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 吐き気嫌気怖気朧気、その全てが暗がりの中で私に圧し掛かる。布団は私を象った鋳型のようで、大の字のまま身動きが取れない。できることと言えば、この家の闃寂を吸い込み、自分の正しい在り方を叩き込む、というよりは、間口を広げて受容することぐらいだった。情緒は疲れ知らずなので、平気で荒ぶっている。夜なのに色々な感情が目をこすっている。色々な温もりに触れてしまったから。


 待ってれば勝手にほかほかなごはんが出てきて、しかもそれがタダだからと釣られ、迂闊だった。無論、私は恩知らずではないので、島袋家の人たちを責め立てるつもりはないし、ご飯はとても美味しかった。ここ数年食べたもので一番だった。


 だけど私にとって、ただの家族団欒和気藹々は毒だ。他人の家族に、一過性の来客として扱われるのは、むしろ慣れている。目上らしい人と差し障りのない会話をする術は心得ているから。でも膝を突き合わせて腹を割ることを求められると、私は目を背けてしまいたくなる。背けすぎて、何を話したのか、鏡花にどんな表情を送ったのかも記憶にない。


 私は今後、鏡花に家に来るよう誘われても難癖を付けて断るだろう。二度目なんて、もっと “歓迎” されるに違いない。


 そう考えると、鏡花は凄いのだ。確かに目は合わない。けれど挑戦はする。それで成長している。自分を擁護するとすれば、変わらないでいられるのも、また才能というか生き様であると思う。更生した元悪人より根っからの善人を褒めるべきなのと同様に、最初から治すべき悪癖のない人間のほうが優等である。こうやって私は、温もりアレルギーを正当化した。


 私には沢山の友達がいて、各々に各々らしい頼り方をされる。特に、鏡花の空を仰ぐような視線はたまらない。それが私の立つべき場所、家族愛など蕁麻疹の原因にしかならない、仮病ぐらいにしか役立たない……。



 窓からカーテン越しに光が差して、私を眩い光が包み込む。制服から着替えもせず、ベッドに倒れこんで寝落ちしていたらしい。しかも、うつ伏せで手足をだらしなく広げたまま、倒れこんだ時の体勢から微塵も動いていない。いくら顔だけは横にしてるとは言え、息苦しくなかったのだろうか。


 上体を起こし、ベッドの上に正座してぼんやりする。よく眠れた。朝が来たから起きるのではなく、十分な休息取れたから起きた、というほうが正確な目覚めだった。おかげで体は軽くなった。むしろ、昨日の島袋家の食卓の空気感が、いかに重荷となっていたかが身に染みる。


 ふいに、居心地悪そうにしている鏡花を思い出す。鏡花は日頃からこんな風に、全身を軋ませていたのか。腕も脚もやけに伸ばしたくなって、頭の中で頑張って錬成した返答を口から発することができない。過干渉になるだろうから告げないけど、そんな場所からは退却したほうがいい。


 ……でもその論理で、鏡花が私の横からいなくなったら……。そんな事は考える必要もない。私の傍から自発的に立ち去った人なんて今までにいないし、それに鏡花は意固地だから、何も心配することはない。


 そう、それより気に掛けないといけないのは時間だ。まだ本調子じゃない脳みそを刺激するように、大げさに飛び跳ねながら机の上のスマホを手に取る。その際、教科書が斜めに寄りかかってるぐらいの、伽藍堂な棚が目に入って、一抹の寂寥感を覚える。いやまあ、鏡花の部屋にあった物も、大抵は常葉がいたずらで徒に放置してるだけだし、比較しても仕方ないのかもしれないけど、でも何も無いと、万が一鏡花が遊びに来た時に退屈だなーと思った。


 それより、もう家を出発する予定の時間だった。久しぶりの義務感のない起床に満足してる場合じゃない。シャワーを浴びて、制服のしわを伸ばして、オーブンが空いてなかったからスライスチーズを載せた食パンを焼かずに食べて、洗面台の前でボックスステップを踏みながら髪を乾かしながら歯を磨いて、カバンを持って狭い玄関で滞りなく靴を履いて家を飛び出す。


 走れば徒歩の半分以下の時間で学校に着くので、短距離走の構えで、朝に浮かぶ住宅街を駆け抜ける。日に日に秋は深まるばかりで、今日は外に出た瞬間に、ぶるっと一回震える程度の肌寒さがあったけど、走るのにはちょうどいい。


