第6段:Side by Side

6-1

 春の光り輝く空気に、土壌の香りに混ざる花の微かな芳香、こそばゆくも散りゆく桜を仰ぐ。昔の人はこれに儚さを覚えたのだろうが、今の私には真逆の感想が析出してくる。誰もかれもが、新しい生活とかクラス替えとかに不安と希望をいだき、それを紛らわすように声帯を震わせる。つまり、学校の前が登校してくる生徒でごった返している。私にとって春というのは、桜のある風景というのは、そういう空気感を伴っているのだった。んんー、じゃあ結局儚いのかもしれない。


 さて、入学した時の私は、不安も希望もどちらも浮かばなかったけど、高校二年生となった私はそのどちらにもいたぶられ弄ばれている。縁佳という、余人をもって代えがたい天上人と交友関係を持ってしまったから。それは……うんうん、絶対、絶対に幸せなことだ。でも幸せというのは苦労が絶えないことの裏返しで。結婚生活とか。


 しかし鏡花よ、案ずることなかれ。かの有名な白山さまに発願したのだ。私たちは確実に括られている。信じる者は救われる。神社で願い事を念ずる者は信じる者だ。よって私は救われる。いや、勝利はすでに決定しているんだから、もう救われているのだ。そんなわけだから、その、一旦、学校の敷地に足を踏み入れる前に立ち止まっちゃったりして、熱っぽい空気をめいっぱい吸い込んでみた。


 実際に決意が固まったかどうかはともかく、決意を固める儀式を執り行ったところで、先に進む。他人と違うことをしたら働く羞恥心によって、昇降口で先生が配っているクラス分けのプリントを受け取って、受け取ったらすぐ見るものらしいので、立ち止まって血眼になって縁佳の名前を探した。



 ——終わった、祈りも眠れない夜も、誰も知らない私も覚えてないささやかな善行も、全て無為になった。私が天候を操れるのなら、良い子にしていても報われないのなら、海面が上昇するぐらい雨を降らせているだろう。縁佳のいないクラスなんて、私が身を置ける場所じゃない。


 ぐあーっ、どうしようっ!どうすんのさ、はーあ……。実のところ、同じクラスになる想定しかしてなかった。だってあの、よすが結びの神である白山比咩大神に縋ったんだから、あと何となく運命を感じないこともないから、人は都合のいいものしか見ないから。え?具体的に何を想定してたかって?そんなものはない!その法外なツケを払わされるように、心の準備とか、今後の縁佳への身の振り方とか、今から検討しないといけなくなった。


 でも、小難しいことを考えていられるほど、大人でもないし余裕もない。高ぶる感情に惑わされて、自分の席で小さく小さく叫んでもみる。…………全然スカッとしない。だからもっと項垂れる。怨言をこしらえるのも頭を使うもので、やがてうめき声しか出なくなる。机に突っ伏しては、忽然と顔を上げて、目が回る。早く帰りたい……いや、縁佳を一目拝覧してからにしようか……。


 手も足も出ない現実に、深い悲しみと理不尽な世界への文句が渦巻いて、その最悪な旋風は、全てのことに対するやる気を吹き飛ばしていく。プリントを後ろに回すのさえ面倒になってきた。もうどうでもいいや。クラス替えに付随する人の痛みを知った。それは私には重すぎた。それだけだった。


「しまちゃあーん、おーい」


 机に顎を突き刺して、自他ともに思わず認めてしまうぐらい拗ねていると、明世が名前を呼んできた。当て付けのように、元気たっぷりに。明世については驚くほど興味が沸かない。それは態度から明け透けだけど、気にせず明世は前方に回り込んで覗き込んでくる。


「あれ、寝てる?いや起きてる」

「どっちでもいいし、どうでもいい」

「つまりその狭間ってことか!二項を隔てる壁を自在に操って、その境界に存在する能力者ってかっこいいよな!」


 春の暖気は色んなものを増幅させていく。不安も希望も、逆恨みも剽軽も。明世は新しい環境に微塵も不満がないんだろう。そこは羨ましい。けど、その気持ちを奪って自分のものにはできない。じゃあ意味ない。ほっといておいてほしい。


