5-3

「あらまー、喧嘩?よっすー」

「消火器をぶしゃーって吹っ掛けるいたずらでもしたんじゃない」

「露崎はよっすーがそんな幼稚な人だと思ってるの?」

「そうじゃなきゃ、あんな地平線を水平移動させるような目はしないよ!」

「まぁー、……そうかもねぇ」


 今度は篠瀬と露崎から十字砲火を受ける。ショックで唖然としてたかもしれない。二人の視線で正気を取り戻して、弁当箱の蓋を開け箸を持ち上げる。


「そんな大事じゃないよ。きっ気にしないで、食べよう食べよう」

「よっすー、今日も早起きしてお弁当作ってきたの?」

「まあ、他に誰が作るんだって話」

「いやー凄いなー。私だったら、寝ぼけてブロッコリーとパセリ間違えちゃうよー」

「せいぜい瓶に入ってるやつで十分でしょ、ねぇよっすー」


 篠瀬が気を回して、積極的に私に話しかけてくれる。虚ろな目をしてるのだろうか。とりあえず擦ってみる、涙目になった、逆効果だ。


 何があったかと申せば、刑部も一緒に昼食を食べようって誘うよう露崎を嗾けたのだけど、教室に入る段階で私と目が合ったら、刑部は「先客がいる」と不愛想に呟いて、どこかへ消えてしまった。篠瀬と露崎のクッションがあるとは言え、どういう振る舞いで挽回しようか、シミュレーションしていたのに、それ以前の問題に終わって目算が崩れた。


 あの夜以降、SNSは軒並みブロックされて、刑部との連絡手段はなくなった。何だかんだ言って、私の投稿に一番よく反応してくれるし、暇な時は通話したりもする。それが無くなったら、別の人と話すまでだけど、どんどん沈んでいく様には寂寥感がある。


 とは言え、冬休みが明けたら、学校で直接話せると踏んでいたのだけど、通りすがりの朝の挨拶も教室移動のお誘いも、ガキみたいに無視してくる。それは、青くて血気盛んだった頃の自分を映されてるようで、何だか胸が締め付けられる。でもそれも計画のうちなら、むしろ助かるのだけど、本当に忌避し続けるつもりなら、うーん、それは困っちゃう。


 体が重い。胃の中に、食べた物がそのままの形を保って、いつまでも存在し続けるような苦しさに加えて、私が己に課すアイデンティティが、おばりよんのように背中から押し潰してきて、ぐでーんと机に突っ伏してしまう。右腕を伸ばして、その上に耳を載せて、無聊を託つ。それでも一応、時間は進む、遅いけど。


 私は刑部と仲直りしたい。ここ二週間ぐらい煮詰めても、その願意は変化しなかった。逆に、向こうはそうじゃないのか……?本気で赤の他人に戻りたいとか思ってたら、もう私には意味がわからない。路頭に迷ってるなら、ボール回しでもレクチャーしてあげようか?なんて冗談も、刑部にとってみれば空気中のアルゴンと同等の価値しかないんだろうなーって、絶望して左手で辛うじて握っていたペンを落とす。あーうー、刑部がわかんないー。


 時間が経てば元通りになると確信していた。それは甘すぎる目論見だったのだろうか。その警鐘としてクレープを口に突っ込まれた、なんてね……。


 友達をたった一人失うことが、こんなに心苦しいとは、実際に陥ってみなければわからなかった。自分はわがままなんじゃないって、自己を何も定義できずに燻っていた中学生の頃を嗤いたい。私はとても利己的だ、嫌うなんて言語道断だと逆ギレしてる。あなたがくれた敬慕という生きる糧を、あなた自身が消そうとするのは見過ごせない。


「あっ、あぁ……」

「お、島袋さん?」

「はい島袋です、もしもしです」


 これが倒置法か。じゃなくて、諦めてもふもふしたくなるほど絡まった思考の糸に気圧されて、ホームルームが終わってもしばらく立ち上がれないでいたら、机の前に直立不動の鏡花が現れた。こう、全容を引きで確認すると、とても健啖家とは思えない程ほっそりとしていて、いっそう幼げな印象を与える。私も部活に所属するのをやめてから結構筋肉が落ちたから、人のことは言えないかもしれない。


