5-4
ご飯を山盛り食べてお風呂に入って、そのほとぼりが冷める前にベッドに座り込む。昨日とだいたい同時刻に縁佳から電話がかかってきた。そして昨日と同じように、制御不能な高揚感に苛まれる。鎮める間もなく他愛のない話が始まる。
「島袋さんってさ、三次方程式の解と係数の関係、覚えてるー?」
「そりゃー、……まあ」
念のため、頭の中で覚えてるか確認した。
「さすが。覚えてなくて時間を無駄にしたわー」
「べ、勉強してるの?」
カリカリとシャーペンを滑らせる音が裏打ちされていた。イヤホンの音量を上げすぎなのかもしれない。
「何だかんだ言って、今ぐらいしか落ち着いて勉強する時間ないんだよね」
「んっ、あの、邪魔ですか?」
「いやいやー、誰かと喋りながらやるぐらいが丁度いいかなぁ」
油断していると、縁佳はすぐに私の心に浸透してくる。そうは言ったって、私じゃなくてもいいわけで、あーもう考え過ぎなのかな。
「そっちは何かしてる?」
「えぇーっと、んとー。……膝を曲げて、ベッドの上にぺったり座って、壁に寄りかかって、あっ耳までつけてね、後は右手で生温い髪をくるくるしてて、後は後はそこに平島さんがいるかのように、壁を見つめて喋ってて、どう堪えてもにまにましちゃう……」
「うーん、細かい状況説明ありがとう」
「役に立った?」
「手が止まった」
謝りたくなったけど我慢できた。縁佳なら多分、打算的に手を止めているだろうから。
少し会話が途切れて、表情を整える猶予が生まれる。いやまあ、整えたところで誰も見てないんだけど、次は一粒だけ冷静になれる気がした。
「話すこと無いねー。テストもまだ先だしさー」
「あ、あるよっ、あるけど……」
「今お腹いっぱいだから、食べ物の話題はなしね」
固唾を飲みこんでしまった。言わないって選択肢がどっか行った。
「んー?島袋さーん」
「ひゃっ、んっ、あのその、なんか、ありました……?」
「なんか、とは?」
全然説明を用意してなくて、上半身がリズムさえ刻んでいる。右手で髪の毛をむぎゅーって引っ張って、自分を鞭打つ。
「いや、自分でも不思議なんだけど、そぞろに平島さんに違和感があって、だって授業中もずぅーっと視線を送ってるのに絶対絶対目が合わないし、時々人に話しかけるのを迷ってるし、常に悩んでるよね、悩まされてるよね、脳みそフル回転してるよね、器用で即断即決するいつもの感じも失われてて、見てて不安になるっていうか、梯子を外された感じっていうか、遠いようで近いっていうか、とにかく違うんだよ、私の知ってる平島さんとは、それが本来の姿なのかも分からなくて、何が何だか分かんなくて……」
「うむむ、落ち着いてー。呼吸は忘れないでね」
私とは対照的に、縁佳の声はとても鷹揚としていた。こんなに焦ってる私でも、ちゃんと聞き取れた。だから言われた通り、呼吸をしてみる。……何言ったか忘れた。
まあ、そもそも要領を得なさ過ぎて、覚えられるものでも無かったかもしれない。でも、私が縁佳に密かに違和感をいだいているってことぐらいは、含意されてたと思う。……言っちゃった、本人に伝えたところで、自覚ありなら縁佳自身が何とかするし、自覚なしなら違和感でも何でもないのに、授業中にずぅーっと視線を送るし、人に話しかけるのを迷ってるし、常に悩んでるし、悩まされてるし、脳みそフル回転してるし、見てて不安になるのは、自分のことだよぉ……。
「はぁはぁ……、ふぅ、はぁ」
「んとねー、私が考え事をしてない時なんてないよ?」
「ん?そうなの?」
「そそっ、友達が私と何がしたいのか、何を望むのか。それを考えるのが癖になっちゃってるんだ」
「それって、無理難題じゃない……?」
「そう思うかー。では、島袋さんは私と毎日通話できて幸せじゃないの?」
「嬉しい、楽しい、喜ばしい、けども……」
「親の仇を討ってほしい、みたいなのはさすがに断るけど、普通は島袋さんみたいに話し相手が欲しいとか、肯定してほしいとか、ちょこーっと部活で便宜を図ってほしいとか、そんなもんで、人は救われるんだよ。そんなもので力になれるなら、私だってとても嬉しい」
話し相手が欲しいかぁ……。私の意識がアクセスできる自分と照らし合わせてみる。うーん、相手が縁佳だからいいのであって、他の誰にも代替できるものじゃない。……でもまあ、縁佳だって、人の心を読めるわけじゃないんだから、多少の誤差はあるに決まってる。結果には十分満足できるんだから、それを甘受すればいいんだけど……。引っかかる、縁佳が一糸も取り乱さず発声する度に、はぐらかされてるんじゃないかって邪推が、脳髄を這いずり回る。
