5-5
時々、未来を夢見ることがある。そう、夢でしかない。現在が発展して未来になる。現在を使って未来を想像するしかない。現在が変わらなければ、想像できるものも常に一緒だった。実在しないものが見えるばかりで動かせないのは、もはや眠っている時に見る夢と等価にして差し支えないだろう。
刑部がどことなく背中を丸めて遠ざかって行く。引き留めようと近付くこともできず、無力に漫然と名残惜しそうに、一人で帰っていく刑部を見届けるようになってから、何日が経過したことか。
単に直行便がなくなっただけじゃなくて、経由地も徹底して潰している。同じグループの友達も明確に避けるようになった。私を苦しめるために、自らの人間関係まで投げうって。そんなに好意をいだいておいて、鏡花並みの意固地さで私から離れようとするんだから、相手の感情を考えてるだけで感じてないとか、さも図星を突いたように指摘されても、お前の気持ちなんて感じられるかって話だ。
しかし刑部は、私に対して怒りの感情すらもう向けられないんだろうなって、ほら、こんなにも悲嘆に暮れているのに、感情で勘定して追いかけてるのに。
ホームルームが終わって、刑部の帰宅を確認するためだけに廊下に出る。したら、落ち込んで教室に戻る。それくらいしか、彼女との繋がりを保てない。藻掻くのを諦めて、海に沈んで楽になることは決してできない私の宿痾、ここに極まれりって感じだ。
はああ、今日はバイトも休みだし、このまま帰っても暇だ。一旦、自席に座して、喫緊でやらなきゃいけないことが無いか、脳内でスケジュールを整理しようと椅子に手をかけた時、教室の外から呼ばれている明世が、私の横を通り抜ける。
「おあっ、なんだ、がすよじゃないか」
「なんだとはなんだ。失礼ではないか」
そちらがわざわざ立ち止まってきたのに。
「んっ、そうだよ、一緒に来なよ」
「どこに?」
「それは、ひ・み・つ、にするほどでも無いね、うむ」
明世は目をひとたび瞑って頷き、自分の言葉を飲み込んだ。それで質問に答えられた気になって、私をまじまじと見つめてくる。
「じゃあ言えよ」
「あぁ、チョコレートを買いに、高いのを」
「高いの?」
「ここで耳寄りな情報を差し上げよう」
「ほぉ」
「しまちゃんは、ベルギー王室御用達のチョコレートをご所望ですよ」
私を揶揄いたいのか、むかつくドヤ顔に片手を口元で丸めて、ひそひそと通告してきた。そう言えばバレンタインデーはもうすぐだった。刑部に渡すのは、何だか愛を感じてしまうとか、そもそも受け取ってもらえないんじゃないかとか、早々に非現実的だと判断してたのでほとんど意識してなかった。
「島袋さんをお姫様扱いするつもりはないんだけど」
「あーっ、もうっ。酷い奴だな、もっと構ってやれよ、かわいそうでしょ」
「あのねぇ……。そういう状況じゃないのは分かってるよね」
「多分、私には何度輪廻転生してもわからないよ!これまで積み上げてきたものを、空いた穴を埋めるために崩すなんてな」
色々な場所を嗅ぎ回って、事あるごとに寄り添って、やはり世話を焼かれるのは鬱陶しい。私が刑部との友情を取り戻せないとでも、本気で信じていやがるのか?四月からずっと近くにいて、一体何を見てきたの?とか、課題解決能力のない無能だと評価してるの?とか、今の刑部みたいに全ての人間関係を諦められるなら、二年以上前の私だったら、忌憚なく言い返してやっただろうなぁ。円くなったものだ、誰よりも。
「……それで、つまるところ、割り勘で島袋さんに貢ごうって話?」
私は教室の扉の辺りを指さす。そこには安栗と永田と常葉が待機していた。後の二人は鏡花と縁があるし。
「そうだよ。察しはいいのにね」
察しの良さと諦めの良さは別物だと思ったけど、ここで論駁して時間を使うと、永田が廊下で寝っ転がりだしてしまうし、それに鏡花に直接渡さなくて済むので悪くない提案だし、さっさと赴くことにした。しかし、常葉はこんなことに時間を割いていいのだろうか。もう二週間もしない内に、国立の二次試験なのに。まあ、私が気に掛けることでもないか。
「ところで、安栗は関わりあったっけ?」
「無いよ!……あ、でも文化祭でちょっと話したな」
「そんな事もありましたねぇ」
永田が安栗とは対照的な、のっそりとした声で同意する。
「私はそっちと関係なく、ただなーんとなく、吟味したくなっただけ」
露崎ならなもち先輩に渡すんだろうなぁってなるけど、安栗にも春が来たのか?それを一瞬検討してみたけど、そう言えば鑓水が甘い物好きだったな、と妙にすんなり腑に落ちる。
それで、みんなで電車に乗って一駅移動し、街に繰り出す。時期が時期なだけに、ほんのり雪模様の街をただ歩いているだけで、甘い匂いが漂ってくる、気がする。嫌いな物とアレルギーな物ほど、人は鋭敏に反応してしまうのだろう。
しかしこんなのに当てられては、店の前に着いたら息が止まってしまう。いや、息をしているから甘いのではないか。口呼吸に切り替えて、息を大きく吸ってから気付く。冬場は乾燥するのだと。仕方なく鼻呼吸に戻す。意外と気にならない。当たり前か、普通チョコレートは開けるのが面倒なほど、ぐるぐるに包装されてるんだから。
以前も通りかかった例のチョコレート店は、当然の如く繁盛していた。店員も増員して、限定商品も数多く揃えて、在庫が後ろに積み上がってて、気合入ってるなーと思った。
