5-8
ジャングルの中に整備された遊歩道を、縁佳の熱くてほのかに汗ばんだ背中をさすりながら、のっそりと歩く。さすれば、縁佳の体調も良くなることだろう。どうせ夜にもう一度さすることになるんだけど。背中を流すという意味で。
「車酔いなんて珍しい……」
「横向いて鏡花の顔ばかり観察してたから……。たまには遠くの山を見ないとね」
「むぅ……、抜けてるとこあるのは知ってるけど、これはさぁ」
「運転してる人は酔わなくていいよねー」
「こっちはよそ見できないから、ずっと我慢してたのにこの始末だよ!」
「でも、弱ってて頼りない私も、鏡花は好きでしょ?」
「はふっ!?」
吐き気を抑えようと力む姿とか、こめかみを祈りのように指の関節で押し込む姿とか、私の手の動きに合わせて呼吸が整っていく姿とか、何だか普段より艶やかに思えて、鳥居をくぐった事とかどうでもいいぐらい興奮してるなんて、そんなことは断じて無い。人の不幸を喜ぶなんて最低なことだ。
「……涙目の縁佳、すごい破壊力がある」
「はへぇ、どう受け取ればいいのよ、それ」
まあでも、血色いい縁佳のほうが見てて安心する。普段はこっちでいてほしい。ずっと健康でいてくれますように……なんて、すごく大人っぽいことを願ってみる。
軽い上り坂を超えると、木々が減って景色が開けて、潮風が縁佳の髪をなびかせる。右手側には手すりを超えた先に断崖と蒼海が、左手側にはソフトクリームだったら大きめな灯台が鎮座していた。自然が私たちのわくわく感に応えてくれたような、そういう光景だった。
「うおー、凄いねこれは」
「うん、想像してたよりも……牧歌的?」
「もうさすらなくて大丈夫だよ。これを見たら復活した」
ということは、海と風のほうが、私なんかよりもずっと縁佳の心に深く沁み入ってるってことだよね?それは許せない、今すぐにでも雷神に連絡してやる……前に、皮膚を削る勢いでさすって、縁佳に反省を促してみる。
「鏡花……?目が怖いし、ちょっと服ぐちゃぐちゃになるからっ」
「早く先端まで行こっ」
すれ違うのも大変な広さの遊歩道を、縁佳の手を引いて、私が先導して下る。私がいてこそなんだって事を、ここで知らしめてやる……こととこれに何の関係もない。引っ張って生きたいから、縁佳の手を握りたいから、そうしてるだけだった。
縁佳が握り返してきた。それを合図に、剥き出しの岩壁に沿うように設置された階段を、年不相応に二人で駆け降りる。旅行で完全に浮足立っている。どちらかが足を踏み外したら、二人まとめて海に落ちるけど、私たちはそう生きていくと決めたんだから、特に問題はなかった。
徐々に岩肌が剥き出しになって歩きにくくなるも、猪突猛進のジャイロ効果で岬の先端に辿り着いた。他に観光客はいなくて、荒々しい岩場と潮騒と共に砕ける白波が独占できる。でも、車の中では青霄を拝めたんだけど、いつの間にか気まぐれな綿雲が集まってきて、気が付くと私たちは影の中にいた。もうちょっと飛ばしてくれば良かったかもしれない。まあそんな空も、翼を広げたウミネコが画角に入れば様になる。
「ふぅー、行くとこまで行っちゃった感じするねぇ」
縁佳は地平線に興味がおありのようだった。私も、深呼吸して体の中身を入れ替えてから、縁佳と同じものを目に焼き付ける。縁佳と同じ物に触れて、同じ風に吹かれて、温もりを共有できて、幸福がこんなに簡単なものでいいのだろうか。うむ、幸福を簡単にするのは、本人の心の持ちようが要だ。縁佳自身が、自分を大切にしてくれる人を忘れないでいてくれたから……それって私のことなんだよなっ。照れくさくなってきた、体温が上がってきた、手汗が上ってきた。
「まだまだ、序の口だよ」
「序の口とな」
「神社とか灯台とか、人工物があるし」
「本当に、世界の果てに行きたいの?」
「え?んー、どうかなぁ」
「私は、鏡花と訪れてみたいけどなっ。今日ここに来て、もっと先が知りたくなった」
作り物の添加物と本心が半分ずつ調合された微笑みを投げかけられて、通常通り私は心を鷲掴みにされる。
「はっ、極地って食べ物少なそうだから、やっぱいいや」
「鏡花がそう言うのなら、無理には行かないけど、カップ麺いっぱい持っていけば何とかなるんじゃない」