「それよりも、あー、そっそろそろ常葉お姉ちゃんも卒業だけど……」
「んがっ、平島さんがお姉ちゃんって呼んでるの、しっくりこないから辞めて……」
「じゃあ常葉でいいや。新潟を離れることになるのかなぁと、ふと思って。大丈夫?」
「んー、数年前なら寂しがっただろうけど。今は平気。 “大人に” なったから」
とか言ったら縁佳のツボに入った。まあ、それは笑われて当然だと思う。数年前と比べて精神年齢が成長してないのにどの口が、と。自覚はしてる。
「まいいやー、どうせ明日も通話するだろうし。話題は温存しておこう。おやすみ~」
「うん、あっ」
「んむ?」
「もしっ、何かあったら、……相談とかっ、してね!」
私が口で息を吸う音と、筋肉のごぉーっていう音だけが耳に入る。イヤホンからは、どれだけ耳を澄ましても、縁佳の生活音も聞こえない。ようやく言うべき?事が吐き出せたのに、その前に通話を抜けられちゃったら意味がない。別に、めげたりしないけど。
この間の席替えが憎い。縁佳を拝むために、毎度体をねじって後方を向かなくてはならないのである。この身が痛もうと焼かれようと千切れて鯉の餌になっても構わないけど、あまりずっとよそ見していると、先生にも注意されてしまう。私たちの友情を邪魔しようとしたって、断じて屈さないぞ。
授業が終わって、しばらく安全な時間が訪れる。次の時間の教科書を机の上に出したら、椅子に対して横向きに座って、遠霞む縁佳に視線を送り、まずは構ってほしそうにしてみる。
……邪魔なんだけど、わざと遮ってる……?喉を小刻みに震わせていると、その人は屈んで相貌を崩さないまま、私の名前を呼んだ。
「鏡花ちゃん、私に関心がある?」
「んっ!?なっ無い……じゃない、あるよ!あるある……」
縁佳以外に声を掛けられるなんてあり得ないので、相変わらずしどろもどろな返答になってしまった。会話って難しいんだー、せめて持ち時間方式にならないかな。
私が首をぶんぶん横に振ると、その人は「ふーん」と興味なさそうに、廊下に出て行った。何だったんだろう。あぁ、私と縁佳を結んだ線分上の席だから、視線を感じてやかましいってことか。くじ引きを恨むんだな……自制しよ……。
それで今日は、昨日の通話で伝えそびれた事を、直接浴びせてみようと思い立った。そう、腹を括った、覚悟を決めた。縁佳にこちらから話しかけること自体はやった事がある。だからできる、とならないのが不甲斐ない私で、仰々しいやる気を帯びて、ほっぺたを両手でぺちぺちして気合い入れてからじゃないと、言いたいことも言えないのである。
それはまるで、田舎の人が都会に遊びに行くのにおめかしするよう、いや逆に、シャコタンのアルファードで突撃するような感じかもしれない。
スカートの裾をいつもより多めに右手で握って、縁佳の机に向かう。縁佳は頬杖を突いて、曇り空に見所があるかのように、視線が吸い寄せられている。その姿は、私には考え事に没頭しているようにしか思えなかった。
「いっ、いいですかっ」
無反応……、気付いてない、そんな事が起こり得るの!?だって彼女は気も鼻も利く、あの縁佳だよ!?左手で髪を懸命に弄る、毛先が赤色灯のように回転する、それで察してほしい。
「私、あの、相談がっ……」
相談してほしいという相談に乗ってほしい。ひどくややこしいのに、端折ったらふつうは何も伝わらない。けれど縁佳の誤り訂正能力なら大丈夫、大丈夫なんだ……。
「んんー、文面で送っといて」
「んっあっ相談するのは、平島さんで……」
頬杖を突いたままの姿勢で、縁佳は大儀そうに口を開く。声に面倒見の良さが籠ってる。だけど、それで満足してって言われているような気もした。縁佳は何も言わない、瞬きもしない。私が来る前から微動だにせず佇むばかりで、それに対して私は唇を痙攣させ、目を回すことしかできなかった。
届かないなんてあり得ないって、目頭が熱くなっていると、背中にも熱い視線が降り掛かっていることを、何かの拍子で認識する。振り向いてみれば、刑部が私たちの様子を……注視していた。その姿はまるで、授業中の自分を映しているようで、うむむ……、何だか胸が締め付けられる。すぐに睨み返した。
刑部と言えば、クリスマス当日のことが頭に浮かぶ。ディナーを終えて車で移動してる時に、橋の真ん中で縁佳が刑部と揉み合い?になってる様子を見かけた。そんな所に居るとは予測してなかったし一瞬だったし、車から降ろしてもらえなかったから、何事なのか判断できなかったけど……。仲違いでもしたのだろうか、それで縁佳のコーンフラワーブルーが深まるのだろうか?
