で、一昔前の夏の様相を呈していた。そろそろ日傘が欲しくなる頃だけど、しかし鏡花と同じ傘の下……は何か不都合が起こりそうだし辞めておこう。


 ふと横を瞥見すると、そこには澄ました曲線を織り成した横顔が飛び込んできた。休日だから、友達と遊びで街を歩いてる人が多いけど、鏡花が一番楽しそうにしている。混じり気のない純粋な心持ちで、このひと時を全身で堪能している。私は、鏡花からこういう歓びを奪っていたんだから、胸が締め付けられる思いもしていた。


「ちょっ島袋さん!赤信号!」

「うわっ、見てなかった!えへへ、危ない危ない……」


 無邪気というのは、危ういって意味でもある。笑い事じゃないんだけど。


「もし本当に危なかったら、平島さんが身を挺して守ってよ」

「自分で前を見て歩きなさい」


 横を向いてないから大丈夫だって、早とちりするのは良くなかった。顔が前を向いていても、愉快な妄想に気を取られている可能性もある。まったく、油断ならない人なんだから。


 噂のパン屋さんは、大通り沿いのビルの一階にあって、店内は広く開放的で、計算された照明にパンが美味しそうに照らされ、逆にパンのほうも光沢を帯びている。ほぼそのままフルーツが埋め込まれていたり、主食クラスの料理を包んだ総菜パンだったり、独創的なパンが多くて目でも楽しめそうだった。


「選択肢がありすぎると、かえって迷っちゃうよねー」

「とりあえず、残り少ないからメロンパン取っちゃおー。あ、プリンが丸々入ったパンだって!見たことない、おいしそー!」


 取れる個数に制限がないから、全く迷う気配がなかった。目に付いたものをどんどんトレイに載せていく。


「あれ、平島さんはお腹空いてないの?」

「いやぁ……。どうしよっかな……」

「このオレンジデニッシュとかどう?」

「甘いパンは無理」


 私の代わりに鏡花が取っていた。そんな甘いものを忌み嫌っている私でも安心、総菜パンも充実していた。そっちの棚に目を移す。


「パン屋の実力は惣菜パンに現れますからねっ」

「そうなの?」

「あっ、うーん、そりゃあ、パンだけじゃなくて惣菜にも力を入れてる店は、節々まで気合い十分ってことなんじゃない?知らんけど」


 鏡花の語り節が、いつになく力強い。まあ言ってる内容は適当だけど、この時間を加速するように楽しんでるようで、こちらの心も温まってくる。さーて、何も食べないわけにはいかないし、目の留まったソーセージロールを取った。スーパーで売ってる代物と違って、洒落た造形でソーセージも長くて活きがいい。


「好きなの?」

「あー、えっと、好きっていうか、食べ慣れてるし」

「食べ慣れてるってだけで、好きではない?」

「えぇー。マヨネーズの味は結構好きだけど……」

「そうなんだ。マヨネーズ、美味しいもんね。ご飯にはかけられないけど」


 鏡花は嬉々として私と同じ物を取っていった。私が好きなものなんて、自分ではどうでも良くて覚えてもないけど、鏡花にとってそれは、とても重要な意味のある事なんだろう。私本人は、心を揺さぶられる「好き」に、いつか辿り着けるのだろうか。まあいいや、横でこんなに呑気に楽しんでる人がいるのに、陰鬱な疑問を抱えるのは控えよう。


 そんな傍ら、自分が異様な興味を持っていることに気付く由もなく、鏡花は他に何が食べたい?と、幼気ながら追加で探りを入れてくる。私一人が拓いた食の世界は狭すぎる。だから今度は、鏡花に委ねてみることにした。迷う羽目になった。


 奥にカフェスペースがあって、買ったパンを飲み物と一緒に食べられるようになっていた。持ち帰る人が多いようで、こっちのスペースは比較的空いている。窓際の明るいテーブルを確保して、そこで昼食をとることにした。


 鏡花の空石積みパンが、店員も他の女性客も、外を通りすがったスーツ姿のサラリーマンも圧倒していく。どうでもいいけど、鏡花ってミスドで担々麺すすってそうだよね、私もですが。


「んまい、んーまいー」


 鏡花は左手にメロンパン、右手に果実がふんだんに乗せられたオレンジデニッシュを構え、代わる代わるとめどなく貪る。そんな贅沢な食べ方、実際にする人がいるんだとちょっと感心してしまった。