「で、何の用でしょう」


 背もたれに寄りかかり、腕を脱力させて尋ねてみる。


「何の用でしょう」

「何の用でしょう?」

「えー、冬休み終わったから、ちょっと話しかけてみただけとか」

「違う、ぜんっぜん違う」


 鏡花が前のめりに否定する。昨日の始業式の日は半日葛藤した挙句、無念の帰宅をしたのかと。


「一緒に帰ろう、かなーって」


 それなりに淀みなく、鏡花ははそう言った。どうせこの程度のことだろうと、斜に構えるまでもなかったけど、しかしそれこそが、今の私と刑部の異様に致命的な論題だった。鏡花と袂を分かつつもりは微塵もないけど、それは刑部に対しても同様で、しばらくは鏡花とつるむのを控えないと、もはや当てつけになってしまう。


 てなわけで、愛想笑いでやんわり断ることにした。


「今日は洞窟ちゃんに頼まれて、やらなきゃいけないことがあって」

「え、うーん、…………それ後日じゃダメ?」

「帰宅こそ毎日できるでしょ、ね?」

「ん……、じゃあ、見送りってことは?」


 鏡花がそう簡単に食い下がるはずもなく、傷一つないガラス細工のような瞳で、私に譲歩を迫る。そこまで強い思いがあるのなら……と、自分とテレパシーで刑部に言い訳して、慈悲深そうに頷いてあげた。


 他人の重力に歪められて、その中心へと転がり落ちて安定する。私の行動はそれの繰り返しだ。他人に存在を定義された “あの頃” から、何も変わってないのだと再認識する。まあ、変わらないからこそ他人から信頼される、というポジティブな見方もできるけど。


 私もカバンを手にして立ち上がり、鏡花を先導するように教室を出る。鏡花が私に歩幅を合わせて、横並びに廊下を進む。ご機嫌に首を微かに揺らして玉響を満喫する鏡花に対し、私は刑部が目を光らせてないか、気が気でなかった。一応、私に和解の隙を与えないために、一番乗りで教室を後にしたのは目撃してるけども、そこの教室の中から廊下を監視してたりしないよね?


 それはそうと、鏡花に話しかけないと、こやつは寂しがってしまう。


「冬休みはどうだった、なんかあった?」

「だからー、親戚の集まりで心を抉られた……」


 三が日は鏡花と文面で絶え間なくやり取りしてた気がする。畳の部屋の隅で、スマホを顔に近付け、救いを求める鏡花の姿が容易く想像できた。


「楽しかったことは無かったの?不幸中の幸いってやつでも何でも」

「どうかなぁ。楽しいって思うこと、生きてて滅多にないから……」

「そっかー。それなら、また遊びに行きたいね」


 打ち見にも鏡花の表情が華やいだのが分かる。開花のタイムラプスを見ているようだった。しかしすれ違った人と目が合ったのか、はたまた私の口角に力が入ったのを見逃さなかったのか、薄目で胸に手を当てて、冷静さを降臨させようとしている。こんなに面白いのに、どうして誰も……明世以外ちょっかいをかけないのだろうか。朴訥だと思われてるんだろうか。


「でもどこ行こうか、というより何を食べたい?」


 鏡花の食い倒れツアーはちょっと興味ある。本気の食い意地を見せつけてほしい。


「ん?平島さんの大っ好きなの」

「へぇ?うむむむ、安くて腹が満たされるかどうか、健康に良さそうかどうか、私そればっかりだから、好きな食べ物ないんだよねぇ」

「それなら、前に送ってくれたクリームあんみつのお店にしようっ」


 最近、鏡花とLINEで頻りに雑談するようになったけど、その話題はたいてい食べ物に行き着いてしまう。というか、鏡花が何かと託けてそっちの方向に誘導してくる。私自体は触れたら砕ける枯れた花だけど、周りの花は眩しく咲き誇っているので、おしゃれなお店の情報とかが耳に入ってくるのである。それを横流しすればいいので、会話が弾む。