私たちも水たまり程度の人だかりに飛び込んで、ガラスケースの前に広がった。どうしてもよだれが垂れてこない。なんて虚しい人間なのだろう。チョコレートを眺めて、涙が垂れてきた、としてもおかしくない感傷を食らった。
「なるべく、安いのにしよう」
「開幕一言目がそれかい」
永田が明世にツッコまれる。私としては、それで皆が合意していただけると、今日の夕飯に豚のこま切れ肉が加わってくれるので嬉しいんだけど。
「分かってないなぁ~。こういうのはね、一番高いのを渡してぇ、鏡花を困らせてやればいいんだよぉ!」
そう言って、常葉は昂然と三十個入りを指さす。どんな味とか種類が入ってるか確認する前に、値札に目が行く。一万円って……二千五百円も出さねばならないのか、鏡花に、二千五百円、いいけど、さあ。美味しいのはもちろんのこと、鏡花に渡すのなら個数も重要だし。
「一人一箱買って、法外なお返しを請求しよう」
「ねこは張り合わなくていいから……」
「あ、みりんは決めた?」
「うーん、どう見たって決まってないよね」
「おぉ、自分を客観視できて偉い」
安栗は私たちと違って、腰を曲げてかぶりつくようにショーケースを眺めていた。まるで我々が冷やかしみたいじゃないか。
「重いかなぁ」
「鼎が?」
「ぐあっ確かに」
明世の変なボケに、何かを閃かせた安栗なのであった。
「鑓水って、庶民感覚はあるけど軽めのお嬢様だから、こんなのじゃ満足しない……!」
「まぁまぁ、安いのを自信満々に持ってってさぁ、『実際に自分で試食することもせず、有名ブランドだからって理由で選んだのが明け透けですわ!』とか言ってもらおうよぉー」
「ちょっ、鑓水はそんなこと言わない!」
いや、言うだろって、心の中で買ってるペットが吠えている。私見ではない。
「まあ、他の所も検討してからにしよ。あんた達はどうすんの?」
「とりあえず、どれがいいか指さしてみよう」
軽い気持ちで提案したら、四人の気持ちが一致して、期間限定の生チョコに決まってしまった。やっぱり、限定って文字は安牌と読み替えられるのである。
「いいのか!?そんな適当で!」
「責任も四分の一だからぁ」
「ただただ最低な奴だ……」
私が呆れたようなことを言うと、常葉は財布を取り出しながら、えっへへぇーと遠慮なく笑顔になった。鏡花は、なんでこんな人間に心を開けたのか、理解に苦しむ。付き合いの長さかな。でも、長ければいいってものでもない。現在進行形で、刑部との距離が拡大しているように、長すぎれば反りが合わなくなることもある。だからと言って、この不和を時間のせいにはしたくないけど。だって、取り返しがつかないってことになるじゃん。
今日のお弁当は、いつもより白米の量が多かったなぁーと、お腹をさすって感慨に耽る。幸せだー……じゃない、あぁどうしようどうしよう、どうしよう。つま先を丸めたり伸ばしたり、首を直角に曲げて天井を仰いだりして、気を紛らわせる。
先日、校庭の外縁の石畳になってる所に七輪を並べて、約束通り明世と煎餅を焼いた。気にしたことも無かったけど、そういう部活もこの学校にはあるらしくて、そこの部員さんに火を起こしてもらいながら、トングで膨らみかけた煎餅をひっくり返していった。そして焼き立てをつまみ食いして、ハケで醤油を塗りたくって、何日か乾燥させて、ちょっとだけつまみ食いして、明世のアドバイスに従い包装して持ってきた。
しかし、縁佳は相も変わらずメランコリーに現を抜かしている。端的に言えば、刑部にしか興味を持っていない。刑部がそれに応じる可能性が皆無なのは、ずっと観察している私にとっても自明のことだった。二人は手遅れで、明世だってそう伝えてみたって言ってた。縁佳だけが執着して、しかも振り切れてないストーカーもどきなことをして、心配が過ぎ去ったら次にはダサさが来ると思う。
まあそれより、私には醜い欲が湧いたけど。……最初から、あの時二人が揉み合ってる時から、少なくとも二人に確執があるって察してから、その、独占欲的なものが生まれた。だって刑部が離れてくれれば、今までよりもう少しだけ縁佳といられる……ように、何かによって思わされている。私は、そんな悪辣な人間だったのかと、相当落ち込んでもいる。そもそも、なんでそんなことを思うのさ。
いいんだ、このままで。他人を利用するような悪い奴じゃないって言い聞かせられるし、縁佳に邪魔者というレッテルを貼られたくないし。縁佳から遠路遥々来てくれるその日まで、私は待ち続けるんだ。そう日和って、でも煎餅の入った袋を握って未練がましくして、一日が終わりかけた。
「どうぞー」
私が縁佳を見る度に間に挟まってくる人が、通りがかるのかと思いきや目の前に立ち止まって、あろうことかチョコレートらしき箱を差し出してきた。鏡花は驚かないわけなかった。そして、受け取ろうという発想には至らず、左手は背もたれの縁を握ったまま、右手に煎餅の入った袋を握りしめたままにする。青天の霹靂とは正にこの事であると、鏡花は慣用句を思い出して落ち着こうと必死に試みたのであった。天の声が再生された。
「中身はチョコレート。ブラックからホワイトまで。ポケモンじゃないよ」
「そ、そう……」
「ご希望通り、ベルギー王室御用達なんだなー」
「どっどうしてそれを……っ」
明世に聞き出して購入した…………私を喜ばせるために?この人が?
