4-6
歩き始めて、皮膚と布地の間に空気が流れるようになって、私は汗をかいていたことを知覚する。ある意味、最も冬を感じさせる暖房の温度設定だ。それはさておき、すいかでも貪りたいぐらいには、体が熱を帯びている。片手を自分の頬に当てて驚愕する。顔から写し取った熱は、結んで開いてみても冷めることがない。
雲に乗って移動しているような気になっていたけど、実際はそんなことないわけで、縁佳の足が絡まり転びそうになる。体の芯の体温が目まぐるしく変動している。一刻も早く地に足を付けて、人目も憚らずに頭を下げる。
「ごめんごめんなさいっ前向いて歩きますっ」
「近付きすぎだってば。傷痕が残ったら大変だよ。自分の体は大切にしてね」
「ごめん……離れるから……」
「島袋さん、今日は楽しかった?」
「んっ、え?」
「楽しかったかーって聞いたの。授業も聞かずに回文を紡いだ甲斐あった?」
「えうん、とっ当然だろう、当然すぎて泰然だよ当然」
行く直前に楽しみで眠れないのは当然として、本編もこんなに楽しいことはそうそう無い。でも丸一日歩き回って、さすがに疲れが現出して、心臓が睡眠不足の時の暴れ方をしている。
「どこが?」
縁佳にツッコまれる。当然、悪い気はしない。そしてすぐさま、器用に不朽の笑顔を繰り出す。
「まっ私も楽しかったよ。いい一日になったー」
「えっ、どこら辺が」
「えぇー、大体全部?」
「具体的に」
「何、島袋さんは楽しんでる私を見逃しちゃったの?」
そんな訳ないよ!と、わざわざ立ち止まって訂正する。私の脳は縁佳の一顰一笑まで記憶していて、どこからでも今日の出来事を再生できるのだ。
「むしろ、そっちこそ表情が乏しかったんでは?」
「えっ、だから当然だって!」
「いつもよりは分かりやすかったけどさ。クレープ食べてる時とか、髪飾りを選んでもらった時とか」
縁佳は見せつけるように自然な笑顔で念押ししてくる。私もいつか、そうやって笑えるようになりたい。縁佳と時間を共有する度にそう願っているけど、実際に何かトレーニングをしているかと言われると……。
私が自己嫌悪に現を抜かしている間も、縁佳は私をじっと見つめている。今度はちょっと不服そうに。それで十分って主張している……のだといいなぁ。でもまあ、事実として縁佳は私の感情を掬い上げられているわけで、人格まで否定する必要はないのかもしれない。
前方には純白の光が立ち込めている。何事かと目を凝らすと、デパートの外は一面の銀世界になっていた。今も視界不良なほどに雪がふぶいている。まるで小人になって、かき氷機にセットされた器の中にいるようだった。しかし、かき氷なんぞ食べたらお腹を壊すでは済まない気温だ。ここに来る時は、冬にしては暖かいなぁーと腕を撫していたのに、天気予報では日が沈んでから雪だったのに。
「うへー、外出たくねー」
二重扉の外側の扉に手を掛けた縁佳は、その手をすっと引っ込めてうなだれる。私も同じ場所を触ってみたけど、夏に持ち越したいぐらいには冷たい。しかしガラス越しに冷気が伝播してくるので、いつまでもここに立ち往生してもいられない。とりあえず手袋ははめておいた。
「行くよ、開けちゃうよ??」
「覚悟はできてる」
「どうにでもなれー、ウヴァサブ」
ふわふわで大粒で水っぽいかき氷にしたいぼたん雪は、風に乗って私たちにも吹き付けてくる。目も開けられないほど激しいけど、目を開けてないと縁佳を見失ってしまう。そんな状況なのに、扉がばたんと音を立てて閉まる。逃げ道を塞がれた気分になり、こんな中帰らないといけないのかと、暗澹たる気分になった。情けないほど心細くて、ほんのり生きた心地がしなくて、縁佳から離れたくなくて、せっかくの意を決して外に出たのに、台無しにすることを言いそうになった。
「一本だけ傘あるんだけど……。島袋さんもこっち?」
「うん!」
薄っすら浮かぶ縁佳の指の方向を碌に確認せずに、元気良く頷いておく。
「じゃあ一緒に入ろう。狭いけど……」