「どどっ、どうかしたの……?」
「ふあぁ……、冬眠終わりが見えずだわー。ちょっと、トイレ行ってくる」
縁佳は小さくあくびをすると、ようやく動き出す。動き出して、私の前から逃げようとする。
「わっ私も行くっ」
「島袋さんと違って、私はトイレに行くって言ったら、有言実行するの。心配いらないよ」
「そんな、昔のことっ……」
「いやー、白高生の記憶力、舐めないほうがいいよー」
何でもいいけど、あれは昔のことだ。今の私はあーじゃない。あの時運命に出会って、初めて追憶じゃない本当の優しさと友情を貰って、私は過去の自分を見下せる場所まで来たのだから。それを再認識して、何になるんだかね。
縁佳の温もりは、今まで綿々と遠くで私を照らして、目標として佇んで、それを目指す私を、血の通った人間として生かしてくれている。なのに、本人が誰かを照らすことを忘れてしまったら……私は路頭に迷うこともせず、その場で夢想的な親鳥でも待つんだと思う。そんなの嫌だから、いつだって縁佳に気に掛けてほしい……じゃなかった、前を向くんだ。
だからと言って、縁佳の気分を完全に無下にはできない。付いてきて欲しくなさそうなのに、包み隠された本心と真相を追及されることを拒んでいるのに、かつて縁佳がやってくれたような事を、私がやっていいわけない。
「ごめんなさい」
「機嫌を悪くさせてしまって」
こんな事があった夜に、縁佳から電話がかかってくるはずも無く、夜更けの静寂と一人反省会に耐えかねて、謝罪を文面で送っていた。これくらいの蒲鉾を一口で食べたら満足感があるだろうなぁ、っていう黒い板を布団の上において、返信が来るのをお祈りする、までもなく早々に縁佳から返事があった。
「因果が逆。元々機嫌が悪かった」
「機嫌直してからじゃないと島袋さんが不快だろうから、しばらく通話するの辞めとく」
うがぁーっ、そういう子の刻ほど、電話してくれてもいいじゃんっ。布団の上でじたばたしちゃうようなお子様じゃないので、ここは冷静に、ベランダに出て底冷えさせられてみる。
寝間着姿は末端が無防備で、手と足と顔の感覚を喪失する。月明かりがなければ、あの星のように私も目立てる……現実はそんな都合よくないか……。
しかし、田んぼしかない暗闇を見つめている気になっていると、本来の目的通り、逸る気持ちが和らいだ。縁佳にだって、機嫌があって気分があって波がある。それは尊重しないといけない。
私には思い出がある。菫の髪飾りという思い出の品もある。部屋に戻って、かじかんだ手でそれを持ち上げて、それが縁佳の剥き出しの心であるかのように、慎重かつ隅々まで観察する。そこには無数の想いが籠められていて、だから私たちの絆は消えることがなくて。そうやって、過去も現在も未来も、一緒くたに引き出しにしまった。それだけで、今をしのげそうだった
「いつでも待ってます」
「早く電話かけてください」
ぱっぱっと返信してしまったけど、上と下で矛盾していたかもしれない。まーいいや、既読が付かないし、縁佳も眠りについたんだろう。私も寝るか、あっじゃあ「おやすみ」って言わないと。
「しっまちゃーん」
「ん、どうもどうもっ、ご無沙汰してますっ」
「うお、クラスメイトに使いにくい挨拶ランキング一位やめい」
座ったまま頭を剽悍なほどに振ったので、頭がぐるぐるする。とりあえず、明世が一緒にご飯を食べようって誘いたいことは理解した。
「がすよとは、食べないの?」
「んー、もぐっ、昼ご飯は意外と一緒じゃないかな……」
私が箸を咥えながらそう答えると、明世は横から席を持ってきて、溜息交じりに嘆いた。
「ふぅーむ、薄情なやっちゃな」
「そう?もぐっ」
「気にならないならいいけど……」
昼休みは昼ご飯を食べる時間なのに、そうやって私の眼底を見透かそうとして、胃袋が物欲しそうにあなたを見てるよ?