「モロックマがそう主張してたから」
しかし、聞き返しても彼女は飄々としている。よく考えたら、高級チョコレートを贈っているのに、どうしてそんなに感情が希薄なんだ……。
「どう、嬉しい?美味しい?」
「えっあっ、いっ意味わかんないって言うか、自分で食べたらいいんじゃないかなっ」
「んー?んー、悲しむよ」
私が両手を前に突き出して拒むと、彼女は首をかしげて、まるで他人事のようなことを言う。しばらくすると、言葉が足りなかったことに気付いたらしい。
「あ、大事なことを言い忘れてた。半分はよっすーが出したから、実質よっすーからのプレゼントだよー」
「ふへっ!?あ、えっ、そうなの、あっ貰いますありがとうありがとう」
縁佳の仕業と知って、その箱を奪い取っていた。すぐさまカバンの中にしまって、そのカバンを守るように抱きかかえる。
「多分、美味しいよ。いっぱい食べて、大きくなってね」
「う、うん……」
「それと、今しまった袋、よっすーにあげるの?」
ずっと握ってることに今さら気付いて、咄嗟に一緒くたにしまっていた。わざわざ指摘しなくてもいいじゃんって、憤りを覚えた。
「二人はぁー、月と太陽みたいー。あ、もちろんポケモンじゃないよ」
「どういう意味?」
「私が渡してこようか?」
「はっ、それはダメ。……いいよ、日持ちするから」
「そっか。じゃあねー、また明日」
ようやく去っていった。何なのだろう、あの人は。明世とは違うけど、普通ではない感性を持っている。まるで猫のように気まぐれで、所構わず寝っ転がってごろごろしそうな、総じて言うなら、猫のかわいい部分だけを抽出したような人だった。
それは置いておくとして、教室中を見渡す。こんな事をしていたら、縁佳も刑部もいなくなっていた。立ち上がるのを辞め、落胆して顎をカバンのチャックの上に載せていじけた。同じ教室にいても渡せなかったのに、落胆する権利などないのに。
微かな振動が脳を震わせる。スマホの通知だ。さすがに馬鹿みたいだけど、勝手に縁佳だと身構えて、勝手に失望した。
で、何だったかと言うと、明世から課題に使う教科書を家まで届けてほしいと頼まれていた。どうやらインフルエンザになったらしく、そう言えば今日は欠席だったっけ。煎餅を提案してくれたり、一緒に焼いたりしてくれたわけだし、それくらいは請け負うことにした。
久しぶりの電車に乗って、同時に送ってくれた住所を目指す。暇だったから、二度も拝んだ門前から、縁佳の家でも想像してみる。いつかお邪魔させてもらえる日を夢見て、いや、それは案外手が届きそうだと慢心してしまう。だって、縁佳は押せば見返りをくれるだろうし、刑部に邪魔されることだって無いんだし。
なんでそんな意地汚いことを考えてしまうのだろう……。憎んでもいるかもしれない、刑部という、縁佳の悩みの種を。こんな醜悪な感情に操られて、密かに安心しちゃって……。そう思うと、ますます渡さなくて良かったって、自分の判断を賛美してしまう。
明世の家の最寄り駅は、駐輪場があるだけの閑静な住宅街だった。そんな所を長時間歩いていたら、考え事が捗ってしまうけど、幸い明世の家は駅から徒歩一分ほどの地点にあった。まず親が出てきて、物音を聞きつけた明世が、いつものギンガム柄のカチューシャじゃなくてマスクを着けながら階段を下りてくる。赫々とした頬を見るに、恐らく一番辛い時期なんだと思う。そんな時に課題なんてできるのだろうか。
「ちょっとー、あんたは寝てなさいよー」
「寝てたって良くならないんだもーん。それより大事な話をするから、離席してくれたり……?」
「しょうがない子ねぇ。うつす前に早く帰ってもらうのよー」
明世は汗を腕で拭いながら、階段の一段目にへたり込む。難儀な気質だなぁと思った。
「ミケから受け取ってるよね」
「うん。まだ食べてないけど」
「実はちょっとだけ、私も出してるんだー」
「そうなの?ありがとう、絶対おいしく食べるね」
「しまちゃんが不味そうに食べてるところとか、想像できないな」
暗喩的に味音痴って言われてる……わけないよね。
「でー、逆にそっちは渡すものを渡せたかい」
「ん、なんか足りない?」
「そうじゃなくて、がすよにお煎餅は渡せたかなーって」
無表情でも間があったから「そっかー」って察されたらしい。そして、私は言い訳していた。
「でもさでもさっ、私から貰ったってバレたら、刑部もめちゃくちゃ怒ると思うし、わっ渡さないことにした」
「しまちゃんがそう決めたなら、それでもいいけど……」
手すりを握りしめながらゆっくり立ち上がり、リビングのほうへ向かっていった。そして私の煎餅と同様なラッピングの袋を持って帰ってくる。共通化したほうが安上がりだからね。しかしこっちの中身はチョコレートである。
「私はちゃんと渡すつもりだったんだけどねぇ」