 私のせいで気まずい雰囲気にしてしまったので、助けを求めようと明世の顔を瞥見する。意外と面の皮が厚いのかもしれない、と思われたかもしれない。まあ、縁佳でもなければそこまで思い至らないだろうけど。明世は首をかしげて、しおらしく次の言葉を選んでいた。


「ふむむー、どうしたものか……。これからがすよの元に行こうと思ったんだけど、一緒に……」

「もちろんっ!」

「ひゃへっ!?あぁうん、おぉ、行こう行こうー」


 立ち眩むほど急激に立ち上がって、前屈みに机に手を広げて、明世を打ち倒すほどの返事をした。私が圧倒したせいで、黒目を右往左往させて、手をぐるぐる動かして、でも最後は私の腕を掴んで上下に揺すってきた。


 別に、一人でもそうすればいいんだけど、何だか敷居が高い。そもそも、神に見放された仲なわけで、神が要らないって判断した仲なわけで、神が私の心を盗み見た上で聞き入れられなかった仲なわけで、全部神のせいだ。


「びっくりしたよ~。驚かさないで~?」

「ん、何に?」

「急に立ち上がってさー。思い切りがいいんだか悪いんだか」


 それに関しては悪いほうだと思う。神様だって、人間臭い一面はあるのだから、嫌がらせだと割り切ればいいのにね。


「まー、せっかく同じクラスになったわけだし、こっちもよろしくね」

「あ、そうなんだ。どもども」

「そんな、気付いてなかったのね。思い切りで生きてはりますなぁ……」


 それにしても、縁佳に会うって話だったのに、真反対の方向に進んでいる。縁佳を餌に私を釣って、何をしようと言うのだ。本当に、あらゆる意味で、美味しくないと思う。そうこうしている内に、もう校舎の端まで来てしまった。


「ところでしまちゃん。がすよって何組?」

「6」

「先に言ってよ~。逆に振り切っちゃったじゃーん」

「当然把握してるものかと」

「私としては、しまちゃんなら当然把握してると思って、頼るつもりだったんだけど」


 ぐぬぬぬぬ……、そうだ、走るか。


「ひ、平島さ、ん……、ふはぁーっ、はぁはぁ」

「よぉー、待たせたぜー……はぁぜーはぁ」


 校舎の端から端まで、後先考えずに全力で走ったら、息は止まらないし、筋肉が剥がれ落ちるような感触に見舞われるし、とにかくあっっつい。思わず、近くの机に体重を載せつつ、ワイシャツをパタパタさせてしまう。隣を瞥見すると、明世は両手で必死に頭を扇いでいた。どうして、なぜに縁佳は涼しい顔をしてられるのか……走ってないからか。