縁佳は空気の塊を押しのけるように、ぐぐいっと折り畳み傘を開く。それに乗じて、私は自分の肩と縁佳の肩が触れ合う距離まで近付いた。私たちの視界が完全に閉ざされる。でもそうでもしないと、傘が吹き飛ばされてしまう。
正面から風を受け止める傘は、縁佳の声をかき消すように、じたばたと悲鳴を上げ続ける。しかも詮無いことに、向かい風に煽られ瀕死の傘を回り込むように、空を削った欠片は顔に首元に飛び付いてくる。明日、縁佳が腕の筋肉痛に悩まされるだけなので、傘はしまって体で吹雪を受け止めることにした。……寒い、冷たい、鼻先と耳が猛烈に痛い。触ったらぱらぱらと砕けそう。
「島袋さんは、どうやって帰るの?」
「ん、バスだけど」
「動いてるのかなぁ」
縁佳が不安を煽るせいで、私は帰る方策を失った。一応、辺りを見回してみると、大量のブレーキランプが吹雪の中で順次ぼんやりと点灯していった。そしてクラクションが耳をつんざく。これだけ自家用車が詰まってたら、バスが走れたもんじゃない。
「逆に平島さんはどうやってっ?」
「あぁ、私は歩いて帰るから」
それを聞いて、雪風の喧騒にも負けない声で、足より先に口を滑らせてしまった。
「じゃあ、見送るよっ」
「え?気遣いはありがたいけど……」
「こんな天気の中、女の子一人で歩くなんて危ないから、うん。遭難したら、死ぬ」
私が押せば押すほど、縁佳の顔は引き攣って、目と鼻の先なのに灰色の空気に溶けていく。
「島袋さんがいたところで……用心棒が務まるのかな」
今度は雪の白さをふんだんに生かしてた威光をもって、煽るように薄ら笑いながら視線を送ってくる。
「もし例えば暴漢が現れたとして、命を賭して私を守ってくれる?」
「んー……、最大限は努力するけど……」
「おいそれと自分の命を投げ出さないのっ。……まあ、島袋さんがそうしたいって言うなら仕方ないか……」
縁佳は肩に積もった雪を払うと、「どうぞ」と自分のコートを私に差し出した。躊躇わないわけにはいかなかったけど、コートを広げて袖に腕を通すよう催促してくる。縁佳は私と違い、決断に疑懼がなくて、確固たる自信を帯びながら、私の前に立ちはだかる。だから折れるしかなくて、凍えそうな縁佳に胸を痛めながら、私は渋々コートに身を委ねた。
そんな縁佳のコートはもう、この吹雪の中でも一晩明かせそうなぐらい温くて、人の善意に素直になることは大切だと学んだ。これが縁佳の温もりか……顎をコートの中に埋めてみたりもした。縁佳を感じる、縁佳を着ている、縁佳に身を守られている。私は何を言っているんだろうか。
陶酔は長続きせず、絶えず吹雪に曝されたために、冷えた外気が徐々に染み込んで肌寒くなっていく。縁佳が薄らいでいく……。突然この場にうずくまりたいほど、その事実が無性に怖くなって、顔を上げて、並んで歩いているはずの縁佳を確認していた。
「ん?寒いねー」
縁佳が私の視線に対して機敏に感応する。縁佳は世界の終わりでも、こうして一人で輝きを放つのだろう。何より、縁佳がまた自分に意識を向けてくれたことに安堵する。
「なんか話そうか。むむむ、どうぞー島袋さーん」
「……寒くない?」
「それなりに」
「じゃあっ、コート返すから。もう十分あったまった」
「いいっていいって。ヒートテックなめるな」
縁佳は袖口を片手でつまんで自慢してくる。それはいいけど、赤らんでいる素手を目にして心配になった。元から苦労してる手というのもあるんだろうけど、なんてったって想ってしまった以上、何も起こせないというのは容認できなかった。
「あっ、ちょっと、どうしたどうした」
毛玉だらけの手袋で縁佳の満身創痍な片手を包むと、見計らっていたかのようにするりと逃げられた。追いかけると距離を取られる。
私はデパートを出発する前の会話を思い出した。どうやらこれも解禁されていないらしい。珍しく挙措を失っている縁佳を認知して、呆気にとられる。じゃなくて、謝らないと。
「ごめんなさい……」