「甘いもの苦手なんだよぉー」

「んー、じゃあ克服しといて」

「そんなこと言われましても……」

「一朝一夕では食べられるようにならないよ。うん」

「甘いのが苦手な人は、一定の市民権を得てるだろうし、困らないと思うけどなぁ」

「たっ例えばさ?どっちにしようか迷った時に、平島さんが片方頼んでくれたら、シェアできるなぁーとか、私だって考えることもあるんだよっ」


 鏡花は持論を述べると、何度か得意げに力強く頷いた。鏡花なら両方とも遠慮なく頼みそうなものだけど。


「そぉーだねぇ~。できたらいいけどねぇ~」

「わかった。これから毎日、大さじ一杯の上白糖をそのまま舐めよう。話はそこからだー」

「最初の一段目は島袋さんから一口もらう、じゃダメ?」

「しょぼい」

「野蛮な解決策すぎるよー」

「そもそも、私は平島さんに無限にあげたくなっちゃうから…………自分の取り分がなくなる」


 それは一大事だ。甘い物が大好きになるまで、鏡花から分けてもらうのは辞めておこう。


 そんな話をしていたら、自動ドアが開いて、そして寒苦しい空気がお肌から水分を奪っていく。斜め前には、身に沁みるような寒さに「寒い寒い」と弱音を吐きながら、腕をコートの上から擦っている人が連なっている。日差しなどなく、ご丁寧に首にアホウドリを巻いているような、そういう私の先の見通せない不安を空模様が体現してくれている。


 鏡花の指先に不穏な動きがないか確かめてみると、使い込まれた手袋は防寒性が低くて、彼女の指もかじかんでいるけど、凍って動かなさそうだったので一安心した。銀杏の木の下あたりで、念のため周辺を見回しておく。よし、刑部はいないな。


「さみーねー」

「うん。あ、それより、いっいつ行こうか、いつ甘いもの食べられるようになる?」

「え?そうね……、今月はバイトと生徒会が忙しいから、しばらくは厳しいかも。あと、甘いものが食べられるようになるのは、当分先のことよ?」


 刑部を余計に刺激したくないし、私たちの暮らす街は意外と狭いのである。これは、十全十美な休日の代償だと受け入れてもらうしかない。私がもっともらしい言い分をぶつけると、鏡花は飼い主とはぐれた子犬のようなかわいらしい鳴き声?を、規則正しく並んだ冬の空気に響かせる。解けない空気に対して、今日はいっそう嫌気がさした。


 しかし逆境でもめげずに、鏡花は欲望をひけらかす。


「そ、そういう事情なら……、待ってますっ、ひっ暇になったら誘って。予定すかすかだから」

「自分から誘う手間が省けてラッキーとか、考えてるでしょ」

「みひゃっ!?まさか、まさかだよそれは」


 鏡花は辛抱強いというか、他の人と時間の感覚が違うというか、一段上るのにどれだけでも時間を投与できる人なのだ。似た者同士惹かれ合う……鏡花は私に惹かれてるんだろうか?正当な評価とかフィードバックを貰ったことがなかったから、初めての感情を伝導した私が神々しく見えているだけかもしれない。


 鏡花一人だと速いけど、私と一緒だと歩く速度がゆっくりになって、こんな風にバスの時間に丁度良くなるらしい。


「このバスを見送って、もうちょっと一緒に待ってもらってもいいんだよ」

「うーむ、気を付けて帰ってね」

「そう言われたら、絶対に事故れないじゃん」

「自分の命ぐらい、誰に指図されなくても守ろうとしなさい」


 鏡花はICカードをタッチしてからも、三回は振り返って、バスの中から私を見送ってくれた。逆だったはずでは?