「あえーっと、二人とも、どうしたの?」

「見てるこっちも外周走ってきたみたいな感じになるんだけどーっ。やめてやめて、ぐあっなんか心拍数上がってきたーっ」

「良かったじゃん。露崎だけ基礎練習免除してもらえるよ」

「ダメダメ、そんな風にわかりやすく息を吐かないで!」


 そんなこと言われても、こっちだって好きで息を荒げてるわけじゃないんだけどっ。


 しかし急いだ甲斐が皆無だったわけでもなくて、ちょうど教室を出るところだったらしい。縁佳はカバンを机に置いて、私たちの呼吸が整うのを、鼻白みながら待ってくれた。


「すみませんねぇ、お見苦しいところを曝け出してしまって」

「いつものことでしょ。それより急用?」

「平島さんにっ、えと、会いたくて馳せ参じましたっ!」

「ちょちょーういっ、それっ、中々とんでもないって言うか、突拍子もないよっ!」


 明世が私の肩を、汗を拭っていたハンカチを手に挟んだまま突き動かして、吃驚した表情で目を合わせてくる。とりあえず、目を屡叩いておく。


「まあまあ。別のクラスになっちゃって、相当落ち込んでるかと覚悟してたんだけど。意外と元気そうで安心した」


 縁佳は普通に打ち笑みながらそう言った。安心された。そうだよ、明世も、そんなに慌てることないじゃないか。


「い、いいけどねぇー、これまでと変わらない日々が続くなら」


 とか口にしながら、明世は私の前から離れていく。


「そうだけど、別のクラスだと話せる機会も減っちゃうね」

「減っちゃうじゃないよっ。あのさ、ほんとにちゃんと祈ったんだよねっ!?」

「え?そりゃあ、嘘は控えるようにしてるけど……。雑念が混ざっちゃったのかもしれない。それは、ごめん……」


 雑念って……。それは刑部のことだろうか。それとも別の問題なのだろうか。命の引き換えにでも聞きたいけど、その前に明世によって会話が進められてしまった。


「昼休みにご飯を食べるくらいなら、毎日だってできるだろうし、ね?」

「むぅー……。それは些末な問題に過ぎない」

「えぇ?」

「見たい時に平島さんの顔が見られないと、……力が出ない」


 私が言葉を発すると、往々にして苦笑いが芽吹く空白の時間が生まれる。なぜなのだろう。恥ずべきことを言ったのだろうか。そうなんだろう。何だか体が熱い。


「はへぇ……、そっかー、しまちゃんらしいねっ」

「そういう事なら、よっすーの写真、送ろっか?」

「あ、そうだよ。前に体育祭の写真を送ったじゃない。あーいうので、元気出して?あぁー、なんか変な励まし方だな……」

「あっあれはっ、なんかいけない気がして……」

「え?何がいけないのさ」

「そもそもっ、私は刻一刻と変わる平島さんを求めてるわけでっ」

「なんだ、フラッシュ暗算ならぬフラッシュ変顔でもしてるの?」

「してねぇ」


 縁佳は明世にツッコミを入れると、私に確かで力強い視線を向けてくる。自然と体がかしこまった。かしこまって身を丸めても、アルマジロのように硬い鱗があるわけでもなく、本心は縁佳に筒抜けだ。でもそのおかげで、いつだって欲しい姿を提供して、変人な私の居場所を確保しておいてくれるのである。


「まー、んとー、来たくなったらここまで来な。なるべく、教室にいるようにするから。あっでも、せめて休み時間にしてね」

「授業中に抜け出してくるわけないでしょ」

「あらあら。一度抜け出したことがあるのに」


 そんな、何百回と受けてきた授業のうち、たった一回のことをそこまで論わなくてもいいじゃないか……。まあいいや、クラスが分かれたことは許してないけど、今日もまた、こうして一緒に帰れるのだから、まだ暴れないでいい子でいよう。



「はあああーーーー……」


 自分でもドン引くほどの溜息が発射された。私って、意外と肺活量があるんだな、とか感心しながら自席に戻ろうとしたら、同じクラスの露崎に指を差された。親にも指差されたことないのに。


「ちょ、溜息はないっしょ、溜息は」

「えぇ?」

「裏の顔とか、一番幻滅するやつだから!」

「裏の顔って……。まさか、鬱陶しそうにしてるってお思いで?」

「溜息をつくのは、いつだって鬱陶しいだけだよ!」


 核心的なこと言ったつもりになってるけど、さすがに過剰な一般化だろう。


 何があったかと申すと、鏡花が全ての休み時間にこの教室を訪れるようになってしまった。もちろん鏡花の狙いはこの私、というかそれ以外に興味がない。授業が終わったら、必ず教室の後ろの扉までやって来て、そこで壁にもたれかかりながら鏡花と雑談をする。それが習慣になるには、そこまで時間がかからなかった。


 来たくなったらいつでも、みたいなことを提案したのは私なんだけど、欠かさずに来いというニュアンスは露ほども含まれてない。うーむ、時間割を教えてしまったのは失敗だったか?いや、いずれ見破られるか。根本的な解決にはなってない……そもそも、露崎の言う通り、解決する必要はあるんだろうか。


