5-2
毎日祈るように、私がここに存在する意味は何だろうと思索する。今日も無いな、よし、カゴの中からバスケットボールを一つ手に取り、この私の肩が外れるほど強く投げる、先輩めがけて。
隣には、私と同じく二年生で存在理由を見出せてなさそうで、漫然と部活を続けてそうな奴がいるけど、人前では感情をひた隠しにすることしか能がないそいつを狙っても、あーそうそう、私が存在する理由は見つけられない。だから、怒らなくても怖い先輩にした。
こんな事をやらかしてしまったら、さっきまで後輩に浴びせていた罵声も、響いて混ざり合って何言ってるか分からない雑な談のざわめきも、全てが一挙に停止する。先輩の側頭部に命中したボールが何度か床で跳ねる音と、ギャラリーの窓からカーテンを巻き上げ吹き込むそよ風の音だけが、体育館を支配する。親を認識してる聡いボールを拾い上げようとすると、先輩が青筋を立ててこちらに迫ってきていた。
「どういう了見だ、ゴルァ」
「はよ練習始めろや」
「はぁ?一人で勝手に始めてろ」
「バスケって何人でやるかわかってんのか?」
「お前はボール回しの練習で十分やろ」
よくもまあ、他人に対して大上段に構えられるものだ。余程ストレスな何かがあるんだろうか?誰かの憂さ晴らしに巻き込まれるなんて、それはそれで不服なので、わざとらしく嘲笑って、鬱憤を増やしてあげた。ついでに、ボール回しも披露しておいた。
「ほーん、上手いこと言ったつもりかー。そうだねぇ、こっちはてめーのせいで試合出られないもんねぇ」
「下手なくせに生意気な奴だな」
「碌な知恵も知識も年の功もないのに、後輩に説教かましてる人に言われたかありませーん。わっはっはー」
回してたボールをカゴに投げて、あえて二階の窓越しの雲底に目線を合わせながら、覇気なく手を叩いてみる。首を傾けて流し目に先輩の顔を見ると、それはもう、怒髪天を衝く勢いでお怒りになっており、一発殴ってわからせてやろうと、腕が震えていた。
「いい加減にしろよ、口の利き方に……」
「磐田、落ち着いて!平島なんかのせいで推薦取り消しとか、そんなんやばいっしょ!」
脳の重さが体重の0.04%ぐらいしか無さそうな別の先輩がすっ飛んできて、強引に距離を空けようと、向こうの肩を支点にこちらの肩を思いっきり突き飛ばしてきたので、流血沙汰は回避された。ふぅ……、しかし倒れはしなかったけど、鉄骨の断面が突き刺さったように、胸の上が痛む。運動部に入ってしなやかな体を手に入れてなければ、尻もちをついていただろう。
うおー、男の前ではペットボトルのキャップも開けられなさそうなのに、白い粒々のフィルター使ってそうな女ってこえぇー。そう思いを巡らせながら、見せびらかすように患部をさすってあげる。
「平島は一生磐田に関わらないでぇっ。いいね!?」
「じゃあさっさと引退して」
「全然卒業後も顔出してやるよ」
さっき推薦とか聞こえたし、少なくとも今年度いっぱいは入り浸るんだろうなぁ。ということは先輩をたくさん挑発できて、それだけ推薦を取り消させるチャンスも多いということである。まあ、そんな他人を陥れるようなことをする気にはなれない。心が痛んでしまう、ほんとに。
ゴールの下でお互い相手を見下し合い謗り合っていると、うら若い女性の顧問が、壁に寄りかかって下の窓から脚を涼ませながら雑談したり、ここへ来てまで床で課題をやってたり、誰も練習してない体育館にやって来る。
えぇご安心ください、うちの顧問は怯懦な性格で、女子中学生相手にとてつもなく下手に出ている。バスケに関する知識はあるのだが、それを伝達するのも逡巡してしまう。見てて居た堪れないからか顧問が二回手を叩き、靄がかった小声で集まってーって言うと、どかどか足音をかき鳴らしながらみんな集まっていく。パワハラモラハラ先輩も、別な先輩に手を引かれてそっちに行った。また私が勝ってしまったな、勝っても何にもならないけど。
その後は普段通りの練習が続く。そう、代わり映えのない水面下の対立が、練習試合中でも横たわっている。決して味方は私にパスしない。だから力ずくで奪い取る。仕返しに体当たりをかまされる。そのおかげで体幹が鍛えられた。それより、もっと重厚な体躯が欲しい。標準的な身長に、ちょっと軽い体重ではなめられるに決まってる。
練習が終わったら、更衣室から制服とかを回収して、一番乗りで学校を後にする。どうせ家に帰るのだから着替える必要もないだろう。汗だくだとむしろ、そよ風の清涼感が得られる。風邪を引きそうなぐらいが丁度いいのだ。
身も心も揺さぶるバスドラムのような足音に、運動部らしい掛け声で轟々とした体育館とは対照に、静まり返った夕日に染まる街を、感傷的な気持ちになっている自分に耽溺しながら、せかせか歩く。
「待ってーっ」
学校を出て間もなく、バスケ部の中にごまんといそうな声で、背後から呼び止められた。右肩に触れた手を厄介払い、横目で斜め後ろを確認してみる。ユニフォームから着替えずに、こんな私を走って追いかけて、さらに息まで切らして。いくら練習が緩いと言ったって、無駄な労力を費やせるほど余裕はないだろうに。
「はぁはぁ、……急いでるの?」
「別に」
誰だか同定するのも面倒なので、袖にして前を向いた。ここまでしてきた以上、食い下がってくれることも無いだろうし。
「さっきは、あの、ありがとうございましたっ」
「ふぅーん、溜飲が下がったかー」
まるで先輩に媚びへつらうように、私の横で几帳面に頭を下げられる。先輩が練習前に何をしていたのかと言えば、体育館の倉庫の前でこの後輩を気持ち良さそうに折檻していたのだった。私はそこに一球を投じてしまったのである。
で、感謝を伝えられて満足かと思いきや、いつになっても学校に戻ろうとしない。
「……次からは自分で一矢報いてねー」
「いやっ、そういうわけでは……」