 さーて、校舎に戻るかー。その辺を歩いてれば、やることぐらい見つかるだろう。そう思って引き返していると、建物から安栗たちが群れをなして近付いてきた。


「うおーい、よっすー、ぎゅっ」


 いち早くこちらに気が付いた安栗は、相変わらず背中に殺到する。こうやって私の首枷になれるのは安栗の特権である。冬とはいいものだ、人の体温さえも分厚いコートが遮断してくれる。それに鑓水が常日頃指摘しているように、安栗の声はやかましいけど、そのおかげで思いやりとかが感じられなくて助かる。だからと言って、質量が消滅するわけではないけど。


「満足した?」


 私は安栗の手首の皮をつねって、首をひねってこわめに訴えてみる。しかしびくともしない、懲りもしない。


「今から……何か、そう何かをするから!来てよ!」

「年中全休のてめーと違って、生徒会長なんだから忙しいでしょ。よっすー、私たちに合わせなくていいからね」

「あらー。忙しいならしょうがない」


 安栗が私から離れて鑓水の隣に並ぶと、手をばさばさと振った。つねったのが、思いのほかダメージになっていたらしい。さらにその後ろに視線を向けると、露崎と刑部が凍えながら接近してくる。って、刑部!?背中だけ分離して浮いて行ってしまうような感覚が私を襲う。


 すぐに自然に気配を消して、安栗のヘラヘラしたかんばせを凝視してみたけど、刑部は安栗たちと遊ぶ約束をしていたようで、スルーしてくれなかった。


 これはむしろ、和解を申し出るチャンスなはずである。でも失敗したくない。だから、然るべき対策と言い訳と間と時と場合の上で挑みたかった。あーあ、この私がこんなに狼狽える羽目になるとは……。それくらい驕慢でないと、体裁どころか形を保ってられない。


 昼のことがあったから、露崎も私を確認するや否や、吃驚して口を半開きにして、首を振って私と刑部を交互に見ている。そしてやがて絶叫した。


「あっ……、あぁー、うわー、あー!」

「どうした?」

「安栗の馬鹿!扞格してる二人を鉢合わせるなんて!」

「落ち着いてー。なになに、何のこと!」

「安栗は馬鹿だけど、そういう馬鹿じゃないから。何のつもり」


 いやまあ、安栗が悪意または善意をもって、わざわざ引き合わせるなんてことはしないだろうけども。それが露見すれば、鑓水がぶん殴るだろうし。これは偶然の産物、混乱の渦から一歩引いて元凶同士見つめ合ってみると、刑部も面食らった面持ちをしているのが分かった。あっちも同じことを思っているだろう。


「ごめん、よっすーがいるなら、いいや。また今度誘って」

「ちょっと待って。そんな言い方はないよ」

「そうとしか言いようがないんだもん」

「よっすー悲しい顔してるよ、ね?」


 露崎も運動部に所属してるだけあって、力と反射神経がある。台詞を言い切る前に、流れるように消えようとした刑部の手首を、しっかりと握っていた。露崎の腕が、手綱のように張った。舌打ちの幻聴が聞こえた。


「そこまでして引き留めても、雰囲気が悪くなるだけだよ、露崎」

「それでも、私はみんな仲良くありたいから、我慢するよ」

「人には欲があって悪癖があるもの。妥協しきれない人は、パージしないと私が壊れちゃう」

「そんな……二人は一緒に老いて死ぬものだと、なぜだかそう思ってたのに……」

「そういう事を言う人も嫌い。よっすーを何もわかってないから」


 刑部が睥睨すると、露崎はあっさり屈した。解放された刑部は、余韻もなく走って逃げていった。私に対しては、触れればあーなるって警告にも聞こえる。とにかく、今は私も頭を冷やしたい。刑部から距離を置きたい。彼女の求めるものを、綿密に求める時間が欲しい。


「よっすー、追いかけなきゃ!」

「えっ、はぁ?」

「何があったか知らないけど、誠意は見せるべきだよ。余計なのがいない方が、仲直りしやすいでしょ?」


 そういう問題じゃ……とか言いかけた時、安栗の視線も感じて舌が引っ込む。つべこべ言って逡巡するなんて、縁佳らしくないってか?