「気にならない?」
「べ、別にっ、見世物としてもぐっ、大食いしてるわけじゃないしもぐっ」
「気になってるよね。授業中にずっと振り向いてるの、こっちからでも見えてるんだぞい」
「うぐぐ……だって、もぐっ、ちょっとは構ってほしいし、もぐっ」
この人、全然食べ始めない。心なしか顔を引きつらせて、自分の後頭部を掻いている。
「しまちゃんは、まだどこか気の置きたい部分があるってこと?それでも、勇気を出して自分から行ってみなきゃ」
「んまぁ、どきどきはするんだけど、それだけじゃなくて、平島さんがそもそも私とあんまり話したくないらしいっていうか、あっ信じたくはないんだけど、でも平島さんだって聖徳太子じゃないし、今はそういう時期なのかなぁーって……」
言うて、学校が始まってからこの一月の終わりまで、ずっとそういう時期だけど、先に私の体が裂けそうだ。
「なんか、構造が詳らかになるにつれて、どんどん理解不能になっていくな……」
明世はやっぱり食べ始めないで、片手を自分の頬に添える。そんな真剣に考え込む姿を前に、私も箸を握ったまま、食指が止まった。
「私、たぶん平島さんに、……しっしばらくはね?関わんないでほしいって言われたんだと思ってたけど、ちっ違うのかな」
「それは、その解釈で合ってるんじゃないかな……。悲しいけども」
「あっあのあの。ねえ、何か知ってるの……?」
私はそんなにいい子じゃないから、忍耐する機会が滅多に無かったから、このまま縁佳との関係を断絶させ続けられそうにない。それに、自分勝手な持論かもしれないけど、たとえ縁佳でも悩みっぱなしで憂いっぱなしで居続けるべきではなくて、私は明世に縋り付いた。
「なんも聞いてないのね」
明世は割と驚いた風な言い方をした。
「私の不手際はそうだけど、……どうせ聞いても答えてくれないよ。そういう関係じゃないんだと思う」
「はぁー、意外とビジネスライクというか、一方的というか。身につまされるねー」
私は縁佳のことを何も知らないけど、踏み込むことを拒絶されているのは分かる。縁佳は一挙一動一顰一笑に意味を含めて、直接言葉や態度に包まなくても、私のして欲しいことを伝えてくれるから。全部、縁佳の思うままなのだろう。私が縁佳のことを監視と言って差し支えないレベルで、学校での行動を追っているから余計に、縁佳が見せたい自分を信仰する羽目になっている。
それで、明世は憶測交じりに色々教えてくれた。縁佳や明世、刑部の周りではこの話題で持ち切りらしい、恋愛絡みであるのも影響しているだろうけど。縁佳が私を避けたがったのも、刑部のご機嫌を損ねないためだった。総じて、そこまで震撼するような事態でもなかった。人間関係は、往々にして上手くいかないものだから。
「妙なのは、付き合いたいはずのお釈迦べが逃げて、告白を断ったはずのがすよが追い掛けてるってこと。それでお互い神経すり減らしてさ。グループの仲にも亀裂が入るしさ。本当に、いい事なんて一つもないのに」
「二人が、どうしてそんな事をするのかは、分からないの?」
「そりゃあ、指を咥えて傍観してられるわけも無く。聞いたし、相談にも乗ろうとした。でもがすよはね、心底嫌そうな顔をするの。それでも続けると、まあ、いつも通り適当にそれっぽい事で誤魔化されてさ。どうして誰も彼も、一人で抱え込むんだろうね……」
明世は申し訳なさそうに、俯いてしまった。私よりも上の段を駆けているのに、謙虚で罪悪感をそそるような神妙な顔付きで、反省するように説明を続けた。
このまま身を引いて、悠遠から心を乱していればいいものを、私の心は引き裂かれて、現れた谷には真っ赤な蛮勇が滝のようにたぎっていた。こんなに低姿勢で行動力も持ち合わせている明世でさえ、縁佳の屈託を取り除けなかったのに、私が奮起したところで、事態が好転するんだろうか。そこまで辿り着いたところで、私の意志は頑なで、何度だって相談に乗るつもりなのは変わってくれなかった。
あぁそうか、私の知らない場所で、知らない事に縁佳が懊悩していることが、どうしても耐えられないのか。その結論に至るまで、そこまで時間はかからなかった。いやまあ、普段から思案して、それがたった今結実しただけなんだけど。