 とりあえず、もう一度壁に寄りかかって、足をクロスさせたり戻したりさせながら、露崎の誤解を解いた。


「別に来るなと拒みたいわけじゃないけど、私には露崎みたいに他の友達もいて、やらなきゃいけないタスクもあってさ。んーん、それは向こうも同じ。だから心配でもある」

「それだけ気が合うってことだよー!昼も夜も天国でも地獄でも、一緒にいたいと思える。それくらいぴったりハマってるってこと!」


 気が合う、か。私はきっと、気を合わせることしかしてない。ずっとそうやって生きてきて、ついでに才能もあるのか、それは全く辛いことじゃないけど。しかし、気を合わせられるということは、それは気が合っているということなのかもしれない。合わせられなかった気もあるわけだし。なんか、露崎の意図とはズレた議論をしている気もする。


「少なくとも、あっちはそうなんだろうね。その気持ちはとても嬉しいけど……」

「けど?」

「やっぱり心配だぁーっ。いいのかなぁー、これで」


 頭が急に重くなった気がして、がくんと下を向いていた。しかし比較的定石通りに悩んでいるのに、露崎がいつも通りの針小棒大ぶりを発揮していた。


「さすがよっすー、凄まじい自己義性の精神」

「ここに自己犠牲を見出せる露崎がさすがだよ……」


 昼休みになれば、ならなくてもだけど、何度だって二度見してしまう弁当を引っ提げた鏡花がここにやってくる。ちなみに、五割の確率で明世がセットでついてくる。


 今日は露崎もどっか行ってるし、もしかしたら二人きりかもしれない。とんでもなく喜ぶだろうな。ウサギのように跳ね回りそう。家に帰ったら、絶対跳ね回ってる。あっでも、そんなに器用に跳ね回れる人だろうか。まあいいや、先に弁当を机の上に広げておこう。


「よっすー、ご一緒してもいいかー?」


 特に同意を確認することなく、鑓水はその辺から椅子を掻っ攫って、私の机に自分の弁当を広げた。


「あれ、安栗は?」

「部活の集まりがあるんだって」

「ふーーん。一緒じゃないなんて、珍しいこともあるねぇ」

「安栗が毎日誘ってくるから仕方なく付き添ってるだけで、本当は全然知らないあいつの部活の友達とかと食べたくないんだわ」


 鑓水もたいがい、閉鎖的な人間関係を好む傾向にある。鏡花ほど割り切ってはないけれども……。とか、弁当の蓋を開けたまま、そっちのけで他人を分析していたら、本人が登場した。おー、今日は明世が一緒じゃなかったか。いつもと同じ椅子が鑓水に使われていたので、鏡花は運良く空いていたその隣を手繰り寄せて、太々しく机の半分くらいの面積を占有してきた。


「よっ……?よぉー……よぉ?」


 前というより私の横に陣取った鏡花は、エビフライを一本すすってからようやく挨拶してくる。最近は挨拶にもこだわっているようで、気さくさを求めた結果、いつも消化不良な挨拶に終わる。こっちもなんて返せばいいのやら。


「あぁ、噂には聞いていたけど……。見てるだけで満腹になるっていう、凡庸な表現が洒落になってない」

「私はもう慣れちゃった」

「人間の適応力って凄いなぁ」


 鑓水は箸でミニトマトを掴んだまま、しばらく鏡花の食いっぷりをまじまじと見つめていた。


「あっ、私は鑓水庵憩、えっと、一応文化祭の時に会ったけど、まっいっか。よろしくー」

「はい」


 おいーっ、なんだその失礼な態度は!鑓水には見向きもせず、ひたすらひたむきに弁当に向き合い続ける。挙句の果てに、事務連絡のような、鏡花からは聞いたことのない返事で済ませやがった。そんなあからさまな態度、私には到底できない。そこに羨望も善導したいという欲も生まれなくて。まるで、他の生物を目の当たりにしているようだった。


 だが私はともかく、鑓水は居心地が悪いだろうから、何とかフォローを試みた。


「鑓水の弁当もさ、そこはかとなくお洒落で、なんか豪華だよね。オードブルみたいで凄い」


 おかずとおかずの間に葉っぱを詰めたりして、見栄えにも気を遣われている。私はぎちぎちに詰め込むことで何とかしているので、鑓水家と品性の差を見せつけられているような気になる。そうねぇ、この弁当箱、小学生の頃から使ってるし、そろそろ変えようかなぁ。