 でものっけから飛ばし過ぎて、さすがに途中で徒歩を挟まないとぶっ倒れてしまう。歩いていると、控えめな海風が汗を撫して、到着してないのに達成感があった。このままむしろ、普段よりもゆっくり学校に向かってもいいなぁと考えもした。


 しかし、妻に追い出されるように家を飛び出て、職場に向かうサラリーマンとか、三秒に一回は歩行者にベルを鳴らすけど、律儀にヘルメットは被る自転車通勤のサラリーマンとか、朝の街角は殺伐としている。それで、急がねばならぬ理由を思い起こし、私はもう一度駆け出した。


 気持ちのいい汗を拭いながら、登校してくる生徒を早歩きで追い越し、校門を通る。校舎前にある銀杏の木の根元で、何やら人が滞留していた。今日から選挙活動として、登校してくる生徒に挨拶をしようと思っていたのだが、それに遅刻しそうになっていたのである。なんだ、対立候補のほうがポピュリズムな演説でもしてるのか?


 何事か確認するため前進すると、海割りみたいに私の進路を作るように人混みが割れた。確かに尊敬を蒐めているとは言え、独裁者を目指してるわけではないぞーと、困惑して立ち尽くしていると、お立ち台から降りる時にバランスを崩した鏡花が、てってっとっとっリズムを刻みながらこちらに向かってきて、目の前で盛大に転倒した。


 屈んで目線を鏡花に合わせる。鏡花はまるで、目を回しているかのようだった。


「どうしたどうした、大丈夫?」

「たすけてぇ……」


 蛇口がちゃんと締まってなくて、ちょろちょろと垂れてくる水の如く、細くか弱い声と瞳で、鏡花は私に助けを求める。私が遅刻して不在の間、どうやら鏡花が代わりに選挙活動をやっていたらしい。しかし、そんなに慌てて駆け寄ってこなくても……。


 とにかく、なりふり構わず助けなきゃいけない。世間体を優先して右手を差し出すと、私の指を鏡花の華奢な指がまとめて遠慮なく握ってくる。仕方ない、人を介抱するのは後味いいぞ、と自己暗示で乗り切る。鏡花の体温が、滲み出る血が、私の神経を鋭敏にさせてきて、私は鏡花のようにどぎまぎしていた。


 何とか立ち上がった鏡花であったが、手の平や膝、鼻を擦り剝いて、血を垂らしている。手持ちの絆創膏では食い止められなさそうだ。そんな時に明世も寄ってきていた。


「しっまちゃぁーん!大丈夫、大丈夫なのなの!?」

「うん、まだいける」


 鏡花は私の指をぐっと握ったまま、さっきの情けない表情とは打って変わって、頑なに頷いた。何ならお立ち台の方向へ、私の手を引っ張る。


「いやいや、保健室行こうよ」

「でも、これからがゴールデンタイムなのに……」

「それじゃあ、私が付き添うよ。向こうにお釈迦べもいるから。君は一人じゃないぜっ」


 明世が刑部を指差しながらキメ顔でそう言うと、鏡花の手が私の指から離れる。明世と共に歩き出したと思えば、名残惜しそうに振り返ってこちらを見てくる。


「ありがとー、後は任せてー」

「平島さんなら、心配いらないと思うけど私みたいなヘマしないと思うけどっ。け、健闘を祈る!」


 ただ挨拶というか愛想をばら撒くだけなのに大げさな……。でもまあ、足元には気を付けようと思う。私は刑部から名前の入ったたすきを受け取り、首から掛けた。そろそろ満員電車に乗ってきた人が、学校に着く頃合いか。間に合った間に合った。しかし、本来はここにブレス記号があるのだろうけど、盛大に怪我した鏡花のこともあって、それと手に残る血痕が気になって、本調子になれない。


 鏡花に握られた指は、猫の手のように半開きのまま固まっている。右腕は鏡花から流れ込んだ勇気を拒むように、びっしり鳥肌が立っていて、長袖が正装な季節に感謝するしかない。誠に不便な体だなぁと、何度も右手を確認してしまう。勝手に血痕が消滅するなんて奇跡があるわけないのに。


