4-5

 興味本位で覗き込んだ穴の中に落ちてしまうように、重力に引っ張られて頭が机に墜落していく。……うあっ危ない危ない。寝てしまうところだった。どうして現代文の授業はこんなに眠くなるのだろうか。どれだけ夜に寝たか関係なく、睡魔に憑りつかれる。見てくださいよ、私の前後左右みんな船を漕いでる。こんな倦厭とした空気感にも関わらず、よく淡々と授業を進められるなぁと、感心する前にまた眠気がが。


 そんな時、机がスマホによって揺さぶられる。このタイミングで通知かと訝しみつつも、眠気覚ましにちょうど良かったので確認してみる。さすがに堂々と机の上でスマホをいじる豪胆はないので、机の中に隠しながら。


 たいへん唐突ですが失礼します。

 すべからく今後とも甜言蜜語に負

 けず精一杯頑張りますので、重ね

 てよろしくお願いします。


 新年までまだ一か月以上あるというのに、抱負を書くことが目的になってる人の抱負みたいな文章が鏡花から送られてきていた。鏡花からのLINEはいつも味がある、うん。せっかくだし頭の中で、鏡花のおろおろした感じの声で、何度か再生してみた。


 んー待てよ、これってもしかして、縦読みで返さないといけなかったり……?それは深読みし過ぎかなぁとも思うけど、いつも適当に返していて、たまには報いなければならないような気もする。まあ私が、そういう文面でのやり取りに無頓着な人じゃないと、いつまでも会話のラリーが終わらないので、これは鏡花の睡眠時間のためでもあるのだ。


 結局、明世に返歌を考えてもらうことにした。明世も明世で、授業中に関わらずすぐに反応をよこす。


「さすがしまちゃん」

「惜しみない称賛をあげます」


「いいからなんて返せばええんや」

「てか元凶お前か」

「さすがじゃねーよ」


「さすが名探偵」

「よっすーが最初に見抜いてくれるから人殺しても安心」


「心臓を撃ち抜くぞ」


「ずきゅーん惚れそう」


「思い付いた?」

「縦読み」


「酢がたくさん連なったら何になるでしょう」


「質問を質問で返すな」


 役に立たなかった。どうしようかなーと天井を見上げてはみるも、その実めんどくさくて悩んでなどいない。何となく背後を瞥見すると、予想通り鏡花が私を凝視している。そして私と目が合うと……はっとなって突っ伏して、額を机の角に擦り付けながら、またスマホで何かを打ち始めた。


「先ほどは大変失礼致しました。どうか、世迷い事に惑わされることなく、内職なさってください。」


 さっきの縦読みは消されて、大変礼儀正しい文章が送られてきた。やっぱり脳内で、鏡花の声で容易に再生できる。実際のところはどうか知らないけど、壊れたラジオのように何度もリピートされる。


 笑っちゃうと隣近所とか先生に怪訝な視線を送られかねないし、何より鏡花はずっと監視してるので、すぅーっと息を吸ってそのまま息を止め、また天井を見上げることで懸命に堪えた。それでも目元などに綻びが現れていたことだろう。どうか誰も気に留めてませんように。


「きさま!見ているなッ!」


「それはこっちのセリフだ」

「授業まじめに受けなさい」


 つまるところ鏡花なりの呼び出しなので、授業が終わったら教科書とかプリントも置きっぱなしにしたまま、鏡花の元に急いだ。


 私が鏡花の横に着くと、鏡花は地面と垂直に起立する。教育が行き届いているのはいいことだが、鼻息が吹きかかるぐらい近いと話しにくいので座ってもらおう。鏡花は立ち上がった時と同じ勢いで腰を下ろした。


「助けに来たよ」

「ぬあっ、どうもどうも」


 鏡花は座ったまま、何度もお辞儀する。しかし何の用だろうか。何の用もないけど話しかけてみましたーといった具合だろうか。でもそれで終わっては味気ないので、無難な提案でもしてみる。


「今日の放課後、お茶でもする?」

「今日!?ですか……」


 がふっと、鏡花が座面から飛び跳ねて着地する音も聞こえた。今日を生きているのに、今日が想像の範疇にないらしい。


「今日じゃなくても、今日は心の準備が……今日よりもめでたいクリスマスに出掛けましょう!」


 たまに目を合わせてくれるようになったけど、まだチラチラ明世に視線を送っている。明世は不安そうな眼差しで、唇を震わせながらこちらを鑑賞している。一から十まで奴が嗾けていたのかと、もう呆れもしないなぁーと呆れた矢先、それを読まれたかのような事を叫ばれた。


「あのっ!これは私がそうしたいからそうしているのであって、誰かに唆されたわけでは、断じて無いからっ」


 まるで明世に反発しているように。


「分かってるよ。でもクリスマスはなぁ」


 なんかこの間、安栗がクリボッチを招集して、クリスマスに街を練り歩きたいという話をしていたのを思い出す。いやでも、鏡花がいるからクリボッチを回避できているのか……?しかし、何だかそういう関係というわけでも無いし、そもそも明世が変な事を提案しなければ、今週末とかになったわけで、刑部の言うように明世とは関わらないほうがいいかもしれない。


「も、もちろん深い意味はなくてっ、いや私情はあるんだけど、平島さんが気にすることでは無くてっ」


 鏡花は鏡花で、沸騰したやかんの蓋みたいにあたふたしている。そんな様子も見たことないけど。


「私情はあるんだー」

「あるけど、絶対言わない、押されても引かれても」

「まあいいや。じゃあその前の日曜日とか。どうせ出掛けるなら、学校がない日のほうがいいでしょ」


 鏡花の黒目が適当な場所を指してピタッと止まる。あれ、想定以上にクリスマスという行事に固執してらっしゃる……?ならば、安栗には申し訳ないけど、クリスマスに予定を作ってしまおうとしたら、またもや鏡花に先を越された。