「待ってよ……。もう少し頭を冷やさないと、またすれ違うだけだって」

「それでも、まだお互い関心がある内に対処したほうがいいって。私も困るしさ、二人が仲悪いのは」

「うん、安栗の言う通りだと思う。あんなに仲良かったんだから、きっと何とかなるって!」


 私たちの友情は、刑部が我を通すための猶予に過ぎなかった。果たされないと確信したら、我を忘れたくもなるだろう。そんなつもりで背中を押してるわけではないだろうけど、忘れられたら取り返しがつかないわけで、二人の言い分も道理は通っている。だから、早く手は打つべきなんだけど。


 体が動かない。私だって動揺している。この関係が虚栄だったなんて、私の価値が著しく下落するようで、正しさの尺度を否定されるようで、何より今さら生き方を変えたくないという怠惰が、損切りを拒んでいる。とりあえず、何もしなくても状況が好転していくことを静観する、無益な時間が私は欲しい。


 だが、それでは平島縁佳は務まらない。だから刑部の後を追う。寒くても目が乾燥しても気が進まなくても、地面を蹴る。約束を結んだあの日は、確かに信頼されていた。私はきっと、幻影を追いかけているのだろう。だとしても、それを知るのは刑部だけだ。過程がどんなに泥臭くても、結果が伴えば認められる。そうだ、仲違いしてることが知れ渡る前に、しれっと解決してしまうのが一番いい。露崎たちの行動でさも改心したかのような振る舞いを忘れずに、そして自分を鼓舞して、刑部のあだ名を叫ぶ。


「息一つあげないなんて、手抜きにも程があるでしょ」


 これだけでは無視されるかと思ったが、電柱一つ分の距離をあけて刑部は立ち止まり、体ごとこちらを向いた。庭の巨木が北風に揺さぶられて、閑静な住宅街がどよめく。刑部は前髪を押さえて視界を確保し、私の峻厳な表情をにやりと笑う。


「私は、かっこつけるのが上手いことしか取り柄がないからね」

「今さら言われなくても知ってる」

「だろうね」

「じゃあ、してほしい事はわかってるよね」

「私は洞窟ちゃんと仲直りしたい。もちろん露崎とか、皆それを望んでてさ。何一つ変わらない青春を一秒でも多く渇望してる」


 刑部が目を瞑って私の欲に、自分の欲と相容れない欲に耳を傾ける。生命力のない冬の空気で静かになる。私は回答を待った、透き通るように冷たい空気を意識しながら、彼女の目が開くのを待った。


「もう一度聞くけど、よっすーは私と付き合える?」

「友達以上の関係と」

「そう。言い換えるなら、私があなたの心に踏み込んで、かき乱して、時に作り替える永遠の権利を、私にくれるかってこと。当然、よっすーにも同様の権利をあげるよ」


 刑部はこれ以上なく柔和に交渉する。つまり、これ以上譲歩するつもりはないということだった。私の嫌がることをやってのけますって、刑部は主張している。


「自分の年齢を考えてから言いなよ。もっと粗忽に生きていいはず」

「あら、今になって故意に妥協するのね」

「だから、この通り私は洞窟ちゃんと縁を切りたくないんだって。繋がりは自然に擦り切れるものだから。自分で刃を入れる必要はないんだよ」


 まあ、ダメだろうなぁと思った。私の在り方が、もう刑部にとって都合が悪い。空気は人間の心理を読む。実像が屈折して遠のいていく、霞んでいく、過去に埋もれていく。諦めだけが未だに付かない。遍く人類と仲良くなって、誰も置き去りにしたくない。そういう高尚な欲だけが胸を締め付ける。


「あなたの辛抱強さに甘えてた。そ、それは認める。だから、だけど時間をください。もう少しで受け止められるから、理想的になれるからっ」

「あんな関係を望んでおいて言うのもあれだけど、よっすーって他人の感情はやたらめったら汲み取るけど、それを自分で感じようとしないよね」

「絶縁をこれだけ必死に止めようとしているのに、そんなはず……」

「私を好きであるなら、私と付き合うならば、私を頼りにできる?どうせこれだって、自力でどうにかしちゃう。余裕が溢れてるんだよ。私は意図に反して、付け入る隙のない幸せ者を生み出しちゃったのかもね」

「余裕なんか、どこにも無いけど……」

「それでも本当は、どれだけ阻まれたって進めばいいはずなのに、あなたを想うあまり、これが限界でさ……。ここよりどこにも進めないのはお互い様。少しばかりの良薬を噛みしめて、次に進もうよ」