 人の流れの切れ目に、ずっと棒立ちしてるだけの刑部が話しかけてくる。


「珍しいね」

「んー?あ、確かに、髪留めてないな」

「それもそうだけど……」

「あっ、おはようございまーす」



 昼休み、お弁当を作る余裕など無かったので、購買にてパンを買いに行こうと席を発つと、明世に両肩を握られた鏡花が立ち塞がってきた。


「なんだい、モロックマ」

「そっちじゃなくてー、しまちゃんを見てあげなさいよー」

「はぁ」


 鏡花の膝には分厚いガーゼが巻き付けられ、手は半分ぐらいの面積に絆創膏が貼られていた。一限が始まる前に念の為声は掛けたけど、そんなに痛むのだろうか。


「えーっと、まだ痛むの?」

「べ、別にっ、こんなので泣かないし!」

「そりゃあ泣かないでしょうけども。痛いのかなぁーって。なんかぁ……ごめんね」

「おいおい、鈍感系主人公気取りかい?乙女心が欠落してるなぁ」


 明世が半畳を入れてきたので、お望み通りの主人公を演じてあげよう。珍しく早弁してなかったので。


「んじゃー、購買に行きましょうか」

「おいおいおいおい、それをがすよが言ったら意味ないでしょーっ。はぁ、がすよにはがっかりだよ……がっかりばっかり、ふふっ」

「ふえ?うんうん、そうだよ、当たってる」


 満足げに頷く鏡花の後ろで、明世は自分の前髪に手を突き刺しながら、カッコつけて無駄に失望している。無視して廊下に出ると、鏡花も明世に押されて付いてきた。


「ふぅーむ、島袋さんがお弁当を持ってこないなんて珍しいこともあるねぇ」

「あっ、それはその、昨日平島さんが来たから、夕飯の余りがなくなったらしく……いいことなんだけどねっ」

「へぇーそんな事が。そいじゃあさぁー、一緒に登校したんじゃないの?」

「泊まったわけじゃねぇー」

「ではなぜ遅刻したの?あの優等生な、がすよちゃんがですよ?」

「ん、もしかして昨日の……」


 いちいちおどけた口調で話す明世を背後霊に、鏡花が顎を引いて、昨日の出来事を詳らかに思惟する。それを見て冷や汗がほとばしった。完璧に演じたはずなのに、鏡花には思うところがあったのだろうか。綻びがあったなら修正しなければならない。私は不自然なほどに鏡花を見つめた。


「食あたり?」


 悩み抜いた末に出た結論はそれだった。鏡花は心配して見つめ返してくる。


「トイレに籠ってたら遅刻したってこと?」

「違うけど。単に寝坊しただけ」

「なら良かった……のか?」


 明世は私の顔色をうかがうように小首を傾げて、歯切れ悪く含みを持たせた。


「良かったほうに入るんじゃない、多分」


 念を押すと、明世はぽつりと頷いて追及はしてこない。そこは刑部より大分マシなところだ。正直、情けをかけられるのは好きじゃない。自分の消えかかったかがり火に、他の人から火を移してもらうという行為は、人の温もりを意識して、美化するものに他ならない。私がそんな行動を好むはずがない。自分の火は自分で灯す。そうしないと……疲れるんで。


 のらりくらりと歩いて購買に到着する。うちの学校の購買は争奪戦になることは無くて、昼休み終盤に行っても何かしら売れ残ってる気がする。まあ利用客としては嬉しいけど、その分廃棄しなきゃいけないわけで、もったいないなぁと意識を高く掲げておく。


 そして、冒険できるほどレパートリーが入れ替わらないので、たまごサンドとかウインナーが包まってるパンとかを迷わず選ぶ。横を瞥見すると、鏡花が目移りしている。これは長くなりそうだ……。


「食べたい物を素直に選んだらいいんじゃないかー?」

「それだと全部になるから困ってるんでしょ。ほら、私と同じのにしたら?」

「うん、それに決めた…………やっぱり待って」


 鏡花は私と同じパンを抱えた直後、あんドーナツに気付いて固まる。やけに人気がある、気がする一品だけど、あんな砂糖と油まみれで手が汚れる上に、なんと甘ったるいのに、よく食べようと決心するなぁと、口元に砂糖の粒が引っ付いている人を見る度に感心している。


 鏡花は、たまごサンドとウインナーが包まってるやつを交互に掲げて迷っている。


「どちらにしよう?」

「三つ食べればいいんじゃない?」

「んん……、だって二人とも二つしか買ってない」


 鏡花ってそういうのを気にするんだ、という新たな発見をした。


「あと、同じのがいいっていうのも、ちょっとある……」

「ほーん。でも甘いのはちょっとなぁ……」

「じゃあ!」


 鏡花は不必要に大声を出してしまって、恥ずかしかったのか自分の唇を前歯で噛んだ。


「どうぞ?」

「ん、耳貸して」

「はいはい、何でしょうか?」


 本当に何かわからないので、ちょっとわくわくしながら姿勢を低くする。そうでも意気込まなければ、耳打ちなどそわそわしてやってられない。……なるほど、二本食べるから、私もあんドーナツを買えと。何の意味があるのか分からないけど、お金は鏡花が払ってくれるらしいし、それに鏡花がいっぱい食べられるし、拒否する理由もない。


「うわ、しまちゃんって変わった人だな」


 お会計の列に並んでいると、明世が本人にも聞こえるように、自らの炯眼を誇るように本音を申した。今さら?