「そっちのほうが、いっかなぁ……」


 鏡花は私を見上げて、頬を人差し指で弾きながら、珍しく分かりにくくニヤニヤしている。まあ、鏡花の望む日程のほうが良いのは間違いない。こんなやり取りを経て、鏡花と出掛けることになった。思えば、鏡花と街に繰り出すのは、スイーツ食べ放題に連れて行った五月以来か。いかに学生が学校に縛られているか、当たり前過ぎた。


 とりあえず目的地とかよりも、鏡花が未曽有の事態を前に緊張して睡眠不足になったりしないか、今から心配になった。



 私は今、涙を流している。目を潤ませているのではなく、打たせ湯のように涙が線となって頬を伝っている。泣こうと思えば、あくびをするとか目を開きっぱなしにするとか、そういう狡い手を使わなくても何とかなったので、自分でも驚いてたりする。驚いてても涙の流量は衰えない。


 なぜそんな虚構の奇行を、よりにもよって常葉お姉ちゃんの前でやってるのか、これを説明するには結構昔のことから語らねばならないかもしれないし、そんな大それたことでは無いかもしれない。


 クリスマスと言えば家族、と常葉お姉ちゃん含む児玉家の人たちと過ごすもの、という刷り込みが私にはなされていた。夕方、普段よりランクが一段上な店で腹を満たし、しばらく散歩してから家に戻ってみんなでケーキに手を付ける。それが毎年恒例になっていた。


 一番古い記憶というのは普通、幼稚園児の頃の何気ない一瞬、ということが多いだろうけど私は、父親ではなく母親の腕の中にまだ余裕で収まる頃に見せられた、ビルの狭間で所狭しと燦然と輝く巨大なクリスマスツリーである。言葉も不明瞭な時代の私の網膜に、しっかりと焼き付けられていた。まあ露出の設定を間違えて、白飛びしちゃってツリーの形すらおぼろげなんだけど。ともかく、私にはそれくらいこの行事が刷り込まれていた。


 覚えている、刻まれている、毎年やってくるというだけで、もちろん嫌々連れていかれている。だって食べ放題じゃないし、会話に加われないし。まあ、その輪に混ぜてもらえるとしても、混ぜてほしいとは思わない。同じ卓にいる以上、何かを質問されることはあるけど、その度に白けさせてしまう。なんで懲りないんだろう。うーむ、よくその本音を漏らさず、今の今まで耐えられたなぁ。まあそれを面と向かって言ってしまったところで、あの人たちはさらりと受け流すだろうけど。


 救いは常葉お姉ちゃんが同席しているということだった。大勢の脇で二人だけで談笑するわけでも無いけど、ただ何となく常葉お姉ちゃんが目の前にいるというだけで、安心感みたいなものが得られた。いや、人数オーバーで救命ボートに乗れなさそうな時、何食わぬ顔で常葉お姉ちゃんが膝に乗せてくれた、みたいな、もっと切羽詰まった状況かもしれない。 


 とにかく、クリスマスとはそういう行事で、この慣習は大人になっても続くのではないかと危惧するぐらい、強く根深く私に立ちはだかっていた。そしてその価値観を、常葉お姉ちゃんにも押し付けていた。だから去年来なかった時は絶望したのである。


 そうか、特殊な訓練を受けたわけでもないのに、ものの数秒で泣けたのは、その絶望的な体験のおかげかもしれない。あり得ないことは重々承知の上で、万に一つ常葉お姉ちゃんの気が変わり、今年は来てくれることを期待して涙を使ったつもりだったが、これは私の素直な感情でもあるのだろうなぁ。


 先日、生徒会長の座から勇退した常葉お姉ちゃんは、次に受験が控えているのもあって、最近は一緒に帰ることも多い。優先席にご老人が二人座っている以外、すっからかんなバスの一番後ろの長座席の端に、私が奥で隣に常葉お姉ちゃんが押し込むように詰めて座る。そして私は、人より多くの空気を輸送してそうな午後のバスの中、辛気臭い演技を披露したのであった。


「お願いだからあの、クリスマス、来てください」

「ぬぅーん、難しいなぁ。私ぃ受験生なんだよねぇー」

「半日だけだし……」

「その半日がぁ合否を分かつんだよぉ。鏡花もぉ白高受けた時、それくらいストイックにやったでしょぉー」


 はて、どうだったか。一年近く経過すれば死に物狂いで努力したことも、自分の中では矮小化されてしまう。でも半日ぐらいでは何もひっくり返らない。それはさすがにそうなので、私は涙を引っ込めるわけにはいかなかった。


「常葉お姉ちゃんがいないとご飯が喉を通らない……。一人だと心細いの、話しかけられた時に逃げ場がないから……」

「ふぅーん。鏡花ってぇ寂しがり屋だよねぇ」

「そうかなぁ……」

「鏡花は心の奥底をぉ、誰にも開示しないでは生きてけないんだよぉ。もしそういう人が悉皆消失したらぁ、鏡花はどうなっちゃうんだろぉーねぇー」


 前の背もたれに両腕を脱力して掛けていた常葉お姉ちゃんは、新しい玩具を見つけた子供のように無邪気に笑いながら、体の向きを変え体重を掛けて私を抱きしめる。私は壁と挟まれ、腕も動かせないほど潰されそうになりながら、常葉お姉ちゃんの温もりを一手に受け止めた。バスの乗客がどう思うかとか、ルームミラーの存在とか、窓の外から見られるとか、常葉お姉ちゃんは歯牙にもかけないのである。


 常葉お姉ちゃんは私の胸元に自分の顔を優しく擦り付けてくる。その度に常葉お姉ちゃんの匂いがする。しかし嗅覚の記憶とは曖昧で、こんなものだっけと戸惑いに出鼻を挫かれた。


「むぎゅぅー」

「むぐぐぐ、力、強いよ……」


 私のか細い苦情は常葉お姉ちゃんの耳に届くことはない。完全に無視されると最初から分かっているけど、それでも音となってしまう。


「昔はこうやって頻りにじゃれあったねぇー」

「言うほど昔でもない気がする……」

「昨日のことのように覚えてくれてるなんてぇ、嬉しぃなぁー」

「そこまでじゃない、先月が関の山」


 手を繋いで家まで帰ったり、家族行事でどちらかの家に泊まることになったら、だいたい一緒にお風呂とお布団に入ったり、これもまた刷り込まれている。常葉お姉ちゃんの言葉を借りるなら、私が心の奥底を開示できる相手には、それくらいの馴れ合いが当然になっている。


