6-3
退屈と窮屈が混ざり合う情緒とは、どんな痛みなのだろうか。退屈していられるほど誰からも求められない時間なんてないし、それなりにスレンダーだから窮屈にもならないし、私がそれを解する時は永遠に来ないと思う。と、閑散とした午前八時前の学校を歩きながら、そんなことを想像して、また退屈の芽を潰す。
それで、同じく早く学校に来すぎて退屈しそうな明世が教室にやってきた。
「いやー、ごめんねぇ」
明世は敬虔な豊宇気毘売神の信者みたく、力を籠めて手を合わせていた。それを、机の上にだらしなく座って見下げているとなれば、客観的には私がとんでもなく感じ悪く見える。
「別にモロックマが謝ることではないでしょ」
「そうだけど……、本当はしまちゃんに謝るべきなのかもしれないけど……」
「それはそれで大げさじゃない?」
「でも、本来がすよといられた時間を奪ったわけだし」
たかが昼休みの三十分ぐらいで。
「なあー、手のひら返すんだけど。別に良くない?」
「このままでってこと?」
具体的に言うなら、全ての授業間休みと放課後は鏡花に謁見されるってこと。
「しまちゃんにとって、友達はがすよ一人で十分なんだから。友達を増やさせようとする事は、偽善以前に善じゃないよ」
「だとしてもねぇ、私は島袋さん一筋じゃないから。だから……、交友関係を広げてくれないかなぁーって。私のわがままなのは否定しないけど」
最近、私の中では葛藤がずっと高速回転している。あの時は明世への反骨心もあったけど、やっぱり鏡花には私以外に友達を作ってほしくて、それは間違いなくお互いのためで、でも一方でそれを他人である私が指図するというのはいかがなものか、という意見にも強く賛同できてしまう。昨日みたいに、知らない人に揉みくちゃにされたら、心が休まらないし、友達を作ろうって気になるはずがない。
限りなく私のために近いお互いのため、近過ぎる距離を遠ざけようと、命懸けなのは私だけ、そんな後ろめたさが私を裏で操っている。だからって諦めたら刑部との一件のように、相容れない価値観がそのまま衝突して、別々の方向に弾けていく。ぶつからないよう位置を調節するべきで、それは私が普段やっている慣れた業務だった。
「いい落とし所はないものかねぇ」
「まあ、挫けず根気強く、島袋さんに悟られない程度に頑張るよ」
昨日は篠瀬を送り込んでみたけど、安栗たちも合流してしまったせいで、家にまで連れ込まれたらしい。制御不能とは言え、あれはやり過ぎだ。もっとゆっくり距離を縮められる方法……。とりあえず、今日会ったら三人の素朴な印象を聞いてみるかぁ。
「あのさ、これはただの感想なんだけど……。ちょっと必死過ぎない?」
「そう見えるんだ」
「あえっと……。洞窟ちゃんの時は、まだ意地を張る正当性?みたいなのがあったけどさ。距離を詰めることを棄却するって、なんかいつものがすよと違うっていうか……」
「いつも通りだよ」
私はあちらこちらを向いて責任逃れをしようとする明世に、そうやって短く言い返す。私は大体単純な論理で動いていて、分からないのはそうなってしまった経緯だけなのだ。まだ訝しむ明世に、眩しい笑顔を見せびらかしていると、重たくなった空気を打破するような、チェシャ猫のような声がした。
「シッシッシ、話は聞かせてもらったぞー」
「あ、ミケ、気まぐれ」
「おぉ久しぶり、ねこ」
なんか、永田が教卓の中に気配も消して隠れていた。姿を現すや否や、胸を張ってろくでもないことをしますって宣言してくる。
「このミーアキャットに任せな」
「あの、ミーアキャットは猫じゃないっすよ、ミケさん……」
「実は密かに機会をうかがってたのだよ」
「なんの?」
「足元を掬う」
本当に話を聞いていたのか胡乱になってきたが、しかし永田にしては珍しく、利他的なことに気乗りしてるらしいので、渋々な態度で託してみた。時間を稼いでくれれば、その間に対策を練ることができるし。
永田が普段と変わらない足取りで教室を出ていくのを見送ると、明世が私を心底杞憂した目で振り仰いでいた。
「ねぇ、本当にミケに任せるの?」
「うん。ねこを舐めるべからず。万に一つってこともあるじゃない」
「奇跡を翹望してるだけじゃないの」
「本心を言うなら、あーいう理論的じゃない人のほうが、島袋さんに合ってると思うの」
「んー、んー……。じゃあそろそろ戻るね。今日も来るでしょうし」
今日の縁佳も変化なし。いやまあ、昨日あんなことがあったから、もちろんあれも仕組まれていただろうから、でも今朝話してみて、愛想を尽かされたわけじゃないって分かって、世界に色と感情と思いやりが戻ってきた。反面、頭の重量がにじみ出てきて、肘を机について頭を支える。寝不足なのだ、昨日は遅くまで縁佳と通話してたから。
ぺらっと紙が翻る音がする。横を瞥見する。一枚の写真が床に落ちていった。さすがに私が拾わなくては。鈍い頭に血を上らせて、椅子の下から写真を拾った。
……のは良かったんだけど、落とし主はそのままそそくさと歩いて行く。どういう言葉で呼び止めるか迷っている内に、手遅れになってしまった。持ち主の顔は覚えたけど、でもこれを能動的に返却しなきゃいけないなんて、暗澹たる気分になる。まあ、後で机の上にでも置いておけばいいのか……?