見えない、見せない面を、一枚ずつ暴いていくことが、成長ということにしておきたい。そうしたって自分本位なのは払拭できないけど、割り切って重い腰を上げないと、奈落の底に落ちそうになるから、落ちた後はいいけど、落ちている間は心臓が止まりそうなほど怖いから。
「しまちゃんにとっても、災難だったね、本当に」
「いや……、私には関係ないことだからっ。何とかしようって、いきり立つのはお門違いなんだよ、うん」
「そうかな。何を言われようとも、行動するのは自分の判断だから。外野から口出しされても、その通りにしなきゃいいだけ、ではある。だけども私は、他人の働きかけに影響を受けない人なんて居ないと思ってるよ」
この人に失敗とか罪悪感はあれど、恐れおののいたり逡巡したりはないんだろうなぁ、と堅苦しくもなれるのを直視して、人の素性を決めつけてみる。奈落に囚われていた私より、場数を踏んでいて、こんな事は珍しくもないんだろうな。
「きっと、しまちゃんが心配した分だけ、がすよも変わっていく……と良いね!」
肩をぽんっと叩かれたような、それとなく後押しされたような言葉だった。明世の笑顔には、人当たりの良さが滲み出ている。
「まっ!それよりお弁当食べちゃうかー、冷めないうちに……お弁当なんだからもう冷めてるだろって?わっはっはー」
今度は、ワライハヤブサのように高笑いする。そしてハヤブサが狩りをするように、態度が急降下する。
「そんな冷めた目で見ないでよっ」
「ちがっ……私の方こそ、平島さんに冷たくされて、凍えそうだしっ」
「あぁ、そう言えば」
口を滑らせた時に、触れないようにしてくれるのはありがたいけど、記憶からも抹消してよね。というか、弁当箱の蓋に手をかけたんだから、そこまで達成したんだから、早く食べなさいよ。
「チョコレートつくろーよー」
「おあー、そう言えばそんな時期……」
しかし、縁佳と言えば大の甘いもの嫌いで、どっかの界隈では名を馳せているわけで、この状況でチョコレートを贈るのは、火に油を注ぐようなものである。
「でも、平島さんは、甘いもの好きじゃないよ」
「誰もがすよになんて言ってないよ」
「はふゅっ!?」
ミートボールを喉に詰まらせるところだった。意識しないようにできるほど、人生に考えることが詰まってないのだ。縁佳がどこで何に懊悩しているのか、それと今日の夕飯ぐらいにしか論題がない。
「私は、私の好きな人にあげる。ふぅーむ、しまちゃんは、作って自分で食べたら?」
「自分の手作りよりは、ベルギー王室御用達のチョコメーカーがいい」
「贅沢なやっちゃな……」
「ごめんなさい、協力できなくて……」
「でも、何かしらはあげるでしょ?」
明世はついに手を自分の膝に置いて、そう尋ねてくる。物思いと無縁ないつもの私なら、弁当を掻っ攫ってたと思う。
「え、あ、うん……。だけど、何なら喜ぶかな。表現が難しいけど、あの、元気になってほしいから……」
じゃあ、滋養強壮効果がありそうなチョコレートが、丁度いいのかもしれない。
「焼き菓子か生菓子、どっちがいい?」
「えぇ?お菓子はダメだよ。シャンプーとか、苦いからいいかも」
「どっちか選ぶなら」
「えぇー、……焼き菓子?」
「じゃあお煎餅だなー。うむうむ」
明世は自分の提案に、何度も首を縦に振って激しく同意する。物は言いようってことか……?
「七輪で焼いてさー、出汁醤油を塗ってさー、パリッパリでさー。いくら人の心が控えめながすよでも、我を忘れてボリつくよー」
「……美味しそう、絶対やろう、明日」
「あれ、しまちゃんが元気になっちゃった」
顎の筋肉をくたくたにさせながら、角が口腔内の粘膜を傷付けるのも気にかけず、こたつで暖まりながら、硬くて分厚い煎餅を頬張る自分が目に浮かんだ。口の中に残る塩気を、最後に煎茶でずずぅーっと流し込んで、満足感だけが尾を引く……のを、あっ私じゃなくて縁佳にやってもらうんだった。
ともかく、私は明世の口車と勢いに乗せられて、縁佳へのプレゼントを用意することになっていた。
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