「よっすーは毎朝、自分で作ってるんでしょ。そっちのほうが凄いと思うな」

「んんっ、そう言えば平島さんって、卵焼き好きなの?」

「あぁー、好きっていうかねー。夕飯の余り物とかをまとめてるだけって日も多いから、少しは弁当を作ってるんだぞーって実感を、自分に持たせたい……んで、毎日巻いてる」

「おあっ、尊敬します、凄いです」

「どうもどうもー」


 鏡花があまりに正直に称えてくれるので、うっすら相好が崩れてしまった。


「そう言えば、あれは聞き及んでる?」

「あれって?」

「パートの人が二人同時に失踪したって話。どっちもレジの人でしょ?」

「あぁー……、店側は困るだろうねぇ。空いた時間に私が入りたいところだけど、限界ってものがあるからー」

「それもそうだけど、なんか怖くない?」

「うちのバイト先、訳ありな人が多いからね~」

「いやー、知らずに入ってしまった……。よっすーが入るから平気だと思ったのに」

「私も知らなかったんだよ。まあ、運営会社は普通のチェーン店だから、クリーンなお金しか支払われないよ、うんうん」


 しかし、働いている人は明らかに問題を抱えている人が多い。どうしてなのだろう。採用担当が適当なのだろうか。まあいいや、それで困るのは店長だしと、割り切ってをつくねを半分に割って口に運ぶ。塩辛く、味気ないなーって思った。


 それより、鑓水とバイトの話で盛り上がっていたら、忌憚のない視線に曝されていた。確かに置いてけぼりにしたことは、こちらに非があるけれど、しかし少しぐらいは許容してくれてもいいじゃないかって思う。二年生になってからずっと、鏡花に縛り付けられてる。それを彼女が垂涎してるのなら、できる限り縛られたいけど、でも際限なくやられると…………言いたくないけど多少めんどくさくなってきて、だからと言ってこの場で無視を決め込む質じゃないので、脚をスライドさせて体の向きをわかりやすく動かした。


「あっ、このポテトサラダ、美味しい」

「おー、それはよかですねー」


 鏡花の機微に反応した私の機微に反応して、すかさず適当な話題を振りかざしてくる。そして、弁当箱に添えていたほうの手をぎゅっと握って、歓喜を噛み締めるのであった。


「ゴマがいい風味を醸してるな、この唐揚げ」

「おー、それもよかですねぇ」


 闘志を燃やしている鏡花とは対照的に、鑓水は極めて清らかな心持ちでご飯を食べている。発言内容に大差はないけど、座り振る舞いが、鏡花みたいに浮ついてない。なんて鑓水の肩を持ったら、それを見透かしたように鏡花が春巻きを持ち上げて見せびらかす。


「あっあと、この春巻きも美味しいよっ」

「春だからねー」

「ん?これ、何を揚げたやつなのか分かんねー」

「自分で作ればわかるようになるよ」

「最近睡眠時間が足りなくてね。とても早起きできる気がしない」

「あっその、……ねぇ平島さん。私にだけ、適当に返してるでしょっ」

「えぇー、それは被害妄想」


 私が鑓水に目をやっただけでこの言われようだ……。私が鏡花の必要なものをほとんど備えていて、彼女の人間関係をほぼ全て手中に収められているというのは、理想的な状態だと思っていたんだけど、それに付随して苦労も絶えない。


「……ん?どうかした?」

「別に、いいけっさぁ……」


 そして私が首を若干回して、覗き込むように意識を向けてみると、愉悦を通り越してしおらしくなってしまう。一瞬だけ目を逸らして、首をぶんぶん振って、誤魔化すように白米をかき込んでいた。その光景もちゃんと目に留めておかないと、また拗ねちゃうから目が離せない。すまんなぁ、鑓水。



 消化不良……、いつもに比べておかずの油気が多かったから。いや、そういうんじゃない。さっきの縁佳は鑓水って人ばかり見てて、私の知らないバイトのことで盛り上がってて、思い僻めているだけだと分かってるのに、留まるところを知らない。