それはそうと、どんな写真なのか気になって魔が差した。今のご時世に現物の写真なんて珍しいんだもん。それに、見るだけならバチは当たらないだろう。どうせ神様は、私のことなんて気にしてないんだから。
その写真には二人の小学生ぐらいの女の子が写っていた。レジャーシートが敷かれてて、その上で弁当を食べてて、遠足の一幕だろうか。よく観察すると、左の子は画角の外に惹かれてこっちを向いてないし、右の子はとことん無愛想な自分だった。……私?
思わずまじまじと写真を見つめてしまって、首がだんだん傾いていく。今はやりのAI生成だったり……なわけないか。隅々まで見渡して、そして若かりし頃の私に目線を戻す。うぅーむ、これは、百パーセント過去の私だ。この頃の自分が鏡に映ってる、他愛のない記憶だってあるんだから、信じてほしい。
「人の秘密を見るにゃー」
「あ、あぁっ、ごめんなさいっ。何も、何も見てないです……」
懐かしくなれないのは嫌で、歯を食いしばりながら思い出を思い出していたら、落とした本人が戻ってきて、緩く握った両手と顎を机の端に掛けていた。そんな事を言われたら、後ろめたくなってしまう。裏返して机の上に置いた。
「んー」
「えっと、いー写真だねっ」
私の引きつった笑顔にも動じず、真顔でこちらをじーっと見つめてくる。あまり人間らしくない振る舞いだなぁと、失礼な感想が浮かんでくる。
……この時間は一体なんなんだとツッコむ前に、教室の喧騒に紛れて人間らしくない音が徐々に迫っていることに気付く。文字に起こすならごろごろ~、猫がじゃれてる時にやるあれ。
「特技」
「特技?それが?」
「それと部分分数分解」
「すごーい」
「でしょ。猫は構ってほしい時も、体調が悪い時も、イライラしてる時も喉を鳴らすの」
「今のはどれ?」
「さあ。猫の猿真似だから、意味なんてない」
まだ小学生の時に、同様の会話をした記憶がある。長らく取り出してなかったから、だいぶ埃を被っていて、どういう状況だったのか曖昧だけど、猫もそんな野太い声を出せるんだなぁーと、その時の私は一つ学びを得たのだった。
まあ、奇跡よりは偶然のほうが起こりやすそうなので、かつてその話をした相手がこの人なのだろう。そう言えば、その会話も遠足の時だった。だからこの写真のシチュエーションに合っている。そうそう、写真のようにあんな感じのよく編み込まれた髪型だった。写真に、都合のいい解釈に引っ張られていく。
そうこうしている内に、朝のホームルームの時間が始まって、担任がこちらを睨みつける。
「おい永田、早く席につきなさい」
「ちっ、ずらかるかー。じゃのー」
し、舌打ちしやがったんだけど。しかも写真は忘れていくし。さらに明世からの熱い視線も感じるし。
それで、この写真の持ち主は、私の記憶の中の人物と同一なのだろうか。永田と言えば……寧々子……。証拠も記憶も揃っている、そっぽを向いているのは肌感覚だけ……。
いやそもそも、永田とは去年も同じクラスだったわけでっ。もし因縁やら宿縁やらがあるなら、もっと早く話しかけてくればいいじゃない。そうしなかった、というかこのタイミングで仕掛けてくるのには何か理由が……。と、あまねく全てを訝しんだところで、何か答えが得られるわけでもなく。そして忘れ物の写真をもう一度眺めると、この写真の持ち主と同一人物なのか、その問いに本能的に立ち返ってしまうのであった。
今日の午前は忙しくて、一回暇があったけど、それは縁佳に使ってしまったので、結局永田に写真を返しに行けなかった。自分で取りに来ないほうが悪いと開き直っていると、昼休みになったら本当に来てしまった。それより縁佳も来てくれたー。ついでに明世。