「それは災難だったね……」
「このままじゃ、いつまで引き籠もり生活かわかんないし、これまた悪いんだけど届けてきてくれない?」
「これを?」
「もちろん、いくらでもお礼はするから」
「別にいいけど、というか任せて」
「頼もしいー」
おつかい第二弾として、今度は街の中心、雑居ビル群を指定された。日が暮れて、もうじき本当に一日が終わる。誰かを人質に取られているわけじゃないけど、なんか急かされる。
照明が漏れ出て、ひと際目立ってる気がするここが、明世の意中の相手がいる場所らしい。英語でダンススタジオって書いてある。入口を探す以前に、そもそも勝手に入室していいのかよく分からなくて、建物の前で右往左往していると、中から人が出てきた。一瞬、明世の想い人本人かと思ったけど、学年が一個上って聞いてるのに、たばこを持ってるのはおかしいよね、違うよね、そういう趣向じゃないよねっ。
「あぁ?どちらさん?明世じゃないしなぁ」
目が合って、心地良いハスキーボイスで話しかけられる。気後れはしてしまう。
「はい、あの、宇野木黎夢って人は、ここっこちらにいらっしゃるんでしょうかっ」
「あいつ?いるけど、……横恋慕は許さないよ」
宵闇を穿つ眼光に体が震える。
「ちちちち違います!違うんです、ただ諸熊さんにお願いされて、お届け物を!」
「あぁ、そういうことなら、寒いだろうし一回中に入りなよ。あたしゃ駐車場で一服やってくるけど」
こういう小規模なビルに立ち入った経験がそんなに無いので、まあまあ緊張する。さっきのお姉さんがいなくなった後、扉の前であからさまに深呼吸をしてから、一か八か突撃した。
スタジオの中は白い光に包まれて、木目調の床もてかてか輝いて、ステレオタイプ通りの大きな鏡が壁となっている。こんなに広々としているのに、少女たちは隅に固まって鳩首していた。
「うわっ、姉貴イメチェンした!?」
「しゅうっぴー、疲れてるのは分かるけど……ほんとにイメチェンしてる!?」
私の面を目にした一行は、なんか驚いている。
「どう見たって姉貴じゃないでしょ……。えーっと、くれむりんの友達?」
「へえぇー?うんうん、あ、知らないよー?」
「そんな、くれむりん以外に友達がいるわけないじゃん」
「それもそっかぁー。じゃっ、今から友達なのー」
「和を以って貴しとなせて、偉い!」
よく分からないけど、キャピキャピ盛り上がってて、とても仲良さそうだった。
「友達ー、こっちおいでー」
「はっはい、今行きます」
甘い声に招かれるままに、三人の元に駆ける。そして屈んで、カバンからかわいく包装されたチョコレートを取り出した。……いくら明世の知り合いとは言え、こんな陽キャに囲まれるのは怖い。早く帰りたいから、用事を手短に済ませようと挙動不審になっている。
「えっと、諸熊さんから、届けてほしいって頼まれて」
私がチョコを見せると、真っ先に手を伸ばしたこの人が、明世が懸想している黎夢というお方になるのだろう。弾けるような笑顔と鮮烈なピンクのメッシュのコントラストに目を引かれる。一方で、彼女のカバンにぶら下げられた無数のぬいぐるみとか、さりげなく少女らしいフリル生地のブレスレットとか、かわいい物に惹かれる性格が垣間見えて、明世がこんな装飾を強く推した理由が明らかになった。
黎夢は両手で掬うようにチョコレートを持つと、にっこりとした。隣の二人も首を伸ばして覗き込んでくる。
「ふふっ、貰っちゃった、うふふっ」
「ここで食べてみてよー」
「えぇー、もったいないなー。だってさ、はるちゃんが一生懸命ラッピングしたんだよ。このままの形で保存したいぐらいなのーっ」
「チョコのエンバーミングが必要だね!」
「それはちょっとよく分からないのー」
ただ任務を遂行しただけではあるけど、そこまで喜ばれると、私に対してじゃなくても、何だか前向きな気持ちになる。そんな達成感で満たされている内に、私もなりふり構わずに渡していたら、縁佳もこうやって表情が華やいでくれるかなぁ、なんて想像して嫌になる前に、退却しようと立ち上がったら、黎夢に呼び止められた。
「友達よ、ここで、あなたからは受け取れない。んー、返してきてくれる?」
「んっ、なんで、ですかっ。諸熊さんが作りました、見ました、信じてくださいっ」
黎夢の声はとても耳触りが良くて、冗談とも聞き間違えそうになった。でも改めて確認すると、彼女は真剣な形相をしていて、明世のチョコレートを突き出している。襟を正して、もう一回屈み込む。
「だって、こういうのは直接本人が渡すものでしょ」
「でも、インフルエンザに罹患してて、しょうがないんじゃないかと……」
「仮病かな」
「本当ですっ、だからこの目で見たんですっ!」
「うそうそ。知ってるよー。大事なのは渡す物ではなく、渡したという事実が大切だと思ってるの。誕生日じゃないんだから。ね~」