「胸がすくでしょ。してやったりと思ってるでしょ。いいんじゃない、あれだけ虐げられてたんだから、その怨恨をぶちまけてもバチは当たらないよ」
「磐田先輩に恨みがあるとかじゃなくて、ただ何というか、あなたに感謝を伝えたいだけで……」
「えー、じゃあ伝わったから。ほら戻りな」
「伝わって……るのかなぁ……」
私が学校の方角を指さしても、そいつは目を伏せて、しかも歩調を合わせてくる。適当にあしらおうとしているのが、さすがにあからさま過ぎたか。
「そもそも、伝えて、どうするの?」
「えっ、どうもないよ、ないけど……。普通は伝わるんだけど、えっと、平島さん何考えてるか分かんないから、ねぇ……?」
そいつがゆっくり目線を上げる。何考えてるか分かんないのに、表情をうかがう必要はあるのだろうか。
「私が普通じゃないってこと」
「あんなに末恐ろしい先輩に大立ち回りできて、普通ってことはないよ」
「まー、そうだねー」
自分でもよくわからない感情を催すことはあるけど、少なくともその感情でもたらされる行動が、往々にして普通でないことは自覚している。しかしこの無駄で一瞬な会話を通じて、自覚してることを明かしちゃったので、気が済むどころか話の通じる奴だと認定されて、先輩のサンドバッグはそこのコインランドリー前の自販機に駆け寄っていった。
「何にしようかな。何を飲んでほしい?」
「水道水」
「この中で選んでよ」
「いや、私は買わないよ?水筒で十分だから」
別に奢れという意味ではなかったのだが、ジュースを二本買って、押しつけがましく缶を開けて渡してきた。普通じゃない私にそんな事までする人だから、拒否しても碌なことにならないと思って、穏便に受け取ってみる。
「いいよ、私の奢りで」
「うーん、どうもありがとー」
無警戒に口を付けると、彼女も微笑みながらもう一本を取り出して、私と同じもので喉を潤す。
「よっぽど怖かったのね、あの先輩が」
「まっまあ……。前は引っぱたかれたし」
今日は運が良かっただけで、私も何度か蹴りを入れられている。それにしたって、こんなか弱い少女をいたぶるなんて、私みたいに反抗的なわけでもないのに見境ない奴だ。さすがに懲らしめてやろうという、正義感が湧いてこないこともない。
彼女は駐車場に回って、建物に寄りかかりながら、長話をさせようとしてくる。久しく安穏な会話をしてなかったが、喧嘩腰でぶつかり合ってばかりで、普通の会話を忘れてしまうと将来困りそうだから、おにぎり二つ分の距離を置いて並列してあげた。
「下の名前はなんていうの?名字はー……よく悪名として聞くけど」
「んー?縁佳だよ」
「うん、覚えた。私は2年F組の刑部真琴。知らないよね」
「あぁ、あなたが刑部だったのね」
「え?なんか噂になるようなことしたっけ?」
「同じ部活の人の名前なんだから、目に耳にすることぐらいあるよ」
普通じゃない振る舞いを想定していたようで、刑部にくすくす笑われた。私をここまで恐れないのに、じゃあどうしてあの先輩には畏怖してるんだか。どう転んでも謎が深まるばかりだった。
「ていうか、付き合ってくれるんだね、こういうのに」
「珍しく敵意がない人だったから、何考えてんだろうなーって。むしろ、そっちは私なんかと話してて、その様子を誰かに見られたらまずいんじゃないの?」
「さあ。……いや、あんまりやばくないと思う」
刑部はまた一口ジュースを飲んでから、夕陰に根を張る強い眼差しと共に、前言を撤回する。
「良かった。悪者にはなりたくないからね」
「そ、そうなんだ……」
「そうだよ?」
「えっと、一人でいるのが好きなの?」
「そうねぇ、そうかも。一人は気楽でいいよ。辟易するほど群れたことないけど」
「ほら、たっ例えばさ?友達が欲しくて、ちょっかいかけちゃう的なやつだってあるじゃない?」
そんな博打を打ってまで、友達とは求めるものなのか?別にこれはルサンチマンというわけではなく、バスケ部ではこの有様だけど教室には友達がいるし、今までだって仲良くなっては疎遠になってを繰り返してきた。その経験の上で、私は一人でいることを選んでいる。友達なんて、突いてほしくない部分を深掘りして、見せたくないものを見に来て、辛い時ほど傍にいて、都合の悪い存在でしかない。
「ちょっかいどころか、喧嘩売ってる自覚はある」
「それは良くないよ。話せば分かり合えるのに、全く凶暴な人じゃないのにっ」
「例えば私たちも、友達になったら一か月後ぐらいに分かり合えなくなるよ」
「そうかもしれないけど、一人がいいなら、完全に人と関わりを断つことだってできるのに、それをしないのはなんで?」
「それは簡単。私が存在する以上、中々みんな無視してくれないんだ。あの先輩だって、顧問に私に対する讒言をぺちゃくちゃ言いやがるから。それで毎回試合に出してもらえないの」
席替えをすれば近くの人から話しかけられるし、街で物を落とせば拾ってくれる人がいる。たとえあまりに俗物な先輩であっても、無視したくないという気分になってしまう。生きづらい矛盾の詰まった性格だなぁと、嫌気がさしているけど抗えない。
「そうだね。一回、真面目にやってるところ見てみたいかも」
「確かに、いつも味方からボールを奪ってばっかりだもんね」
「結構、体格がいい人にも食らいつけてるし……。やっぱり顧問に交渉して、試合に出してもらったほうがいいよ!あの先生なら、たぶん認めてくれるって」
「そんなことしたら、余計なやっかみを買うよ……」
「今更?あんな事やこんな事しておいて?」
さっきまで笑顔だった刑部の顔色が変貌する。結局こうなる。私の為を思われる。
「じゃあもう、あーいう風に、先輩にボールをぶつけるとか、やらないでね」
「えぇー、そうなの?そうして欲しくて、ジュースまで奢ってくれたのかと。喜んでやるけど」
「……悪者になりたくないんでしょ?って言ったよね。だから……」