いつになく私の周りが賑やかだ。その中心に私がいるせいで、まるで私が人気者みたいで落ち着かない。縁佳と位置を交換したい。というか、縁佳と二人きりで世界の果てまで逃亡したい。ここだと、私が不自然に縁佳しか捉えてないことも、嬉しさの限界を超えてふへへって笑い出してしまうのも、全部他の人に伝わってしまう。
「この四人が一堂に会するなんて珍しいなー」
「鏡花ちゃんにチョコを貢いだメンバーとも言う」
「常葉先輩のことを忘れないであげて……」
そう考えると、私が縁佳からチョコを受け取りたいがために、一人だけに美味しいところを持っていかせて、本当に良かったんだろうか……。いや、美味しいところって何、私が美味しくない、身が少なそう……。
「ところで、ねこが弁当を持ってくるなんて珍しいね」
「ん、今年から高校生の弟がお弁当持っていくから、親がまとめて作るって」
「そっちの方が、栄養が取れていいんじゃない」
縁佳が注目したから、私も永田に注目してみる。永田は弁当箱の隅を箸でつつくばかりで、中々食べ進めない。食欲がないんだろうか。どうやら人間にはそんな日もある、らしい。
「早く食べないと、島袋さんにさらわれちゃうよー?」
縁佳が私と永田を交互に見ながら、冗談交じりにそう忠告した。しかし、縁佳の許可があれば、いくらでもかっさらう準備はできている。
「いいよ。油揚げとキウイ以外なら、好きなだけ食べな」
「え、いいの?」
「遠慮するな、猫と犬の仲だろう?」
「こっ後悔しない?」
「だから弁当は嫌なんだよー。食べられないものしかない」
永田はむしろ食べてほしそうに、弁当箱をこっちに押し付ける。お言葉に甘えさせられて、その弁当箱を自分のほうに手繰り寄せた。んーっ、このごま和え、美味しいけど小さすぎて一口で終わっちゃうなぁ。
「そんな食生活で大丈夫なのか……?」
「安心したまえ、キウイでビタミンCは確保してるから」
半分に切られたキウイをスプーンで掬いながら、永田はドヤ顔でそう言った。
「大丈夫かなぁ」
「大丈夫じゃないでしょ」
「辛辣だな……」
正論を手にする縁佳を明世が宥めていた。まあそれはそうと、さっきから私の記憶たちが騒めいている。この味にも記憶があるし。やっぱり、前にもこんなことがあったんだな……。
「おあっ、あったよ、もちろん」
「はひゃっ!?」
声に出ていたらしく、永田が前のめりに反応してきて、私の耳障りな声が教室中の雑談を妨害する。これからは、猿轡でもして生活したほうが良いのかもしれない。
「なんとなんと、あの時助けていただいた猫です。お、覚えてくれてた?」
「あぁうん……。微妙に覚えてるっていうか……」
「漫然と?漠然と?縹渺と?」
「そんな感じ」
「やっぱり思い出は忘れないものだね」
まずい、向こうは完璧に覚えてるパターンだ。えーっと、えぇーーーーっと、よすがぁっ。泣きつくように、別に泣いてないけど、いやっ本当は少しだけ涙腺が緩んだけど、ともかく縁佳を瞥見する。
「なんか二人で盛り上がってるけど。どういう関係?」
「写真見せてあげて」
「これのこと?」
私が例の写真を手にすると、三人とも覗き込んできて、そしてほのぼのとした顔付きになった。
「島袋さんの小さい頃の姿?」
「小さいって言っても、小学四年生の春……だから、たった六年前だけど」
「こんな小さかった時代もあったんだねぇ」
「あんまり変わってなくない?」
「あら、無礼な人」
「ちがっ、今と変わらないことによる……良さ?みたいなのもあるから!」
