4-8

 トンネルを抜けると、眼下に藪を挟んで街が広がる。そしてアップステージには青く塗られた大海原が開豁に構えている。波が白く砕けて、それが街との境界線のように振舞っている。ここから眺めている分には、海は海洋汚染とも自然災害とも無縁に思えた。


「よすがぁー」


 窓の外に子供みたいに釘付けになっていると、鏡花が無用なシフトダウンをしながら、私の名前を天衣無縫に呼んだ。


「なーに」

「ん?呼んでみただけ」


 私は海を眺めても、それに付随して何も想起されない。海に思い出がないのだ。だからこそ、海というものの朴訥な美しさを味わうことができている、んだから邪魔しないでほしい。


「よすがぁー」


 私がまた窓の外に意識と目線を傾けると、さえずるように私の名前を呼ぶ。まあ、私たちがそれぞれ違うものを見る必要はないわけで、軽く座り直してきちんと応対する。


「だからなーに」

「いやぁー、暇だなぁーって」

「ちゃんと集中して運転してよ。まだ死にたくない」


 死ぬまでに行きたい場所、食べたい物、経験したい事、平均寿命のうちには達成できそうなぐらいは人並みには抱えている。主に鏡花のせいで。


「海はコーンフラワーブルー?」

「さあ、どうなんだろうね」

「縁佳の好きな色に染まるといいね」


 鏡花はにまーっとして、彼女の心を掴めた気になっている。なら、もうコーンフラワーブルーな海ということにしといた方がいいかもしれない。


 鏡花が私のほうの窓の外を、首を動かさずに瞥見する。しかし柵に阻まれ、まもなく海は見えなくなった。だからって拗ねてアクセルをべた踏みするな!


「上り坂なのでー」

「んとー……、飴でも食べる?」

「お、二つちょうだい」


 欲張りな奴だなぁと思いつつも、鏡花の気を紛らわせないと運転がどんどん荒くなっていくので、レジ袋の中から飴を取り出し小包装も取り外して、彼女の手に色違いの二粒を置いてあげる。そうすると、鏡花は飴を見ることなく口に放り込んで、ばりばりごりごり噛み砕き、その破片を一思いに飲み込んだ。


「飴って長く舐められるのが長所なのに」

「舌の上で転がして遊んでたら、虫歯になっちゃうよ。口の中が酸性の時間をなるべく短くしないと」

「もっともらしいこと言ってるけど、あと十分もしたらまたねだってくるよね」

「むー、だって暇なんだもん」


 鏡花は口を尖らせハンドルの縁を何度か指で弾いて、甘えさせろと主張する。私が少しでも景色に心惹かれていると、すぐにこれである。好きなものを増やそう、見聞を広げようという触れ込みで旅行に来てるのに、これじゃあ鏡花しか見られない。


「刺激が欲しー」

「いらんいらん」

「うおぉー、ここは追い抜きとかそういうのはなしなんだよ!!」

「いやありだよ。教習所で何を習ったんだ」


 一発免停みたいなスピードで駆け抜けていったポルシェ相手に、鏡花の瞳孔に炎がともる。しかしながら、鏡花の血の気が盛んな運転は血筋だったらしい。以前、というかあれは高校生の頃、鏡花の母親の運転を経験したことがあるけど、それと同じGを感じている。うーむ、でも勝手にムキになって吠えてる鏡花も、かわいくないはずがなくて。口が悪いだけなうちは、私が免許を取らなくてもいいかなぁーとなっている。


 再び視界が開けて奥のほうに海が顔を出す。私は窓ガラスを人差し指でコツコツとつついて鏡花を呼んだ。


「ほら海だよー」

「海なんて見てもなぁ」

「心に溜まった邪念とアミロイドβを、波が洗い流してくれます」

「大時化ぐらいじゃないと、迫力がなくてもうダメなんだ」


 まあこれは、私と鏡花の人生経験の差なのかもしれない。私は海に近い場所に住んでいながら、そういう機会に恵まれなかった。機会とか経験は自分から捻出するべき、という意見もあるだろうけど、誰かによるきっかけが無かったら、その結論には辿り着けないと思う。私もいつか、凪の海では満足できなくなる……のかもしれないし、今の鏡花はかわいいバーサーカーになってるだけなのかもしれない。


 そうこうしていると、すぐにトンネルが待ち構えていた。海よりつまらない車窓に、鏡花も思わず猫……ではなく猫背になる。


「にゃーん……」

「あと1時間、頑張ってー」

「次のサービスエリア降りるからさ、縁佳フロントガラスにはっついてくれない?」

「どういうこと」

「毎秒縁佳の顔を見てたい、なぁ……」


 鏡花は自分で言いながら、想像でほっぺたが落ちそうになって、それに抗おうとして顔が引き攣っている。でも結局負けちゃったみたいで、「むふふ」と声が漏れていた。


「酒でも飲んだんかいな」

「えー?お酒飲んだらもっとおかしくなっちゃうよ」

「それくらい、今日の鏡花は、ちょっと変だなぁと」

「そうかなぁ」


 鏡花はなぜかヘラヘラして嬉しそうにそう呟いた。まあ、二人で旅行だから、テンションが上がってるのだろう。かく言う私もあんまり寝られてない。なんか、どっちも小学生みたいだな。


 ちなみに鏡花は酒に弱い。あくまで比喩だけど防御しないどころか、裸一貫で飛び込んでくるような感じになる。つまり、見境なく愛をささやくマシーンになる。私は日本人なのでそれはそれで辛い。幸いなことに、本人がお酒を飲むとご飯が入らなくなると仰せ給うて、そもそも飲みたがらないから助かってるけど。


 トンネルを脱すると、今度は青空が降りてくる。眩しくて目をしきりにしばたたきたくなるのは、鏡花も同じだった。先に復活したので、未だ半目な鏡花を堪能する。まつ毛長いなーとか思った。いや、私はあまり性格がよろしくないのでね、交友範囲内では自分が一番容姿端麗だと、割と本気で思い上がっていた時期もあったけど、ものの見事に鏡花に折伏させられた。


 で、その鏡花は極端なほどに私の視線に鋭敏で、羨望の眼差しをじわじわと差し向ける。


「いいなー、縁佳は私の顔をずぅーーーーっと見てられて」

「えーまぁ……悪くはない、いやめっちゃいい」

「ぬぬっ、なんか恥ずかしくなってきた、……そんなにじろじろ見ないで……」


 ちらちらこっちに目線を向けながら、小さく縮こまって恥じらう鏡花もかわいい。いつでもどこでも、不用心に甘えてくる鏡花もいいけど、私と鏡花の思い出の中には、そういう関係だった日々も含まれてるわけで、こういうのも外せないなぁと見惚れてしまう……でも、ハンドルから手を放してまで髪の毛をつまもうとするな!

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