 常葉お姉ちゃんは満足したのか、停留所を二個過ぎると勝手に離れていった。でも名残惜しそうに、私の片手を手繰り寄せてにぎにぎしている。今度はこそばゆくなるほど非力に揉んでくる。ツボを押してるようでどうせ適当だろう。そう言えば、涙は自然と止まっていた。


「まあでもぉ、クリスマスは外せない用事があるのでぇ」

「ダメ……?」

「鏡花も用事を偽ればいいんだよぉ!」

「それは……もっと難易度高い」

「友達と遊ぶぅって嘘ついてぇ、家を出ればいいだけ!簡単簡単」

「嘘は簡単に見破られるから嫌い」

「下手なだけではぁ?」


 そんな正論をぶつけられても返す言葉がない。言葉とは裏腹に丁重に指の腹を撫でられて、ふぎゅっとまたもや変な声が出た。


 結局、常葉お姉ちゃんは私の思い通りに行動してくれないわけで、まあ日本国憲法で多種多様な自由が認められているから文句を言うのは筋違いなんだけど、それでも同じ絶望をまた味わうのかと、つまり既に絶望している。


 時間を費やして勉強すれば解決するテストと違って、時間がいくらあっても、私という属人的な問題は霧散しない。たった半日とか言い放ったけど、その半日にどれだけ懊悩してるんだという話だ。あの涙は嘘偽りなくて、そのせいで通常の学校生活の中でもふいに泣きそうになる。


「おーいしまちゃーん、しまちゃああああああ入れすぎ入れすぎ!」

「はぬっ!?私は何を」


 明世は私の指を強引にオーバーライドして、ビュレットの弁を閉じる。フラスコの中は鮮烈なピンク色に染まっていた。私は青ざめた。


「うわわわわごめんごめんごめんごめん」

「まあまあ、何度かやらないとだし問題ないよ」


 明世がにこやかに背中をさすりながら私を宥めると、班のみんなは何事も無かったかのように、次の滴定の準備を始めた。何がクリスマスだ、めでたくもなんともない。私は横柄にため息までつきながら、色付いては揺さぶられて元の木阿弥な試薬を、実験に干渉せず一歩引いた位置から眺めて、それ以上に想像を膨らませたりはしなかった。


「しまちゃんって、考え事をすると周りが見えなくなるタイプの人間だったのね」


 授業終わり、教室に向かう途中で、明世からそんなことを言われた。


「ぜ、全然っ、そんなこと無いって!」

「えぇー?別におかしなことじゃないというか。人間の行動なんてメンタル一つで、どすころんこと突き動かされるものだし」

「そもそも、考え事をしてたわけじゃない……」


 強いて言うなら駄々をこねていた。


「あら、がすよとの距離を掴みかねてるのかと」

「ひゃっ、違う、今回ばかりは違うっ」


 馬鹿高い裏声に周囲の視線を引き寄せていた。


「じゃあ何だい。君のゴルディアスの結び目は、私がぱきーんと切ってさしあげよう」

「無理だと思う」

「私の結び目が切られた」


 ずごーっと、明世は斬られた演技を欠かさない。


「でも諦めないよ。がすよに相談するか、私に相談するか。選びなはれ」


 明世は私の手首を掴んでそう迫ってくる。観念して仕方なく憂鬱なクリスマスの話をしてあげたけど、身代わりにでもなってくれるのだろうか。いや不可能だろうなぁ、だって髪の長さが全然違う。それに明世なら、平然とあの人たちの会話に潜り込めちゃうだろうし。


「なるほどー。つまりがすよとクリスマスデートがしたいと」

「んなこと言ってないよね!?」

「恋か?」

「ばーか」

「罵倒しないで、悲しい」

「私を何だと思ってるの」


 明世はわざわざ私の言葉で傷付いて、顔を反対に向けて目線を私から逸らす。一矢報いれたと思い上がれたのも束の間、気まずさと猛省が待っていた。


 でも大人度合いは向こうのほうが上手で、すぐに私の想いは掬い上げられてしまう。


「でもさ、がすよと遊びに行くのにちょうど良いんじゃないかなぁ。どう?勇気を出してみない?」

「えぇ、でもでも……」

「ちょっとずつ距離を縮めないとね。そうでしょ?」


 そうだけど、縁佳の背中が大きいなーってなるぐらいまでは階段を上りたいけど、だからと言って何段も飛ばすのは卑怯だとも思う。ゆっくりじっくりじわじわと、だるまさんが転んでるわけでもないんだから、焦る必要はない。


 私が頑なに頷かないでいると、明世は腕を組んで、そして明世らしいことを言うようになった。


「うーん。直接話しかけるのが怖いなら、インターネッツのパウワーを借りたら?」

「何でもかんでも感じたこと見聞きしたこと気になること相談したいこと、軽率に送らないように、最近は心掛けてるんだから、それはちょっと……」

「そうかー。じゃあじゃあ手垢べたべただし、何の解決にもなってないけど、用件を縦読みにでもしたらいいんじゃない」

「こ、恋じゃないからっ!」

「どこに恋な要素あったんだよ!」


 お互い睨み合ってめいっぱい否定し合ったら、また視線を集めていた。


 しかし、明世に色々言われたい放題されてから自分の席に戻ると、胸に激痛が走るほど嫌なことに気付く。つい一か月前は、用もないのに話しかけていいものかと煩悶していたのに、用ができても逡巡しているじゃないか。私は文化祭後から後退している。結局、生徒会長選挙で必要とされたから、それに甘んじてしまった。