「別に、どこに居たって、縁佳の全部は私のものだし、私の全部は縁佳に捧げられるから」
「怖くなったりしないの?」
「うん。ここまで来るのに、途方もない星霜を重ねて、その間に流した涙で、嘘は残らず流れてしまったから……?」
なんて流暢に詩的なことを言ってしまったんだ恥ずかしい。しかもまるで縁佳を責めているみたいだし、最悪な語り草だ。悟られないことは無いんだけど、精一杯の抵抗を見せていると、縁佳が指を絡めて力を籠めて握ってくる。
「鏡花が絶対に変わらないから、私は諸手を挙げて、あなたのことを好きでいられるのよー」
「すぅふぅ……」
「ん、どうしたの?」
「辞めようよ、こういう話、残機がいくらあっても足りないー!」
「やっ辞めようって、そんなこと言われたら、こっちも恥ずかしくなってくるじゃん!鏡花のばかっ」
お互い手を放そうとして、でも相手が放そうとしたら、逃げられないように追いかけて、そのうち腕が絡まって、最後には素直に寄りかかっていた。縁佳のペースに抱擁されて、こっちもまた包み返すような、そういう時間が続く。
それでもまだまだ足りない。もっと固い縁で結ばれたい。私は、そこの祠に祀られているであろう神様に、こっそり欲深く願った。でもって、縁佳のこの無言の間は、そういう事なんだろうな。
もちろんここが人生の終着点というわけでもなくて、その後は近くの、岩に食われそうな神社を参詣したり、香り高い蕎麦に舌鼓を打ったり、我慢できなくてラーメン屋にも入ったり、好きな色が更新されそうな熱帯植物を鑑賞したり、夕焼けに浸る砂浜を二人で歩いてみたり、充実した一日となった。その分、畳の引力にも抗えないほど、くたびれているのだけど。
「お疲れ様、一日中運転して疲れた?」
「ふふへぇ……」
荷物をその辺に投げ置いて、仰向けに寝そべっていたら、縁佳が脇に座って上から覗き込んできた。その髪をかき上げる所作に、思わず顔が溶ける。生きた心地が消える。そんな私の惚けた姿を見て、縁佳の表情も隙だらけになる。
「よすがぁー」
「はい、名前を呼んだだけでしょうか?」
「違う違う。ご飯は何時から!」
「七時から」
「はふーん、お腹すいて死にそうー」
「何、はふーんって」
縁佳の笑いのツボを刺激しても、足をバタバタさせても、時間はちっとも進んでくれない。むしろ空腹という病が余計に進行した。
縁佳の前向きな提案により、先に温泉に入ることにした。何度か二人で旅行はしてるけど、縁佳は温泉のことになると、目と頬の色をほんのり変える。私と一緒にいる時間だけじゃなくて、温泉そのものに魅力を見出しているんだろう。でもそれでも、温泉に入って蕩けるように癒されて、最後に自分の肌の感触を確かめてにこやかにする、そんな縁佳が私は大好きだ。
「縁佳、背中洗うよ」
「ふふっ、やりたいだけでしょ。どうぞー」
確かに、意図せずかっこ付けた感じになってしまったとは言え、縁佳だってくすくす笑える立場にないはずなのだ。この間は逆にそっちが話を持ち掛けてきて、つまりどっちかが必ず提案してしまうので、毎度背中を流し合っているってわけ。
「あの、島袋さーん」
「んへっ、へっへっ、変なことはしてないよ!?」
「ほっぺたを私の背中にくっ付けることの、どこに弁明の余地があるのさ?」
だって、唯一の先客が露天風呂に向かっていったし、つるつるだしすべすべだし。でもでも本当は泡まみれにする前に、一旦鑑賞したい。髪をまとめ上げてヒガンバナみたいになってる所とか、地味に好きだったりするし。要はかなり己を律している。
「じゃあさっ、私に対しても邪な気持ちいだかないでよっ」
「えぇー、それは不可抗力よ」
「むぅー」
泡とか気にせずもう一回、縁佳の背中を感じておいた。こっちからでも心音が聞こえたりする。確かにうねり上げている。
それで縁佳の背中を綺麗にしたら、今度は自分の背中も流してもらう。縁佳は器用なので、皮膚を傷付けない範囲で、気持ちのいい力加減で洗ってくれる。それと比べれば、私の洗い方はあまりにも完成度が低いけど、人には向き不向きがあるわけで、他の所で挽回すればいいやーと、開き直っている。
「ぴとっ」
「縁佳?何してるの……?」