 適当にあしらってくれてもいい。ただ私に意識を向けてくれるだけで嬉しいから。でも逆に、いつもそうしてくれないと呼吸と思考が乱れる。だって、私は縁佳にとって何者でもない。バイト先で繋がってるとか、部活で繋がってるとか、古き縁で結ばれてるわけでもなくて……チョコレートを食べさせてもらったけど、結局それまでで。だから可能な限り集める必要があるんだ、それが薄氷のように重ねる前に溶けるような紐帯でも。


 とか反省会を敢行していたら、前後左右からガタガタっと音が鳴って影に包まれる。あぁ、授業が終わったのか。遅ればせながら、どうでもいいので元気よく立ち上がる。ついいだいてしまう隠したい感情の正体も、私たちの関係もあやふやだけど、縁佳の教室に足を運ぶ目的は明白だから。私たちを定義するために、あまねく瞬間を大切に過ごさないといけない。春の暖気と眠気が混ざる教室を、一番に飛び出し……廊下側の人のほうが有利だった。


 まあ、自分の行動を正当化してみたものの、どこまで追求しても結局は私の勝手な願いでしかない。他の誰かに絆されて、私から離れていくのが怖くて。刑部しか見てなかったあの時の縁佳が、もう一度戻ってきたらと思うと…………その芽を摘みたくなる。


 自分の教室から縁佳のクラスまで、廊下のどこを歩くかということに至るまで、もう大体定まっている。いつもと同じ道筋で縁佳のいる教室に辿り着いて、授業が終わるのをドアの横に寄りかかって待機して、ドアが開いたら縁佳を目で追いかける。その過程で心と表情を程よく溶かす。


「うむむ、うーむ」

「えっ、かか顔に何か付いてる?」

「いやぁー、別にぃー?」


 何かある時の面持ちだった。さすがに、私だって縁佳を一年間も見てるわけだし、それは通じない。


「言って」

「えぇー。泣いてるのかなーって。一人じゃ寂しい?」


 縁佳は小馬鹿にしたような感じで、吹き出しそうになりながらそんな風に私を見ていた。


「はっ、そんなわけないないっ!ば、馬鹿にしないでよ。私だって立派な……立派な高校生なんだから!」


 縁佳の揶揄いはなかなか心臓に悪い。でも縁佳だから許される。それに、あまりにもくだらない。けど、縁佳が笑ってくれるのなら、それは私にとっても本望だ。念のため目は擦ってみる。ふぅー、あともう一擦り……。


「花粉症って大変だよねー」

「はあーー。中学生までは平気だったんだけど」

「私も多少は来てて……」


 縁佳が口元を両手で覆う。その直後、ひよこが囀るようなかわいらしいくしゃみが続く。「くしゅん」というよりは「くちゅん」の方が正しいか……?突然のことだったので、どっちか判定できない。だけど白黒つけなきゃいけない。


「もっかい、もう一回やって」

「……はい?」

「くしゃみ」

「無理だから」


 鼻に手を添えながら、冗談めかされずに袖にされた。


「逆に、島袋さんのくしゃみを見てみたい」

「はっ恥ずかしいけど、見せてもらったしな……いいよ」

「え?あっいや、えぇ?」


 くしゃみの前の予備動作を繰り返してみる。形から入るのは大切だ。目を半開きにして空気を鼻と口から吸って、それを勢いよく吐き出すという動作を、何度かやってみた。よく溜めてみたり、気持ちを籠めてみたりしたけど、赤べこみたいになっただけだった。


「私の花粉症は目からみたい」

「ふふっ、そうだね」


 縁佳が包み隠さず打ち笑む。別に気を遣ってるとかそういう感じではなく、素直で素朴で心を掴まれる。静心なく花が咲く。でもちょっと取り繕ってしまう。いちいち反応してたら心臓が保たないし、私だって縁佳みたいに余裕綽々になりたいし。