 縁佳は私が憧れて止まない人。誰からも愛され慕われ認められる人。だから待っていれば、私が見捨てられることなんてなくて、期間は空いても必ず何かがある。だけどもう、私はそれだけで満腹にはならないのだろう。縁佳に思いを巡らせる私は体に力が籠って、不自然なほど肩肘張らせながら自分の席に座っている。迷いを打ち砕くために、爪が立つように拳を握りしめる。


 時間が空けば空くほど…………体力ゲージみたいなのが減っていく。だから今伝えるしかない。逃げちゃダメだ、私はクリスマスに縁佳と出掛ける。決意は固くて、次の授業の時間はスマホをがっしりぷるぷる震えるほど両手で掴み、私は明世のアドバイスを鵜呑みにして、めちゃくちゃ真剣に縦読みを捻り出した。


 かくして何の意味もない縦読みが完成した。送信すると縁佳は直ちに反応する。せめて笑ってくれたらなぁと、縁佳の仕草の機微を追いかけた。…………既読は付いたし、何かを打っているけど一向に返信が来ない。悩んでいるのか?あの縁佳が、私への返信に?


 今の私を暴走しないように縛り付けているのは、どんな文面であろうと、縁佳が私の意図を汲み取ってくれるという信頼である。だから、天井を見上げてお手上げでーすみたいなことをされると、授業中なのに机をバンバンひっぱたきそうになる。縁佳は、私が後ろから見てるってことを自覚して行動してほしい!


 そんな想いだけは届いてしまって、降参だと目で合図されてしまった。がつっと音を立てて額に机の角をめりこませながら、謝罪を送信する。それでも既読は付けど梨の礫で、顔を上げて縁佳の様子を確認すると、また天井を仰いで降参していた。


 当たり前のことだ。私は縁佳のデコード力に任せっきりで、率直に自分の意志を伝えられていないのである。はぁ……、私は何に配慮しているんだろうか。都合がつかないなら、嫌なら縁佳が断ればいいことであって、私がいついかなる時に遊びに行く提案をしても問題ないはずなのに。この葛藤はあまりにも失礼なのではなかろうか。……そんなこと言ったって、どうしても卑屈になったり、失敗を恐れたりしてしまうもんなの!


 ずっと緊張状態が継続するはずもなく、さっきまで暴れ回っていた心臓は、疲れてグレてやる気が無くなって尻すぼみ、背筋は疲れ果てて机に突っ伏していた。左頬とか左耳が髪を挟んで机の硬くてひんやりとした感触を得る。これに快の感情は巻き起こらず、自分の顔が押し潰されそうで、骨と机に肉が挟まれて、ただただ痛い。けれど重力に抗う元気もなく、痛みと共存するしかなかった。そしてこの体勢で、ときたま私以外の人に返信している縁佳を水の膜越しに傍観して、やっかみをいだくのであった。


 んーっ、諦めるなんて無理だ!最低限の言葉を集めるぐらいなら、今のだらしない私にもできた。そこから先は縁佳にデコードしてもらう必要があるけど、でも試してみなければ、上手くいかないと決めつけられない。で、それを縁佳に伝える術は……向こうからこっちに来た。


 ところで、私がクリスマスに縁佳と出掛けたいのは、居心地の悪い家族行事から抜け出す口実のため。……だったけど、理想だけは一人前に高度な私はクリスマスに難色を示されて、また自分をいたぶる方策を思いつく。クリスマス以外に遊びに行けば、用がないのに誘ったことになって、友達としてワンランク上に行けるのではないかと。そういう論理を打ち立て、そしてその通りになった私は、クリスマスに待つ絶望など、すっかり頭から抜け落ちてしまった。



 根が真面目な二人が待ち合わせするとどうなるか。その答えは約束の三十分前に集合してしまう。つま先から体の後ろ側を這い回り、頭まで駆け上がる寒気にぶるっと全身が震えて、早く来たことを後悔したかする前か、鏡花が視線の端に映って、むしろ英断だったと自分を褒めてみる。


 鏡花は私の存在を認めると、表情の数倍は心がぱぁーっと晴れやかになって、目線を固定したまま小走りで迫ってくる。


「早いね……島袋さん」

「ん?そっちこそ、もう居るけど、なっ何時に来たの?」


 今日は曇ってるのもあって、仄暗いデパートの入口前の天蓋の下で、お互い顔を探り合って、何となく苦笑を浮かべる。もっとも私のそれは、別の部分にも向いていた。


「寒くないの?」

「んへ?」

「それ春物でしょ」


 さっきまで秋どころか、半袖でも快適だった気がするんだけど、たった今私が立っている街は冬だ。私もしっかりダッフルコートを着込んでいる。吸い込んだ冷気が、肺に穴を開けようとするのはどうにもならないけど。やはり最大の敵は獅子身中の虫かー。


 鏡花は特に寒そうな素振りは見せずに、淡々と直立不動で私の横に佇んでいるけど、不釣り合いなパステルカラーの手袋しか防寒具がなくて、鏡花が仰々しく白い息をたなびかせる度に、こっちが身震いしてしまうので、冷たい金属の手すりに触れないよう腕で扉を押して、さっさとデパートに入店する。


 まあ逆に店内の空気は、まとわりついて体を火照らせ、乗り物酔いにも似た浮遊感をもたらしてくる。しかもパリパリに乾燥して、やっぱり肺に穴を開けようとしてきた。


「うん寒いよ。でもお店の中はちょうどいいかも」


 鏡花はそのコート暑くないのか、と言いたげに私の全身を見渡す。そうだよ暑いよっ。荷物になるなぁと辟易しながらも、気持ち悪くなって折角のお出掛けが不快な感情で支配されたら嫌なので、大人しく脱いで大事に抱えた。


「んーむむむ」

「うん?ど、どうかした……?」

「でもやはり、季節外れな服を着てるのは、変かなぁーって。何というか、恥ずかしくないですか?」

「そうでもない」

「私が恥ずかしいよっ」

「しょうがないでしょ」

「それしか持ってないってことは無いでしょ」

「そうだよっ。ジャージとかならあるけど、それじゃあ味気無いなぁーって……」


 予定より三十分早く行動を開始してるわけだし、まずは服を揃えようそうしよう。そもそも今回は殊更に目的地を設定していないのだ。鏡花に聞いても、私の望む場所ならどこでもとしか言わないだろうし。なら、最初から尋ねる必要はない。