 昼ご飯を確保できたところで教室に戻ってきた。鏡花の机にて、三人でパンをもしゃもしゃ飲み込む。毎度、こうして沈黙が続くのも慣れてきた。三人集まってるのに、誰も何も言葉を発さない。傍から見ればそれはもう、よほどの仲良しと認識されていることだろう。んーまあ、賑やかな食事はもう当分願い下げなので、私はこれで構わないのだけど。


 明世がいるので、クソみたいななぞなぞが出題されたりしそうなものだが、彼女はとても気の利く人なので、鏡花が首を断じて動かさず、物言いたげに騎虎の勢いで私を見つめていることに配慮して、機能を停止している。


 このままでは可哀想だから、たまごサンドを食べ終わったところで、鏡花にいつもの合図を送る。


「はい島袋さん、どうされま……」

「心配してます!」


 心配された。即答だった。


「私が遅刻したこと?」

「それも……そう。だって優等生な平島さんが……」


 刑部もそうだけど、私って一度も遅刻しなさそうに見えるだろうか。肩肘張って一生懸命というよりは、とんでもないやらかしに対してもニコニコして余裕ぶっている、というのを意識しているのだけど、伝わってないのかな。それとも創作で、余裕ぶってる人が陰で努力してる様を公開されることが多いから、刷り込まれているのだろうか。


「目覚ましがねー、鳴らなかったんだよ」


 嘘は言ってない。だってセットしてないんだから。


 私がへへっと一笑すると、上手く言いくるめられたようで、鏡花は自分の胸をさすって、分かりやすく安堵する。


「ふぅー……。昨日、私が何か悪いことをしたんじゃないかって、平島さんが来る前は不安だった……。あっ責めてるわけじゃないよっ、うん」

「でも、連絡はするべきだったね。ごめんなさい」

「もうこれからは遅刻なんてしないでよー?」

「なんでモロックマが釘を刺すのよ」

「えぇー?だって怖かったんだもん。がすよが居ない間、一人で挨拶するって言って、台から転げ落ちそうなぐらい頭を下げるもんでさぁ。実際はがすよが来てから怪我したけど」


 明世の話に対して鏡花は、あんドーナツにできた歯形を伏し目に確かめながら、小恥ずかしさをしのごうとしていた。あんドーナツに指が、袋ごと食い込んでいく。


「平島さんに、当選してほしいから。だから頑張ろうと思って……」


 私のほうをちらちら瞥見しながら、嬉しいことを言ってくれる。


「うーんうん、私の推薦人に相応しいねぇ」

「ほっ本当!?それなら、頑張る、もっと頑張るから……何をしたらいいんだろう?」


 鏡花もかなり私色に染まってきたようで、昂然とそう言った。食べかけのあんドーナツを持ったまま、勢いよく腕を机に着地させたので、砂糖が机の上に降りかかったけど、気に留める気配はない。


「そぉーだなぁー。うむ、その意気だ。大切なのはパッションだっけ?ねぇ、モロックマ」

「ふんふん、なるほど」

「そうだよ、パッションだよ、跋渉!よっしゃ、私も張り切っちゃおっかな!」


 鏡花が私の言葉に頷くのを遮るように、明世が声を張り上げる。。


「変なことしたら選挙管理委員会に所属させて、選挙活動できなくさせるぞ」

「こっわ。でも、これくらいじゃないと、生徒会長は務まらないよね!」


 そう言いながら、明世はちんたらハムサンドを食む。しかし明世は常識を弁えているので、私はあんまり心配していないんだけど、口から出てくる言葉が常識外れなので、傍目にはまるで口だけな人間に感じられていることだろう。実際、鏡花とか私とかと比較しても、変な人だなぁとつくづく思う。どれだけまともな事をやっても、やっぱりその評価は覆せない。



