第5段:恋戯えの霽雪

5-1

 猫も杓子も、密着して腕を絡めてカップルで闊歩している。小学生の頃、理科の時間に鉄芯に銅線を巻き付けたけど、そういうことなんだろうか。そんな愚にも付かぬ比喩で、よく考えたら生まれてこの方彼氏とかできたことない自分から目を逸らしてみる。うぅーむ、凡庸で本物の幸せを、私は手にする日が来るのだろうか。この世界で多様性が指数関数的に発散しているのは重々承知した上で、あえてそんな事を静思してみた。


 刑部も辺りを見回して、喧噪に負けない声を使って中身のないことを話してくる。


「いやー、なんというか、クリスマスだねー」

「今年も終わりかぁー。うん、いい一年だった」


 私がそう言い切ると、並んで歩く刑部の顔が微かにひしゃげる。そんな不服そうにされても、刑部のパスが悪いのである。共感してほしいなら誰かの悪態とか、もっと露悪的なものをだな。


 さて、細かいいきさつはすっかり忘れたけど、刑部がクリスマスに二人で遊ぼうって、今週の頭ぐらいに誘ってきた。安栗のクリスマス独り身の会は、刑部が私のあずかり知らぬ所で、二人分キャンセルしたせいで解散になったらしく、退路も封じられたのである。まー別に、刑部と二人きりで遊ぶのは嫌じゃないんだけども、イオンしかない田舎でもないんだから、どうして鏡花の時と同じデパートになってしまったんだ。


 それにしたって、この間とまるで変わらない光景が広がっている。肩身が狭そうにクリスマスツリーが置いてあって、安売りのポスターが貼ってあって、天使の加護でも受けているかのように幸せそうな人々が往来して、私の隣で温泉を一時間堪能したような恍惚に帯びた人が、やけに距離を詰めながら歩く。すっと、おにぎり一つ分の隙間を編み出して、安全を確保した。


「どぉーしましょーかねぇ」


 刑部は両腕でL字を描きながら、前向きに検討を加速させていく。うーん、また相変わらずの無計画ぶりだ。まあデートじゃないし仕方ない。


「お茶でもする?」

「えぇー、それは違うかな……」


 すこぶるまっとうな提案だったはずなのに、そんな蔑んだ目つきをしなくても良いじゃないか。


「だってよっすー、甘いもの苦手でしょ」

「それと何の関係があるの?」

「せっかくならスイーツも一緒に頂かないと。その店の魅力を半減させてるも同然じゃん」


 それならコーヒーの質が九割の店でも探せばいいんじゃないだろうか。まあ、コーヒーに限った話じゃないけど、産地や挽き方、ブレンドの差異など私にはわからんので、その九割も潰すことになるが。


「結構いろいろ回ったはずなんだけど、なんでだろう」

「なんかすまんね、つまらん人間で」

「いやいや、さっきも言ったけどさ、性格変わった?口先だけじゃないというか」

「そんな短期間で変われたら、もっと努力が物言う世界になってるよ」


 この前に本屋とか雑貨屋とか何軒か入ったのだけど、刑部は私と違って中身の詰まった人なので、あれは面白かったとかこれが使いやすいとか、販促してくれる。ので、それに乗った。ちょうど部屋に彩りが欲しかったのである。世間的にはむしろ、これから大掃除なはずだけど、私には捨てるゴミがないから、躊躇なくいっぱい買い物した。そうやって即断即決した結果、時間が余ってしまった。


「まっ小腹が空いたし、そこでクレープ買ってくるよ。何がいい?」

「隣のケバブが気になる」


 私は二輪のキッチントレーラーで、トルコ人が営業しているケバブ屋を指さした。鏡花と来た時はなかったけど、串ごといかれると思って身を潜めてたのだろうか。命拾いしたな、と不審な薄ら笑いを浮かべながら、ベンチに腰掛けてスマホを開いた。


 で、刑部はケバブを買ってきてくれなかった。それどころか、ばふっと空気が巻き上げられるほど勢いよくベンチに座ったかと思うと、生クリームが大佐渡山地をなす、冷たかったり温かかったりぬちょぬちょしてたりむちょむちょしてたりするクレープを、私の口に押し込んできた。


 全く予測不可能だったわけではない。刑部だっていたずらはする。けれど日本で暮らしていると、身構える必要はそうそう無くて、つまり不意打ちを食らった。多分、笑えるほどに硬直してしまっていると思う。


 口の中に甘ったるさが蔓延していく。それに反応して、酸っぱいものを食べた時のように、唾液がとめどなく溢れてくる。そのせいでクリームがどんどん溶け出して、糖が私の脳内をかき回す。直接なぶられるようなこの感覚……、あーもう原型を留めてなさそう。


 思考停止に陥ったので、抱腹絶倒している刑部にいらついたりもしない。食べる前で良かったな。口に物を入れてからそんなに哄笑してたら、窒息してただろう。


「さいっこう……!そのっ、表情っ、やめてっ、マジでっ、現場に来た刑事さん笑っちゃうよっ……」

「最悪……。くそまふいんはけど」

「不味いなんて言わないの!ほら、店員さん見てるんだから……ぶはっ」


 私の口元からクレープを離すと、また刑部はツボにはまって高笑いする。天井を仰いで足をばたつかせて涙をこぼす。きっと、鼻までクリームがびっしりなんだろう。欲望に忠実に、そして何の足枷もなく生きられるなら、今頃私は油断し切ってる刑部に頭突きでも食らわせて、クリームを返してやってた。大人げないのでしないけど。


 しかしクリームを顔に付けた私なんて、そうそう御目文字できるものでもない。なんか面白くなってきた。わらけてきた。


「はぁはぁ、どっ、どうすんのそれ!」

「へへへっ…………はぁ、どうすんのじゃないよ、どうしてくれんの!?そんなに舌長くないよー」

「うお、舐めるの、成長じゃん!……ぶほっ」


 私がべろべろ口の周りを舐め回す様子でも想像して、刑部はまた表情筋とか横隔膜を痛めつける。時折、腕で口を隠すようにして吹き出したり、疲れそうなほど首を上下させたりして、それに釣られて笑っている私は、そろそろ何がおかしいのか分からなくなってきた。甘い現実さえも記憶から抜け落ちて、喉が焼けたような感覚だけしか味わわなくて済んだのだから、まあいいか。


「しょうがないなぁ」

「しょうもないの間違いだね」


 とか言い返すと、まだヘラヘラ半笑いしながら呼吸を乱しながら、刑部が指を私の鼻の頭に伸ばす。そして生クリームをかっさらって、自分の口に運んだ。


「うわっ……」

「上澄みだからセーフ。甘くて美味しいよ」


 焼肉食べ放題を散々満喫した後、締めと称してラーメンライスを平らげ、締め足りないと言って巨大なパフェを頬張る鏡花を傍から見るような、強欲を取り締まる目を向けると、指と幸せを咥えた刑部が目を屡叩かせる。ちなみに鏡花についてはフィクションである……今のところ。


「えぇー、そうやって解決するつもり?」

「だってもったいないじゃん。ソフトクリームを地面に落とした時とか、上のほうをすくって食べるべきだと思う」

「豆腐なら全部救う」

「なぜ豆腐」

「たまにシンクに落とすからさ」

「あーね」


 結局、刑部は五回ぐらい指を伸ばして、私の顔面の生クリームを掠め取った。直接接触してるわけじゃないし、まあいっかとどうでも良くなってきた。顔をウェットティッシュで拭きながら、部活終わりみたいな疲労感と充足感があることに、そうだなぁ、ノスタルジーとかサウダージとかをいだいていたのであった。


 とまあ、何だかんだ言って今日は結構歩いたし、このままベンチで一休みすることに、自然と合意していた。浅く腰を痛める座り方で、背もたれに後頭部を載せて天井を仰ぐ。まあ、先程みたいに何かを突っ込まれたら困るので、リラックスしつつも口は閉じておく。


「ところでよっすー。ちゃんと持ってきたね?」

「んとー、食事券のこと?」

「そう。使わなきゃもったいないでしょ」


 文化祭の福引で当てたやつである。別に有効期限はないので、無理に利用する必要はないんだけど。


「でも、提案した身で言うのも変だけど、いいの?自分だけで使っても良かったんじゃない」

「いやぁ、使い道なくねー」


 日本全国津々浦々の何万という飲食店で使えます。


「例えばみんなでファミレス行ったときに、一人だけそれで支払ってたらどうよ」

「別に……いいんじゃない」

「奢れって言われる」

「んじゃー、一人で使えば」

「一人で行くような普通の店で食事券……笑止千万」

「別にいいだろ」


 そうねぇ、どうせならたまには美味しいものを食べたいと、私にしては珍しく贅沢欲?を発揮して、淡い期待を寄せていたのかもしれない。でも期限がないから、重い腰を上げて奮起しようとはならなかったんだなぁ。



「あと、ゴルゴンゾーラチーズのリゾット、お願いします!」


 刑部が浮かれて値段も確認しないで、矢継ぎ早に注文していく。サイゼリヤじゃねーんだぞ……なんて、店の雰囲気に気圧されてツッコめない。何となく、高貴でスノッブな会話をしなきゃいけない気がする。


「何、その目は」

「よく頼むなーと」


 鏡花じゃあるまいし。


「中途半端に残すより、ここで使い切っちゃおうよ!」


 昼ご飯を適当に済ませたので、私もお腹空いてるし、それでもいいかと、ひとえに頷いて頬杖でも突く。


 私が一万円分も食事券を持ってるからって、刑部はイタリア料理店の予約を取ってきたのである。シェフの気まぐれコースしかない超高級店というわけではないけど、まぁーこれ見よがしな樽とか、周囲を見渡す限り、少なくともワインが飲める年齢にはなっておいたほうがいい。無色透明無味無臭のアルコール抜きワインがグラスに入っているのは、ちょっともったいない感じがする。


 つまり、私たちはちょっと背伸びしている。暖かみのある照明で、木目とか使っちゃったり、陰を生かしてみたり、座面の赤が映えたり、きっとデザイナーの人が手癖で組んだ、居心地のいい落ち着ける内装なはずなのに、私の心臓は張り切っちゃってる。店の外を歩くおちゃらけたカップルでも凝視して、檻の外に憧れていた。


 窓の外と刑部の顔面を交互に眺めてぼんやりしていたら、料理が運ばれてきた。当たり前だけど、どれも焼きたて出来立てで、湯気と共にオリーブオイルの香りが食欲を刺激する、算段になっている。


「旨っ、チーズが、すごい」

「うむ、わかるよ。なんかいっぱい入ってるチーズとは大違い」

「ほんとにぃー?」

「えぇ。このパスタなんて、なんか地中海の潮風を感じるなぁっ」

「国産トマトって書いてあったけど。Sea of Giapponeの間違いでは?」


 刑部は無駄に余白があるメニューを手に取って指摘してくる。どこの産地の素材かなんてどうでもいいんだ。言葉に落とし込むのがもったいないほど旨い、それでいいじゃないか。


「これ、ピザハットと何が違うんだ?」

「はぁーっ、これだから味音痴は。アルプスの乳を感じるでしょ」

「なんだ、アルプスの乳って」


 そりゃあ、だいぶ誇張したけども、体育の後の現代文か数学か、ぐらいの違いしかないのである。体育の後なら全部眠いし、これも大手チェーン店どっちも美味しい。そして誰かとその幸せを共有したくなる。そりゃあ食事が、大人のコミュニケーションにおけるファーストラインにもなるわけだ。よし、論点をずらせた。


 注文しすぎかと覚悟したけど、どうという事なく完食していた。たぶんいい食材で腹も満たされて、食事券も使い切れたので、もう思い残すことはない。店を出て、ぐぅーと声を漏らしながら、背筋を無理くり伸ばす。籠の外を知った鳥みたいな解放感があるわー。


「ほんと、いい所予約してくれたよ。美味しかったね」

「ねー。来年も当ててよ、二等」

「一等より二等ね?オッケー任せて」


 私は握り拳を作って、決意を新たにする。そうすると刑部は、マフラーに顔を浸しながら、少女らしく打ち笑んだ。


「でも、もうちょっと大人になってからの方がいいかな」

「たまに行けるぐらいの収入は欲しいね」

「だけど、ピザハットとの差がわからないんじゃあ、しょうがないじゃない」

「あーいうのって、雰囲気とワインを楽しむ場所でしょ!」


 険相を覗かせると、今度は口元をマフラーで隠して、くすくすと笑ってきた。ははっ、私ももう少し食に興味を持たなくては、ねぇ。私には切実な問題で、乾いた笑いが浮かんできた。


 家の方向が同じなので、そんな上機嫌な刑部と寒空の下、仲良く並んで帰る。日は落ちて、代わりに街灯と行き交う車のライトが、歩道の脇に腰ほどまで積まれた、先日の残雪を照らす。あの日の猛吹雪の爪痕だ。それから今日まで晴れが続いているけど、年末年始はまた降りこめるらしい。予定がないからいいけど、雪をかき分けて進むのはもうこりごりだなぁと、というか風が冷たくて身の毛がよだつ。


「自転車で来れば良かったのに」

「よっすーは徒歩だろうから、意味ないかなーって」

「後ろ乗せてよ」

「そーいうので呼び出し食らったりしたくないわー」


 わかるわかる、と私も何度か頷く。説教を受けるのが面倒と捉えるのか、説教さえ受ければ許されると捉えるのか。そこが優等生だと囃されるかの分水嶺なのだろう。


 橋の袂に着くと遮る建物がなくなって、寒風が私たちの耳元でざわめきながら通り抜けていく。その風が止むと同時に、ゆくりなくも車通りが止んだ。下を流れる大川のように凪いだ雰囲気で満たされる。街中と同じ夜空を共有しているのに、対岸が満天の輝きを見せていることに、なんとなく寂寥を感じた。


「えっとー」

「どうかした?」

「手、寒いでしょう?」


 会話が途切れたので、冬の澄んだ空気で消化を促していたら、友達から借りた物を失くした事を伝える時のように、はたまた近所の世話焼きなおばさんのように、押し付けがましくも言いたくなさそうに問いかける。ひとまず、片手を結んで開いてを繰り返し、かじかんでないことをアピールしてみる。


 反応を確認するために、車道側を歩く刑部の顔を瞥見する。刑部もまた、私と同じ方角を見つめていた。さっきまでの雑談では、無節操に自分を殺して笑っていたのに、今の刑部は年相応の厭世感を露わにしている。その鬱屈とした目つきに、私も刑部のように思うところを思い出した。根拠があったらとっくに気付いてただろうけど、偶然か必然か、刑部は鏡花が私の手を握って歩いてるところ、いやその前から目にしていたのだろう。


 その時は鏡花の機嫌を取るのに必死だったし、そもそも刑部に目撃されるなど一顧だにしなかった。だから只今まで私は、今日のデートをただのいつもの空悋気だと首肯していた。疑う材料なんてなかった。そうなんだけど、事実を並べ立てたとて事態は好転しない。いい加減、この誤解を解かなくてはなぁと、問題意識は持っているけど、今がドゥームズデーなのだろうか……?


 火に何を注ぐか考えていたら、刑部の黒目がこっちに帰ってきて、そして忽然と立ち止まった。私も、一歩遅れて立ち止まって振り返る。あまり威嚇したくないので、暖色の街灯が作る灰色の影に視線を落とした。


「あのさ、…………もう見過ごせないかな」

「見過ごせないって……。約束はちゃんと覚えてるし、履行してる。だいたい、今やあの約束は私のポリシーだからね」

「いいや、よっすーにとって、島袋鏡花は特別な人間に成り果ててる」


 刑部の声には七情が籠っていた。意図してぶちまけてやろうって、そういう気概もあるのかもしれない。


「盗み見した程度の風景が全てじゃないよ」


 誰が望んで人と手を繋ぐかよ。それも両手だし。


「例えば、未だに名字で呼んでるしさー」

「そういう事じゃないんだよ、よっすー。私が言いたいのはさ、何かにつけて島袋鏡花を想起してるってこと」

「いくら何でも、それは無い」


 人の胸懐まで決めつける暴挙に出るとは。んー、否定はしたけど、指摘されるとそんな気もしてくる。って、どう考えても、鏡花を想起させるような場所に連れていかれただけじゃないか。むしろこれで想起しなかったら、鏡花に関心がないだけである。それはそれで、約束に反しているのだ。


「今日、一緒にいて確信したの。今だって、雪の中で手を繋いだのを思い出してたでしょ」

「そりゃー、嫌な思い出だし」

「惚気から来るものじゃないにしても、危険な兆候だから……」


 結果的にはまるで語尾を濁したの追及するように、私が顔を上げると、刑部は何度目かの決意を固めて、鋭い視線を差し向けてきた。


「確かに、これは意地悪だよ。よっすーが島袋鏡花と並々ならぬ関係を築くから、私は焦ったんだ。あの子に追い付こうと思った。それが平等だもん」

「島袋さんはねぇ、長らく “あの” 前会長しか友達がいなくて、なんというか、距離感がバグってるところがあるんだ」

「百歩譲ってそこは目を瞑っても、この一年でよっすーがあの子に施した事は、とても看過できるものじゃない」

「弱い自分を変えようとしてる人は応援するし、洞窟ちゃんみたいにだらけたい人は、だらけられるように部活の代打をしたりして対応する。一貫してるでしょ」

「弱い自分を変えようだなんて、そんな殊勝な人間、そこかしこに居ないでしょ?だからよっすーにとって特別になり得るんだよ」


 私の行いは正しいし首尾貫徹してると、信じてるし譲る気もない。しかし、刑部のその論理も、案外的を射ているのかもしれない、と隙ができた。確かに私は、他の人が差し出してくれないような、純然たる畏敬を鏡花が示してくれていることに、陶酔している節がある。んー?ということはやっぱり、そういう意味で特別なのだろうか?でもでも、ここで真に刑部が主張したい特別というのは、恋情のことであって、そして、本当は私もそうでなければ俗らしくないのだろう。


「友達を語る時、よっすーはきっと、あの子とその他を分けて話すと思う。私は、その他に包めてしまうのに」


 同じグループにいないからじゃなかろうか……。なんて、良心の自由に甘えて心の中で反駁していたら、刑部が声を荒げて押し寄せてくる。


「私だって、本当は埋没したくない。だから……」


 刑部は私の素性を理解している。だからこそ、距離を詰めて、手でも何でも掴める位置に相対されることが、どれだけ私に負荷を掛けるのか、それを相手が知っていることが、私の心臓を揺り動かし、三半規管を狂わせる。


「あの子と縁を切るか、私と付き合うか。選んで」


 眩暈がする。刑部の温もりは、水は凍るような空気を貫通して私を撫でる。汗だって鼻筋をくすぐる。部分的に同意できるとは言え、刑部の言い分はほぼ詭弁だ。でも詭弁なら、反論される余地もないということか。私は刑部に対してあまりに脆い。それを刻み込ませようと、向こうも躍起になって襲い掛かる。


 刑部は腰を低くして、下から突き上げるような視線で押し切ろうとする。それで心を入れ替えられるほど、私は軽率な人間ではないけど、鏡花……帽子屋のように目を回して、体は死んだように硬直して、刑部の成すがままに処されるのを許すしかなかった。


 刑部は私の片手を、湧き水のように両手で掬い上げる。寒さで鈍っていた指先から、居た堪れない信号が送られてくる。でも腕を引っ込めようとすると、鏡花の比にならない遠慮ない力で手首を握られ引き寄せられて、刑部の手の内から逃れられない。


「私は変わらず好きだよ。約束はよっすーを縛り付ける方便でしかないの。ね?」


 約束なんて口実で、私の気が変わるのを辛抱強く待つつもりだったのだのか。問題を先送りにしたかったのは、私だけじゃなかった。と、気付くことさえも先送りにしていた。


 まあ、何かに気付いたとて、刑部が見せたがっているその笑顔に気圧されて、喉を気管を無為に空気が通り過ぎていくだけだった。刑部しか見ることが許されないようで、散発的に通りがかる車に、目線を逸らすこともできない。一顰一笑を直視していれば、刑部が思索のあらゆる隙間に潜り込んでくる。それでも、刑部の切望する関係だけは拒みたくて、出来の悪い諫言を捻り出して、それで後は天に運命を任せた。


「……やっぱり無理。洞窟ちゃんとはそういう関係になれない。よい知己として、互助する間柄に慣れ過ぎて」

「よっすーが約束を守っていさえすれば。特定個人に肩入れしないままで居てくれれば。この関係を灰燼に帰す必要もなかった。よっすーが悪いんだからね!」

「そっそれは、さすがにお互い様でしょ」

「あんなつむじ曲がりで、こんな慇懃無礼で、無駄に才覚があって頑健で、私を苦しめて苛んで弄ばせて、それでいて憎いほど馬を合わせてくる。全部よっすーが悪いんだよ!だからこの好意ぐらい受け止めてっ!」


 刑部が私の肩を強く突き飛ばす。それでいとも容易く橋の端に追いやられてしまう。もう体に力が入らない、刑部が私を破壊してしまったから。私なんて、接近するだけであっけなく壊れてしまうのだ。壊れてくれた私を愛おしそうに、刑部は握った手をそのまま私の胸に押し付けた。


 せめて刑部から溢れる熱で、心まで焼かれないよう頑張ってみてるというのに、降りかかる私の変なリズムの呼吸と、鳩尾から伝わる乱雑な鼓動を好機として、刑部はますます熱を強めて自由と選択肢を封じようとする。足の間に自分の足を割り込ませて、もう片方の手の指は全部絡ませて、悲愴と後悔を籠めた充血している目をひけらかす。


 それでも抵抗を止められないので、とことんのけ反って、背骨が欄干に巻き付き、腰が悲鳴を上げる。私たちは違う病に罹患している。しかし病に病をぶつけても、大体の組み合わせで治るわけない。それなのにもう引き返せるわけがないのに、私はまだ元通りに仲直りする術を、どこかで期待していた。そういうことでも考えてないと、刺激が強すぎる。


「再確認するまでもないけど、私はこうやって洞窟ちゃんに押し倒されるのが、争えない理不尽より嫌だし、不快でしかない。だから、付き合えない。末永く仲良しでいたいから、平衡で平和にいられる距離を保ちたいし」

「そっちの事情なんて知らない。私は、よっすーにとって付き合うことが、罪でも罰でも拷問でも絶望でも面倒でも当てつけでも嫌がらせでも、愛が無くたって構わないの。たとえどんな心境でも、よっすーなら完璧にごまかせるでしょ?私はよっすーの全部を信頼してる。だから、一回でいいから、もう平等なんてどうでもいいから、首を縦に振って、私を特別にしてよ……」


 私は橋の欄干に全信頼を置いている。答えを先延ばしにすればするほど、上半身にかかる力が強くなって、でも刑部に触れられてる私は力めなくて、そのままひっくり返って川に落ちそうになる。こういう手段にまで手を染めるなんて、私なんかよりよっぽど愚かだと思った。


「私にだって、できないことはあるし、……今まで通り、よき友人で理解者でありたい。変えたくないし譲歩したくない」

「何言われたって、よっすーが他の人と懇ろになるなんて嫌だ!付き合ってくれるまで解放しないっ!」

「だからぁ、そういう予定もないって」

「嘘だよ。揺らいでる。気になりだしてる。無防備にあくびした瞬間とかかわいいって思ってる。私だってそうだった、女の子を好きになるなんて、想像できるわけないじゃん」

「ねぇ、今の私たちの関係を壊してまで、その不確かな嫉妬に従わなきゃダメなの?このまま付き合ったって振ったって、ぎこちなくなるのは間違いないのに……」

「そうだよその通りだよ!くそぅ、なんでこの危機感が伝わらないの…………どうして何も上手くいかないのっ!?そうだよ、よっすーの言う通りだよ!相手の嫌がることして、自分の首を絞めて、ストーカーみたいなこと言って、まるで悪者じゃん!それでも報われないんじゃ、もうどうしたらいいのよ……」


 刑部は寒さでか、はたまた感情的になっているからか、頬を真っ赤にして、視界と本筋を霞ませるほどの白い息をなびかせる。そんな、水色という寒色なこと以外欠点のないマフラーを巻いておいて、とことん凍えそうにされる。


 私だって、どういう表情をしていればいいのか、とことん分からない。刑部の体温を脈拍を感じる度に、歯ぎしりでもしたくなる。それを隠して優しさを醸したら、ますます刑部の恋心が迷走する。かと言って少しの遊びもない真剣な顔つきで一家言を申せば、人の気持ちがわからない奴だと思われて、私が今まで築いてきた地位は崩れ去るだろうし。まあ、その刑部は、俯いて瞼をぎゅっと絞っており、私の顔を見てないのでありのままでいいか。


 刑部の眼からは滂沱の涙が頬を伝い、まつ毛に露玉を作る。右手の指間には刑部の指が食い込み、鳩尾を介して彼女の体重と情熱が一層のしかかる。鈍い痛覚とサウナにでも入ったかのように体の芯まで到来する焦熱の中、私は刑部の涙に、崩れるアイメイクに、艶やかなに面持ちに何を想うだろうか。


 ……それでも、どれでも、やっぱり壊したくないなぁ。最悪、この身はどれだけ穢れてもいいけど、お互いの心の中を踏み荒らすことはしないで、ただ助け合って分かり合える友達のままでいたい。指先を震わせながら脈の規律が消滅しながら、何度だってその結論に達してしまう。もう、それが覆ることなんて、手の届く未来には存在しないのだろう。どうやって刑部の気持ちと折り合いをつければいいのか、悩んだ挙句、小さく「ごめん」と呟いていた。


「あぁーもう!よっすーと相思相愛になれないならっ、もうどうでもいいっ。どうにでもなればいい。死ぬか!鬱陶しい煩悩から解放されるし!よっすーも来てよ!」

「おい、死ぬとか簡単に言うな!洞窟ちゃんにも私にも、他にたくさんの友達がいるのに、そいつらに不幸をもたらすつもり?人の死は、簡単に人を狂わせるんだよ!」


 死なんて、とんでもなく恐ろしい。その言葉の鋭利さに反応して、もうだいぶ油断して寄り掛かる刑部を、咄嗟に突き飛ばしていた。刑部は吃驚して目をぱっと開いて、微かな水飛沫が私に降りかかった、ような気がした。そんな細やかな感覚をかき消すように、冬の信濃川が猖獗を極める。しかしそれ程までに凍てつく風は、私から刑部の熱を拭い去ってくれるようで、むしろ心地良くも感じられた。


 現役で運動部に所属している刑部を、ここまでよろめかせるとは勢い余りすぎたかもしれないと、いつもなら反省しているところだけど、体を自分の思考に馴染ませるのでいっぱいいっぱいだった。背骨をポキポキ泣き言を言わせながら私も自立する。そしてしばらくの間、お互い白い息を蕭々と吐き合う。そのうち刑部の唇が震えて、白い煙が波を成すようになった。


「そっかぁ……そうなんだ……」

「死ぬのは良くないと思う。好きとか嫌いとか関係なく」

「ど、どうせ、これも島袋鏡花の影響なんだよそうだよ……」

「はっ、ちちち違うっ……」


 全くの無関係ではないけど、でも誰かの死で煮え湯を飲まされる人が現れるのは、普遍的な事実でもあるわけで、そうやって刑部と自分に言い聞かせているのに、刑部は意に介さず私の言い分を遮って頭を下げる。ハーフツインとマフラーが空中を舞い、遅れて垂れた。


「もう一度聞くけど。私はあなたのことが好きです。付き合ってください!」

「いやだから……」

「もう後戻りできないんだよ。よっすー言ったよね。付き合っても振られても、ぎこちなくなるって。だからもう、付き合えないって言うんなら、……絶交だよ、絶交」


 言葉の重みに身がすくむ。さっきから口が滑りまくりなんじゃないか、刑部……。


「なんでそんな極端な……」

「約束一つ守れない人なんて、信用できない」

「信用できないのに好きって…………訳わからんけど?」

「いいから選んでっ。私にばかり不条理を押し付けないでよ!」


 こんな時間に橋の上で痴話喧嘩なんて……と、まるで遠吠えを聞くように、他人事のようにその言葉を飲み込む。私だって人が泣きじゃくり、そして咲く前の蕾が切り落とされていくのを直視するのは辛いのである。


 藻掻けば藻掻くほど、窮地というのは深くなっていく。けれども、止められない。


「……私にはさぁ、何度自分を問い詰めても、誰かを好きになる覚悟が生まれないし、そもそも覚悟なんて大義名分にして付き合うものでもないかなーって……」

「そう……なんだ、だよね。よっすーだもんね」

「でも今日のことはっ、全部忘れるから、そうしよう、ねっ?」

「よっすーは友達でいたくても、私はもうそー見られないから、私だって逃げなかったんだから、付き合うか絶交するか、はっきり示して?」

「もう少し、猶予をちょうだいっ。気持ちが固まってから、付き合うって言いたい」

「ダメ。今から付き合えないなら、絶交する」


 この先に、刑部と私の想いが重なる奇跡があることを祈ったのに、刑部はまるで神のようにそんな点はないと唾棄する。感情的な時にどんな意見を交わしても無駄なのかもしれないと過って、私も感情的に邪険に叫ぶ。


「んーっ、じゃあっ、そうしたけりゃ、それでいいよっ!」

「うん。それなら、……今までありがとう。私がこんな事しなければ、ずっと友達でいられたのにね……。ストーカーにはなりたくないから、もう二度とよっすーとは関わらないようにするよ」


 刑部は最後に最上で無情な笑顔を刷り込んで、そして私の前から立ち去ろうとする。とっくに知っていたけど、刑部はずっと本気なんだ。ここで藻掻かないと、友達でもいてくれなくなる。血が引いて、卒倒しそうなほど体感温度が下がっていく。


「待っ……」

「よっすーが選んだんでしょ。私よりも島袋鏡花を」

「いやいやいや、まずは友達から始めようって。友達でいれば、えっと、きっと分かり合える日が来るから、だから……!」

「私は色んなアプローチを試したのにさ、よっすーはそればっかり。何も変えようとしないよね」


 刑部の冷笑は至極まっとうなだ。私は何も変わってない。今だって、あの時と同じ対応で有耶無耶にしようとした。こんな方法、親友である刑部に通用するはずないのに。でも縁を切ることだけは死にたくなるほど御免被りたくて、泥臭く言葉と関心を繋ぐ。これを望んでるんでしょ、ねぇ、そうであってよ……!


「洞窟ちゃんのことを好きになれない私が悪いよ。でも、今まで特別に思ったことが無いから、好きになったり嫌いになったりできないわけでっ。とっとにかく、明日から洞窟ちゃんのことを特別にしてみる。あなたの事を知り尽くして、……ちゃんと追いついてみせるからぁっ!」

「そういう顔もするんだ。泣き顔も気になるなぁ」


 刑部は涙の粒を星屑のように煌めかせながら、横を向いて振り返らずに、走って橋を渡っていった。家の方向は同じなのだが、この後をとぼとぼ歩かないといけないのか。……別の橋を渡って帰ろうかな。はぁ……、でもその前に、今一度、両手でひんやりした欄干を掴みつつ、体重を乗せてしばれる寒さに身を任せた。


 車がさぁーっと音を鳴らして通り過ぎていく。寒さで再び体の末端の感覚が失われていく。でもそれがいい。私はそれを冬に求めている。嗚呼……凍死するまで一生このままでいい。何かを思惟しているようで、その実、無念無想に近付いてるだけの、こんな時間以外……あんまり要らない。


 人の心は分かるだけで触れない。最後にちらつかせた素朴で普通な面様と、小馬鹿にしたような言い回しを材料に、今は希望を創り出すしかないか……。オリオン座ぐらいしか見出せない星空に比べれば、刑部のほうが百倍魅力的だったかなぁ。

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