 そもそも鏡花は、私と出掛けられさえすれば場所を問わず、何なら私の時間を専有できれば出掛ける必要すらないんじゃないかなーとも思う。友達を大切にして、もっと仲良くなろうというハングリー精神があるのはいいことだ。そういうわけで、私の気の赴く方向どころか、漫然と時間を潰そうと思う。


「えぇ!?それはダメ……良くない良くない」

「んー?あ、そんなにお金持ってきてないかな?」

「そうじゃなくて…………デートみたいだから…………」


 そうなの?そうか、そうなのか?まあいいや、私はデートというより友達してるなーという感覚なので、自分を信じてエスカレーターに乗った。鏡花は乗り気じゃないけど、すぐ後ろの段に飛び乗る。


「どこ行くの……?」

「露崎が普段服を買ってる所」


 あの?なもちもご贔屓しているということだから、ユニクロで満足するような私よりよっぽど着飾られることだろう。


「露崎?」

「人の名前」

「そっか……じゃないよじゃないよ、どうしよう、なんか暑くなってきた、七分袖がちょうど良くなってきた……」


 さて、鏡花はこのようにめそめそしているけど、抵抗することなくあまりにもぴったり追随してきた。そして目的の店に着くや否や、私は店員に全てを丸投げする。


「どう、かな……どうなの……?」


 着替え終わって私の前に現れた鏡花は、うろたえながら怯懦を眼底に沈ませながら、たまに上目遣いに感想を要求してくる。早く解放してあげようと思って、こちらは着飾らずに褒めてみる。


「かわいいよー」


 さすが、室内なのに変な帽子を被ってるだけあった、あの店員。しかし鏡花に、普通の友達にやるような毛繕いをすると、ただれてしまうのを失念していた。


「ふぁぁっ、はぁそう、そうかなっ、服がっ?服がでっべか?」

「変な語尾になってるよ。んまあ、服はかわいい。島袋さんの素体には言及しないでおこう。口は伏魔殿の虎口だからねー」

「褒められると、嬉しくなっちゃうので、ちょろいので。あんまり褒めないで……」


 髪の毛で頬をくすぐりながら、自分を卑下する鏡花に、私はとても反論したくなった。これは一般論とかではなくて、私にとってはもっと重大で基礎的な話なのである。


「いやいやー、これからも然るべき時は褒めるよ」

「えぇー、慣れない……」

「回数を重ねれば慣れるね」

「ん……、でもでも?そうやってからかってくれるのも、仲良くなれた証左なのかな」


 鏡花は何度でも未来に目線を向けて、ぼそぼそと呟く。それは深読みのし過ぎではなかろうか……。こんなことで新鮮な気持ちになれるのなら、確かに私といたら楽しいだろうなぁ。品良く笑い飛ばしつつ、またデパートの中を歩き始める。


 デパートはクリスマス気分を謳歌しており、つららを模したイルミネーションや、一階に頑張れば家にも飾れそうなサイズのクリスマスツリーが飾られているのが、ここからも見下ろせる。それと、どこの店にも赤い下地に白抜き文字でSALEと書かれた張り紙が並んでいて、ここは商戦のバトルフィールドのど真ん中だと一人納得する。


 微妙に人の入りは悪いけど、店員の熱意は凄まじく、コートを抱えている腕に汗が滲んできた。まあ何はともあれ、年末の叩き売りの時期だから、鏡花は安く冬物の服を購入できたわけである。


 ルサンチマンとかではなく、無際限に他人に尽くされるのが畏れ多くて、だからすれ違うカップルたちを義務感でしか羨めない。自分の背後に消えるまで目で追いかけてみたりしていると、鏡花が私のセーターの裾を引っ張って呼びかけてくる。思ってたより、目と鼻の先に鏡花の顔があって静謐にびっくりした。


「……私が今着てるような、こういう服が好みなの?」

「おー?まだその話を続ける?」

「いや、そういうんじゃなくて……。純粋に、平島さんの趣向というか、感性というか、そういうのを問いたい……」


 何やら壮大なことを問われているのかもしれない。慎重に回答せねば。


「私の感性はあまりあてにならないよー。なんで皆、そんな端境が気になったり、その色使いはダサいって口を揃えたりするんだろうか。瑕が付くから、できるだけなびくようにしてる」


 そうじゃないんだろうなぁと心を痛めながらも、そうとしか答えられない。


「参考にしようと思って。今後もこうして外出することになったら、二張羅では足りないだろうから」

「そういう事なら、なおさら私の顔色をうかがわない方がいいんじゃない?」

「刑部に同じこと聞かれたら、そんな、冷たく突き返さないくせに……」

「いや、同じだと思うよ?誰かを優遇したり冷遇したり、しないようにしてるので」

「ほんとに?」

「うむ!」

「んじゃー、信じる……」


 鏡花は少し俯いて、私を疑うことを辞めた……かと思いきや、ぱっと顔を上げ、私の顔に虫を付ける勢いで見つめてきて、もう一度目が合った。


「結局、平島さんの趣味がわからないままだ」


 そんなもの、こっちが聞きたい。なんか偉い人が醸成した流行の恩恵に、業界の次にあやかれている。私はくるりと身を翻して柵に寄りかかり、腕時計で時間を確認しながら話題を逸らす。


「それより、ご飯何食べようか」

「それより」

「そんな選り好みできる程、ファッションに明るくないので……」

「うん、分かったよ。ご飯探そう」


 やっぱり食べ物のこととなると、鏡花の表情にたった一筋の光が差し込んでくる、ような気がする。鏡花をよく観察している人なら、全員が共感してくれるだろう。まあ、そんな物好きは私ぐらいしかいないだろうけど。