縁佳にそんなに褒められると、この椎茸の煮物みたいにへなへなになってしまう。出汁ではなく、縁佳の慈悲が身に染みる。縁佳に昔の姿を見られた、見せちゃった。なんだろうこの高揚感は。隠していたわけじゃないけど、ベールを強引に剥がされたような、大切なものを覗き見されてるような。縁佳には全部を知っていてほしい。私の中に入り込んで、私の色を目に焼き付けてほしい。
「ね、島袋さんっ。…………あれ島袋さん?」
「あっ!はい、はいはい、私もそう思うっ」
縁佳を放心状態で凝視していると、反対に百年分の縁佳の視線を集めていた。大山が鳴動したかのように、慌ただしく頷く。
「まあ、この長くて癖っけがあって、クリスマスツリーにできそうな髪は同じだしなー」
明世が私の髪を手で梳きながら、ちゃっかり手のひらを返して縁佳のことを擁護していた。
「逆に、こっちの子はミケってこと?」
縁佳が、体ごとカメラとは別方向の少女を指さす。やっぱり、永田寧々子らしいけど……。写真と本人を交互に確かめてみる。あんまり面影がないなぁ。同一人物だって頭で理解してみても、雰囲気の変わりようは誤魔化せない。
「今と違ってブリティッシュショートヘアみたいだな」
「今のねこは何の猫なの?」
「えぇー、マンチカン?」
「それは褒めてるの?」
「褒めてるっていうか、確実に変化してるってこと……あでも、それならなんの猫でもいいな」
明世の発言に、永田はピースを作って自分の目のところに置いた。
「いえーい、垢抜けたー」
「別に、写真のねこは野暮ったい感じじゃないけど……」
「じゃ、垢こうむったー」
縁佳に苦笑いを浮かべられる永田が、ちょっとだけ羨ましく思えた。複数相手がいる中で、縁佳は永田に意識を集中させている。私は……視界の隅に甘んじていて……。私は直線よりもまっすぐ縁佳だけを捉えて、質問を投げかける。振り向かせることだけに注力しすぎて、結果的に答えにくい質問で縁佳を試すことになってしまった。
「あっあの!私はっ……どうかな、ダサいかな……」
「ん?私服持ってて今より偉い」
「はうっ……。でもでもっ、前に常葉お姉ちゃんと調達したからっ。もう大丈夫…………じゃないかもしれないこともないかもしれないっ」
常葉お姉ちゃんだし、どこか騙されている可能性もあるけども、しかし私にとんでもない恥をかかせようとする人でもないから、心のどこかで楽観視してるけど、それでも予防線を張っていた。まあ、目的は果たせた。縁佳が私に苦笑ってくれたから。胸が締め付けられて、でも熱を纏って、クセになりそう。
で、自分で自分を痛め付けるような質問をしていたら、自然な手さばきで写真を机の中に戻していた。要は、また返しそびれてしまったのであった。まあ、放課後にでも行けばいっか。
「よっすーのバイトしてる様子、哨戒に行かない?」
「はっ?」
体中に張り詰めた血が巡る。写真を掴む手が後ろから動かない。妙な提案をされて、写真を返しに来たんだってことすら忘れそうになった。
「えぇーと、それは見ても良いものなのでしょうか……?」
「みせもんだし」
見世物ではないだろ、と臆病に一人でツッコんでみる。
「嫌いなおかずを食べてくれたお礼」
おかずどころか白米も食べさせてもらったけど、と臆病に一人で申し訳なくしてみる。
「祟られない?」
「ないない」
「眩まない?」
「ないない」
「絆されない?」
「ないない」
「それじゃあ……」
「行くよね」
なんだこの禅問答は、と臆病に一人で正直になる。だって、私以外の友達が知ってる縁佳を、私が知らないなんて、そんなの耐えられるわけない。縁佳のことは何でも知りたい。一方的に知りたがっているわけじゃないんだから、これは許されて然るべき……かも。
永田は、愚鈍な私にもわかるほど目を輝かせながら席を発つ。返すタイミングをまた見失って、写真を手に持ったまま、私は永田の後をつけていった。