 常葉お姉ちゃんは変人だ。この忙しい時期の放課後にわざわざ呼び付けて、何をするのかと思えば、ただゲームセンターの中を徘徊するだけなのである。あれ?もう三回ぐらい後ろを通ってないかって、メダルゲームに夢中な、金髪モヒカン穴だらけの耳とダボダボなズボンなヤンキーも、さすがに訝しげに私たちを目で追いかける。そういう、常葉お姉ちゃんに対する冷ややかな視線は、むしろ仲間意識が沸くけど、喉が揺さぶられてイガイガする程うるさいこの環境に、ずっと身を置くのは辛いものがある。


 縁佳も明世も刑部も、パッションが大切だと言うけれど、実の所、結局何がパッションなのか、概形も掴めていないのである。そもそも触れないのかもしれないけど。だから、早くパッションをあーしてこーしなければ、と訳の分からない焦燥感に見舞われている最中で、精神的に余裕がない。そういう事情があって、かなり珍しいことに、今日の私は常葉お姉ちゃんを敬遠している。


「あれ、常葉先輩?」

「うがががが、本物じゃん」

「あれ、嘉琳さんって面識ありませんでしたっけ」

「あっ、思ったことが全部口から出てしまうのも考え物だなぁ。だなだなぁ」


 意図して引き起こされたのか、それは常葉お姉ちゃんのみ知ることなので追及は不可能だけど、とにかく私たちの前に縁佳の対立候補が現れた。向こうも従者を引き連れている。従者は私服で、とても瀟洒で絢爛な格好をしていた。


 常葉お姉ちゃんはヘッドフォンを外して、対立候補に対してにこやかな笑顔を下敷きに対応する。


「こんな所で何をしてたんです?」

「一つだろ、遊びに来たんだろ」

「不正解だねぇ~」

「じゃあ隣の、かぅいい小娘の耳を潰しに来たのか」


 誰が小娘じゃ、お前も腰に手を当てるポーズが似合いそうだなとか、もしラップバトルで生徒会長が決まるのなら言ってた。どこも韻を踏んでないけど。


「うぉー正解ぃ。このヘッドフォン、ノイキャン凄いんだよぉー」

「外したから常葉先輩の鼓膜も割れたな」


 どうやら常葉お姉ちゃんとその二人は面識があるらしい。平然と奇行を受け入れている。敵方と通じているとは、こんななりでも現会長らしく顔が広いんだなぁ。


 油断していると対立候補のお嬢様が、こちらに目線を向ける。スタンガンをあてられたように、私は勝手に拘束される。


「えーっと、この間の応援演説は、何というか、凄まじかったですね!」


 縁佳よりも大味な作り笑いで嫌味を言ってくる。あれは、あんまり思い出したくないのだ。意味なく予定になく聴衆を指さしたり、血が騒いでアドリブしたら辻褄が合わなくなったり、明世には頑張ったねーって髪をもみくちゃにされたけど、私は縁佳の推薦人として、ちゃんと仕事を果たしたかった。みんな、私にかわいいーって寄ってくるけど、私じゃなくて縁佳に注目してほしかった。だからあれは失敗だったんだ。でも、敵だからって傷口を見つけたら、すかさず容赦なくつつかなくてもいいじゃないかっ。


「舌鋒鋭く、しかし正鵠を射たスピーチに、思わず投票の手が止まりません」

「思ってもないことをよくもペラペラと継げますね」

「そうだよぉ~、鏡花がこんなに頑張ってるならぁ……、私もよっすーさん支持に回ろうかなぁ!」

「えー、勘弁してくださいよー」


 現会長の意向は、何だかんだ言って結果に影響する傾向にあると耳に挟んだので、私は何度か常葉お姉ちゃんに働きかけてたけど、今の今まであいつらに投票するつもりだった、ってこと……?足をかけた次の段が崩れて、奈落と痛みをいざなう。常葉お姉ちゃんを信用するべきではないのはそうなんだけど、これは私ができる数少ない貢献だって、自負していたから……。


 どれもこれも、私は縁佳のことしか頭になかった。来週からは縁佳が当たり前に生徒会長になって……権勢を振るうのだと。でも、そんな出来レースではなく、対立候補も手強くて、常葉お姉ちゃんのように向こうを支持している人もたくさん存在する。愚かなことに、私はいつしか縁佳以外の可能性を唾棄していた。それを、蚊帳の外で悟った。


 時間がゆったり進んでいるような錯覚に陥る。平衡感覚も失って、誰がどこから喋っているのかも分からなくなる。私が不甲斐ないせいで、縁佳が不利益を被る。冗談がシャレにならなくなっていく。