「何が……食べたい?」

「平島さんが食べたいものが食べたい」


 鏡花は、背筋を伸ばして指先まで張り詰めて直立したまま、待ってましたと言わんばかりの早口で答えた。まーこの雰囲気ならそうなると予測してたけど、どう居直るべきか。


「んー、あー、おー、むー……」

「大丈夫、いちごとか、そういう可愛いのでも、わっ笑わないから!」


 人差し指でこめかみを押すぐらい渋い顔で苦悩していると、ブリキの兵隊の如く人間にしてはぎこちなく、鏡花が一歩前進して決断を急かしてくる。


「甘いものは苦手だって」

「じゃあ逆に、濃厚な豚骨醤油のスープが、食べ応えのある中太麺に絡み付く家系ラーメンでもいいよ」

「それは……島袋さんが食べたいなら」

「私の好きなものはもう分かってるから……。だから、平島さんの好きなものが気になるんだけど……」


 鏡花の探求心はどこまでも純粋で、ここで私が適当にいなそうものなら、間違いなく尾を引くわけで。とりあえずスマホで周辺の飲食店一覧を検索して、その結果を鏡花と一緒に眺めることにした。それで、それとなく有耶無耶にできる突破口を探ってみる。


「回転寿司はどう?あっでも、島袋さんの会計恐ろしいことになってそう……」

「私じゃなくてっ、平島さんはどうなの……」

「色々なものが食べられるのは、いいことだと思う」


 私が角の立たない感想を言うと、肩が触れ合う距離感で隣に立っている鏡花は、私が見つめ返しても、構わずしばらく私の表情を分析する。警察相手に嘘をついたような緊張が走る。一分もないはずの睨み合いの末、寿司はダメと結論付けられた。裏を返せば、あれだけ寿司ネタはあるのに、飛び抜けて好きなネタを見出せていない、ということを見抜かれた。


 私が鏡花のことを、普通の人より親より理解しているように、もしかしたら鏡花は私の本懐へと、着実に迫ろうとしている、少なくともその意志はあるのかもしれない。それはだいぶ困る。


「じゃあねぇ、ハンバーガーは?」

「好き?」

「食べたら幸せになる、これは間違いない」

「そーだけど……」

「私の馬鹿舌もさすがに喜ぶって」

「うん、平島さんが美味しいって感じるなら、いいよ」

「というか、私のことばかり気にしてるけど、そっちはどうなの。素直になりなよー」


 反撃した気になっていたら、本物の純朴さには勝てなかった。


「私は、何食べてもうまぁーとしかならないから、何でもいいの!好き嫌いしないし!」


 鏡花は自分の両手で頬を包み込んで、うまぁーっとやる。夢中で意固地になってる鏡花はそんな事もするのかと、新しい発見が得られた。目をぱちぱちさせながら無反応でいると、もう一回感情を二割増しにしてやってくれた。恥ずかしくなって、また左手で自分の髪を引っ張っていた。


 それは差し置いて、ハンバーガーとかいう偉大な黒船に感謝しつつ、県内に一店舗しかなさそうなチェーン店に入店する。時たま横を一瞥すると、鏡花の興奮が見て取れる。息遣い、ピンボールのように動き回る瞳、不安定な歩幅、それらは全てささやかな異変で、ここにいる私だけが鏡花の感情の高ぶりを認知している。いつか鏡花と、ポーカーみたいな表情を読み合うゲームをやってみたい。勝てる自信があるから。


 今日の鏡花の前で遠慮すると十中八九見抜かれるので、値が張るほうのバーガーを注文してみる。そうすると鏡花もそれに続いて、なんか飲み物まで一緒になさった。まー、どうやら正解を引けたらしい。でもこれに甘んじず、ここで感情と表情を整えて、さらなる鏡花の無茶ぶりに備えなくては。トレーに飲み物とかを並べてる店員さんも、まさか目の前の客が変な駆け引きをしてるとは思わないだろう……。


 意外と空いていたので、二人でテーブル席を利用することにした。ふぅー、ようやくコートを腕から離せるぜ、持ってるだけで熱と静電気を帯びるんだから困ったものだ。


「お、今日は一緒の側に座らないんだね」

「えっ!?……だって、逃げないでしょ、逃げないよね……?」

「最低でも、食べ終わるまではね」

「ん、私のほうが早く食べ終わるから問題ないか」


 今日の鏡花は頼んだものも含めよく追随してきて、一抹の身の危険を覚えたのである。私が歩き始める時も、なんかほぼ同時に動き出してくる。タッチパネルなら優秀だけども、人間にそこまでの即応性は求められてない。


「ハンバーガー一つで足りるの?」

「足りない」


 ストローから口を放して、そこも即答した。答えたらすぐにストローをくわえ直した。


「足りないんだ……。空腹に逆らってまで私に合わせなくていいのに」

「だって……」


 目を伏せて溜めがあると、大抵の場合が自白である。


「一緒に選んだ服が、太って着れなくなったら嫌だから……」

「なんだい、回転寿司だと食べ過ぎちゃうと思った?」

「うんうん、というかというかっ、変じゃない!?たくさん食べる女の子なんて……」

「多様性の時代に何を今更」

「たくさん食べる人のほうが好みですか、どうですか」


 そこで私の判断を仰ぐのかよ。今日の鏡花はいつになく私の手を焼き焦がしてくる。しかし判決は真面目に下さないと、小刻みに震えながらハンバーガーを支えるその手が滑って、さっき買ったばかりの服を汚しかねない。ぐぬぬ、私は眉を顰めて一思いに沈潜する。平時に大食いを見ても、特に何も起こらない。満腹時に見ると吐き気がする。ということは、平均すれば負のほうに偏っている。ではダメなので結局、鏡花が幸せなのが一番ということにした。


 鏡花はそれにしっかり頷くと、のびのびと口を開けてハンバーガーにかぶり付く。なぜか私の口元から視線を逸らさないけど、とりあえず一難は去ったとして良いのだろうか。ハンバーガーは、まあ間違いない。マックと何が違うのか分からないけど。