そうやって、刑部も私を正しい方に導こうとする。知ってた、だって見るからに、刑部は綺麗な正多角形のレーダーチャートを持つ、普通の女子中学生だもん。相手と敵対してなかったら、悪辣になるわけない。
睨みつけたり、あの先輩みたいな言葉で傷をえぐることも頭に浮かんだけど、話の腰を折って、飲みかけの缶を押し付けるだけにしておいた。
「悪者に仕立てられてるの。人類がお前みたいな奴ばっかなせいで」
「じゃあ私が磐田先輩たちに、あの、うん、言っておくから……!」
「いいよぉ、そういうの。あなたは波風立てず生きてて」
何を言うつもりだか知らないけど、というかどうせ絵空事だろうし、もっとうざくなる前にそのままお暇させてもらう。体の火照りはすっかり霧散して、風流だなどと言いにくいぐらい汗が冷たい。一応、二本電柱を過ぎた辺りで振り返ると、まだ同じ姿勢で、同じ場所にて黄昏ていた。おぞましい、早く荷物を取りに学校に戻れよ。刑部を馬鹿にしていたら、気が付くと私も走っていた。体力あるんだなぁ。
私は試合に出たいと渇望してるわけでもないし、先輩と中学生らしい関係を築きたいわけでもない。それも確かなことだ。刑部もきっと、それを理解していない。
あーあ、どうせこうやってお互い不愉快になるのに、それでも応じてしまうのは、反骨のためなら小学生みたいな行為だってする幼稚な所より、よっぽど悪い癖だ。また一人、犠牲者を生み出してしまった。いっそ血迷った奇行で、もっと触れ難い存在になるべきなのかもしれない。と、皆のために嫌われようって、百回思いついて、百人同じ手法で不幸にしている。
瑞々しい風が部屋に吹き込み、教室で乱流を作る。後ろの黒板に貼られたプリントとか、クリーム色のカーテンが舞い上がる。それで入道雲が波打っているのが垣間見えた。何度目の夏かな、十四度目かぁー。
こんなに季節を浴びているのに、俳句の一つも浮かばない。昔の人は凄いなぁーって思っていたら、成績表を手で押さえながら、真向いに座る担任が重い口を開く。
「成績は優秀なのですが……。いかんせんですね、生活態度に少々難がありまして……」
そうねぇ、担任の嘆く通り、色んなものに手あたり次第当たってるからねぇ。英語の授業なら先生が通りがかったタイミングに、英語でまくし立ててペアの相手を困らせたり、裁縫道具を忘れたから家庭科の時間は寝て過ごしたし、給食当番なら全員多めに盛ってお代わりをなくしてやったり。相手の非を重んじて、今日までどれだけの悪行を積んできたことか。やってる事が幼稚とかどうでもいい。多分、私はこの世界が嫌いなんだろう、理由はない。だから、全方面に中指を向ける。
「そうですか」
「ご家庭では大丈夫なんでしょうか……」
「それが、よく家事もしてくれますし、特に問題ないんですよね」
「悩みでもある?」
「それを誰に言ったって解決しないことは知ってるので。説明しません」
フランクな口調で、少しでも口を滑らせることを期待されたようだけど、そっちが教育のプロであるように、こっちも半グレのプロなので、無論その手は食わない。俺みたいな中2で世界を見下してる腐れ野郎、他に、いますかっていねーか、はは。なんて、返せるわけないしね。悲しいかな、上手く言葉を練り上げて誰かに助けを求められたら、ここまで歪むことは無かったのに。
「そういう年頃ですし、仕方ないんですかねぇ」
「そうですかねぇ」
担任は苦笑いしながら、結局何の解決も見出さない。でもそれでいい、「そういう年頃」という言葉で言いくるめられるぐらいが心地いい。
「お母様のほうから、何か聞いておきたいことはありますか?」
「えぇっと、受験のことなんですが、どうでしょうか。どこら辺を目指せますかね……?」
「えぇ?あー、そうですね……。まだ二年生の夏ですし、そこまで真剣に考える時期でもないとは思いますが、この成績なら大体どこでも可能かと」
「それなら、白高とかでも大丈夫でしょうかね」
「それはー、……本人の努力次第な部分が大きいかもしれません」
担任は首の向きを母親からゆっくり私に回す。せっかくお行儀よく姿勢よく座ってるのに、まだ何か文句があるのか。夏の空を見上げたら、あてもなく羽ばたきたくなるものだろうが。話聞いてなかったことぐらい、ご容赦願いたい。
そんなこんなで、面談は長くも短くもない時間で終わった。教室から退出すると、端無くも刑部が通りがかる。で、その呼びかけをいつものように無視しようと思ったのだが、母親がまだそこにいるので、不承不承気さくに応じることにした。
「今から部活に行くの?」
「うむ。夏休みなんて、宿題以外にすることないからね。部活があって助かったー」
「あぁその、今体育館に行くのはまずいかも……」
「ほーん、その心は?」
刑部はなぜか手を丸めて口元に添えて、吐息混じりに話す。脊髄を逆撫でされるような感覚に見舞われた。我慢しろ、私。
「次の試合のメンバーに選ばれたよ」
「はぁ。どういう風の吹き回し?」
「さあね。でもそのせいで、みんな顧問に抗議してる」
あの貫禄も統率力も指導力もない顧問に、同年代の中学生にしてはガタイの良い輩が、寄ってたかって文句を喚いてるなんて、これは確かに今体育館に赴いたら大変だな。私が何もしなくても、周りが勝手に自壊していく。どうしてなんだろう、刑部も例外じゃないけど。
「何だかなぁ。空気も読めないの?うちの顧問は」
「勝ちに行ってるんでしょ。もう二年連続で佐渡の高校に負けてるわけだし」
「私が試合に出たら、勝てるの?」
「割と戦力になるほうじゃない?」
仮に私が切り札になり得る実力を持っていたとしても……いつも敵に塩を送ってるので、本番でも道を踏み外しかねません、とか言い訳しようかなぁ。いずれにせよ、私が出場して士気が下がったら元も子もないし、私が枠を埋めることで、誰かの恨みを買うのは本望じゃない。
「どこ行くの?」
「断ってくる」
「は?なぜ」
「一生に三度の大舞台なんて、役不足だからかな」