それにしても、全く得体が知れないし、掴みどころもない人だ。一応、過去に繋がりがあるんだけど、でもあれは小学生の頃の話で、申し訳ないけど私の体感は、初対面とほとんど変わらない。これも縁佳が仕組んだのだろうか。友達ぐらい作れって。
外は、みんな強がってるけど、本当はもう半袖でもいい気温で、少し歩くだけでも汗ばんでくる。二年生に進級して、間もなく二週間が経過する。新生活に慣れ始めないといけない頃とも言ったりする。
まあかく言う私は、全然慣れてないのだろう。遠くへ行ってしまった縁佳を、今までと同じ環境を、いつまでも渇望している、できるなら時間だって戻すはずだ。それは普通の人が経験する反動よりずっと深刻なもので、ずっと不摂生をしているようなもの。何かを削り続けている。削れる量には限度があるから、それはいつか終わる。終わっても生きていけるよう、縁佳は手を打ってくれているんだけど……。人の想いを受け入れて、自分を曲げられるんだったら、とっくに変化を受け入れているわけで……。
「雨上がりのにおいっていいよね」
「全然雨上がりじゃないけど」
「今の話ではなく、一般に」
「まあ、わかるよ」
「あ、私のことは寧々子って、下の名前で呼んでねー」
話題に脈絡をつける気がないとかどうでも良くて、いきなり下の名前というのは、そんなに馴れ馴れしくする意味ってあるのだろうか。
「あっあだ名とかでも」
「昔の鏡花ちゃんはそう呼んでたからー。さんはい」
「え、あ、寧々子」
「んー、いい名前だ」
自分の名前が好きなことはいいことだ。
「この家おっきいねぇー」
そう言いながら、永田は三階を羨望した。立派なガレージも備えられていて、確かに目を引く大きさはある。この辺は小金持ちが多いのか、こういう家をちょくちょく見かけるな。
「開業医、それも整形外科かな」
「そんなこと、妄想して何になるの?」
「鏡花ちゃんのためのサービス」
退屈しないようにってことだろうか。しかし心配に及ばない。縁佳のバイト先に行けるってだけで、三日は寝付けないから。閑静な住宅街に似つかわしくない熱狂。度合いはライブ前の観衆と大差ないって自負がある。私がそれを自分の内面に押し留められるわけもなく、言葉に出さないだけで、永田も察して呆れていると思う。
しばし沈黙が続く。永田は次の興味を求めて、辺りを見渡していた。そう言えば、まだあの写真を返してなかったというか、後ろに隠したままだ。
「あの、えと、寧々子、これ」
「あぁー、写真ねー」
私が写真を前に持ってくると、永田は反対側を掴む。横を一瞥すると感慨深そうにしていて、一緒に鑑賞する雰囲気だったので、しばらく手を放さないでおいた。
「本当は、忘れちゃったかな……」
「そ、そんなこと無いよっ。覚えてるから、大切な思い出だからっ」
小学生の頃、遠足で山登りした時の一コマ。山頂で一緒に食べようって永田に誘われて、特に断る理由もなかったから?いや、無視しても勝手にレジャーシートを並べてきたんだった。それで、永田はさっきのように、弁当の大半をくれて、まあ当時は今より二回りは小さい弁当箱だったから、結果的には腹を満たせて良かったんだけど。多分、永田は物凄く好き嫌いが激しくて、最初からそれが狙いだったのだろう。
まあ、本当にそれだけで打ち切りの思い出。馬は合ったほうの人間だけど、その後関わることは特になかった。中学生になってからは目撃してないし、引っ越してしまったのかもしれない。どちらにせよ、それを教えてもらえるような、精神的・電子的な繋がりは存在しなかったのである。今なら、友達になっておけば良かったのにって偉そうなことを垂訓できるけど、当時の私は……実際、何を心に秘めていたのだろう?