 私は、腹を満たせたところで、またうだるように暑いデパート内を巡ってみる。その道中でも鏡花は、小さい歯車のように落ち着きなく足を運びながら、私の横顔に執着する。これは聞いたほうがいいかな。こっちも落ち着かないのである。


「なんか話したいことがあるの?」

「ひゃっ、無い無い……というのは嘘で、あるにはあるんだけど、言葉にするには余白が足りなすぎるというか」

「なんか話したかっただけかな」

「なんで分かったの!?」

「誘った身でもあるから、できるだけ楽しませようって責任を感じてるんでしょ」

「……半分しか当てられてないし」


 いつでもどこでもなんでも鏡花の心境が明解できるって自惚れるべきではない。と、謙虚さを思い出してみる。そう、もっと踏み込めば、鏡花の胸裏の全貌は鏡花自身しか直視できないわけで。私が得られる鏡花の感情表現というのは、バイアスや本人の意向で屈折されたものなのである。だからって、私の元に届いた姿を疑っていては話が進まないし、そもそも鏡花は正直なので、だいたい厳密だということにしておこう。


「分かってんならっ、なんか話してくれてもいいじゃん、のにのに……」

「間を楽しむのも大人だよ」

「ほ、本当かなぁ」

「こなれてくれば自ずと楽しめるようになるんじゃない」

「んー……、どうしたこなれる?」

「ちゃんと目を合わせられたら」

「頑張る……頑張るよー」


 今は瞬きの度に見ている方角が変わるけど、いつかは視神経の電撃を見透かすぐらい成長してしまうのだろう。鏡花は一生懸命だから私の背中に追い付こうとして、どんな高みにも上っていってしまう。それは当人にとっては結構なことだけど、私にとっては幾ばくか寂寞感がある。まあ、私にそれを阻止する権力はない。変わっていく鏡花を、彼女が私より高い段に到達するその日まで、恍惚の培地とするだけ。うーむ、そう考えると、私と鏡花の関係は長続きしないかもしれない。人間は基本的に怠惰だけど、例外はあるみたいだ。


 よさげな雑貨屋を見つけたので入ってみることにした。オフホワイトの壁にランタンから溢れる暖色の光が柔らかく広がって、妖艶で小粋な空間を演出している。商品が置かれている机一つとっても、脚が曲線美を見せびらかしてきたり、人工観葉植物でも緑色がアクセントとなって、私の目線も迷子になりそうだった。普段、いかに整然とされた空間に生きているかを思い知らされる。


 さぞ硬派な雑貨で埋め尽くされているのかと思いきや、客寄せのためかキャラクターものも置いてあった。そう、ここにもトトロがいる。そう言えば八世って名付けてたから、てっきり安栗の家には八体のトトロのぬいぐるみがいると決めつけてたけど、実際には十二体いた。オリンポス山かな?


「ミックスナッツだー」


 雑貨屋に来てまで食品に目がない鏡花であった。


 好奇心旺盛な私たちは、店内の奥まで探索していた。だけど、アロマとか入浴剤とか、化学薬品に頼った命の洗濯が必要な年齢でもないし、部屋に一つだけエスニックな雑貨を置いても浮くだけだし、買いもしないのにそういうのを眺めている自分に酔うぐらいが丁度いい


「ひっ平島さん!何色が好きとか、あるよねっ?」


 やけに熱心に覗いてるなぁと思い足を止めて振り返ると、鏡花はまた私に選択を迫る。何事かと、視線を斜め下に差し向けた。


 鏡花の横には、どうせ買っても身に着けない大きめの髪飾りがいっぱい並んでいた。派手な柄とか金具が付いているわけでは無いけど、花をモチーフにしていてバリエーションも豊富である。しかもお財布に優しい価格設定。


「確かに、そういうのなら思い出にいいかも」

「じゃあっ、選び合ってみたり、だってクリスマスも近いし……」

「おーなるほど。いいけど、なら好きな色は言わないでおくよ」


 そんなもの、聞かれる度に波長の短いほうからローテしてるし。


 私が同意すると、鏡花は一つ一つ手に取って、私に重ねてみたり、可動部の調子まで確認したりする。めちゃくちゃ熟考している。対する私は鏡花に何が相応しいのか、割とすぐに思い至ったので、その一部始終を腕組んでのんびり照覧させてもらった。


「ん、ごめん。早く決めるから」

「いやいや、店が閉まるまでに決めてくれればいいよ」

「違う……そうじゃ無くて……。あのっ、決まったなら、平島さんから教えて?」


 反対の棚に睨みを利かせたりしながら、鏡花に急かされる。私は言われた通り、私は菫の髪飾りを手に取る。その瞬間、鏡花はヤグルマギクの髪飾りを手にする。ふーむ、被ることを警戒してたのかな。


 で、手にしたはいいものの、なぜか手の中に隠してしまう。この私に、似合わぬものなど無い、と励ます勇気はなかった。無論、それをほじくり開けるのもお断りだ。けど、商品棚には別に同じものがいくつか並んでるので、それを手に取って鏡花がどうして選んだのかを考えてみる。私には社会的に合意された価値なんてわからないので、本物の宝玉でないにしても、煌めきを帯びていれば錯覚する。なので、考えるだけ無駄だった。


「似合うかは知らないけど、綺麗だね。いいチョイスだと思う」

「んー、……気に入った?」

「まあね。きっと現物も綺麗な花なんだろうな」


 私はヤグルマギクの髪飾りを、もう一度目の前に持ってくる。刺々しい恐らく花弁を模した装飾が、青色を乱反射していた。……青の次は緑と答えていたのを反省したくなる。こんな青があったとは。私は色一つにもちゃんと向き合ったことが無かった。深みのあるヤグルマギクの青色が、鏡花が選んだ花が、ようやく私の琴線に触れた。


「あぁ、私が両方とも買ってくるから。待ってて」


 ぼやけていた鏡花の表情が戻っていく。鏡花はわざとらしく頷いた。



 その後もゲームセンターでレースゲームに興じて私が完敗したり、ペットショップでうさぎを眺めたり、何となく幼子向けの戦隊ヒーローショーを観戦したりして、時間を塗り潰していく。それで足がくたびれてきたので、近くにあった木造のベンチらしいベンチに座って休憩を取ることにした。