首をかしげて後れ毛を揺らして共感を求めてくる。琥珀糖のように彩り豊かな破顔に、私は見事に言いくるめられて、その通りだってつい唸らされて、チョコを回収していた。
「もっともらしいこと言ってるけど、あの子のいじらしい姿を拝みたいだけでしょ」
「あっうん、そうとも言うのー」
黎夢は隣の人に指摘されて、特に否定しなかった。そう言われると、私も縁佳のいじらしい姿が気にならなくもないけど、これは恋なんだろうか。とかしょうもないことを考えていたら、黎夢の隣にいる人に質問されていた。
「んでー、あなたははるちゃんのお友達ってことでいいのね?名前は?」
「あっ、申し遅れました。わたくし島袋鏡花って名前です。諸熊さんとは……まあまあの友達です」
「 “まあまあ” は相当の裏返しとは私がよく言ったものですなぁ」
「そんなに謙遜しないで。はるちゃんがこんな大役を任せるってことは、信頼されてるってことなのー」
「従順なだけ、だと思います……。断れないし、逆らえないし、暇そうだし」
「そぉー?どちらかと言えば、弱みに付け込まれる側の人なんだけどなぁーっ」
さっきまでどこにも無かったクッションを、いつの間にか抱きしめながら、黎夢は左右に揺れていた。
「つまり、弱みに付け込んで、あれだけ懐かれてるってこと?」
「違うよっ、違うから!あれは純愛……でもないない、ただの先輩後輩なのーっ」
揺れが収まって、クッションで顔を隠しながら、首をぶんぶん振って全身全霊で否定している。縁佳も、こんな頭隠して尻隠さず的な照れ隠しをすることがあるのだろうか。私はいっぱいあるから、何だか親近感が湧いた。
「まーともかくさっ、はるちゃんとはこれからも仲良くしてね。ついでにれむとも!」
クッションを放り投げて握手を求めてきたので応じる。手が離れると、私の手の中には飴玉があった。夕飯までの繋ぎとしては弱いけど、貰っちゃったので食べるしかない。普通の飴の二割増しに甘く感じた。
「んし、そろそろれんしゅー再開しよ」
「練習?」
「れむたち、アイドルなのー!」
意気揚々と誇り高く教えてくれた。だからダンススタジオだったのか。三人が水分補給を済ませて立ち上がったので、私はこの辺でお暇させてもらうことにした。
「ちゃんと、責任持って返してきますので」
「あ、もう帰るの?お礼にしてはしょぼいけど、見学してってもいいのに」
「えっ、あっアイドル活動には興味ないですっ」
「あな悲し……。でも、またどこかでお話しよー」
悪い人ではなかったと一人締めくくって、スタジオの外に出た。体の芯から凍るような冷気を浴びる。まだまだ冬は続くなぁと、あくまでも私は憂鬱な気分になった。冬は寒いので早く終わるに越したことはない。吸う量を減らして、吐く量を増やして体温を維持しながら、駅の方角へ向かって歩き出す。
紅の点と灰色の煙がくゆり、たばこの臭いが鼻をつんざく。さっきのお姉さんが、駐車場でまだ喫煙していた。こんな冷え込んでるのに、何も感じないのだろうか。強がってるのかなーって思って、口に出ていた。
「なんで寒いのに、ずっと外にいるんですか」
「んー?そりゃあ、あのスタジオは禁煙だから」
「だからって、身を削らなくても……」
「そういうもんさ。それより黎夢に渡せた?」
「あぁ、戻して来いって言われました……」
「ほーん。あいつもずるいな」
「ずるい?」
「自分も渡すつもりなんでしょ。だけど、一方的に渡すのは、まだ抵抗があるって感じで」
「な、なるほど」
「じゃあ私も、そろそろ戻るとするかな。気を付けて帰ってね」
年上というのは頼りがいがあって、余裕があってかっこ良くて、話していると気持ちが和らぐこの人のような存在であって、決してトリックスターではないのだ、意味はないが常葉お姉ちゃんの顔が脳裏に浮かんだ。まあいいや、煙たくてエモくもない日没後の街を突き進んで、駅に戻る。五臓六腑が冷え渡る。急ぎ足になる。頭まで真っ白になる前に、用事を済ませたい。
再び明世の家を訪れ、チョコレートを返却する。冬だから溶けてない、とも言えず、私のカバンの中で煎餅が一人勝ちしている可能性もあった。明世は余剰分が冷蔵庫に眠っているからともかく、私が貰った分はかけがえが無い。自宅に帰ったら、真っ先に確認しようとカバンから取り出した。
猫みたいな人から手渡しされた箱を、もう一度裏も側面も確認してみる。紫色の光沢のある紙できちんとラッピングされて、ご丁寧にリボンまであしらわれていて、贈り物としての体裁が整っていた。そこに隙はなくて、縁佳のやり口が籠っている。他方、私の煎餅は所詮少女の戯れに過ぎない。自室の床に並べてみると、お互い各々らしいバレンタインで、思わず笑ってしまいそうになって、それなのに正面からぶつかれない事が、とってももどかしかった。