 足元に目線を落とす。さっきと同じ位置にマンホールがある。私たちはずっと、ぼやけた声でやり取りしていたんだ。それ以上を求めない、いつもの事なはずだった。顔を上げると、無論刑部はいなくなっている。万事休すかぁー……。ふぅぃーと息を細く吐いて、何かを成し遂げたと体を勘違いさせてみる。そしてこの先に一体、どんな奇跡が待っているのか、期待を膨らませるために、冷ややかな息をすすぅーっと吸い込んだ。



「よっすー?」

「ん?何かあった?」

「いや……。あれから、洞窟ちゃんから連絡来たりした?」

「まだ時間が欲しいみたい……多分ね」


 歯切れが悪い、と自戒してみる。こんな風に、進展がないことを隠す必要はあるんだろうか。露崎なら、とっくに悟ってるような気もするけど。


「そっかぁ。私への返信も素っ気ないし……。淋しくなるなぁ」


 露崎は自分のスマホを確認して、眉毛を八の字にする。半分は私のせいだから、どう弁償すればいいのやら。


 あれから二週間ほどが経過した。クリスマスの日から数えれば一か月ぐらい。グローバル経済と同じで、二者間の問題には留まらず、露崎たちの人間関係にも少なからず変化を与えている。そして何より、みんな心優しいから、切に仲直りを願っているのだった。だから私はそれに応えなくてはならない。そういう観点で、その潮流は私にとって都合がいい。


 友達を一人失うだけでも、私の心は大時化なのである。あの時、我を忘れて刑部に肉体的に縋り付いてみれば、付き合って無限の愛を確かめ合ってみたら、そして鏡花の世間知らずさに惑わされなければ、こんな暗澹たる毎日を過ごさなくて済んだのに、と、割と本気で時間を巻き戻したいぐらいには荒れている。どうせ、何度繰り返したって、私の本性というのは変わりやしないのに。


 廊下でたまたま会っただけの露崎とは別れて、体育館に足を運ぶ。この件で不登校になることもなく、刑部は毎日教室で見られるし、何ならこの間の席替えで、手を伸ばせば届く距離に移動していた。でもまあ、近過ぎるのも考えものだし、こうして部活中の刑部を、仄暗い体育館の二階から眺めてみたりすることにした。


 刑部は激しく、刹那的に夢中で練習に励んでいる。結んだ髪束が舞い上がって、絵になる光景が続く。ふと、いつから二本になったのかが気になった。それより粗が気になる。いやまあ実際問題、引退したとは言え、私のほうが突破力とかシュートの成功率とか、刑部よりは勝っているだろうし、階段を下りて話しかけたくもなった。下りられないなら、それは階段なのだろうか、梯子かもしれない。


 で、こんな事してても何も変わらない。意味がない。むしろ、向こうに気付かれたら恥辱の極みなだけ。はぁーーーー…………何してんだろう。息を吐いてばかりで、血中酸素濃度が急落している。


 バスケットボールが飛んできた、こんな所まで。柵に掛けていた手を引っ込めて、その場にうずくまる。殺意のある速さだった。命の危険が、確かにそこに存在した。


 頭上を通過したボールは壁に弾性衝突して、その直後に私の横腹に衝撃が走る。しゃがんでいられなくて、膝と手を床に着いてしまう。血反吐でも出るかと思った。誰かが階段を駆け上がる音が、練習試合中の轟音の中、薄っすら聞こえてくる。私は横腹を左手で擦りながら立ち上がって、ボールを右手で確保した。


「あぁーっ、だいじょーぶですかぁーっ!」

「虫垂が吹っ飛んだ」

「大事だ!……って、逆じゃない?」

「まー平気よー」


 階段を上ってきたのは顔見知りだった。一昨年の県大会で、一緒にボール回しをした人。とてもバスケが上手い人。高校生になっても挫折を味わわない天才。名前は本間陽菜とでも言ったっけ。