「はっ、つい興奮して、食いしん坊キャラみたいなことをしてしまった……」

「確かに。キャラ作りではないもんねー」

「……あの、あまり食が進みませんか?」

「え、あーいやいや。島袋さんと比較されたら、勝ち目ないよ」

「別に、早食いは本望じゃないんだけど」

「そう言えば、小中の給食ってどうしてたの?お代わりしまくってた?」

「ぬぅー、そう見える?」


 そうしか見えないだろ、と突っ撥ねたいところだけど、そう切り返すってことは、謙虚でしおらしい部分が勝ってたんだろうなぁ。


 とまあ、いつも通り鏡花の健啖ぶりに釣られるってことはなくて、喉に詰まらないよう適度に雑談を挟む。


「それにしてもさ、驚いたよー。まさか私のバイト先にまで現れるとは。隠してたわけじゃないけど、ねぇ」

「あれはっ、永田さんにそそのかされただけだしっ」

「その割に、ずいぶん興奮してたけど?」


 平島さんのポイントくださいとか口走って、永田にはたかれてたな。多分、今同じ瞬間を思い出して、向こうは恥ずかしくなってる。心なしか、顔が赤くなっていた。


「まあ、そそのかされるぐらいには、ねこと仲良くなれたってことかな」

「ああああの!いつか言っておきたいことがあって、あのその、今言うんだけど」


 目まぐるしく慌てふためいた後、パンを置いてぐっと鏡花の視野が狭まる。鏡花が私を直視する時は、いつも真剣な眼差しをしてくるけど、もっと気楽な女として扱ってくれればいいのにって思う。それが鏡花なりの友に対する敬意の払い方なのだろうか。約束を忘れるとか、そういう失礼なことをしても、簡単に終わる絆じゃないって、ファミレスで話したときはそういうつもりだったんだけど、まあ人それぞれだよねぇ。


「私は、平島さんといるのが楽しいから、それを選んでるってだけで。えと、確かにクラスが離れて、関係が途切れてしまうんじゃないかって、怖いから頑張ってる部分もあるけど、でも、平島さんと一緒だと感情が十割増しで生き生きとできるから、心の底から喜べる気がするから。心配されるうちが花ともいうけど、どうせ友達を囲まれるほど作っても、平島さん一人には敵わないんだから、私は平島さんを選びたいの。それで、もっと平島さんのことを知りたい。あ、だって私、平島さんのバイト先も知らなかったし、バイトしてる姿も見たことなかったし。他の人より多く平島さんのことを知って、仲良くなって、近くにいるって感じたい。もちろん、近付きたいのは山々だけど、私はまだまだ階段を上らないといけなさそうだから。こっこんな粗忽者だけど、色々な人と関わった上で、やっぱり平島さんと一番仲良くしたいから、これからも選ばせてください、お願いしますっ。後は、あ!どうしてこんな事を伝えようって了見に至ったのかっていうとっ、言葉にすることが大事だって、皆そういう信念をいだいてるらしいから……や、やってみました……」

「へぇ、どこの誰がそんなこと吹き込んだの?」

「それは……、二組の諸熊さんと永田さん、かな」


 私以外の色に背中を押されて。それは私の筋書き通りで素敵なことだ。なのに、苦いだけのコーヒーが体に染み渡る。元から豆を絞ったような味なのに、酸味とか渋味とか、喉が締まるような味わいが広がった。


「ごめんね、察してるとは思うけど、余計なことしちゃった。でも、その二人がいれば心強いね」

「だから!違うの、それでも私は平島さんと一緒に、お喋りしたり遊んだり、辛酸も苦汁も舐めさせられたいの!」

「それはぁ……えぇ?」


 何を意図しているのか、ここに来て真意が行方をくらませるようになった。いやいや、急に生きるのが上手になって、思考を全部隠せるようになるなんて、そんなことあり得ないから。きっと、今まで通りのわかりやすい鏡花のままだから。身構えずに疑わずに訝しまずに、感情と私情を律して冷静に、言葉の表を受け取ればいい。


 鏡花は正直で一生懸命だから、好きなら好きってはっきり言うし、嫌いなら関わろうとしない。なのだから、これは、私が理想とする、使命を押し付けた鏡花のフィナーレだ。言葉とはなんて逞しいのだろう、ははは。


「ちょっと暑いね、窓際」

「あっ、うんうん、そうだねそうだね。外から人に見られるし、あんまり良くなかったかも」


 気が付けば、アイスコーヒーをぐびぐび流し込んでいた。鏡花は私を雲上人みたいに形容していたけど、これじゃありもしない幻想に行動を決定されている鏡花と同類だ。。



 篠瀬が開発したアプリで、インターネットを介して各種申請を生徒会に出せるようになった。おぉー、これは凄い、さっそく申請が自動で処理されていっている。これで日々の雑務から解放されるー……と気を良くするにはまだ早い。技術革新によって、人間の仕事が丸々消滅したかと言われると全然そんなことないわけで、つまりこのアプリに関係ない仕事が山積みなのである。


「今度の交流会の資料はできた?」


 パソコンの画面から目を離して、ほんの数秒間延びしたタイミングで、そこの来客用のソファで作業中の明世に声を掛けられる。ちょうどやろうって腹を括ったタイミングで、水を差されがちなのはなぜなのだろう。