「あーいやっ、そんな頭下げて謝ることじゃないよ。ただ……さっき暴漢の話をしたから、寄ってきたのかと」
縁佳はあははははーと、まるで隣に立つ明世に回答を求めるように、不安定なリズムで息を吐いて笑う。ああああ、私はとんでもないことをしてしまったのかもしれない、禁忌の膜壁に突っ込んでしまったのかああああ。
私が悶える間もなく、縁佳は歳不相応に傷んだ手を私の前で握ったり開いたりして、質問を投げかけてきた。それに答えているうちに、私が奇々怪々な行動に及ぶ、いつも通りの関係に戻っていた。
「どうにかしなきゃって、衝動的に?」
「う、うん」
「心配になったんだ」
「凍傷になったら大変だし」
「まあ確かに、島袋さんママンよりも酷いかー」
「手袋越しでも冷たくてびっくりした……」
「温めようとしてくれたんだよね。えっと、じゃーどうしようか」
「両手をこうやって……」
縁佳が私に解答を要請するかのように口を閉じたので、私は自信をもってそれに応じる。両手とも寒そうなので、反省して片手ずつ包み込……もうとしたけど、手が小さくて不可能だったので、緩く握ることにした。私の左腕と縁佳の右腕が、大きなアーチを描く。歩きにくくなった。
「過保護だねぇ」
「わっ私が誘ったから、……安全に帰らせる義務があるかなと」
「変だなぁーって思う?」
「あったかくなったなら何でもいい」
「微妙。接触してる部分は、それなりにあったかいけど」
「そう、じゃあ急ごう。急いで帰ろう」
私が急かすようなことを言うと、揃いも揃って歩くペースを加速させる。地味に二人三脚の経験が生きているかもしれない、とか思ったりした。
しばらく自然の脅威に抗いながら前進しているって信じていると、歩道にアーケードが現れる。まあ、横殴りの雪が舞い込んでくるので全く無力である。風が吹き荒れる度に、私たちから熱が奪われていく。でもそれより、一定の力で縁佳の手を握るほうが難しい。気になって繋がってる部分を打ち見してしまうと、つい力が籠もってしまう。
「あ、ちょっと寄り道してくか」
私がしっかり握りしめていることを前提に、縁佳がビルのエントランスに進路を変更する。しっかり握りしめているので、一緒にビルの中に入れた。
ビルの中は言うまでも暖かくて油断しそうになるけど、それよりも何よりも三、四階分の高さがある、巨大なクリスマスツリーに目を引かれる。ガラス張りの温室でぬくぬく育ったクリスマスツリーは、本物の雪片とは比べ物にならないほど光沢のあるオーナメントを、綺羅星の如く実らせていた。
ここは私も知っている。大きなクリスマスツリーが、一か月前ぐらいから鎮座している場所だ。最近は飽きたのか見てないけど、もっと幼い頃は島袋・児玉両家で首を痛めたものだ。ともかく、記憶の解像度が上がっていく。根元で真っ赤に咲き?誇るポインセチアとか、クリスマスツリーに吊るされているクリスマスツリーとか、ベツレヘムの星の色とか、こんなだったかなぁ。
「家まで付いてくるとは予想してなかったけど、付いてきちゃったからね……。元々、クリスマスに出掛ける予定だったし丁度いっかなーって」
いつの間にか縁佳の手は私の手からすり抜けていて、体の後ろで組んでいた。そうだ、クリスマスツリーよりも、縁佳を見なきゃいけないんだ。見て、どうするんだろう?嬋娟窈窕だなぁって息でも呑んでおけばいいのかな。
「こういう時ぐらい、私の顔色をうかがわなくてもいいんだよ」
「あっいや、なんか物足りない気がして」
「ん?プレゼント交換みたいな事もしたのに、これ以上をご所望とな」
そういう事ではなく、クリスマスツリーの話である。縁佳は必要十分だから、これ以上足し引きする必要はない。私の記憶の中のツリーは、白飛びするほど聖夜を明るく照らしていた。場所が違うのか、あるいは自分に思い出が少ないことに絶望して盛大に脚色したのか、どっちか不確かな記憶の海を泳いでいると、縁佳が張り紙を指さす。
「25日はイルミネーションが点灯するらしい」
「光ってる姿しか見たことなかったかも」
