5-7

 今日の鑓水は鼻歌でも歌っちゃいそうな雰囲気で、幼稚園の先生がピアノを弾いている時みたいに、絶えず左右に揺れている。わたしの部屋のベッドの上で、片方の膝を両腕で抱えながら、儚げな顔して佇んでいる。


「鑓水ー、なに聞いてるのー?」


 暇過ぎてひまし油になりそうだったので、わたしもベッドの上に飛び乗る。予期せぬ縦揺れに、鑓水の目は大きく見開いて、右耳のイヤホンを外した。


「ラジオ。父親のゴミ箱に入ってて、もったいないから使ってあげることにした」

「うおー、すげー」


 イヤホンの線を辿った先には、文字は霞んで、若干黄ばんだラジオ本体があった。初めてお目にかかるけど懐かしい。勝手に周波数をスライドさせたくなったけど、ここは我慢我慢。


「お互い、要らないものを引き取り合ってるから、あの家から物がなくならないんだよね~」

「だいぶ整理整頓されてたと思うけど」

「あれは押し入れに全部突っ込んでただけ。安栗もそうでしょ?」

「なっ、なんで分かったんだっ」

「根本が無精者の性分だから。髪とかドライヤーで乾かさなそう」

「さすがに乾かすけど……。まあいいや、ちょっと貸してー」


 イヤホンの片方を鑓水の耳から外して、自分の耳にはめる。


「さて、続いてのお便りです。ラジオネーム二つ目の太陽さんから。私の、啓蟄に聞きたい別れの曲は平成レトロラピッドです。私はこの時期が誕生日なのですが、年を取るにつれて関係が懇ろな人との別れが増えていきますよね。この曲を聴くと、そんな抗えない牽衣頓足に少しばかり潔くなれます。リリースされたあの頃はまだ若かったもので、曲調の新鮮さにばかり耳を傾けてしまいましたが、今となってはいいこと言ってるなぁって思います。とのことですけども……」

「いやーなるほど。なるほどなるほど、なるほど」

「本当にわかってます?」

「いやいやいや、わかってますよ。あのね、最近、私が本気でぼけてるって思ってる人いるんだけどね、これそういう芸風ですから。本当にいい曲に、これ以上言葉は要らないんですよ、はい」

「そうですか、それでは行きましょう、平成レトロラピッド」


 ざらざらぱりぱりとした音質で、これがレトロという物か、と感心した。今の時代、イヤホンは無線が当たり前で、ラジオ以前にイヤホンジャックすら長らく目にしてなかった。こういうのに興趣を発見するのも悪くないな、わたしはやらないけど。


「こういうのもいいね、乙なもんだー」

「お前、時代を感じさせる物、全部にそう言うだろ。壊れかけたラジオ、煤けた大衆酒場、巣掻かれたバブルの遺産」

「流行ってるよねっ」

「うむむ、家のスピーカーで聞くほうがいいな。はい、おしまい」


 鑓水は曲の途中なのに、イヤホンを外して電源も切ってしまった。話題としてうってつけだったのに。しかも、それで退屈そうに天井を見上げてるし。


「暖房の温度、少し上げていい?」

「いいよー」


 鑓水はリモコンを手に取ると、温度を調節するだけじゃなくて、よく分からないモードを付けたり消したりした。暇なんだなぁ。


「ねぇー鑓水ー」

「どうした?暖房切って涼しくしても、お前の頭は冴えないよ」

「暇やー鑓水ー」

「やー暇やー安栗ー」

「んっ?」

「どうした首を捻って。もっと捻ってほしいの?」


 ただの疑問、ささやかな疑問、テストには絶対出ない疑問、解き明かしたくて。


「鑓水って、名前何」

「……嘘でしょ安栗、これから気兼ねなく見下げられるじゃん。野生動物でも生存に必要なことぐらいは覚えてるのに」


 鑓水が延ばした片足がわたしの膝を小突く。顔を上げて見れば、腕を組んで睨み付けて、やたら饒舌に話していた。


「あいや、沢庵の庵に憩室の憩でこいだったことは覚えてるんだけどね?」

「覚えてるじゃん。忘れやすい名前なのに」


 そう言いながら、さっき延ばした足を撤収させて、再び片膝を立てる姿勢に戻った。


「普段、名前で呼ばないから自信がなかった。間違えて認識してたら、それはそれで失礼かなーって」

「ちなみに、私は自信持って言えるけどね、美鈴みすずでしょ」

「あれ、名乗ったことあったっけ?」

「えっ、そりゃあねえ、友達の名前だし、念のため把握しとこーって、なるでしょ、なるなる、なるから」

「ほむー。そうだ、たまには名前で呼び合ってみようよ」

「いいよ。おい美鈴、お菓子持ってこい」

「ははぁー、かしこまりましたーっ」


 わたしがキッチンからお菓子をポテトチップスでも持ってこようと立ち上がったら、鑓水がまた足で小突いてきた。


「あの、名前で呼ぶって話は?」

「あっ、庵憩ー」

「なんだよ」

「え、呼んだ」

「お腹すいたから早く取ってきてくれー」

「かしこまりましたー」


 コンソメ味を取ってきて、袋を背開きして床に置く。それを二人で囲み、ポテチをつまみながら、その後も名前で呼び合ってみようとしたのだけど、話題がなければ醜い言い争いの末路みたいになるだけだった。マクドナルドの略称は、マックだね、いいやマクドだ、マック、マクド、……って無限ループと同じだ。