「少し、雰囲気が変わったというか。人当たりが良くなったというか……」
「背が伸びた?知性が増した?当たり前か。何だろう、昔からの友人にも言われるんだけど」
永田は髪をくるくるさせながら、独り言を呟く。私も負けじと毛先と追いかけっこしてみる。
「鏡花ちゃんも変わった」
「そ、そうかな……」
「変わったよ、面影はあるけど」
そこまで確信されたら、一皮剥けたような気がしてくる。でも冷静に自分の行いを顧みると、やっぱりそんなわけ無かった。いつだって優柔不断で、言い訳を並び立てて自分を慰めて、見当違いなところでアクセルをふかして、いつも一人の人間に依存して、子供ゆえに許される未熟さを解決しようともしなくて。見上げたカーブミラーに映る歪んだ私は、中々手厳しいことを諭告してくる。
「もっと変わりたいから、髪切ろうかな」
「それもいいかもだけど。何より口数が増えた」
「でも、それで災いばかりもたらしてるから……」
「だから、善悪は置いておいた。ただ、変わったってだけ。まあ、自分の想いを伝えるのに、言葉がなきゃ始まらないとは思う」
似たようなことを、さりげなく明世も言っていたのを思い出す。そりゃあ、言葉は完全無欠ではないけど、言葉を伴わない行動は相当高度だから。私にはまだ早い。
「それと、この写真はあげる」
「えっ、いいっいいって、大丈夫だって。寧々子にとっての方が、深い思い出だろうから。だから、そっちが持ってたほうがいいよ!」
「じゃあ、後で写真を写真撮って私に送って」
「……本当に、貰わなきゃダメ?」
「私の家、猫小屋だから狭くて」
「……わかった、大事にする」
私が言いくるめられると、永田は写真から手を離した。こうなったら、写真立てでも買おうかな。それで、次に縁佳が部屋に来た時に、自慢?してやろう。
で、こんな会話をしながらでも、目標に向かってちゃんと進めていたようで、縁佳のバイト先のスーパーに着いた。学校からここまで、徒歩で行くには少々時間がかかる距離だけど、縁佳が働くために日々この道筋を踏みしめていると思うと、何だかこの距離感さえ愛おしくなってくる。
「よっすーはレジ係、スーパーの花形」
「花形なの?」
「でも個人的にはバイヤーのほうが好き」
「あんまり興味ないかも」
中に入ると、買い物をしたくさせる空気が私たちの髪を舞い上げる。それはそうと、入ってすぐ横にレジが並んでいて、あっ縁佳だ!……見たことないスーパーの制服の後ろ姿だけでわかってしまったけど、これは末期なのだろうか……。これだけで、わが子の成長を確認しに来た親とは正反対な動悸に襲われてるんだから、もう助かる見込みは皆無か。
それで、仕事ぶりを測るために何かを持って行ってみることにした。
「あっ、よーよー」
「ん、あー、ご無沙汰してます」
鑓水とかいう人が、豚ロースを並べているところに遭遇して、しかも向こうから話しかけられた。そう言えば、会話を盗み聞いた感じ、同じバイト先だったんだっけ。しかしあの時は激しく嫌厭してたから、それなりに気まずい。……気まずさをそれに求めるのはずるいか。依存先以外に囲まれるのが、重くて重くて仕方ないだけなんだから。
「この辺に住んでたの?」
「あ、そういうわけではなく……」
「ふぅん、あーね、なるほど」
「わかっちゃった?」
「半分ぐらいは?あぁ、ここで立ち話してると色々まずいから、そろそろ戻るね」
「ちょっと待って、今日って何がお得?」
永田が待ったをかける。勤務中の人を邪魔するべきでは無いけど、ここでスパッと決めてもらわなければ、このまま何も持たずにレジに並びそうだった。今のところ、だらだら店内を行進してるだけなのである。
「えぇー、分からないなぁ。入口にチラシ貼ってあるから、見てくれば?」
「後戻りできない」
「知らないですけど……」
「甘いものがー食べたいー」
「ほー、ならおはぎとか」
「それいいねっ」
私の提案に笑顔で賛成して、鑓水を無視して総菜コーナーに駆けていった。おはぎ、好きなのかな、美味しいよね、甘い物の魔性に導かれてしまうのは、どうしようもない。
それで、おはぎを一パック手に取ったら、縁佳のレジに並ぶ。隣のレジが空いてたけど、私は縁佳に接客されることを世界で一番望んでいるから、どれだけだって待ち続ける覚悟がある。