そうなったら、もう中身がどうとか確認する気になれない。一度剥がしたら戻せないし。決めた、明日、完全な状態でやり直す。勇気を出して、直接渡したという事実を作るために。二人でやるんだから怖くない、そういうものらしい。私の難儀な心も共感していた。
……いつまでも刑部のほうを向いて、そっぽ向かれて、私は小賢しい手段で済まされて、いい方法を見つけたんだから、試す権利ぐらいあるよね……。大丈夫、明世も言っていた通り、私が勇気を出して正しさを示せば、邪念を捨ててくれるはず。まあ、縁佳ではなく明世に絆されてる点が、私としては意に適わないけど、それで縁佳が私を意識してくれるのなら、安いものだ。
また朝の挨拶を無視されたなぁーと項垂れていたら、永田が私の机の前にやってくる。そして鏡花に贈ったはずのチョコレートを渡してきた。剥がした跡はなく、そっくりそのまま突き返されたみたいだ。
受け取り拒否ってことなのか、私はまた見誤ったのか……?ここに余力を割きたくないのに、鏡花はそれを分かって……違う、そうやって陥れようとする悪い人じゃない。私のお願いは聞き入れてくれる、純情な人だって信じてる。現に最近は、授業中でも何でも見つめてくること以外、言った通り私に関わろうとしない。
じゃあどうして?手作りのほうが良かったかな、でもそれはそれとして、食いしん坊な鏡花なら食べてはくれるよね。いい、どうでもいい、鏡花は私が手のひらを翻せば、勝手にすり寄ってくるんだから……。
「おーい、教室移動しなくていいの?」
「あぁうん、忘れてた」
「忘れてたんかい」
変な感覚が走ったんだ。今の私は、鏡花にもたれかかっていたり……そんなこと、あるわけないって、ねぇ露崎。
「……まだ、洞窟ちゃんと仲直りできてないの?」
「え?まぁー、進展ないかもなー。意固地な奴には手を焼かれるねぇ」
人の好意をリフレクトする鏡花も大概である。
「あっあの、頭抱えてたからっ、本当に……」
「露崎は大げさだなぁ。上手くやるよ、皆のためにも。もう少しの辛抱だから」
「そっか。頑張って。私も、洞窟ちゃんと遊べなくなるのは嫌だから」
露崎はいつも通りに期待を口にする。しかし、それは本音なんだろうか。自分に向けられる視線に、段々疑念をいだくようになった。だって、刑部との不仲は一向に解消されないわけで、薄々勘付いているんじゃないだろうか。私は……誰にも言いたくないけど、実のところ元には戻らないって確信している。
でも、諦めたくなくて、いつまでもストーキングしている。これはコンコルド効果とかじゃない。ただ友達を失いたくない、それだけが動機だった。一人だって欠けてほしくない。繋がっていれば、きっと利点も利用価値もあるから。とにもかくにも、席を立って露崎に譲った。
四六時中悩んで、何となく気怠くて、何事にも身が入らなくて、奇跡すらも霞んできて、これが “病む” という概念、ないしは現代人のはやり病なんだろう。森羅万象を如才なくこなしてきた私には無縁だった。初めての敵、だけど私に越えられないものなんて無い、私は完全無欠なんだから。
「良かった、平島さんだ」
鏡花の声、私が一番敏感になっている音だから間違えるはずない。刑部の声よりも、ずっと注意を払っていたぐらいだから。それが、ボールの弾む音に紛れて、体育館のギャラリーに響いた、緑の世界に花が咲いた。
「ダメ!逃がさない、私の話を聞いて、ねぇってば!」
鏡花は立ちはだかる。遠慮なく両肩を握って押し返してくる。身長差はそこまで無いけど、簡単に投げ飛ばせそうである。思いの強さだけで、全てを薙ぎ払おうとしているのが、一目瞭然だった。
「分かったからっ、少しは聞くからっ」
「少しじゃなくて、全部聞いて!」
「んむ……、それでもいいから、手を放して?」
そう、それで鏡花は食い下がってくれる。手を下ろして一歩下がって、鏡のように澄んだ瞳で私を振り仰ぐ。十何回は出会った光景、確かに気が緩む。いつもと違うことと言えば、手にチョコレートを握りしめていることだろうか。
「ねぇ、刑部がこっちを見たことなんてあるの?」
前置きもなく、いきなり本題とは。実に鏡花らしい、前しか見えてない、階段を上ることしか頭にない。
「そりゃあ、ここから柵に乗り出して見下ろしてたら、シュートする時とか気になっちゃうでしょ」
「それなら尚更だよ!なんで心が折れないの?相手は平島さんの気持ちを理解して、その上で無視してるってことだよね」
「大切な友達を、私は諦めたくないんだよ。いや、諦められないってほうが正確かな。だから説得は諦めて」
私の人格の根幹はそれで、キーストーンのように無くなったら崩れてしまうというものではなく、無くなったら私が消えてしまうのである。克己できるものじゃない。その事は、刑部と喧嘩して骨の髄まで染みた。