「私の存在にむかついた?」

「そ、そんなわけないない!なんかね、虫が飛んでたから、撃墜しようと思って、そしたら勢い余って」

「できた?」

「できた」

「それはすげー」

「って、あの時の、あの人じゃん!」


 向こうは遅れて今ごろ気付いたらしい。指さして、全身で驚愕している。まあかく言う私も、初めてこの学校で陽菜の姿を目撃した時は、自分の目を疑った。改めて全身くまなく見てみたが、あの試合で戦った時と、身長も容姿もあんまり変わってない。そのまま、二ツ岩中のユニフォームを着せても違和感がない。まあ、若さを保てているということにしておこう。そんな年齢ではないけど。


「運命だねーっ」

「私のほうが一個下なんだから、狙ったのかもよ?」

「なんで?」


 陽菜は首をかしげる。それが最も正鵠を得た反応だと思う。私も、ほぼ初対面の人に冗談を飛ばすものじゃないと反省した。


「今日は部活しないの?」

「時々、応援で混ざってるけど、入部してないんですよ」

「あ、そうだっけ。んじゃー、尚更なぜここに?」

「生徒会長だから、何か問題が発生してないか、たまに学校を巡回してるの」

「なるほど~、仕事熱心だ~。でも、バスケ部は特に問題ないよ」


 ここで昔話に花を咲かせて、刑部に発見されたらそれこそ一大事なので、この辺でお暇させてもらうおうと、ボールを投げて返したら、陽菜のほうから呼び止められた。


「あっ、待って!」

「どうかした?」

「えーっと、ここで会ったのも何かの縁ってことで、今度さ、本気で勝負しようよ。あーもちろん、何かを賭けたりとか、そういうのは無しでね」


 陽菜が前のめりに提案する。音吐に興奮と自信が入り乱れる。天賦の才とはこういう物なのだろうな。単純だけど軽快で、誰も追いつけない。


「そんなに歯が立ちそうに見える?」

「うん。あの時のよっすーは、なんだろうな、殺気立ってたから」

「そうだっけ?」

「ボール回しじゃなくても、私にも勝てそうだった。そりゃあ、あの場でそっちがリスクを冒す必要はなかったけど、とにかく気になるんだよ!どれだけ強いのか、試させて、お願い!」


 陽菜はボールを肘で挟んで、手を合わせてお願いしてくる。そうも純真な心持ちで頼まれると、受けて立たないわけにはいかないかぁ……。まあ、陽菜にバスケで敵う者がこの学校にいないことは、全員が同意することで、これで負けても私の沽券は傷付かないだろう。生徒会長だし、生徒の要望にはできる限り応えよう。挑んであげることにした。


 後日、生徒会長権限でどっかの部活から体育館を取り上げて、陽菜の闘争心を満たすための勝負を実施した。豁然とした体育館に、私と陽菜とその友達の三人だけ。ボールが床を突く音だけが何度も反響して、深海に沈んでいくような感覚にもなる、寒いし。


「着替えなくていいの?」

「さみぃーんだもん」


 ボールを持った陽菜に隙というものは無く、会話しながら出鱈目にドリブルしてるだけでも、反応速度の差でそれを奪うことは叶わないだろう。


「動けば暑くなるのに」

「そもそも、制服のほうが着てる時間にしたら長いから、慣れてるのさ」


 そう言ったら、陽菜は意味なくにっこり笑った。冗談で笑ってくれた。


 さて、陽菜の友達からボールを受け取る。当然のように攻撃側をさせてくれるらしい。いや、それでも勝てるって算段があるってことの裏返しだけども。


 しかし、相対してみたけど、全く気迫がない。無論、本人は全国大会にもふさわしい闘魂を宿して、十分な気合で構えているのだけど、それでも、私でも抜けそうだなぁって気持ちにさせられる。結局、かつての私が変な罰を押し付けたせいで、直接コートで対峙するのは初めてだから、その恐ろしさというものが身に染み込んでないのだ。


 まあいいや、砕けないと終わらない。そう言えば、何本先取とか何も決めてないけど、陽菜のほうがもうやる気になっちゃってるし、さっさと私は弱いって分からせてあげよう。まずは投げやりにドリブルしながら、無策に突っ込んでみる。


 彼女はフェレットなどと称されていただろうか。全身をしなやかに運用して、かゆい所に手を届かせる。どういなそうとも、必ず追随してきて、見知らぬ空間を生み出してそこから腕とか脚とかをねじ込んできて、どんな攻撃も見切られているようだった。