「今からやる」

「間に合うか?それ。手伝うよ」

「いやいいよー」

「体育祭の準備もあるのに」

「体育祭のメインは実行委員だから。生徒会は考えなしに認可すれば良し」


 自分に火の粉が降り注がなくて良かったって安堵すべきなのに、明世は渋そうな顔をして、またノートパソコンの画面に吸い寄せられていった。んーっ、やる気が一瞬で消え散った。そりゃあ、集中を糸でたとえたくもなる。どこかで切れたらだらけてしまう。真剣にライブ映像を確認している明世の横顔を、手遊びしながら見守っていたら、ドアノッカーが来た。


「失礼します!私、島袋鏡花といいます!」

「それは知ってるけど……。どうしたの?」


 一度帰宅を見送ったはずなのに。目を擦ったら化けの皮が剥がれないかなぁと思い、眼鏡を取った。しかし言動もまるで鏡花なので、世界に異変など起きていないらしい。私は眼鏡を戻した。


「あぁっ、目が焼けるっ!」

「それは大変。いつからあるのか分からない、謎の目薬でも差す?」

「あっあっ、いただっ頂きます……」

「あーもう、しまちゃんはしまちゃんなんだからぁー。君もだぞ、誑惑の平島縁佳」


 耳を赤くして、その場でふらふらし始めた鏡花を、明世が支えに動く。そして私に飛び火させる。なんか、これが最近ご無沙汰だった、当たり前の日常のような気がしてきた。別に、そんな過去はないんだけど。


「でで、何してたの?」

「今度、市内の高校の生徒会が集まる会合があってね。今年はうちの学校、というか私が司会なので、色々頑張ってる」


 明世の手を離れた鏡花がこっちにやって来たので、私は実施要項をパソコンの画面に映した。まあ正直、この会以外で他校の生徒会と連携することなんてほとんど無いけど、一応交流を持とうという趣旨である。ついでに、地元の新聞の記事のネタのために、ディスカッションもする。今年は「いじめのない学校を作るにはどうしたらいいか」なのだけど、テーマは何個か事前に用意されていて、それをローテーションしていくという台風の名前みたいな形式が採られているから、議事録を見返す限り、もう議論され尽くしている。


「いじめって、大変だよねぇ」

「そうだねっ」

「会場は新聞社が持ってるでっかいビルの十何階。ここだね」

「うおわぁー、でっかいー」

「そうそう、結構大きな会なんだよ。市内27校からそれぞれ二人ぐらい参加してきてさ。果たして議論が丸く収まるんだろうか」

「大丈夫、平島さんが全部説き伏せれば!」

「あ、これが名簿、知ってる人いる?」

「うん、うんっ、平島さんなら!」


 鏡花は私の横に引っ付いて、ずぅーっと私の横顔……目の辺り?を追い求めている。パソコンを操作して色々説明しているのに、まるで聞いてない。自分の話を聞かせる方法、これを議題にしたほうがいいかもしれない。


「島袋さんさー。なんというか、言葉を選んで本音を隠すんだけど、ちょっと……変だよ」

「はふっ!なになに、鼓腹撃壌いいっいつも通りだよ!?」


 一体、何に興奮しているのやら。あぁ、人が犬に見えるってこういう感じなのか。横を瞥見して腑に落ちる。尻尾がストロボ効果を帯びて浮かび上がってくる。長い癖毛もモフモフな毛皮に思えてくる。うむむ、コーギーかなぁ、なんか間抜けなイメージがあるんだよね。


 まあ、構ってほしいんだろうということで、眼鏡を外してから会長の席を立って、奥の給湯室に向かう。


「コーヒーと紅茶、どっちが……島袋さーん?おーい」


 綺麗な丸を口に浮かべて、魂が抜かれたかのように唖然として佇んでいる。


「あのぉ……、私って覚ではないんですよ……。んがーっ、島袋さんの口はスピログラフじゃないでしょ、なんか喋って!」

「ど、どうして……外してしまわれるのです……?」

「眼鏡のこと?」

「伊達なんでしょ」

「だったら外さないよっ」

「い、いいと思うっ。いいことには、いいといいます」


 物言う友達からの貴重な意見を貰ったので、本社に持ち帰ってその場で検討してみる。


「んへぇー?そんなに似合うかなぁ。どう?モロックマ」

「なんか、利口ぶってて委員長って感じで鼻につく」

「だよねー」


 二対一なので、必要ない時は眼鏡を外すことにしよう。


「なんか、メンヘラっぽくて鼻につく」

「あぁ?副会長クビにしようかな」

「めっメンヘラとかっ、そういうんじゃないよ!平島さんは、その、他人に寄生して、生気と理性を吸い上げるようなことしない、自分一人で生きていける芯の強い人だから!」


 鏡花の声が、異様なほどに生徒会室中に響き渡る。そこで糸が途切れる。前の時の苦い味わいが反芻されてきた。ここでコーヒーを淹れたら、それを上書きするだけ。無糖の紅茶にしよう。そう思い立って、鏡花の後始末は明世に一任して、給湯室の暖簾をくぐった。