 常葉お姉ちゃんは口角を持ち上げて腕を組んで、私と対立候補を交互に見た。


「どっしょっかっなぁー」

「悩む素振りを見せて、私たちを弄んでますね!?」


 でも引き下がってはダメで、というか引き下がれなくて、その感情を情熱と呼べたら素敵だなぁと自分をはぐらかしつつ、私がするべきことを見定める。枯れ果てるまで情熱を解き放ち、情熱の乱流のままに突撃することだけだから、それを望まれてるんだから。私は目を瞑って手に汗を握りながら叫んだ。


「勝負、しましょう。常葉お姉ちゃんは勝ったほうに投票して」

「おぉ!来たねぇ、熱くなってきたぁねぇ!」


 私の言葉に常葉お姉ちゃんは手を叩いてすかさず反応し、水を得た魚のように昂然とする。一方、対立候補の人は困惑して、舎弟に解答を求める。


「はっ、何を言い出すんですか、えぇ?」

「面白そうじゃーん。白高生ならそうこなくっちゃ」

「白高生を何と勘違いしてるんですか!?」

「私が勘違いすることがあるとでも?」

「それが勘違いです」


 しばし言い争った後、対立候補は舎弟に丸め込まれ、険しい眼差しで勝負を受諾する。ただし推薦人同士で争うという条件が付けられた。まあ、私のパッションが実現するなら何でも構わない。そこにあったレースゲームの筐体で勝負することになり、私たちはやけに先に緊張を走らせてから、席に着いて位置を調整する。


 画面に薄っすら自分の姿が映る。でもいつもと感覚が違う。両方とも私のようだった。胸中でみなぎる闘魂に触れて気が付く。血に飢えた私が飛び出てきたらしい。便利な幻想だなぁと思う。


「くそっ、やられたわぁー」

「当たり前です。言い出しっぺがやってください」

「まあまあ、任せとけって。この私が負けるわけないって」

「負けたら、そうですね……犬になってください。私、アレルギーで動物を飼えないのです」

「もうちょい、無いの?上手い懲罰」

「んじゃあ、パシリになってください、赤福食べたい」

「それはJRに頼んでくれー」


 私も、縁佳に見張られていたら、全力を発揮できるのに。常葉お姉ちゃんはにこやかに私たちを俯瞰しているだけ。まあ、仮に励まされたとしても、そんなに嬉しくないというか、裏がありそうで気が散る。


「じゃあ……やりますか……?」


 親分が常葉お姉ちゃんとは真反対な表情をして、後方で一挙一動に目を凝らしているからか、腕を伸ばしてハンドルにしがみ付いて、やけに怯えていて声も震えていた。私もあーいう風になる前に、さっさとレースを始めてしまおう。


 で、まあまあな差を付けて勝てた。


「まーけちった」

「じゃあもう用済みなんで帰ってください。私が相手になります。いいですね?」


 対立候補ご本人が、シフトレバーの感触などを確かめながら、その眼差しで威圧してくる。ここからが本番だと、その鼻につく仕草が物語っていた。背もたれに寄りかかってリラックスしている場合じゃないので、とりあえず座り直して、ついでにパッションが体の隅々まで行き渡っていることを確かめた。そして、目線を画面に移ろわせながら頷く。


 私は常葉お姉ちゃんのことをよく知っている。だから、このレースの勝ち負けだって、反故にされる可能性があることは重々承知している。でも私は勝ちたい。縁佳に報いたい。情熱があれば峠だって攻められる。鼓膜を破るほどの騒音の存在すら私の脳内では抹消され、ゲームだから心地良いスキール音だけが響いた。


「その熱意はどこから来るんですか?」


 対立候補は余裕を見せびらかしたいのか、余裕だって暗示したいのか、私の哲学を問う。


「平島さんこそ、会長に相応しいから」

「そう、ですか……。私は、本当にあなたの演説に心を揺り動かされたんですよ、敵だけど」

「はっ、いっ今の私はっ、そういうのでハンドル操作を誤ったりしないんで!」


 あぶな、攻めすぎた。死ぬ前は、脳のそんな場所が活性化するんだ。


「正直、出馬する意味があんまり見出せてなかったんですが」

「意味?」

「つい最近まで、人前に立つのが苦手でしてね。でもそれを克服した今、自分を追い込むような真似はする必要がなくなったんです。けど、熱意を疑わないその姿勢に感銘を受けまして、惰性で会長になるのも違うなーと思いました」


 原稿を読み上げるように、落ち着きを払って淡々と語る。縁佳のように、状況を鑑みて口調を変えることはしない。どこまでも全校生徒の模範のような態度なのに、走り方だけは血生臭い。明確な殺意に気圧されそうにもなる。