ここで逢着したのが運の尽きか。刑部が足をクロスさせながら、翻って進路を塞いでくる。
「試合に出ないなんて、何のために部活やってるの」
「特に意味なく始めたけど、他にすることないから辞められないんだ」
「……やっぱり、抗うべきだよ。自分から悪い方向に進もうとするなんて、間違ってる」
刑部の中には、確固たる正邪とか信条とか、自分の行動指針が形になっていて、それを体現するように睨まれる。しかしそれでも、彼女だって先輩に日々しごかれている。刑部も自分と同格以下の存在にしか抗えないのである。その呪縛を打ち破れと、私に期待を乗せているところまで見抜けた。
「私にはあなたが何を望んでるのか全然わかんない。だけど苦しいと感じてるなら、それは間違ってるんだよ。あなたの心が、そう訴えてるんだから」
甘く魅力的な正義に、鼓膜から脳に繋がる神経が焼き切れそうになる。本当に、どうすれば、その美辞麗句を一字一句解釈できるのだろうか。腹立たしいから分からないのか、分からないから腹立たしいのか、その因果も定まらない。確実なのは、刑部の瞳から溢れるその棘のような輝きに、吐きそうなほど嫌悪を感じるということだった。中二は中二病なぐらいが丁度いいのに。
「ふん、そっかぁー。でも現実的に、団結力が下がってむしろ弱くなるんじゃない?」
とりあえず鼻で笑って、余計な邪念を取り去っておく。思ってたより効果てきめんで、刑部は狼狽えてしまう。
「そこは、えぇーっとぉ、私が何とか説得する……」
「それ前も言ってたけどさぁ……。私のために何か行動しようとするのは、ありがたいけど……時間の無駄だよ、意味ないよ」
「うっさい、見てられないの!まともな人として扱われなくてさ、なんで平気な顔してられるの!?傍から見てるだけで辛いよ。一人の後輩として、一人の部員として存在するべきだ。そうじゃなきゃ嫌だっ」
誰かのために涙が流れることが、これだけ身近にあるとは思いもしなかった。まあ別に、実際に刑部が泣いているわけではなく、そうだってしてやるという図々しさが汲み取れただけである。真に迫った嘆き声に目も当てられず、気が付くと私は周囲を見渡していた、廊下の反対側までくっきりと見通していた。
長期休暇中の校舎内は特異点を除いて、時間が止まったように静まり返っている。私も刑部も、唇を固く結んでそれに加担する。あーあ、どうしたいのかも不明瞭なのに、どうするべきか説かれてもねぇ。そう、だから寒気がしているんだ、その演説に。
刑部は颯爽とターンして、私が進みたかった道を駆けていく。つまり体育館に向かっていった。まー決まっちゃった以上、出場するしかないかぁー。うーむ、やっぱり周囲が私を悪者になるチャンスをくれちゃってる気がする。私が進む道を、悪い方向に捻じ曲げている気がする。それなら仕方ない。
それで、刑部の説得も効果があってか、私が試合に出場することは揺るぎないものになってしまった。聞き耳を立てたところに依れば、磐田先輩を筆頭に相当非難囂々だったらしいが、こういう時だけ顧問が意固地になったらしい。一周回って顧問を辞めたいのかもしれない。
さらに顰蹙を買う要因として、近隣の学校と練習試合をしたら連戦連敗した。そもそも、試合の時間の大半はベンチでふんぞり返ってるだけだし、期待されるほど警戒されるほどの実力はないし、単純にチーム全体が未熟なだけなのだが、そんな曖昧模糊な事柄は批判できないので、私がスケープゴートにされる。
平常運転の人間臭い女バスだなぁと、安定感があるのはいいが、問題はあの刑部である。この現状は、刑部が避けたかった悪い方向に他ならないわけで、それを肌で感じるや否や、目に見えて落ち込んでいた。練習中にぼんやりして、ベンチでメンチ切ってる私に視線を送って、試合の展開に置いて行かれる。それで先輩に頭を下げる、叱られる、後輩に八つ当たりする。
目標があった過ちと、当てのない途方もない過ち、果たしてどっちの方が、気が楽なのだろうか。あー結局暇だ、早く年を取って哲学について論考できるようになりたい。あくびでも出ないかなーと口をパクパクさせながら、試合の行く末を素人目に眺めた。一年生が必死に試合の動静をメモしているけど、うちの部の何がダメなのか、戦術的な欠点とか、私にはさっぱりだった。
しかし私は私で、どこかで奇跡が舞い降りて、私が選手から外されるだろうと楽観視していた。奇跡が起こるのはちょっと遅かった。
「おい平島!ちょっと来い!」
「試合前のストレッチでー、忙しいんですぅー」
大事な試合だからと言ってストレッチなんかしてるわけもなく、無視して壁に備え付けられた巨大な鏡で髪型を調節していたら、磐田先輩の取り巻きに囲まれて連行されそうになる。べたべた体を触られるのは癪なので、運動部らしく小走りで駆け付けた。
「こいつが勝手にやった」
先輩は私をかっこ付けて指さす。
「あぁん?証拠はあんのかよ!」
「推論なら」
おー、他校に喧嘩を売ったのか?向こうも威容のある人を屹立させて、こちらを威圧してくる。確かに、こういう時に先輩の後光にあやかれたら、有利に事が運ぶだろうなぁとは思う。
それで、何事かぐらいは興味があるので、指先を揃えて比喩的には指を咥えて冤罪を被りに行く。
「重要なのは佐渡のフェレットの、隣の靴に画鋲が入ってたこと。こいつは私たちとトラブルを抱えててね。うちの学校を陥れるためにやったんだ。だから、誰が引っかかっても良かった。何人も旭中のユニフォームを目撃してるっていうのも、犯人がどの学校か見せつけないと意味なかったから、あえてだったんだよ」
「それ、ほんとなの?」
「こっちは怪我人出てるんだから、あんまり適当なこと言うなし」
「やっぱり証拠が必要だよ。荷物の中を確かめるとかさ!」
二ツ岩中学校の物理的BIG3が、無謀にも磐田先輩に盾突く。今からでも私の荷物に忍び込ませればいいし、そもそも画鋲一本ぐらいならポケットに入れて持ち歩けばいい。立証できないということは、私も疑いを晴らす術がない。よく考えるなぁー。