「私だって、意地を張ることぐらい、ちょびぃーっとはあるけどっ、でも、自分が壊れそうになったら、さすがに観念するよ!?」
「私はその逆、誰かを諦めれば、自分が壊れてしまう。島袋さん、私はねー、そういうめんどくさい論理を搭載した人間なんだ。理解してくれると……」
「その二律背反に悩んでるんだね。どっちを選んでも、自分が壊れるって危惧してるんでしょ」
「悩んでるわけでは……」
「結論も結果も出せてなくて、よくそんなこと言えるよ」
「そんなに怒らないで。ちょっと、怖いから」
「私の網膜はとっくに焦げ付いてるのっ。皆だって嫌だと思うよ、常に上の空で煩悶し続ける平島さんが!」
こんな所で、私が新しい喧嘩をしてると来たら、どんな風に受け取られるのだろうか。私の名声は地に落ちる。早く終わらせないと、もう嫌だ、こんな焦燥に苛まれるのは。
「えぇーっと、どうすればいいの、それを受け取ればいいの」
「私がこんなことを言うのも大変僭越だけどっ、どうしてあの時相談してくれなかったの!?諸熊さんも言ってた。お互いそれなりに事情があるんだから、誰も責めないよ」
生きる意味みたいなものが、ここ二年ぐらいでようやく見出せたのに。生存欲求が根を下ろしてきた頃合いの私が、死にたくなるような提案に乗るわけがない。これは私と刑部の問題で、私が啖呵切って解決させるんだ。
「相談はしない。自力で何とかできるよ。みんな心配しすぎなんだって」
「それで間違った選択肢を選んでたら意味ない」
「正解とか間違いとか、そういう命題じゃない……」
「間違ってるから!目を覚ましてよッ!」
鏡花の魂の叫びに、耳を塞ぐことだって許されなくて、彼女は私を柵に押し付けた。片手に指を絡ませて、もう片方の手を私の胸に押し付けて、自分の足で私のそれを押し退けて、横を向けばリボンが掠るぐらいの距離まで顔を近付けられて、今までの全てで横車を押してくる。
「ぐるじい……死んじゃうよ……」
「ねぇ、友達って、そんなにたくさん必要?」
「はぁ……?」
「たった一人でも、十分じゃない?」
「馬鹿っ、万年ぼっちなあんたには分からんだろうけどねっ。賑やかな環境に身を置いていたのに、急に寂寞した空間に閉じ込められたら、気が気でなくなるに決まってるでしょ!」
私が大声出そうと、髪とかリボンが鏡花の頬をくすぐろうと、彼女は全く動じない。虹彩しか視界に入らない距離を保ち続ける。ここへ来て、普段ドキドキさせられっぱなしなのに対して、仕返しをかましてるつもりなんだろうが、めっちゃ効いてる。でも突き飛ばしたら、私の価値は失墜する。鏡花の好きにさせなきゃ、耐えなきゃ。
「じゃあ、一人をストーキングする必要ない。一人ぐらい居なくなったっていい。些細な数字の変化だから」
「そんな、他人を邪険に扱うような人だとはね。変なところで思い切りがいいよね」
「自分のことを嫌ってくる人より、自分のことを大切に思ってくれる人に、報いるべきなのは当然でしょ!私だってそうする。そうしたいから、こうしてる部分もあるんだから!」
報いる……構ってほしいってことかぁ。求められている場所に駆け付けるのが、そもそもの原則で、私はそうやって信頼を勝ち取っていったんだ、ということを今になって言葉に成形した。自分を誤魔化せるカードは、それしか無かった。
「島袋さんは、私のことを大切に思ってると」
「声を枯らしてでも、相手に強い嫌悪を植え付けながらでも、伝えなきゃいけない気がした。いいよっ、これで私を恨んで、刑部にされたことをし返してもっ。……あっ、やっぱやだ!取り消して!」
「耳が痛くて聞こえないわー。はい、戯えてあげるから離れなさいな」
「わっ分かった!?」
これ以上なく食い気味に尋ねてくる。……いつか剪断する弥縫策、それが最善という絶望。それでも今が平和で安心になれるんだし、私はこっくり頷いた。鏡花の鼻を前髪でくすぐると、彼女はふらふら後退していった。それどころか、硬くて冷たい緑の床に座り込む。私は足元のカバンからチョコレートを取り出し、屈み込んで鏡花に手渡しした。
「私から受け取りたかったの?」
「うん……。私からもっ、どぞ」
箱を受け取った手と逆の手から、少々しわくちゃになっている袋を受け取る。よく見ると、水玉模様の向こう側には、チョコではなく煎餅が入っていた。なるほど、鏡花もそろそろこなれてきたか。
「来年は容赦しないつもりだから。早く甘い物を食べられるようになってね」
「そんな、早く風邪を治してね、みたいに言われても……」
まあ、これにて一日遅れのバレンタインを遂行したってことで、お開きになるかと思って、煎餅をカバンにしまおうとしたら、ぺりぺりーって音が鳴った。
「お腹すいたし、今食べるねー」
「えぇ?ここで?」
「中学校じゃないんだから、校則違反とかないでしょ?」
「それはぁ……そうだけど……」
さっそく一粒、一番オーソドックスな味を口に放り込む。