 言いたいことが言えてすっきりしたのか、その後の鏡花は穏便にソファに座って、ミルクと砂糖で甘くした紅茶を飲んでいた。その向かいで、同じく甘ったるくした安物の紅茶を、明世が背筋を伸ばして嗜んでいる。


「それでー、さっきの話の続きなんだけど」

「モロックマの話なんて、続ける価値があった試しがないんだけど」

「いいよ、私をクビにしても。そこにもっと適任がいるじゃない」


 明世は薄ら笑いを含ませながら、ウインクして真横にいる私に目線を送って提案してくる。私は収まりのいいソファの角から身を起こして反論した。


「誰がやっても実務上は問題ないけど、そこそこ顔が広くて、人当たりがシルキーなモロックマから代える理由が見当たらない」

「しまちゃんがやりたがってる」


 ティーカップを手に持ったまま固まって、寝耳に水って驚きようだけど。


「私は、二人が手を組んだら、向かうところ敵なしだと思うよ」

「たとえそうだとしても、本人の意志を尊重すべきじゃないかな……」


 語尾が濁る。普段だったら、迷うことなんてないのに。


「んんー……。私は、平島さんみたいに凄くないから、足引っ張るだけだし」


 私と違って鏡花は、平常通り彼女らしくいじける選択肢を採った。そうだ、それでも私が背中を押すから、鏡花は成功体験を得て自信を付けられる、そして鏡花が私をもっと信頼するようになる。クラスという繋がりを失った今、生徒会を新しい紐帯にするのは理想的だろう。だから私も、いつも通りのことを言えばいいはずなんだ。


 そんな事がわかっていながら、なぜか何も言い出せない。それどころか、脈絡なく叫ぶように私に美辞麗句を並び立てた鏡花がフラッシュバックする。本当に、聖域に招き入れていいのか、生徒会の職務を全うできるのか、問うまでもない疑問が無数に浮かぶ。


 知らない感情をぶつけられるのは怖い。パン屋さんでの出来事も、バレンタインの次の日も。もう一回理解できない鏡花に直面したくないから、正しい距離感を見つけたいから、明世の戯言を、鏡花の希望を、奈落の底では拒みたい。


「ま、まさかね。そんな、重い責任が伴う仕事じゃないよ。でもまあ、面倒ではあるから、あまりおすすめはしない」

「副会長って会長を補佐する役職でしょ。責任、あるよ、私には重すぎる」

「えぇー、そんなぁ」


 ほぼコントロールできる鏡花に対して、明世は余計なことしかしない。寂しそうな顔にとどまらず、反対側まで歩いて行き、鏡花に何かを吹き込んで帰ってくる。鏡花がその言葉に翻弄されて目を伏せて考え込んでしまった。しばらくすると、不安定に揺曳する双眸がこちらを向いた。


「平島さんは、どうして欲しいの……?」

「こんな変な奴の戯言に惑わされないでほしい」

「副会長になったら、煙たがらないでくれる……?」

「あえっ?別に煙たがってなんかないけど」

「私は、平島さんにとっての何者でもない。から、何かになりたいんだけど……」


 何者でもないって……。良き友達とは思っているのに、酷い話である。……いや、実は、私が誰をも平等に扱っていることを揶揄してる……ないない。というか、私が少しでも隙を見せれば、鏡花は副会長のポジションに転がり込みたいって思ってるってことか。進む言葉と戻る言葉、両方ともが同時に零れ落ちそうになって、唇に力を籠める。先に観念したのは鏡花のほうだった。


「あぁーーっ。やっぱり無理っ。いつまでも、平島さんの優しさに甘えたくない!」

「そーだなぁー、お試し期間ってことで、今度の交流会に出てみたら?」

「それなら……わかった、精一杯、頑張るから、厳しめに採点してね」


 鏡花が、澄んだ瞳で私を頷かせようとする。下手に他人に寛容にしてしまったから、明世に絆されて悪い方向に傾いてしまった。やっぱり沈黙というのは罪なのだ。自分の意見ははっきりと言わないといけない。……でも、こんなにやる気に溢れている人の出鼻を挫くのも趣味じゃない。


 交流会なんて静かに座っていたら終わる。その地位は確約されたようなものだ。しかし、刻一刻と鏡花の表情が力強くなっていって、たまに自分の頬を揉みしだいて、その気になっていって、拒むのを拒む。何者でもない不安が鏡花を暴走させているのだとしたら、何者かにしてあげるのは好手かもしれない。そうやって自分を納得させるしかなかった。


「あ、島袋さんがどうなるか関わらず、モロックマには書記として残ってもらうからね」

「えぇーっ、がすよは優しいなぁ」

「でしょ、尊敬しな」

「ところで、さっきの会話を聞いてて思ったんだけど」


 嫌な予感がする。さっさと黎夢とやらに引き取られてほしいんだけど。まあ、生徒会室に鏡花と二人きりになるのも、今は避けたい気分だから困ったものだ。


「思わないでよ、愚にも付かないこと」

「あぁー、なんだー?そろそろ、お互いもっと馴れ馴れしく呼んだら?」


 指摘されてみれば、お互い初対面みたいな呼び方してた。まるで仲良くなる気がない、一度限りの関係だと言わんばかりに。まあ、鏡花が諱で呼ぶ姿が想像できるかって聞かれたら、その答えは否なんだけど。私からの呼びかけは名前でいい気がする。というか、どうしてそうしようって一度も考えなかったのだろう。私は基本的に、周りに合わせた呼び方をするせいで、他から呼ばれるのが稀な鏡花は、名字で呼ぶのが慣例化していたのかもしれない。


 しかし鏡花にとっては記念すべき瞬間だろうから、私も咳払いを挟んで気合いを入れておく。


「きょ……」

「はひっ」


 さっきまでの気合いの入った鋭い目付きはどこか彼方に消えて、すぐさましゃっくりと取り違えたような、出来の悪い返事が飛んでくる。


「反応はやすぎかも」

「遅いぐらい」

「そうかなぁ。きょ……」

「はひっ」

「えぇー、わざとやってる?」

「だって、最後まで言われたら、名前で呼ばれちゃうじゃん」

「名前で呼んでるんだからねぇ」

「えぇ、うぅ……。平島さんは、名前で呼びたいですか、呼んでほしいですか?」

「そりゃあ、毎度七文字で呼ぶのって非効率だし。今まで噛まなかったことが奇跡だし」

「名前で呼ぶのは効率なの……?」

「違う……よ?鏡花がもう距離を感じなくていいように、ね」


 名前は呼べたけど、鏡花は心臓発作が起きたかのように、全身が跳ねて硬直してた。なんか面倒な予感がしたから、わざわざ名前で呼ばないでおいたのかもしれないと、過去の自分の英断を見直した。


 ふと横を瞥見すると、明世が乾いた笑いと共に激しく目を屡叩かせていた。


「ちょっとお花収穫してくる」

「おい、モロックマが引き金を引いたんだろうが。責任持て」

「はぁ!?だって見てられないんだもん」

「鏡花のおどおどしてる様子が見たかったのかと」


 いちいち肩肘張る鏡花が視界の端に映って、何ともやりづらい。


「これから生徒会で一緒に仕事する仲間なんだから、名前ぐらいは円滑に言い合えないと、困るでしょ」

「だーってさ」


 私からの合図を受け取った鏡花は、腹筋に力をつぎ込んで、普段の儚げな雰囲気はそのままに、でも確かに心に響く咆哮を撃ち出した。


「よすがああああっ!」

「はーい。よし、作業に戻ろー」

「ダメだよ!円滑にって注釈をつけたでしょ」

「円滑だったよ」

「毎回、いたずら好きのガキ大将が怒られる時みたいな呼ばれ方するつもり?」

「うーん、そのうち慣れるっしょ」


 この呼ばれ方に、だがな。


 それにしても、明世の素朴な疑問でひっくり返る、私が固執する現状とは何なのだろう。そんなものに、本当は価値なんてないのかもしれない。本当は、鏡花はこれをひっくり返してしまいたいのかもしれない。まー大域的なことより、今は交流会のことでも考えることにしよう。落ち着きの足りない鏡花を横目に、風味のある水を飲み干した。



「白山高校の生徒会ですか?」

「あ、そうですー。そちらは?」

「ご近所の青雲高校ですー。ぬあっ?というか、ただのよっすーじゃん」

「おぉー、最近、旭中のメンバーで集まってなかったから久しぶりだー」

「またご飯食べに行きたいね!それじゃ、今日はよろしくっ」

「うん、こちらこそー」


 縁佳が華麗にいなしてくれたおかげで、一難が去った。しかし気を抜いている間も、縁佳が中学生だった頃の妄想を膨らませる間もなく、次の刺客がやってくる。


「白山ってめっちゃ頭いいとこでしょー。うちなんて松浜高校とかいう、頭悪いとこだかんさぁー」

「まあー、入学の難易度と権威は凄いけど、入ってから落ちぶれる人も一定数いるから……」

「喋り方に知性を感じるっつーかー。え、隣の子もそう?」

「うん、副会長」

「マジ?かわいぃーっ。お人形さんみたぁーい」


 しまった私に牙が向いたっ。照り輝く目元だけで気圧される。咄嗟に縁佳の腕に手が伸びて、絡み付こうとしていた。触れるいい機会だなんて、そんな烏滸がましいこと考えてない、はず。