しかし先輩が涼しい顔でその追及を無視し続けると、理論よりも感情が優先されて、ついに矛先が、静かに姿勢よく棒立ちしているだけの私に向いた。
「反論しないってことは、ほんとにやってるんじゃないの?」
「うわ、最低だし!」
「そうだそうだ、他校の人を巻き込むなよ!」
ものの数秒で、耳の痛くなるような声で私が犯人にされて、ふと横を瞥見すると先輩たちがほくそ笑んでいて、私はどうなっちゃうのかワクワクしていたら、体育館のちょうど角で足を延ばしてくつろぐ二ツ岩中の人が、膝から顎を離して三人を宥めにかかる。裸足の横に置かれた白の靴下は赤く染まっており、彼女が被害者だった。
「みっみんな、そこまで責めなくてもいいよ。痛くないし……」
「はぁ?こんなに血が出てて、よくそんな事を」
「マジ陽菜先輩ももっと怒るべき、いや怒ってください!」
「こういうのは調子乗りますよ!」
「えぇー、だってだって私だって悪いよー?人の靴履こうとしたんだから」
「そうだよ、そもそもなんで間違えたの!」
「いやー、靴の位置とか感覚で覚えてるから……」
「ずれてるじゃん!」
被害者は後頭部をぽりぽりと掻いた。敵方のエースは愛されてるポンコツという、私と対極の存在だったらしい。力による支配を築くうちの頭領とも対極だ。そして、純然たる敬意と友情で動いているから、向こうも簡単に引き下がらない。踵の絆創膏を屈んで確認した三人は、再び立ち上がって私たちに反目する。
「絶対許さない。大事にしてやるから」
「これは失格でしょ」
「うちらにそっちの事情なんて関係ないし。連帯責任だー!」
「えっ、ちょっ、いいからいいから、作戦会議でもしようよっ」
どうやら小耳にはさんだ情報では反則級のエースらしい彼女は、変に意識して踵に体重を乗せながら立ち上がって、三人を制止しようとする。一方、私の隣もどよめき始める。
「磐田!これやばいんじゃない、どうすんの、ねぇ?」
「しゃーないな、柄じゃないんだけど」
そう聞こえたから、こいつらが土下座してる様子が脳内で再生される。でも膝を折る前に、肉体的な浮遊感で親の顔さえも吹き飛ぶ。そして視覚が戻ってきた頃には、背中全体に激しい衝撃が反響していた。そこまで痛みはなかったが、先輩が私の胸倉を掴んで生き生きとしていた。
「おいゴルァ!てめぇのせいで、三年分の努力が水泡に帰す奴もいるんだけど、分かってんのか?お前調子乗ってるだろ、権力を冷笑して自惚れてるだろ!ほら、ガチで喧嘩しようよ、なぁ!?」
磐田先輩は拳を拵えながら、大声で私を折檻する。ここまでおどろおどろしく叱責すれば、私一人の責任だと刷り込めると踏んだのかもしれない。いずれにせよ周囲の大人もこれには反応してしまうだろう。それが吉と出るか凶と出るか。
「待って!いいよ、私と喧嘩しよう、それで解決、恨みっこなしだかんね!」
エースさんはしゅしゅっとジャブを放ってみせる。私も先輩たちもBIG3も、思わずそれに注目してしまう。
「だぁーかぁーらぁーっ、迂闊な発言は控えろし!」
不世出の逸材さんの勇み足を、三人が腕とか肩とか掴んで抑止する。その光景はさながら介護なんて名状したら失礼なので、かなり世間知らずなお嬢様ということにしておこう。
「うわぁーっ、ちょっと放してよー。いいじゃない、それで決着を付けよう」
「させるか!ばーかばーか」
三人は両手を広げて、佐渡の白眉の前に立ちはだかる。一方で磐田先輩からの圧迫は消滅する。あーあ、私が破滅しないと、彼女も満たされないんだろうなぁ。表情を確かめなくても、自分の背中に旭中バスケ部全員によって、黒く生温くドロドロした怨念を塗りたくられるような感触で、それを悟る。もうじき部活を引退する三年生への餞別として、一線を越えて本物の非行に手を染ろって?……ダメだ、私は悪い方向しか選べない、そういう自分しか想像できない。慣れないことは難しい。
「あっ、待ちなさいって。そもそもっ、中学生にもなって喧嘩とか、男子でもないのに幼稚すぎるよっ!」
刑部は一人で私の背中を拭いていた。彼女はうちの部の中で、私を見つめる視線が唯一無二の奇怪さを織りなす。それは今も例外ではなかったのである。そしてその思いが空回りした結果、気が付けば先輩に反抗していて、雪山で遭難した時に劣らないぐらい、歯をがたがた言わせている。すっかり及び腰になって、そんな奴が私の肩を持つなんて無謀すぎる。
刑部はご自慢のハーフツインと声色を揺らして、懸命に訴え続ける。先輩たちはダチョウみたいに互いの顔を確認し合うだけで、否定も肯定もしない。
「ねっねぇ、阿呆なことは辞めて、お互い試合に向けて、なんか準備しよう、ねぇ!?」
「そうだそうだ!幼稚ないたずらの罪を贖え!」
「だからー、もう血は止まったからいいよぉー」
未だ用心棒気取りのBIG3に、心なしか刑部の頭が体が魂が吸い込まれそうになっている気がした。……私だって誰かを守りたくなる時がある。こうやって、敵にでも縋り付こうとする人とか。
「喧嘩は野蛮だし、画鋲じゃ済まない怪我になるから辞めようか。で、代わりにバスケットボールで勝負しよう。そっちが勝ったらこの件は全部私の責任、もし万が一私が勝ったら、エースさんには大事をとって棄権してもらいます」
「おぉーなるほどー。いいよ、それで収拾つくなら。……燃えてきたぁっ」
中の人が戻ってきたみたいに血色が良くなって、しかも拳を握っちゃって、なんかやけに楽しそうである。一時の勝負したさに負けて、試合本編に出場できなかったら、とか考えないのだろうか。
「まー、それなら?」
「やっちゃってください、マジ陽菜先輩!」
「相手の唯一の長所に飛び込むなんて、あんた馬鹿そうに見えて馬鹿ね!」