 そう言えば、鑓水はポテチを箸で食べる。最初にそれを告白された時は、そんなまめな人、存在したんだと驚愕したものである。だからと言って、ゆっくり三十回噛んで食べるわけでもなく、そこそこのペースで箸を動かすので、その光景はさながら食事しているみたいだった。まあ、アメリカ人は普通にスナック菓子を食事に取り込んでるし、かっこ付けてるんだろう。


「そういや安栗、あげたチョコレートはもう食べ切った?」


 鑓水が正座を崩しながら、そんな事を聞いてくる。


「もちろん!一日で食べちゃったよ!」

「そんな気軽に食うものじゃなかっただろふざけんなっ」


 そうそう、バレンタインと言えば、わたしも奮発したのに、それを軽々と越えられた。遠慮せずに、大げさなほど贅沢なやつを選べばよかったな。


「友チョコってもっとカジュアルな物じゃないの?」

「こっちとしては、こうやっておやつも出してもらって、たまに夕飯も頂いちゃって、そのお礼がしたかったくてさ。それで父親に相談して、海外から取り寄せたの」

「ふーん。その気持ちだけでも嬉しいけど」

「値段が高くても、満足度ってあんまり変わんないな」

「そうだねー」


 ポテチでも十分満足できるなぁ。と、ベッドに肘を突いて、重た~い頭を支えながら食べていたら、一袋なんてあっという間になくなってしまう。二人で食べてるしね、いや、一人でも物足りないかも?


「ちなみに、わたしの家に通うようになってから太ってない?」

「お、安栗は自制心が負けて私に釣られて、結構膨れ上がってるってこと?」


 鑓水は薄ら笑いを浮かべた。しかし期待されても知らんのである。そんな頻繁に測って一喜一憂してないし、健康診断の時の体重すら覚えてない。そう答えたら、鑓水がおもむろに腕立て伏せを始めた。


「できるの?」

「できるわボケ」

「不安だよ。そんな細い腕で体を支えられる?手伝ってあげようか?」

「三枚おろしにしてから八つ裂きにするぞ」


 こっちの心配とは裏腹に、鰐ぐらい深く沈み込んだ腕立てを披露してくれた。それに触発されたので、わたしもやることにしよう。


「そんな雑な腕立てで、上級生とかコーチからしごかれないの?」

「うぐぅ、鑓水と違って体が重いの……ぐあぁっ」


 きつい、全然部活に出てないのもあって、体がなまってる。


「ふんぐっ、ほあっ、ぬぐあーっ」

「音声だけ聞いたら凄いことしてるって勘違いしそう……」

「ダメだー」


 腕の力が抜けて、床にうつ伏せになってしまった。自分の部屋は自分を癒すためにあるのであって、運動するべきじゃない。こうやって、怠惰になるのが正しいんだー……。


「まさか、鑓水に負けるとは……」

「安栗が見くびってるほど軟弱じゃないから」

「でもでもーっ、押し合いっこじゃ負けてたじゃーん!」


 あっでも、結局鑓水の言う通り、部活に顔を出してしまったし、負けたのはわたしだったかもしれない。


 なんか悔しくて手足をばたばたさせてみたけど、鑓水は勝ち誇った顔で、ベッドに足を組んで座っている。今にも踏み付けてきそうで、そんな状態で踏みとどまっている。


「パワーじゃ負けるよ。身長で勝ち誇ってるのと同じ次元だからね?それ」

「どうしたら体力つくかな」

「部活にちゃんと行くとか……」

「言うは易く行うは難しって言葉があるじゃないー」

「それを錦の御旗にしてる時点で、体力は落ちる一方だよっ」


 鑓水はそのまま上半身を倒して嘆息した。はふー、わたしも息を吐いたら関節がフローリングに殴られて痛いことに気付いたので、ベッドの上に散乱しているぬいぐるみを一つ手に取ってから、鑓水の頭の隣に座った。


「なー、どうして部活辞めないんだ?志があるわけでも、体を動かすのが好きなわけでもないのに」


 鑓水の黒目が上を向いた。ぬいぐるみを強く抱きしめ、耳を押し当てて答えを聞いてみたけど、特に返事がなかったので、自分の脳漿を絞ってみた。


「うーむ……、プライドがあるから、中途で辞められない」

「自分に守れるプライドが残っていると信じてる人が、一番惨めなんだよ」

「他にもー、人間関係とか上下関係とか、色々あるんだよ」

「部活辞めたら解放されるじゃん」

「それでもっ、わたしは諦めないっ!」

「まあ、それで毎日私を家に呼ばれても困るからなぁ。忘れられない程度には行くんだぞ」


 鑓水がそう言うので、元気よく返事する。明日は練習に参加しようかな、という気にさせられた。鑓水の言葉には魔法がかかっているのかもしれない。


 そんな威勢のいい空返事も、煮え切らない啓蟄の空気に消えていく。わたしたちには、重なる丸なんてない。そのせいで、頻繁に静寂に悩まされている。なら、最初から家に呼ぶなって話だけど、急に呼ばなくなったら、それはそれで不躾かと思って気が引ける。


「うぬー、話すことがないね、安栗」

「そうだね」


 それで、沈黙が続くのはわざわざ来てくれてるのに悪いから……どうしよう。とりあえず、ベッドに載って寝っ転がり、鑓水の視界に映ってみる。


「やあ」

「はい」

「上から見るとわたしたち、太極図だね!」

「……そうだね?」


 徒然を極めすぎて、こんなことでも結構笑ってくれた。口元に手を添えて、顎を布団にうずめて、背中を少しだけ丸めて、息を細切れにして。こっちも何だか普段と違うツボを押されたみたいだった。なんでかな、ネズミみたいって思ったから?

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