「いきなり掴んでこないでね。冷や汗出るから」

「ごめんなさい……」


 うちの学校の女子が、いかに﨟長けているか思い知った。


「どうも、星啓学園高等部生徒会長、俵積田英治と申します。以後、お見知りおきを」


 わざわざ名札を持ち上げて、お辞儀は三十度。堅苦しいなぁって思ったけど、生徒会なんて普通はそういう人がやるものか。それに対して、縁佳は会釈もせず、極めて適当だった。


「あぁはい。白山高校の平島ですー。星啓って寮のところでしたっけ」

「寮もありますが、僕のような地元の人間は、普通に通ってま」

「そうでしたか。中学の友人も一人行ってて」

「おぉ、なんて名前ですか!」

「えあっ、んとー、雨宮って人」

「雨宮さんか……。彼女は軟式テニス部で、去年の県大会では三位の成績を収めてましたね。それに、前回の定期テストでは全校十六位、学業でもその才能を遺憾なく発揮されてます。特に英語が得意で……」

「ストップストップ!近況報告は助かるけど、えーっと、俵積田さんのためにも、この辺にしておこうか」


 縁佳は苦し紛れの笑顔もこなれている。


「そろそろ、始まりますから、ね?」

「そうですが、最後にこちらの方の自己紹介を」


 縁佳が意識を逸らさせようと頑張ってくれたんだけど、俵積田のかしこまりには一歩及ばず、つま先から頭のてっぺんまでスキャンされる。流し目に縁佳に助けを求めるしかできなかった。足が震えてきた。……私って人見知りなんだな。


「あぁーっ、副会長の島袋ですー。ただの私の補佐役」

「ほぉ。島袋さんはなぜ生徒会に参加しようと?」


 縁佳と繋がりたいから、なんて言えるわけないだろこんな堅物にっ!首ごと回して震えを自覚しながら、縁佳に何とかしてってアピールした。


「えっと、白高の生徒会は、副会長以下を会長が任命する形になってて。単に私がお願いしただけですよ。はい」

「それは答えになってなくないですか?」

「あぁもうっ。友情だよ、友情!友達からの頼み事を断らない、いい子なのっ!」

「なるほど。ありがとうございます。我々、よき仲間として上手くやっていけそうですね!お互いディスカッションも頑張りましょう!」


 どこに上手くやっていけそうな要素があったんだよ。と、ツッコめるはずもなく、俵積田が四十五度のお辞儀をして去っていくのを見守った。


「ごめん……。私が人見知りだから、余計な負担を掛けちゃった」

「んー、そう言えば人見知りだったね」

「そう言えば、じゃないよ。かなり重度で根幹なんだから」

「だけど、ねことは普通に話せるんでしょ?」

「程よく大人しくて、程よく気が遣えて、程よく面白い女子なら何とか」

「モロックマは?」

「なんか……位相が合わない……。んっ、私めっちゃ失礼なこと言ってる!?」

「まあ、人それぞれですから。そう感じるなら仕方ない仕方なぁーい」


 真っ白な壁に真っ白な蛍光灯と、広々として殺伐とした会議室に、ロの字状に長机が配置され、色とりどりな制服が詰めて座っている。なんか偉い人たちがやる会議みたいで、そわそわしてくると同時に、因果が不明だけど背中が痒くなってきた。


「掻いて」

「自分で掻きなさい」


 会が始まる直前で、資料を再度チェックしている縁佳に、なんてちっぽけな頼みごとをしたんだろうと、場違いだなーって自責した。俵積田の厳しい質問は、たるみ切っているのを隠せてもいないことを、戒めるためだったのかもしれない。


 ディスカッションは至って順調に進んだ。そりゃあ当たり前だ。縁佳が司会を務めているんだから。縁佳には、ぜひ会社の面接で自分は潤滑油だってアピールしてほしい。誰よりもぬめぬめだから。


「えぇーっと、でも、強引に和に組み込もうとしても上手くいかないと言うか、むしろその関係がいじめの下地になりませんか?」

「青雲高校です。私も平島さんに賛成します。そもそも、なんのグループに属していない人間が受けるいじめより、いじめを受けていても、そのグループから脱却できない、そういう状況のほうが深刻で、私たち生徒主体で対策を検討するべきだと思いますが」

「どうですか?松浜高校」

「えっ、あーうん、そうだなぁ、何だろう……。と、とてもっ、建設的な意見をありがとうございます……。しっしかし!うちが実際に見てきたというか、そうしたら……その、意外と仲良くなれたぁーっていう経験があって……」