「わっ私に、情熱が……?」

「身振り手振り、マイクとの距離とか、何を取っても暑苦しいほどの情熱を感じましたけど。何でしょうね、愛でも叫んでるんです?」


 うーん……情熱は、使うものではなく零れ落ちてくるものなのかもしれない、なんて思ってみた。想いが体内で渦巻いていさえすれば、案外みんなそれを察してくれる。少なくとも、形があるものでは無いのだ。


 私は茶番を通じて、縁佳に向き合う一つの術の本質を理解した、のかもしれない。ので、勝負の行く末なんてどうでもいいんだけど、一応僅差で勝ったらしい。後ろで見物してる大したことなかった方が、待ってましたと言わんばかりに、対立候補ににじり寄る。


「柳都最速のライディングスターさん?」

「道交法を遵守しただけですけど」


 悔しそうに抑揚をつけてそう言い返した。私と同じ速さで走ってたんだから、速度違反ではある。負け惜しみにしたって破綻しているんだけど、やっぱりどうでもいい、勝ったから。それより、ハンカチで拭けるぐらいの手汗にビビっていた。両手を擦り合わせて、頑張って乾かした。


「あと一週間もないけど、お互い頑張りましょう?」

「頑張るぞぉー」

「常葉先輩は、残り一週間の玉座を、せいぜい楽しんでてください」



 背後からショッピングカートを五台同時に押したかのような轟音が迫ってくる。さすがに慣れたので、振り返ることなく一番安い納豆を籠に放り込む。


「よっすー、バイトは?」

「今日はない。毎日働いてると思ってた?」

「有限の数の素因数において、2のほうが5より多いから、5の個数が元の数の0の個数になるように、私が働いている日はよっすーも働いてると思った」


 緑のエプロンを纏う鑓水は、器用に説明しながら豆腐をベテランのような手捌きで並べていく。そう、鑓水もこのスーパーで品出しのバイトしているわけだが、経験者のように手際がいい。私が買い物をしている間に、段ボールの中身が空になっていた。


「前から疑問だったんだけど、どうしてそんなに上手なの?」

「ん?そーだねー、執念?かな」

 

 鑓水は台車の手すりに手を掛けて、目を伏せながら言葉を選ぶ。ただのスーパーのバイトなのにライバルでもいるのか?


「売り場に出てる時間を最低限にしたいの。卵売り場はどこですか、なんて尋ねられたら慌てふためいちゃう」


 同級生と邂逅するのが嫌、という理由じゃないのが鑓水らしい。品出しの作業を速くしたところで、勤務時間は決まってるんだから意味あるのだろうか。まあ長話をするわけにもいかないので、この辺で切り上げよう。そう言えば今日は卵が安いんだった。後で買わなければ。


 さて、今日もバイト先に貢献してしまった。エコバッグがおかめ顔のように膨らんでいる。腕に掛けると、骨で支えてるなぁという感覚になるぐらいの重さはある。まあこれで一週間は安泰だ。私は主婦に混ざってスーパーを出た。


 外を歩いていると空でも見上げながら、また一段と秋の深まり、言い換えると冬の足音を噛み締めてしまう。灰色と茜色と紫色に適当に塗り分けた夕空の下、制服を纏って買い物袋を手提げていると、憂愁に囚われてしまうものである。無論、日本全国津々浦々に視野を広げたならば、同じことをしている高校生もたくさん見つけられるだろうが、私の手の届く範囲には存在しないわけで。空気を形作るのは多数派、だからマイノリティだと重圧を感じる。


 いやいや、どこまで行っても景色が変わらぬ住宅街をただ歩くという、これ以上になく考え事をしなくて済む行為をしてるのに、なぜ私は哀愁を漂わせているのだろうか。んーむ、だからこそ考え事が捗るのか?献立ぐらい考える余地を残しておけば良かった。と思ったけど、献立を決めずに買い物するわけにはいかないな……。


 スーパーを出て最初の曲がり角を曲がってから、歩行者には一人も出会ってない。それくらい蕭然としてるから、後ろから人が来るとすぐに感知できる。これでひったくりには引っかからないな、はっはっは。