「美味しい……?」
「美味しいー」
鏡花は口をもぐもぐさせながら、何度か頷いた。飲み込むと、すぐに二粒目に移行しようとする。
「もう少し味わったら?」
「味わってるよっ」
「なんか、淡々としてるっていうか……」
「むぅ、…………食べさせて?くれたらぁー?ちょっとだけ、何かが変わるかもー……」
「はぁ!?どうしてそうなるの、マジでわからん、ねぇってば」
「たまにしか一緒になれないなら、たまにはやってくれても、いいじゃん、んっ」
鏡花はそう言って、チョコの箱をこっちに寄せると、組んだ両手でスカートを足の間に押さえ込み、思い切りよく口を開けて待機していた。さすがに、これだけ放置したんだから、構わなきゃ、戯えなきゃ、報いなきゃ面目が立たないよなぁ。
私はひときわ目立ってた、濃いピンクに銀色のアラザンが輝くチョコをつまんで、腕だけを伸ばす。足のつま先に体重が乗っかって、色んな所がぷるぷると震えだす。まるで足元にスローラインが引かれているように、なぜか腕を伸ばす方向で努力していた。
何してんだろう、何させられてんだろう、私は。下ではみんなが殊勝に部活に励んでいるのにね。だったら、こっちで何が起きてるかなんて、誰も気に留めてないかー。
絶え間ないボールの跳ねる音に安心して、ようやく私はチョコを鏡花の舌の上に置いた。噛み千切られるかもしれないので、唇の柔らかさに興味はないので、急いで指を引っ込めた。
「んんーっ、むぅーっ、うまぁーっ」
鏡花は、両手でもちもちのほっぺたを押し潰して、喉の奥を打ち鳴らして、体をよじらせて、ミミズでも呼んでるのかってぐらい膝で激しく地面を叩いて、つまり幸福に溺れている。こんなに滔々と感情を表出させる鏡花は珍しいというか、たぶん人生で一度もなかったんじゃなかろうか。ここまで無防備に喜ばれると、渋々ではあるけど、母親のような大らかな気持ちで見守りたくなる。。
人が笑ってくれたのは、いや、笑顔をたわわに実らせた人を、これだけ間近で見たのはいつ以来だろう。鏡花の胸の高鳴りは、自分のもののように騒めいている。一歩差し引いても、なお有り余る百花繚乱のおかげで、私は誇りを取り戻すことができた、のかもしれない。
「んふふぅっ、んひょー、食べさせてもらっちゃったぁー、しあわせー」
「そ、そっかぁ。満足していただけたようで何より」
「おっほん、私ばかりじゃずるいよね、こっちも返さないとだね」
そうだった、鏡花が偏頗を許容するわけなかった。今度はこっちが煎餅を餌付けされる番になる。興奮冷めやらぬ鏡花は、お腹と大腿で挟んで大事に抱きかかえていた袋を盗むと、勝手に開けて、中から一枚取り出して、口元に突き立ててきた。
おぉー、醤油の香ばしいにおいが漂ってきて、食欲がそそられる。わざと大きめに口を開いてから、一口分を噛み砕く。結構硬派な味わい……醤油の味しかしなくて、市販品にはない素朴さがあって……感想を考えていたら、まだ残りが口元にあった。全部食えってことらしい。
いちいち鏡花に食べさせてもらっていたら時間がかかるので、柵に寄りかかって座って、自力でばりぼりすることにした。
「美味しいよ、しっかり煎餅してるじゃん。手作りだよね?」
「そう。私と諸熊さんで頑張って焼いたの」
鏡花は「えっへへ」と健やかに笑みを零した。今の鏡花は私が微笑むだけで、心かき乱されて狂喜乱舞しそうだ。緩くなった表常筋で、どう紛いてもその陶酔を全部公開されてしまう。まあ、それが本望というか、私に気兼ねなく見せたがってるというか。
傷も手垢もないガラス細工とはよく言ったものだ。このまま、その喜びを噛み締めるのではなく、押し流され溺れていればいい。私が報えるように。
「ふむ、そうなると、モロックマにはちゃんとお返ししないとねぇ」
「無難に温州みかん一箱かなぁ」
「田舎のオカンか」
なぜかこのツッコミが鏡花に受けてしまったようで、ふひひひひと引き攣ったような笑いが止まらなくなる。予定調和だと思ったけど、鏡花にとっては単に今食べたい物を言っただけなのかもしれない。これはちょっと、鏡花の考えてる事を読み取る練度が足りなかった。
とまあ、こんな感じで、私たちは部活動真っ只中の体育館で、足を延ばして呑気におやつを食べた。こんなところ、生活指導の先生ならともかく、刑部に見つかったら、私の懊悩は水泡に帰すなぁ。
その割には余裕そうじゃないかって?私は鏡花の行動力に負けたんだ。一連の “病み” で、何が芽生えて結実して枯れたのか、もれなく全てが不明瞭だけど、その事実は確かだった。それ以外にも認めるべき事柄はある気がするけど、これ以上は刑部に申し訳ないから、思考を進めないでおくことにした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます