4-7

 放課後、廊下にて、偶然にも探知されずに縁佳の背後を捕捉することに成功する。これは運命だ、天命だ、縁佳の背中に抱き着けと、神が天使が仏がヴィシュヌ神がキソウテンガイが倚天の剣がマヌルネコが、わたしにそう命じている、というのは冗談だよまっさかー。そうしないと、わたしが危ない人だと思われるというか、鑓水に塩を送ることになってしまうんだ……。


 まあ、難しいことは記憶から抹消しまして、わたしは普通に縁佳に背後から奇襲をかける。首に腕を回して、ぐぐいと肩と背骨に体重を載せる。すると縁佳は「うがががが」と、多少は悶える。


 一方わたしは、耳元で囁いたり、頬ずりしたりしたい欲望を堪える。前にやったらとことん叱られたのである。縁佳を敵に回せば、この学校での立場はなくなる……までは行かなくても、大切な友達を一人失いたくはないので、さすがに我慢している。


「もう気が済んだ?」


 まだ三秒なんですけど。もう少しこのままでいさせて!


「つい震い付きたくなっちゃうね!」

「なっちゃわないで」

「でも、よっすーしかよすれないんだよー」

「よするって何?」

「この状態のこと」

「動詞じゃなかったのか」

「うっせぇ、伝われば何でもいいんだよ!」

「いや安栗のほうこそ、耳元で大声出さないでよ」

「出してないよ?」

「出してる」


 じゃあ小声で囁くしかないと合点する。もちろん怒られたくないので、自分の顔と縁佳の耳の距離は十分に置く。


「トマト味噌汁アノマロカリス異形鉄筋プファルツ」

「あーぞわぞわするっ。もう勘弁して」


 プファルツの “プ” を強調したら、縁佳の堪忍袋の緒が切れた。車のドアハンドルに触れて静電気が走った時のように、わたしは素早く手を引っ込める。


「聞き分けが良くて大変よろしい」

「通ってたピアノ教室の先生みたいなことを言うね」

「ん?いや何をやらかしてたんだ……」


 縁佳は生徒会長になるために、今日も根回しとか鍛錬に励むらしい。わたしみたいな部活すらサボりがちな人間には到達できない高みを目指していて、うーん、凄いなぁって思う!よすれて無事に頭が空っぽになったので、手を高く振って縁佳を見送った。


 縁佳が見えなくなったので、手を下ろして横を一瞥すると、酔い潰れて歓楽街の路上で寝てる人に差し向けるような視線で、鑓水がわたしを見ていた。とりあえず、校門のほうに向かって歩き始める。


「獣みたいにマーキングするのが楽しいの?」

「マーキングしてるんじゃなくて、よすってるの!」


 鑓水は首を傾げながら、顔をしかめながら、わざとらしく耳を塞いだ。しばらくすると何かに納得したように、頷きながら手を下ろして、後ろで組んだ。


「それもそうか」

「おぉ!聞き分けが良くて大変よろしい」

「だって私にはやらないもんねぇ」


 鑓水がわたしを貶めるように瞥見する。でもわたしは毅然と間髪を入れず返事する。


「当たり前でしょ」

「なぜ?私が怖いか?ほよ?」


 鑓水は目を細めて質問した。けれどこれもわたしの答えは簡単で、揚げパンぐらい身長差があるのに、とても背後から体重を載せる気にはなれない、ただそれだけである。


「ふーん、中途半端に憎めない部分を作って、皆に好かれようと。そうかそうか」

「ちゃうって、鑓水の身の安全を考えてるのっ。怪我したり麻痺が残っちゃったりしたら、どうしようもないから……」

「そんな危険なこと、よっすーにはするなよ」


 とは言え縁佳は、本当に嫌なことは誰彼構わずはっきりと主張してくれるから、判断を誤ったまま突き進まなくて済む。逆に鑓水はいつもトーンが同じだから、やらかしたと思って、なりふり構わず謝っても、許してくれたのか、そもそも怒ってたのかが見えてこない。


「……優しくなら、短時間なら、私でもいいよ」

「え?」

「す、好きなだけ三秒だけよすりなされ」


 そう言って鑓水は自分の肩を手で払う。そして早くしろと双眸で訴えかけてくる。仕方ないので気乗りしないけど、階段で一階に下りてから鑓水の背後に回り込んで、えいやっと首に腕を回した。


 やる前は崇高な理念に阻まれていたけど、実際にほんの僅かな体重を鑓水に託してみると、これはこれでアリかなぁとも思う。


「大変そうね」

「大変だよ、本当に」


 意地悪なことに鑓水はこの間にも進んでいるので、バランスを取るのが難しい。特段なで肩というわけでは無いけど、鑓水の肩は単純に小さいのである。


「やってみてもいいよ?」

「何を?」

「頬ずり?」

「えっ、マジ??」

「どぞー?」

「それじゃあ、失礼……?」


 しかし鑓水は、本気で怒らせたら二度と心を開いてくれなさそうなので、一擦りにとどめておいた。その一擦りに全てを賭ける。うーむ、おぉー?縁佳とはまた違った感触があった。擦り方の問題かもしれないけど。縁佳よりも温度は低いけど、すべすべさは負けてない。でも質感はちょっと違くて、縁佳はもちもち、鑓水はふわふわって感じだ。


「もっと氷のように冷たくて硬いのかと」

「人肌の柔肌に決まってるでしょ。というか、安栗はそんな風に私を見てたのか」

「え?でもひょーひょーとしてるのは事実じゃん」

「んー、私の手は自由なんだけど、それが何を意味するかわかる?」


 鑓水の手がわたしの横腹を捉える。えぇ、身体を拘束しようと拷問しようと火葬しようと、心までは屈さないってこと?嫌だなぁ、鑓水には融通無碍に生きてほしい。


「わかんない!」

「うるさ。よっすーがいかに豪放磊落だか実感したわ。終わり終わり、もう三秒経った」


 鑓水は強引に私の手を引き剥がそうとする。まあ身長差のせいで、わたしの腰もそろそろ限界だったし、また普通に鑓水の横に並んで校舎の外に出る。


「まったく、テニサーの女みたいな声出すんじゃないよ。はしたない」

「そう言えば鑓水、今日わたしの家来る?」

「バイト。安栗と違って暇じゃない」


 なんかまるで、さっき言ったみたいな態度で断られた。バイトなら仕方ないけど、夏休みは毎日のように来てたのに、縁佳と露崎にジブリを布教する時もつまらなさそうに来てくれたのに、最近は誘いに乗ってくれなくて、拗ねてグレそうになる。


「はぁー、わかったわぁった、明日でいい?バイト無い日ならいくらでも行くから。……だからそんな愁眉を想うな」

「明日は部活だしー」

「今日もだろ。明日の代わりに今日行けばいいじゃん。ほらっ」


 鑓水は校門の直前で立ち塞がり、わたしの肩を両手で押して逆戻りさせようとする。それを、たまに後ろに進みながら、じとーと凝視する。


「私が約束を破ると思うのか、思うのか!」

「いや思わないけど」


 わたしがすっと体を躱すと、鑓水は「うおあっ」と腑抜けた声を出しながら、慣性に翻弄される。転んだら危ないので、腰の辺りに腕を回して支えてあげる。


「死ぬかと思った……」

「ごめん、やり過ぎた……」

「はぁはぁ、なーんで私が16歳児のご機嫌取りなんてしてるんだか」

「だって、鑓水が冷たくあしらうから」

「距離を置きたかったら、よすらせてやるわけ無いでしょ」

「まーそれもそうか」


 鑓水の主張には妙にすんなり納得できた。縁佳とは違う感触があったけど、その最たるものは双方向な想いだったのかもしれない。お互いの、相手に温もりを伝染させてやろうという想いが共鳴した、のかもしれない。


 鑓水はわたしから離れて、そのまますたすた帰るのかと思ったら、振り返ってきた。


「ちゃんと部活行きなよ。声がデカいことだけが取り柄なんだから」


 鑓水はそう言い残して、余韻も本当に部活に行ったかの確認もなしに、道を左に曲がる。植木越しにちらつく鑓水は、バイトに向かってるのに足取りが軽やかで、ううん、ただ急いでいるだけかもしれない。でもまあ、部活に耐えるぐらいの元気は貰えた。一年間雨風に曝され続けた自転車のペダル並みの重い足取りで、わたしは校舎に踵を返す。でもやっぱしめんどくせー。



「んなー鑓水ぅー」


 何となく無視したくなる間延びした声で呼び掛けられる。なので無視して作業に没頭した。あともうちょいなんだ。


「あ、何」

「うあ、何」


 反応してやったらやったで、スマホを軽く真上に浮かせるぐらい驚かれる。てめーが呼んだんだろうが。三秒で自らの言動を忘れるのか?


「直せた?」

「待って。臥せて待て」

「分かりました」


 とは言ったものの、安栗は別に臥せない。気色悪く笑みを浮かべながら、かぶりつくようにスマホの画面に吸い付いている。まあ静かなほうが手元が狂わなくて助かる。それから一分もしないうちに、制服のスカートのほつれを直し終わったので、ベッドに寄り掛かってスマホを見ている安栗の頭めがけてぶん投げる。


「ほい、完璧」

「おー、ありがとうな」

「お前、色んな人にべたべたくっ付きすぎなんだよ。だからほつれる」

「でも鑓水に直してもらえるから問題ないー」

「次はまち針でも刺したまま返すぞ」


 何も考えてなさそうだから、そのまま履いて脚が血まみれになりそう。


「ところでさ」


 安栗はとなりのトトロに腕を回しながら、もう片方のスマホを握った手は頭と一緒にベッドに置いて、逆さまに振り仰ぎながら、人様の枕元で長座している私に話しかける。


「用でも思い出した?」

「露崎、彼氏できたと思う?」

「知ってるわけなかろう」

「いや、鑓水の勘を尋ねてる」

「そもそも、なんでそんな事を訊くのさ」

「いやー、でもクリスマスに予定なんて、そういうことだよなぁ……」


 普通に質問に答えやがらない。ひっそりと減点しておく。


「露崎がなもち先輩以外にときめくかね」

「もしかしてもしかして」

「はいもしかして」

「わたしってあんまり好かれてない!?」


 安栗は口をぽかんと開けっ放しにして、世紀の発見をした時の顔をしている。こいつが世紀の発見をすることはないので、その表情は最初で最後となるだろう。


「よっすーも洞窟ちゃんもモロックマも用事できたって言うし……。どぉーなってんだよ、偽りの友情だったのかよっ!」

「あっえぇっと……、ほら、偽りの友情だったらよすらせてくれないよ。みんなある程度、安栗には好感を持ってるって」


 だからどうして、私が16歳児のおもりをしなければならんのか。


「わたし、よっすーみたいなカリスマ性もなければ、洞窟ちゃんみたいなノリの良さもなくて、モロックマみたいな発想力もなくて、露崎みたいにエネルギッシュでもない……」

「安栗は……みんなに愛されるタイプの人だよっ。それは間違いない。私が太鼓判を押す。あんまり自分を卑下しないほうがいいと思う……」


 だーかーらーっ、どうして私は安栗を称賛してるんだぁーっ。


「だよねぇー、鑓水がいるもんねー。ボッチじゃないひゃっほう」


 手のひらを返すというか、起き上がって体を捻り、両手のピースと共に写真を撮る時みたいな笑顔を見せつけてくる。意外と深刻な悩みかと思ったけど杞憂だったらしい。良かった、悩まれると、もっと称賛しないといけなくなってめんどくさい。大それた議題について悩んでるのを見たことないけど。


「ところでさ」


 安栗は、飛び上がりながら空中で脚を素早く折り畳んで、ベッドの上に正座して相対した。


「今度は何?」

「なんで鑓水はわたしの家にいるの?」

「安栗が呼んだからだろ」


 クリスマスなのに遊び相手になってあげてるんだから、家財を悉く鑓水家に寄進してくれてもいいんじゃないの。


「楽しい?」

「自分の部屋に籠るほうが一恒河沙倍楽しい」


 本があってパソコンがあってギターがあって、色んな濃さの鉛筆で絵を描き放題で、無聊を慰められる玩具がいっぱいあって、たまに猫が気まぐれに迷い込んできて、私の部屋は老後が極まってきた人より充実してるので、こんなぬいぐるみしか取り柄のない部屋に比べたら、あながち誇張しているというわけでもない。


「ふんふん、じゃあ鑓水の家に行くかー」

「えぇ?」

「そんな楽しい場所、気になるに決まってるじゃーん!」

「狭いよ」

「構わん」

「ここから遠いよ」

「一向に構わん。むしろなんで鑓水は、毎日のように電車に乗ってここまで来てるわけ?」

「だから安栗が呼ぶから」


 私は左の親指を右手で握って、磨くように前後に動かしながら、同じ質問に同じように答える。他方、安栗は数多あるかわいらしいぬいぐるみの中から、湯婆婆のぬいぐるみをピックアップして、緩く抱きかかえた。


「ダメ?」

「んー……」

「ダメなのかー」


 私が何か言う前に、勝手に早合点しやがった。あーもう、肩透かしすんな、まち針で無資格針灸マッサージするぞ。私は痛いぐらい親指を捻るように握って腹をくくる。


「もし仮に本当にぶっちゃけ猫以外あげたくないけど、来るなら掃除するから日付を決めて」

「そじゃ、今日で」

「念動力は趣味じゃねえよ」

「えぇーそんなー!ならどうしよー!うーむ、えー!あっそうだ!明日は!?」


 こいつ、頭使ってるふりを振りかざすだけで腹立たしくなってくるな。……家に帰ったら、あんまり手を入れてない棚の埃とか、何とかしないとなぁ……。結局、冬休みになっても安栗のやかましい声を聞かされる毎日は変わらなさそうだった。

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