 凍てつくほどの冷ややかな視線が、一人の少女にのしかかる。怖いなぁ、私みたいに縁佳の影に隠れて、鳴りを潜めておけばいいのに。そう考えながら傍観していたら、松浜高校のギャルのちょうど向かいから、思わぬ助け舟が出される。


「いやいやー、貴重な意見ですから、もっと自信を持ってくださいよ!いじめには各々違った内情があって、一様に対策を練ることは不可能なんです。具体的な体験談は、ある内情に対して有効な解決策を見出すのに役立つので、否定するべきではありません!」


 ゆるふわウェーブのボブカットな女子は、ちょっと耳が腐るような高音で、しかも太々しく立ち上がって、彼女を堂々と擁護する。でも、あんまり正論じゃない。一つ一つ解決していこうとしたらキリがないし、それは当事者と周りの大人が頑張ることだ。


「それなのにですよ、白山高校も青雲高校も、その複雑な内情の一つも知らないで、それは議論に不要な稚拙な意見だと否定したわけです。稚拙だと人を見下して、そして全体の空気も彼女を嘲る方向に誘導する、これは立派な加害者ですよ。これこそいじめの本質です!あぁ、そう言えばー、司会の平島さんは中学生の頃、部長の頭にボールをぶん投げるとか、嫌がらせを繰り返して部活にいられなくしたりしてたけど、そんな人が生徒会長で?さらにはいじめ対策について話し合うなんて、なんの笑い話ですかぁー?」


 長々と延々と滔々と、道化師のように何度も口調を折り返しながら、そいつは場違いなことを、凍てつくほどの冷ややかな視線に臆することなく話し続ける。いやまあ、この場にふさわしいかはこの際どうでもいい。縁佳に、そんな不埒な態度をとって、許されると思っているのか?腹が立つ、手が震える、待っていても事態が好転しそうになくて、どうにもならなくて、自分の髪を痛いぐらい、防犯ブザーみたいに引っ張った。


「あの、関係ない話しないでもらっていいですか?」

「そうですかぁ?つまり平島さんは、このディスカッションが、いじめっ子によって取り仕切られていいと、そうおっしゃるんですねっ。それじゃー、いじめっ子が生きやすいルールが再生産されるだけ。ねー皆さん、それでいいんですか?」

「会議を妨害しないでください。それと、特定個人を謗るような真似もやめてくれませんか。それこそ、ただのいじめですよ。いじめっ子をいじめていい理由もないですし」

「いじめをするような人間が、いじめをどうやって止めるの?あたしが訴えたいのはそれだけですっ」


 命知らずなフィリバスターは、にやりと人を見下すような笑顔で分断を煽った。イライラする、なんでこんな奴に縁佳が悪く言われなきゃならないんだ。それでも冷静さを欠かず、毅然とした態度を貫ける縁佳はやっぱり凄い。


「す、好き放題言ってますけど!それって本当なんですか!?神子島先輩!」


 さっき挨拶してきた、縁佳の中学時代の同級生が声を上げた。


「この中で覚えてる人もいるかもしれないけど、例の画鋲騒ぎの犯人だし。それに、わたしは磐田部長のそばにずっと居たからわかるけど、平島さんのSNSの投稿で気を病んでー、そこから一気にすさんじゃってー」

「えぇ……?よっすー、嘘、だよね……」


 どうしてこの旧友は、こんな頭のおかしい奴の言うことを信じてるんだっ。縁佳の傍にいたら、そんな事しないって確信できるはずなのに!


「もちろん、事実無根なので。えっと、とりあえず静かにしてください。話し合いが進みませんから」

「証拠ならたんまりあるよー?誠意のある対応をしないなら、当然ばら撒くしぃー」

「あの!それってあなたが唾棄したいじめと同様の手口じゃないですか!人を脅すようなら、出て行ってください!」

「あたしがいじめっ子だろうと、事実をばら撒かれて苦しい立場になるのはそっちですよーっと」


 縁佳が厄介な人に絡まれて困ってる。私は、こうやって何もせずに隣で座ってるだけでいいんだろうか。違う、私は縁佳の補佐としてここに居る。何をしたら縁佳が助かるか、血反吐を出してでも考えなくちゃいけないのだ。


 本当は強く言い返したい、でも立場上できない、どんな悪印象を植え付けられても、その上で生きるしかない。それなら、地に落ちる名声のない私が、ここで代弁すれば……。怖くても、私が傷付くことになっても、縁佳の為なら、黙ってなんていられない。貰ったものは、ちゃんと返すべきだから。