 本当に、私が可能な全ての動作に対して、陽菜は対応できるのか。いや、そんな事もどうでもいい。余裕そうなのがムカついて、必要以上に色んな物を強く叩く。怪我しても、私は部員じゃないから困らないし、向こうが降参するまで、とにかく突撃あるのみだ。


 ——勝てるわけなかった。なのにちょっと頑張っちゃって、息が苦しい。床にへたり込んで、天井を仰いで、首筋を汗が伝う。休憩していると、陽菜の友達が駆け寄ってきて、中腰で私を見下ろしてきた。


「どうして、陽菜なんかと対戦したんだ……。知り合いじゃなかったの?」

「そうだけど……。負けるって分かってても、やらなきゃいけない事もあるんだよ、はぁ」

「勇者にでもなったつもりか?おい陽菜ー、ちょっとやり過ぎじゃないー?」


 ボールを戻してきた陽菜がこっちにやって来る。んー、だいたい回復した、心拍数が下がり始めた。強すぎて、本気なんて出す前に終わったから、たいして疲れなかったんだな。私は手を床について、のっそり立ち上がる。


「いい戦いだったねー」

「陽菜……性格悪いよ」

「え?引退してそれだけ動けるなんて、中々やるね!」

「あっまあ、中学生の時、色々ありましてね……。気にしないで」


 友達は陽菜を睨んで訝しんでいるので、能天気な陽菜の代わりに誤解を解こうと試みた。そこまで言うなら……と、矛を収めてくれたが、釈然としないらしく、流し目に陽菜を牽制している。


「でも、本当に、私が健闘できるビジョンが見えた?手加減しようって気にはならなかった?」

「本当だよ!二年前のあの日、敵にも味方にもボールを渡してやらないっていう、強い覚悟と突破力に、私は興奮したし、応援したくもなったし。あと何より、その前に一戦交えておけば良かったぁっ、って思ったの」


 二年前とか思い出したくねぇー。そもそも、私がそうやって独断専行するから負けたんだし、褒められることは一つもない。


「でも去年の大会は、人違いかと思うほどプレイスタイルが変わっててびっくりした。何があったのかは知らないけど、いいリーダーになっててさ。よっすーの下で、完璧な連携が図られてた」


 しかし陽菜は一人で善戦を押し上げ、全てを薙ぎ払う実力を持ちながら、みんなに好かれて慕われているのである。もしかしたら、私の上位互換なのかもしれない。


「それで、陽菜は何が言いたいんだい。牙を抜かれたライバルに、叱咤激励でもしたいの?」

「永久歯をもう一度伸ばして、かかってこいって事かな」

「違う違うっ。何だろう、そっちの方が似合ってるっていうか、えっとぉ…………昔の人の言葉で…………何だっけ…………」


 陽菜は二の腕を掴むように腕を組んで目を瞑って、私たちの淡白な視線をカットする。


「あーもう、首まで出かかってるのにぃーっ」


 今度はぴょんぴょん飛び跳ねた。それを聞いて陽菜の友達が嘆く。


「いつもそればっかり……」

「二人とも!昔の偉い人の名前言ってって!」

「三条実美」

「武則天」

「誰!?」

「厩戸皇子」

「豊聡耳皇子」

「誰!?その2」

「聖徳太子のことですよ」

「あぁ、聖徳太子だ!和を以て貴しと為す。そんな感じ!」

「たかしって誰やねん。とうとしやぞ」

「えぇっ!?恥ずかし、ちょっとどうしてくれんのさー」


 陽菜が友達の背中をばんばん叩く。その強さは、喉に物を詰まらせたときにやるやつじゃないか?さっきの、言葉に詰まってる陽菜にやってあげるべきだった。


 しかし、和を以て貴しと為す、か。割とその通りかもしれない。和の中に刑部がいないことは、やっぱり許せなくて、諦めるのは無理だし向いてないのだろう。陽菜に惨敗して背中を押される。誰も見捨てたくない。こうやって、いい出会いだってあるのだから、刑部と友達ならもっと僥倖を拾えるはず。私は、まだ刑部のことで悩む決意を新たにした。

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