「まあ、電気は貴重な資源ですからねぇ」
そういう理由なのかは知らないけど、縁佳が言ったことなので頷いておく。
縁佳はもう一度ツリーを見上げた。そんな縁佳の端正で色白で艶っぽく濡れた横顔を、私は流し目に大脳皮質に流し込む。今はこの顔を思い出すことなど造作もないけど、幼い頃のクリスマスツリーのように、いつかは朧げになってしまう。縁佳の記憶は何も欠けてほしくない。そのために言わないといけない言葉は、そう多くなかった。
「来年はクリスマスに来よう」
私のしどろもどろで、どこに向けてるのかも曖昧な歯切れの悪い発言でも、縁佳は100%拾ってくれて、未来を1000%に広げてくれる。ほのかにしたり顔な縁佳の言葉に、私は実直に耳を傾けた。
「うむうむそうだね。どうせなら、毎年の恒例行事にしたいよねー。まっ、三年後はどうなってることやら。県外の大学行ってるかな。そんな気がするー」
「そんな将来のことも考えてるなんて偉いなぁ……」
「ただの一般論だよぉ。ずっと先まで見据えているようで、実は今のことしか頭にないのだ」
「私も、平島さんのことしか頭にない」
「んなっ、そんなに?」
縁佳は何かを警戒するかのように斜め後ろを一瞥する。その目の動きで、私は自分の口が災禍をもたらしたことを悟った。とりあえず頑張って弁明してみる。
「あっやっ全然っ、変な意味じゃないっていうかっ。私も今しか見えてなくて、そこにいるのが平島さんだからっ」
「クリスマスツリーあるよ」
「喋ってるのは平島さんだし」
「今日はそれでもいいけど、明日からは他のことも考えてね」
「はい」
素直に返事はしてみたものの、最近は縁佳以外に思慮しなきゃいけない事物がないわけで。手持ち無沙汰な毎日だから、どうやったら縁佳ともっと仲良くなれるかを考えることが、生きる糧に等しい力を持っている。……やっぱり、私の思考は縁佳に収束していく。私は縁佳から逃れられぬのか?それとも実は方向音痴で、同じ場所をぐるぐる回ってしまうだけ?
「ところで島袋さん、どうやって帰るの?このまま私の家まで行って、そこで雪宿りする?まあでも、この調子だと明日になっちゃいそうだけど……」
縁佳を封印しようとクリスマスツリーを見上げていると、縁佳のほうから話しかけられて、結局縁佳と向き合わざるを得なくなる。それで、なんで縁佳に付いてきたんだっけ。心当たりはあるけど、意味がわからない。まあ、お腹が空いてきたので早く帰りたい。見計らったかのように母親から返信が来ていた。
「んん……、親が頑張って車で迎えに来てくれるって。ちょうどこの辺にいるらしい」
「そいじゃ、ここで解散にするかー」
その発言を聞いて、思わず「えっ」と短く反応してしまう。なんか縁佳の家まで私が送るという、そういう合意になっていたようななっていたような……。
「私はどこまで譲歩せねばならんのかね……。そーだな、んむむむ…………手を繋がないならいいよ。あと、家にはあげられないから」
「手、繋いでたわけじゃない」
私の中の誰かが、これは指摘しろって心臓をぶったたく。その通りにしたら、縁佳はと胸を突かれて目を丸くして、裏声交じりに質問を返してきた。
「へぇ、じゃあなんだって言うのさ」
「ん……、握ってた?」
「それは繋ぐと何が違うんだ……」
「え、なんて言うか……一方的?独善的?なんだよ、うん」
「分からんなぁ」
縁佳はそう言って一向に収まる気配のない吹雪に立ち向かっていく。私もわからないけど、価値観が一致することはいいことだし、上手くかわせたことにして、置いてかれないよう跳ねるように縁佳の後を追いかけた。
あとほんの数分だけ縁佳といられる。その事実で友情が深まっていく。その確信に胸が高鳴る。その感情はどれだけ強い風だろうとひっくり返せない。そして、それを下支えする縁佳のコートは暖かい、縁佳のだから。
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