「そんなに面白い?」

「ん?私はかわいいと思うよ、何でも命懸けな、そういう所。嫌う人も多いだろうけどさ」


 ダメだ、言葉が出ない。


「顔、赤くなってる」

「はふっ、そそっそんな、そんな!?」

「ような気がするだけ」


 思わず手近な髪を両手で握って、唇を噛み締めていた。自分を痛めつけて、ユーフォリアとバランスを取ってしまう。


「うん……。ありがとう」

「おぉ、感謝するところではないけど、どういたしました」


 まだ時間があるから何を話そうか、命の危険でもないのに脳みそをフル回転させていたら、縁佳が教室の真ん中辺りにいる人に呼ばれて振り返った。


「ねぇよっすー、ちょっと来てー」

「んー?どうした露崎」

「宿題の答え、これで合ってるか激々論してるんだけどー」

「え?分かった、今行くからーっ」


 あの人とは最近特に親しげにしている。元から友達で、今回運よく同じクラスになれて、顔を合わせる機会が増えて、それに伴って自然と交流が増えて……。それより、縁佳がそっちに吸引されそうになっているんだった。どっどうにか、引き留めないと。私が会えるのはこの十分間の短い休み時間だけなんだから、この時間は誰にも邪魔させたくない。


「……いいっすか?」


 縁佳は何でもお見通しで。私が慰留させたがってるのに対し、機先を制すように目を合わせてくる。


「ダメって言ったら」

「めっちゃ困る」

「平島さんが……困る……」

「発表するの私だから。答えが間違ってたら不勉強だと思われるじゃない」

「ん……、わかった」


 縁佳を困らせるのは私の本望じゃないし、いや既に迷惑かけまくってる気もするけど、本当に辞めてほしいことはきちんと言動にする人なので、さすがに引き下がることにした。…………誠に不本意ながら。


 私が縁佳の胸辺りを見ながら、名残惜しそうに可惜夜が終わるようによろめくように、一歩後ろに下がると、「ねぇ」って呼び止められる。慌てて見上げると、縁佳は微かににやにやしていた。


「なんか爪痕残さなくていいの?」


 爪痕って……。引っかこうか?なんてジョークにならないし面白くないし猫じゃないし。じゃあ比喩なんだろうけど、えーっと、はいはい、つまり縁佳が求めているのは……。


「おおっお茶しましょう!」


 自分の願いが滑り出てきた。


「おぉすごい勢い」

「放課後、暇ですか……?」

「それを後から聞くんかい。まあ、いいよ」


 小馬鹿にされてるのか、引いてるのか、やれやれと辟易しているのか、はたまた心が温まっているのか、その作り物の笑顔にはどんな意味が込められてるのか知り得ないけど、それでも正解を引けたとは自負できる。ので、六時間目も乗り切れそう、だった。緊張が解けた反動で、しこたま寝た。



 目の前の少女が、一言で端的に簡潔に表現するならば、季節限定のパフェを頬張っている。艶やかないちごがたんまり刺さって、アイスと生クリームが混ざり合って、多様な色と味と食感を醸しているのだろう。そして何より、幸せの極致に至っているであろう恍惚とした表情、それを出会ってからの累計で何十回も見せつけられると、さすがに美味しいんじゃないかって気もしてくる……が、騙されてはならない。


 さっき、スプーンで少量のクリームを掬って口にしたら、高校生にもなったのに、ファミレスでのたうち回りたくなった。でもそのおかげでコーヒーが進む。飲んで、飲みまくって、ドリンクバーの元を取るんだ。


 静かに見守っていたら、あっという間にパフェは飲み干されて、気が付くと少女は淑やかに紙で口元を拭いていた。そして水を飲み干すと、長椅子の背もたれに体重を乗せて、胃袋をいたわっていた。


「ぷふぅー。いい気分だあー……。んぬ、なんかおかしい事でもあった?」


 微笑みながら視線を浴びせていると、すぐに察知される。常に警戒している、いやむしろ意識的に私の視線を探しているような感じである。鏡花はいつも肩肘張って疲れないのだろうか。