「よっすー」

「ぬ、洞窟ちゃんだったか」


 自転車のブレーキ音が響き渡り、刑部はハンドルを支軸にして、舞うように飛び上がって自転車の横に立ち、私に歩調を合わせる。油断していて正解だった。


「荷物、籠に入れる?」

「いやいいよ、どうせ分かれるんだし」

「ふーん、意固地だねぇ」


 しかし痛くなってきたので左腕に持ち替える。


「こんな所で何を?」

「そこのスーパーで買い物してた」


 ほぇー、全然気付かなかった。よく見ると、籠に大きなボトルと徳用醤油とかが入ったレジ袋があった。


「何?その顔は」


 買い物袋と刑部の顔を交互に見て、意外だーなんて思ってない。


「そりゃあね、お母さんに頼まれたら、おつかいぐらい行くよ」

「あぁ、そうか。似合わないけど」

「似合う似合わないという問題?」


 刑部の失笑を買った。私はそれを真摯に受け止めるので、会話に区切りが生まれた。私はこのまま、小学生集団のどのボスを倒した云々みたいな話に聞き耳を立てながら帰るのでも、一向に構わないのだけど、刑部はここに嫌な話題を持ってくる。


「最近、どう?」

「そぉーねぇ……薄手の布団じゃ寒くなってきた」

「そういう話じゃなくて」


 刑部はこの手には乗ってくれない。歯医者を嫌がる子供に有無を言わせない親のように、この事になると刑部は学級委員長になる。果たして、刑部はこの会話に何を見出しているのだろうか。無駄だと一蹴したくならないのか。それとも鏡花みたいに、用は無いけど話したいのかな。だったらせめて、天気の話にしてよ。


 と、心の中で文句を垂れてても、刑部は抜かりない眼差しを続けるので、いつもの様に楽観的に積極的に反駁する


「生徒会長になったからって、劇的に忙しくなるなんてことは無いよー」

「それはどうなの?実際、生徒会長が何してるかなんて知らないから、真偽のほどが分からない」

「そうねー、運動部とか吹奏楽部に比べれば楽だよ」

「でもバイトもしてるし、部活のヘルプもあるし、そういうのも含めたら運動部より大変だよね……」

「それくらいがちょーどいいんだよ。私は洞窟ちゃんと違って、暇があっても一人で潰せないから」

「でも暇がないと、一息もつけないでしょ」

「寝てる時に何息もついてる」

「はぁ……、屁理屈ですか」

「頭が切れるんです」


 刑部は自転車の方に視線を逃がして一息つく。


「モロックマといるの辞めたら?変な思考回路できてるよ」

「じゃあ、そんな話を振らないで。洞窟ちゃんに心配……かけたくないから、こういうこと言ってるんだよ」

「知らないよ、そんなの。どう退けられたって、私はあなたを心配し続ける。それは約束とか関係ないんだから」


 本当に手強い。あの時を追懐して脳漿を絞ってみるも、有効な反撃が思い付かない。私を意のままに操れて満足か?憂いをたっぷり含んだ流し目に追い打ちをかけられ、私は口を固く結ぶしかなかった。どうだ、応答がなければ話し掛ける気にならないだろう。


 このままそこのカーブミラーのある交差点で、自然と剥離していくかと思いきや、自転車のカラカラ小気味いい音が打ち切られる。刑部は立ち止まって神妙な声で私を呼び止めた。


「最後に」

「うん?どうぞどうぞ」

「…………島袋鏡花とは喧嘩したの?」


 息を吸った直後、瞬間的な躊躇いを観測する。それでどんな心配が飛んでくるのか身構えていたが、そんなことだった拍子抜けした。


 文化祭後の明世もそうだったけど、どうしてみんな喧嘩させたがるのだろうか。それとも極道の世界に生きていて、アプリオリが喧嘩なのだろうか。


「はへぇ、そう見えるんだ」

「どうなの、質問には答えて」

「だったら落ち込んでる。それは洞窟ちゃんが一番わかってるでしょ」


 あんまり分かってなさそうな顔をされた。


「……また明日、くれぐれも身の程を弁えて」


 とか吐き捨てながら、刑部は自転車に跨って、自分の家の方向へ立ち漕ぎしていった。別れの挨拶がそれかい。せめて「当選おめでとう」の一言ぐらい添えてくれてもいいじゃないか。手を振るとか、そういうのは無くてもいいからさ……。


 夕靄に溶けていく刑部の背中を見守る。結局、変わることも交わることもなく、ここまで来てしまった。まだ二年?いや、この年齢の二年はとても永いもので、まるで生まれた時から決定付けられていたように思える。これから未来永劫、私たちはこんな距離と立場と得難き恍惚を守り続けていくのだろう。と、乾いた寂寞に呑まれながら、刑部が見えなくなったので、私も家の方向に踏み出した。

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