それにしても、前のお客さんは皆、夕飯の献立を描ける量を購入している。そうか、スーパーっておはぎだけ持って、縁佳に接客されるための施設じゃないのか。でも、その如才ない手付きは、見惚れずにいられない。器用で気品があって、いつだって非の打ち所がなくて、安心して眺められる。だからこそ襟を正さなければならない。一歩ずつ近付く度に、ありふれた飽きの来ない緊張感に見舞われる。
「いらっしゃいませー。ポイントカードはお持ちですか?」
「はっ、くださいください、平島さんのポイントくださがふっ……」
「袋はいいので、割り箸を二本ください」
永田に額をパチンと引っぱたかれた。馬鹿なことを言った自覚はある。が、餓死寸前まで絶食の罰を受けないと、更生するのは不可能かもしれない。
目に星を浮かべていたら、買った物がおはぎ一パックしかないので、お会計がとっくに終わっていた。しかしぎりぎりで「ありがとうございましたー」と頭を下げる縁佳を刮目できた。私に、縁佳が、頭を下げて、しかも、微笑んでくれて、ここら辺に暮らしている人は、日頃からこれを味わえるのだから、羨ましいとかそんな生温い言葉では言い尽くせないほど羨ましい。
「鏡花ちゃん、ダメだよ、仕事の邪魔しちゃ」
「そうだよね。つい、テンションが上がっちゃって」
「何だか、あんまり無いタイプだね」
「平島さんを見てたら、テンション上がらない?」
「いや。友達のバイト先でやることって言ったら、揶揄ったり妨害したりじゃない?」
「働いてる姿が様になって輝きを放ってるから。そんな事する気が起きない」
縁佳がお客様に真摯に向き合っているかっこいい様を見た後、私たちはスーパーの近くの公園に移動して、ブランコなんかに座っちゃって、粒あんとゴマが一つずつ入ったおはぎを、それぞれ半分ずつ食べることにした。
「はん……ぶん……?」
あんことゴマだけを半分ずつ剥いで、永田はそれだけ食べていった。
「おはぎってさ、米いらないよね」
「いるよっ。無かったらただのあんこじゃん」
「んんー、鏡花ちゃんは好き嫌いに手厳しいね」
手厳しいっていうか、おはぎを全否定してるそっちの方が、昔の人に手厳しいんだけど。
「やっぱり、好き嫌いはよくないよ。まだまだ、沢山のエネルギーが必要な年齢なんだから」
「『いっぱい食べないと大きくなれないよ』昔の鏡花ちゃんも言ってたな。まっ、その真偽はいかほどに?」
永田がふいに立ち上がる。そう言えば、遠足の時からの連続性をあまり見出せなかった一因に、身長が大きく伸びたこともある。それに比べて私は……。そこまで低くはないはずだけど、昨日電車に乗った時に、軽々とつり革を掴んでいた安栗を見て、取るに足らない存在なんだと目が覚めた。
「栄養のために食べるなんて、薬を服用してるのと何が違うのさ。美味しい物だけを食べていたい」
「だからって、焼肉屋でシャーベットしか食べないとか、あり得ないから!」
「しょうがにゃいにゃー」
不服そうな顔をしながらも、永田は再びブランコに座ると、真っ白なもち米の塊を割り箸で割って、剥き出しだった部分だけ口に運んだ。そしてブランコを軋ませながら前後に揺れて、米相手にとことん悶えている。
「あうー、まずい、米ってなんで味がないんだー」
「もう一個も食べてね」
「品種改良するなら、もっと味を濃厚にしてよー、じぇーえーさーん!」
相も変わらず、日本で一番米どころに暮らすのが向いてない人だった。
まあいいや、残りのおはぎを頬張った。うむ、見た目通り甘くて美味なり。来た道を戻る士気が湧いてくる。
「……ぅはっ、……ぇてっ、……ったっ」
「な、なんて?」
私が咀嚼している間、暇になったのか永田が大人げなく、いやある意味大人っぽく?隣でブランコを全力で漕いでいた。私が聞き返すと、ずささーっと砂煙を上げながら急停止して、改まってくれた。
「今日は旧友と遊べて楽しかった」
「そっか。ありがとう」
「これで修学旅行も安心だね」
「そ、そうだねぇ……」
結局、同じクラスじゃないと、こういう行事で一緒になれない。知らない縁佳はこれ以上増やしたくないのに。まあ、全く知らない人じゃなくなったから、安心、していいのかなぁ。
永田との出会いが、今日という日が、一体どんな意味に化けるのだろうか。一つ言えるのは、永田が旧友なら縁佳は新友……新しいものの方が、いつだってワクワクする。古いのは心が安らぐ。紅ばむ西の空を見上げて、あること無いことを無意識のうちに占った。
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