 私が端っこに座って肘掛けに腕を置くと、今度もまた追随してくる……という素振りだけを残して、そこのクレープ屋に吸引されていった。そして、光り輝くいちごと真っ白なホイップクリームが山盛りなクレープを両手で支えて、啄みながら戻ってきた。


「んーっ、んまい」

「そう、良かったね……」

「甘い物が苦手なんて、人生損してるよ」

「それはそうかもね。否定はしない」


 甘いものが食べられたら、この瞬間にも鏡花ともっと多くの物を共有できたのである。でもそうやって想像を膨らませてみても、体は制御不能な幸福を容認しない。その証拠として、鏡花のクレープ以上に気になることがあった。


「あのぉ……」

「ん?やっぱり一口欲しくなった?」

「それは昨日大雪が降るよりあり得ない。そうじゃなくて、あの、近くないですか?」

「んー、近い?」


 思えば歩いている時も密着してきて、私は擦れあう肩にやっぱり焼き焦がされそうになっていたのである。私が右肩上がりになればなるほど、物理的な距離ばかりをやたらめったら縮めてくる。このベンチだって、大人四人が座れるぐらいの幅があるのに、私は肘掛けに自分の体重を乗せなきゃいけない程、体をよじらされて隅に追い詰められているのだ。


 そろそろ骨にひびが入りそうなんだけど、鏡花は何の事?と疑問を呈した表情のまま、無神経にクリームの中に口を突っ込む。しょうがないので立ち上がって反対に座ってみる。すると拳三つ分の隙間は、あっという間に埋められてしまった。


「構ってほしいの?」

「ほへ、どういうこと?」

「えぇっとー、こんなに広いんだから、もっと間隔を空けて座ろうよ」


 鏡花は首を傾げながら、今度は若干大げさに離れる。鏡花がふざけてそうするとは思えないし、でもここで許してしまったら、安栗みたいに見境なくなる可能性もあるし、私は一人で頭を抱えていた。


「間を楽しむのも大人だよ」


 読み方を変えてもう一度諷諫してみることにした。鏡花はほぼ生地だけのクレープを折り畳むように口に放り込んで、悲壮感を漂わせる。


「あんまり、仲良くないの……かな」

「え?いや、そういうわけでは……」

「友達なら、皆そうしてるでしょ……?」


 ほんの三点リーダーの点一つ分の間だけ、鏡花の上目遣いと私の下目遣いが噛み合う。鏡花が目を逸らしてから、私は手を横に振って、求められた通り?否定してあげる。


「そんなわけないない」

「髪の毛ふぁさふぁさしたり、首筋なめたり」


 そう言いながら鏡花は、人差し指で自分の後れ毛をくるくる回す。


「やられたことが?」

「常葉お姉ちゃんには……。あ、前者は別な人にもされた」


 全ての謎が一挙に解決した。推理小説ってこんな快哉の連続なのか。興味が湧いてきた。


「そういうじゃれ合いは仲の良さだけじゃなくて、個人に依るよー。どれだけ気心の知れた相手でも、触れられたくない場所はあるから」

「平島さんも?」

「私は比較的警戒心は強いからねー。……なんかごめん」

「……羨ましい」

「羨ましい?」


 私の鸚鵡返しに対して、鏡花は膝に両拳を突き立てて真剣に詰り迫る。


「あっあの、刑部はどれくらいの距離感なのっ?もう少し近いっ?」

「どぉだろ、これくらいかな」


 まあ、刑部は私の理解者であるから、不用意に飛び込んでこないんだよなぁ。私は更におにぎり一つ分距離を取った。


「洞窟ちゃんのこと、やけに警戒してるね。そんな悪い奴じゃないよ。これ以上になく凡庸な奴だから」

「えっと、何だろうな、私のこと、忘れないでほしいっていうかっ」

「あえ、転校するの?」

「違うけどっ。あの、誰が友達って聞かれて、その時に私も入れてくれたらなぁーって……」


 そんな質問、誰がしてくるというのだろうか。親かな、鏡花の親御さんなら、学校生活について詮索してきても不思議ではない。そうだな、私だけに向けられた、その淡雪のように儚く光を乱反射する瞳に免じて、万に一つ質問されたら、むしろ誇らしげな程に自慢してやろう。


 私が一拍置いてから、一昔前の鏡花の真似をするように頷くと、鏡花は屈託のない笑顔を彫り出しながら、クレープと会話の甘い余韻に浸るように、ベンチの背もたれに背中を接着させる。その傍ら、私は腕時計で時間を確認する。


 楽しい時間は瞬く間に過ぎ去る、と終わりを意識してから、ようやくそれを思い出す。そしてそんな事はいざ知らず、永遠の箱舟に駆け込み乗車できた気でいる鏡花に、夢の幕切れを伝達……するのに少し逡巡を覚えた。鏡花の足先を注視しながら、勇気を出しておもむろに立ち上がる。私の警戒が馬鹿らしくなるほど、虚心坦懐に鏡花も後を追って立ち上がる。


「もういい時間だし、お開きにしようか」

「うん」

「夕飯食べてから解散でもいいけど」

「あ、うーん、もう用意し始めてると思う」


 まあ今日はたんまりお金を使ったし、家に帰れば白米大盛り無料だし、そっちのほうが鏡花の胃袋が喜ぶだろう。私は「そいじゃー……」と、冬の朝のような切なさを表情と声に籠めながら、デパートの出口に向かって歩き出した。そうすると鏡花も、性懲りもなくみっちりと追随してくる。


 …………鏡花とは長く付き合いたいから、自分を律せなくなってしまう前に、鏡花がかつてそうしたように、自分で誰かとの距離を決定付けよう。後味悪いけど、ヤケになって見向きもしなかった感性に気付かせてくれた、大切な友達を失いたくないのだ。おかげで、私まで目線が挙動不審になった。

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