BIG3の蔑んだ反応を見るまでもなく、刑部の黒目以外が完璧に固まってて、先輩たちが文句を垂れない辺り、五分後には蹂躙されるのが約束されたようなものなのだろう。それでも額から血が流れて、頬が紫に腫れ上がるよりは、バスケ部らしい負け方だと思い至る。
「よし、私がボール取ってくる」
「一対一で勝てる相手だと思ったのー?あー愚かだな~」
磐田先輩がボールを取りに行くと、取り巻きKが私の顔を覗き込みながら、くすくすと漫画みたいに笑ってきた。まあ、電子殻はKから始まるしね。
「それとも、ボッコボコにされたら、嘱目されるとか考えてるぅ?」
「あの!ちょっと、対戦前に時間もらいます」
そのまま意気消沈していればいいのに、刑部は懲りずに先輩の話の腰を折りながら睨み付ける。それだけじゃなくて、不意打ちで私の手首を握りしめて引き寄せた。慌てて振り解こうと上げ下げすると、放してくれたけど代わりに眉間にしわを寄せて、黙って付いてこいと言わんばかりに、目で威嚇された。叱ってくれる人より無関心、無関心より先輩みたいな露悪的な人がいい。叱られるのは苦手だ。
刑部は私を、人気のないロッカールームに連れ込んだ。、少々カビ臭くて蛍光灯が眩しくて、白い壁には一本のヒビが入って、お誂え向きな説教部屋である。普段からあんな態度で接し接されてるのに、信頼されているのか試されてるのか、扉を閉めるだけで立ち塞がったりしてこない。でもまあ、与えられたチャンスなど掴んでやるものか。
刑部は目を伏せながら、掃除用具入れの前で縮こまって、打って変わってしおらしくなった。告白でもするのだろうか。でも今じゃないよなぁ、中学生でもそれは許されないよなぁ。
「勝てるんだよね……?」
「えぇ?そんなわけないない。ただ喧嘩より穏便で、結果が確定してるから。それがいいかなぁーって」
刑部は去年あいつと戦ったんじゃないのか。私と違って試合に出してもらえてるんだから。半笑いで希望を否定していると、刑部に稚気が宿る。目線を外して駄々をこねる。
「じゃあ勝ちなさい」
「こんな勝負に、拘ることなんてないよー」
「私はぁっ、……あなたに勝ってほしいんだよ、しょうがないでしょ?」
「辞めてよ、そういうのも」
「そもそも勝負を持ち掛けたのはあなたなんだから、勝つのは当然でしょ!」
「えぇー、……善処する」
「あんな幼稚ないたずら、あなたがするはず無い。なのに、負けたら濡れ衣を着せられる。おかしいよ、そんなの、ねぇ」
「濡れ衣を着せられたら風邪を引くだけでしょ。この件が裁判沙汰にでもなると思うの?」
「違う、これは名誉の問題だよ。あなたにだってあるはずなんだ、取り返す権利もあるんだ」
凄く、熱いことを言われている、温度だけならスポ根漫画と変わらない。何とも背中がむず痒くなるような論理だ。後ろで組んでいる自分の指を絡ませて、気分を落ち着ける。
「勝てば官軍かなぁ……」
「少しは見られ方が変わるかもよ。私じゃ先輩一人止められなかったけど、あなたは手段を選ぶ必要がないんだから。……勝てば何かが変わる、きっと」
勝って何かを変えろと言われたら、勝って何も変えないことを選択するのが私……なのかもしれない。そうなる道を自然と歩んできた。ここまで熱心に説得されたら、それを真っ向から否定するのも、きっと私らしくない。
「負けても、うっ、恨みっこなしだかんね!」
「え、真似……?」
「ほんとに恨まないでよー。自分の立つ場所は自分で切り拓こうとか、そういう崇高な考えはないから。私は自分がどうなりたいのか分からない。今も、急に勝ちたくなってきた。後輩に持て囃されていい気になってるあいつに、屈辱を与えたいから」
「ふぅーん、そっかぁー」
そんなつむじ曲がりな性格か?と訝しみつつも、私が捻くれた論理をかざしたら、刑部の顔に笑顔が灯った。そりゃあ、私が刑部の思い通りになってしまったから、しめしめと勝利を噛み締めたくもなるか。うーん、磐田先輩にしろ刑部にしろ、私を陥れる術を考える時だけ、よく頭が回るものだなぁ。奸計に見事に引っかかって、刑部にみすぼらしい背中を堂々と見せつけなくてはならなくなったのだった。
さて、勝つと決めたのでちゃんと勝つことにした、屁理屈で。コートに戻ると、既に対戦相手が物々しい表情でボールを抱えて待っていた。その脇にBIG3が林立して、三人とも同じ表情をしている。いやはや、宮本武蔵になった気分だぜー。
「あの、もう一個ボール持ってきてください」
「はぁ?お前何を言って……」
「 “バスケットボールで” としか言ってないから。それを使ってボール回しで勝負だ!」
先輩は冗談のつもりだっただろうが、暇だったのでずっと戯れていたら、だいぶ上手くなった。毎日、真剣に競技に向き合っている彼女には、多分勝てる、というか勝てた。
「こんなのずるい!無効試合!」
「きしょい!やっぱあいつが全部悪いし!」
「都会は空気だけじゃなくて人の心も汚いのか。東京へ行って尊厳を踏みにじられるといいわ」
BIG3がやかましく騒ぎ立てる一方、幸いなことに向こうの中学校は、取り巻かれる人の声が小さい。こっちの学校の取り巻かれてる人も見習ってほしい。
「まあまあ……。いやー負けちゃった」
「約束通り、試合に出ないでくださいね」
「うん。でももし、うちらの学校が全国大会に進むことがあったら、その時はいいよね?」
「もちろん」
「わーい、対戦ありがとうございましたー」
握手まで求められた。そこまで熱い友情は望んでないけど、この勝負の正当性を担保するために、応じることにした。真の実力者らしい、朗らかで満ち満ちた笑顔を間近にすると、さすがの私も心が浄化される、これで良かったんだと思えてくる、怪我を心配する一言ぐらいかけたくなる。
そして私たちは、私たちの選択を歓迎しない者共のもとに、各々胸を張って帰る。女の子なのに顔をグーで殴られるかと予測だけはしてたけど、そもそも狐につままれたような面持ちで、茶番だと割り切っていいのか迷っているようだった。磐田先輩も、勝てって指図してきた刑部も。