「縁佳がッ!いじめっ子なわけないからぁーッ!」


 悲鳴を上げるマイクに、掠れる声と怪訝な視線。でも、明日がどうかなんて知ったことじゃない。縁佳に変わらない明日が訪れれば、それは私にとっての勝利でもあるんだから。


「こんなに優しくて穏やかで面白くて、真面目で友達思いで気を遣えて、私なんかの為に一生懸命になってくれる。そんな縁佳が、誰かを傷付けるなんて、絶対絶対ありえない!謝れ!私がいいって言うまで頭を下げ続けて!」

「ちょ、鏡花……」

「人が裏の顔を持ってることなんて、不思議なことじゃないでしょ?」

「お前に、縁佳の何がわかるんだよッ!」

「鏡花っ、もういいから、座って!」


 私は縁佳の手を振り払った。さっきのお返し……じゃなくてっ、私が縁佳を守るんだから、縁佳の手を借りるわけにはいかない。


「お前が!縁佳に謝罪して!発言を撤回するまで!絶対座らない!絶対譲らない!」

「当人にも止められてるのに、あんたは一体何を守ってるの?」

「そんな事もわからないから、縁佳に見捨てられたんだよっ!縁佳に関わる権利も、縁佳の過去を語る権利も、お前には無いから!わかったら土下座しろ!」

「公衆の面前で人に土下座を要求できるなんて、末恐ろしいわぁー。まるで親子みたい」

「いいですか!ここは私怨による喧嘩をする場所じゃないので!建設的な意見を述べてください!」

「縁佳は黙っててっ。私が代わりに無念を晴らすんだから」

「そういう問題じゃな……」

「平島さぁーん、どうするのー?ディスカッションがめちゃくちゃだよー?自分の腹心すら制御できないのに、白々しく司会を続けるつもりかなぁ?」

「黙れ黙れ黙れ、めちゃくちゃにした張本人が、偉そうに語り掛けてくるなっ!」

「確かに、感情的になるのは、高校生が理路整然と意見を交換する場における態度として、ふさわしくありません。一方、司会は私的な発言の伸長を止められなかった。したがって、僕が司会を代わりましょう」


 こんな時に、俵積田とかいう生真面目石頭野郎が首を突っ込んでくる。どれだけ正義であっても、縁佳に仇なす者なら私は容赦しない。


「てめーに渡す司会はねーよ!」

「しかし、このままでは進行不能ではありませんか。安心してください。議論の場から平島さんを追放するようなことはしません。ただ、進行を僕が執り行うというだけです。健全な議論の場を提供することを約束します。いい提案でしょう?」

「えーっと……。一旦、休憩にしましょうか。十分後に再開しますので、それまでに頭を冷やしてください。はいっ」


 縁佳は是が非でも休憩させようと、率先して会議室を退出していった。それを受けて数人が席を立って、ひそひそとした話し声がこの部屋に広まった。


 休憩する雰囲気になったので、私も椅子に座って、ペットボトルのお茶を残り二割まで飲み尽くす。それからクーラーで冷やされた空気を深く吸い込んで、体の中から鎮静を図る。……どれだけ息を吸っても、どれだけ縁佳の整った顔立ちについてぶつぶつ論じても、まだ腹の虫が収まらない。どこをどう誤解すれば、縁佳を悪人に仕立てられるのだ。弱みまで握って、本当に下賤な奴だ。


「あんたは、なーんにも知らなんだね。いや、あんたも、か」


 足を浮かせると机の向こう側に見える、自分の靴の先端を見つめながら思索に浸っていると、この世で最も好きとは対極にいる奴が、休憩時間でも抜かりなく挑発に来た。私もその場に立ち上がって応戦する。


「だからっ!お前に縁佳の何が……」

「あたしは平島の中学生の時の先輩だよ?当時のことについては、あんたより詳しいに決まってるじゃない」

「弱みを握ることを、詳しいって形容してるだけでしょ」

「そうねぇ。あんたが平島の過去を知った時、いや、本性を知った時、どんな顔をするんだろうね。同じ学校じゃないから、見届けられないのが残念だわー」


 癇に障ることだけを的確に言い残して、神子島とかいういじめっ子は自分の席に戻っていった。こんな事が許されていいはずない。どうにか制裁を加えたい。けど、私は無力で、負け犬のように遠くから睨み付けて威嚇することしかできなかった。



 私はこの時、初めて怒りに身を任せた、いや、乗っ取られたんだ。想いを貫き通すこと、貰ったものを返すことが何よりも優先されるって信じて疑わなくなったし、ずっと気にして気が気でなかった縁佳の本音だって無視してた。憤怒が、一瞬の感情の暴走が、身を滅ぼす、守りたかったものまで不幸にする。


 私は縁佳を困らせた。とても副会長になるべき存在じゃない。帰り道で、薄青色に染まる空に揺らぐ、縁佳の作り物じゃない天然な表情を前にして、縁佳って名前が喉に詰まって、それで初めて酔いから覚めた。

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