「おかしいよ、色々」

「そそそっそうなのっ、直しますからっ、えっと、嫌いにならないで……」

「そういうんじゃないんだけど……」


 鏡花は不安に見舞われると、すぐにその長い髪を掴み始める。もはやそのために伸ばしているんじゃないかって思えてきた。髪の毛を手でべたべた触るのは良くなさそうだけど、でも鏡花ほどふんわりした質感なら、ライナスの毛布になり得るのかもしれない。


「こ、言葉を濁すほどの悪癖……。思い当たる節は、ぐあっ、いっぱいあるかも……」

「これはただの疑問というか、理由を教えてくれれば、それだけできっと溜飲が下がるんだけど。私といることって、島袋さんにとってそんなに魅力的なことかな」


 言葉尻を笑って取り繕いながら、頭の中で好奇心に負けた自分を恨みながら、でも白黒つけておくことが双方のメリットになると言い聞かせた。


「友達、平島さんぐらいしかいなくて。それで、友達といるとさ、気持ちが昂るというか、満たされた気がするというか……」


 ちらちらこちらの様子をうかがいながら、鏡花はか細い声で呟く。


「うぅーむ、別の人ではダメで、私からしか得られない栄養素でもあるの……?」


 しかしこれって、暗に他の友達を作れって言ってるようなものだよなぁ。パンが無ければケーキを食べればいいじゃない、生活が苦しいのは努力が足りない、そういう持てる者の誤謬を、私も振りかざさざるを得なくなるとはね……。


 心無いことを言ってしまったなーと反省する私を気にすることも、顔をしかめることもせず、鏡花は私のいい所を滔々と語り始めた。その強かさがあって、どうしてそんなに私を求めるのか、余計にこんがらがってきた。


「だって、平島さんは私のこと何でもわかってて、望む通りにしてくれて、希望と機会をくれて、困難に立ち向かおうとする姿はかっこよくて、自信をもって憧れられて」

「褒めてくれるのは嬉しいけど。他にも気が合う人もいるかもしれないわけで、ね?」

「んと、もっもしかして……私って邪魔だったり、するのかな」

「おーっと、そういうんじゃないない。……ないから、落ち込まないでよ」


 ストローをくわえて、お茶を濁そうとしてみる。顔に感情が全部書かれているのも困ったものだ。解釈の余地がなければ言い訳の余地がない。


「自分でもわかってるんだけど、でも立ち止まれないんだ。なんか、クラスが別になったことをきっかけに、私たちの縁が切れてしまうみたいで。いつだって傍にいるように錯覚してたけど、それは幻影で理想でしかなくて、頑張らなきゃきっと、すぐ疎遠になっちゃうんじゃないかな……」


 私と刑部の出来事を、鏡花なりに咀嚼した結果がそれかと、なんか腑に落ちた。結局、似た者同士なのかもしれない。今持ってる関係を、絶対に切りたくないという気概、これが私たちの数少ない共通点。そんなことでも、気付いたら鏡花はとても小躍りしそうなものだ。


「だから、平島さんといっぱいお喋りしたいし、いっぱい遊びたい。迷惑で、付き合いきれないって言うなら、その時は、どうしよう」

「私は、結構そっちのことを信頼しててね。息を吹きかけたり手で仰ぐぐらいで、疎遠になったりしないと思うんだ」

「じゃあ、消えるとしたら」

「消えるとしたら…………島袋さんが私を必要としなくなったら?」

「そんな日は永遠に来ないよ。平島さんみたいに要領よくないし」

「私も、長い付き合いになる気がしてる。だからその、そんなに逸らないで」


 私の言葉に、鏡花は一面に広がる菜の花畑に向けるように目を見張った。私は眩しすぎる太陽でもなく、もっと眺めていたいと思える存在なのだろう。伝えたいことが伝わってなさそうだけど、それでも私は、鏡花がそうやってキラキラした視線を向けてくれるから、きっと心の底から笑えている。鏡花に求められる度に、生きる意味さえ見出せる。確かに、こんな時間は心地いいのかもしれない。ちょっと鏡花の心情を、自分のものとして感じることができた。


 空いてるし、もう少しドリンクバーだけで粘ることにしよう。えーっと、何を話すか……。

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