「あの皆さん……」
猫も杓子も呆然としていると、影も幸も薄い顧問が、大きく息を吸ってか細い声で呼び掛ける。そう、こんなバイオレンスな部活を率いなきゃいけないことが、何よりの不幸である。生卵を持ち歩かせたら、一日で割れそう。私は人と違うので、一応耳を傾けておいた。
「ほ、本当にっ、あの子は試合に出ないんですか……?」
「あの握手が嘘じゃなかったら」
「うわああああああ、感謝します、ありがとうございます、絶対勝ちましょう、行くぞ全国、行けるぞ旭中バスケ部」
膝から崩れ落ちた……のではなく土下座された。この顧問、逆の意味で身の程を弁えてなさすぎる。部員全員に、平気で見下されている。
「私が顧問になってから成績が悪くなったって、保護者にも職員室でも文句言われて……針のむしろ、私の居場所なんてどこにもない……」
ぼそぼそそよそよ床に向かって怨嗟を連ねる。
「私のせいじゃない、全部あいつが悪いんだ、あいつがいなくなったら勝てるよね、ね!?」
顧問が涙で髪が張り付いた顔をがばっと上げる。未練のある怨霊のように、私たちの足首でも掴んで、地獄に引きずり込んできそうだった。十歳は年下だろう人たちに、ここまでプライドをなげうって懇願できるとは。少々気の毒な人生を歩んできたのかもしれない。これを見て、なお舐め腐った態度を取る部員がいたら、そいつは碌な大人にならないだろう。普通は改心したくなる。
「勝って、お願いします、あなた達ならきっとできる。成し遂げられる実力がある……」
「はぁーい。先生の言う通り、これはチャンスですよ皆さん。さぁーて、ちょっと優勝しちゃいますか」
私が手を叩いて顧問に加勢すると、磐田先輩は腕を組んで、横と下を一瞥してから静かに頷き、そして私にガンを飛ばした。
「ふぅん…………なんかいける気がしてきたな、全国。よし、円陣で他校を威圧してこー。平島は真ん中入れ」
「えぇ!?うるさいじゃん」
まるでイニシエーションに合格したかのようだった。円陣に入れてもらうってそういうことなのか……?別に嬉しくもないけど、断って場を荒らすのも疲れたし、一人周りに悟られないよう密かに喜んでる奴もいるし、磐田先輩の言う通りにしてやった。
私も先輩たちも、これで和解できたと本気で思っているわけもなく、大前提さっきまで連携しないことに心血を注いできたのに、いきなりその逆が可能なわけがない。というわけで、例のエースが不在な二ツ岩中学校にも、連携不足で惨敗したのであった。
それでも、今までの腐った関係に改善の兆しが見えるのかと思いきや、彼女たちは受験のため部活を勇退していった。そして、あいつらが偏差値50を超えるところを想像できないけれど、まあ真面目に勉強しているのか、秋冬通してほとんど顔を出さなかった。だから先輩たちとの関係には前進も後退もなく、他方痺れを切らした時間だけは進んで、部活内での後輩との関係は、奇跡的に雪解けを始めていた。
黄色い光線が青と白の入り混じる空から、侘しい枝の間を縫って降り注ぐ。よく目を凝らすと、枝には金平糖のようなつぼみがびっしり付いている。スズメが私の視線をキャッチして枝を揺らす。これがしずり雀かー。その小さな鳴き声だけがこだまする。
「こんな所に」
「お、洞窟ちゃんもつぼみを見に?」
「そこまで感受性豊かじゃない。花しか綺麗だと思えないかなぁ」
と言いつつ、刑部も桜の木を見上げる。卒業生との涙の別れに目もくれず、こんな静謐な学校の裏門付近にて。
「洞窟ちゃんってさ」
「ん?」
「先輩のこと、実は憎んでる?」
「あぁー……」
横にいる刑部を流し目に確認する。まあ実際の仕草を探るまでもなく、回答に詰まってることからある程度は憎んでるのが分かった。
「だいぶしごかれたからね……」
「令和のこのご時世にねぇ」
「部活動が変わるんじゃなくて、部活動に頼らなくなるだけでしょ」
確かに、当校の部活加入率も年々漸減してると、見せてもらった生徒会の資料に書いてあった。そんな潮流の中で部長になってしまった私は、旧人類なのかもしれない。面接で話す頃には笑われるかもしれない。
「久しぶりに二人きりになっちゃったし、いつか言いたかったこと言っていい?」
「悪いほうから聞きたい」
「二個とは言ってないじゃない」
「えー、そろそろ春うららに飽きてきたんだけど、長くなる?」
「二個だから我慢して」
「分かったー」
私の軽薄な返事をかき消すように、刑部は大きく咳払いをした。それでさすがに体の向きを刑部のほうに合わせ、耳をすました。
「ごめんなさい」
刑部は深々と頭を下げる。こちらが忸怩たる思いにさせられる。
「え、全然怒ってないよ……?」
「謝ってからじゃないと、私の気が済まなくて。ずっと罪悪感があったの。私はあなたに何もできなかった。皆にあなたが悪者じゃないって、誤解を解けなかった。先輩に、逆らえなかった。あの段階では、あなたが頼れる人は私だけだったのに」
「まあまあ、結果的に何とかなったんだし。私は “健全” になったんだし」
「そう、あなたは自分の力で切り抜けた。自分の生きる道を切り拓いたんだよ」
「洞窟ちゃんの激励があってこそだけどね」
物語的には、と心の中では但し書きを置いておくけど、そんな事はつゆ知らず、刑部の表情は目くるめく変化する。
「そそっそれでさっ」
「うん」
「そういうところも、かっかっこいいなーって、惹かれてしまって……」
耳を覆うような甲高い声。照れられてるんだから、私は寄りかかれる場所にならなければ。
「マジ?」
「あとっ、あなたに声を掛けたのも、下心が全くなかったとは、あなたに誓えないというかっ」
「私は神と同格かぁ」
「へっ?うんうん」
愛を捲し立てる刑部は著しく同意した。刑部の必死さと緊張は、空気を介してひしひしと伝播する。私もそれに溺れることを発願されているのだろうが、この熱意をかわすことばかり頭をよぎる。