「背中の感触を確かめております」
「だからむずむずするんだって!」
「だから!こっちの気持ちも考えて!こんなに小さくて可憐な背中を前に!邪にならないわけないだろ!!」
「ぐぬぬぬぬ、許す……」
「やったぁー」
この大浴場が貸し切り状態なのをいいことに、縁佳は頬ずりしたり、挙句の果てに背中にキスまでしてきた。さすがに風呂桶のお湯をぶっかけてやった。
室内の湯船も楽しんだところで、せっかくなので露天風呂を堪能することにした。引き戸を開けると、そのままでは涼しい春の夜風に吹かれる。湯船に浸かると、吸い込んだ空気が体内を巡りながら温泉の熱と混ざり合って、ちょうどいい塩梅になる。露天風呂の魅力を味わえている気がする。
「ふはぁー……、癒されるわぁー」
縁佳も私の真横に腰を下ろして、足を延ばして視覚を遮って、日頃の煩慮を溜息と一緒に吐き出していた。押したり引いたりなぞったりしたくなる顔を、無防備に晒している。心の底から好きなものを見つけられたことの証左で、私の心も温まるような場面なはずなのに、水滴ごときに嫉妬を覚えた。縁佳の顔を勝手に動き回れて羨ましい。いやいや共存しよう、縁佳の襟足からしたたる水滴を、両手を構えて集めたい……。
「朝風呂もいいな」
「あう……起こしてよ……?」
「鏡花って朝に弱いよねぇ」
家事担当大臣としてそれは致命的なんだけど、はい、返す言葉もございません。
「最近、私までそれに影響されてきて……」
「いっいいことだよ、うん。眠りが深くなって、体を休められてるってことだし」
「なのかな。うーん、ぐでぇーーん」
「わっ、なになに」
「何でもあるよーんだ……」
首に頭を乗せて、火照ってほんのり赤らんだ皮膚を密着させてくる。横並べることなんてそうそう無いから、この時間はとても貴重だった。
「もし家を建てるとしたらさ、でっかいお風呂が欲しいね」
「毎日一緒に入るってこと?」
「私が帰ってくるまで待ってて」
「それはもちろん」
湯気が幻想的に見えてきた。お湯がたらたら流れてくる音が、また心地いい。一生のぼせないでいられたらいいのに。縁佳と温泉に入ってる時間が世界で一番幸せだ。
で、縁佳とご飯を食べている時間が世界で一番幸せなのである。このホテルの夕食はバイキング形式で、数十品の料理が並んでいる。でも、一つ一つの料理が豪華で、金目鯛の煮付けとか、光り輝くお刺身とか、その場で焼いて食べられる貝とか、やっぱり、天国にも海があってほしい。まずは片っ端からテーブルに持ってきた。金網の上にあわびとかはまぐりとかを載せて、その間に金目鯛の煮付けを頬張る。
「うまぁーっ」
箸が止まらない。興奮しすぎて足がバタバタしてしまう。そんな私を、縁佳は絶え間なく微笑んで、面白がっている。
「鏡花」
「ん?」
「一生懸命食べてて、かわいいよっ」
「今褒めても、ほんっとに何も出ないから。うひょーいっ、はまぐり焼けたぁーっ」
見事に貝殻が開いて、中の肉厚な身が露わになる。その周りで出汁がぐつぐつと煮立っていた。トングで掴んで醤油を垂らして、あとは一口。
「私、ご飯には勝てないんだよねぇ」
「ごめんって……」
「いやいや、そこが好きなんだよ。夢中になって、周りが見えなくなるところ。その対象が私だと、めっちゃ嬉しいけどさ」
そう弁明しているけど、ご飯を食べながらでも私は見逃さなかった。縁佳は本当に、ご飯に勝てないことを嘆いている。変だなぁとか、気にしすぎだとか声を掛けたいところだが、そう言えば私は風とか海に嫉妬してた。似た者同士である。
「それって褒めてる?」
「褒めても何も出ないらしいから、けなしてる」
「後でいっぱい出すから我慢して!」
「何を出すのさ」
「うぬ?何だろう、欲?」
「ここで出し切りなさい」
「怒られない程度に食べ放題してくるー」
まあ怒られたことは一度もないんだけど。私は平らげられた皿を持って、急いでおかわりをよそってくる。私の姿を眺めたくて、長めに咀嚼している縁佳を横目に、遠慮なく縁佳の分も元を取る勢いで、全てを食らい尽くした。支配人らしきおじさんに微笑まれた。
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