「えっと、この通り、あなたのことが好きなので、つ、付き合ってくださいっ」
二度目のお辞儀は浅く、すぐに顔を上げて私の葛藤を覗こうとする。同じ穴の狢とは到底思えないけど、斥力が働いて目線を合わせられない。
縁佳って名前でも縁のないことはいくらでもある。恋とか愛とか、半年前はならず者だったのに理解できるはずがない。今の自分の姿勢と取り巻く人間関係には満足してるけど、このイベントがあるなら以前のほうが快適とさえ思った。ふむぅ、どう切り返すか悩むなぁ。そうだ、冷静に分析し、感情的になるべきかならざるべきか見極めるんだ。
「…………少し、時間をください」
「それはダメっ。今決めて、情けも無用。振られたら傷付くけど、それも経験だといつか割り切れるから、正直な気持ちを教えて」
「正直、ねぇ……」
正直、ねぇ……。溜息も漏れないところに、感嘆が飛び出そうになる。どこかの大人に、自分に正直になれって言われたことがあるけど、未だに答えは出せない。私が好きだという支柱がある刑部とは違うんだ。
じゃあじゃあ、刑部の求める答えを返そう。……それって刑部を好きになり、そして付き合うのに同意するってことじゃないか。あー無理だな、破滅願望もないし、かと言って幸せにもなりたくないし。だから恋愛感情をいだいた経験がないのだろうと、理論的に補強してみても状況は改善されない。刑部の活力で、太陽が頭の上で燦々と照り付ける、暖かくて溶けてしまいそうな程に。
「私には、あなたに見せられないものは無い。全てをさらけ出してあげるよ。秘密と言えば、前に飲みかけの缶を押し付けられたけど、中身を美味しく頂いた上で保管してある。なんて、普通の人ならドン引きするエピソードでも、あなたはかかずらわないよねー。そんな事、気にならないぐらい己が迷子になってるから」
なんで私はそんな意味不明な行為を働いたんだ……?そこに疑問を持ってみる。ふはは、貴様の読み通りには動いてやらんぞ。
「うーん、もぉーしわけないけど、今この場で付き合おうって気にはなれない。これはひゃくぱー事実、私の本音」
深刻に物悲しそうにするかヘラヘラするか、迷ったけど後者にした。私の不徳の致すところでもあるから、恋愛という土俵に上がるのもおかしい気がしたのである。真面目に突っぱねたら、体裁だけは整えようとするずるい人になってしまう。
刑部もそれに合わせるように、一笑に付して私を蔑んだ目で見てきた。
「でしょーね。知ってた」
「じゃあなんで告白なんてしたの」
「相思相愛から始まるわけないでしょ」
刑部の表情が強張る。まー、物陰からこそこそ先輩のご尊顔を拝むのが日課で、卒業式の日に勇気を振り絞って告白してみたのに、向こうから「自分も君のことが好きだ」なんて言われたらおぞましいか。それと、同じか……?
「まあ、予想通り過ぎてびっくりしてるけどね。私は自分と同じくらい、あなたの事がわかっちゃってるんだなぁーって」
「そっか。それだけ想ってくれてるのは伝わった。私は未熟なんだ、ごめん」
皆からの敬慕を集めることを正義とするならば、私がまっとうに生きられるようになったのは、つい半年前とかの話なのである。刑部にどうにか笑顔を取り戻してほしくて、少なくとも私のせいで泣かせたくないので、それを象徴するかのように手が前に出る、どうせ触れられないのに。
そうやって私が憐れむと、それを跳ね除けるように刑部が語気を強めて、一歩前進する。慌てて手を引っ込めて、後ろに持っていく。
「それでも、諦めるつもりはないよ。だから、約束を一つ結んでほしいな。今みたいな、八方美人でいて。誰かに肩入れしたり、誰かを特別視しないで」
「現状維持ってことか。まあ、もう戻れないだろうなぁ。闇雲だったころには」
「ちなみに、破ったら私と付き合ってもらうよ。でも、この約束さえ呑んでくれたら、ひとまず私は矛を収めるわけで、それはあなたにとっても良いことでしょ?」
「うん……、それで洞窟ちゃんが満足するなら、受け入れるよ。これまで通り、仲良くできるんだよね」
「そう。私の告白は無かったことにしてもいいし。そっちのほうが、今後も関わりやすいでしょうから。あなたが譲歩することは、現状ほとんどないから、ね?」
きっと何か月も前から思索を巡らせて、それがたまたま今日炸裂しただけなのである。刑部は私の心情が不快にならないよう、細心の注意を払っていた。もはや、この約束が締結されることは確定していたのである。
それでも刑部は凛然としていられず、両手を組んだり、片足のつま先を伸ばしてみたり、緊張というか焦燥というかが滲み出ている。
「でも……しばらくの間はそっちから話しかけてくれると嬉しいな……。だってさ、一度は夢破れた身だし、友達に戻すのも時間がかかるというか……」
そんな物悲しい顔をされると、とても助けたくなってしまう。じゃあ嘘でも、刑部の好意を抱きかかえてみたらいいんじゃないかって話だけど、悪者になりたくないし、苦手なことを避けて練習してこなかったから、なることもできないわけで、約束がなければ詰みである。詰ませることが目的じゃなくて一命を取り留めた。その恩に報いるには……約束を破るしかないのかもしれない。
「そうする。むっ無視とかしないでよ」
「好きな人に話しかけられて、無視する人がどこにいるの……」
「じゃあ体育館に戻ろうか。卒業式の日まで練習とはね」
一年分の春が背中に乗っている気がする。これ以上、自然にだって身を焦がされたくない。
「えぇー、今戻ると磐田先輩とバッティングするよ?」
「ご忠告ありがとー。じゃあ戻るか」
「んもー、約束に忠実な奴め」
ちなみに本当に磐田先輩が見物してて、部活の空気が大変気まずくなったのはまた別の話。
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