4-3

 私は膝を揃えて、そこに手枕しながら顔を突っ伏す。目を瞑ると涙が一粒、表面張力で頬を伝っていく。うわぁーっ、もっと顔を上げづらくなったぁーっ。踵をわずかに上下させて、悔しさとか自己嫌悪とか焦燥感とかを刻んだ。でも頭の中はレフ板のように真っ白だ。私はレフ板として、縁佳を美しく引き立てます……って自己アピールしてどうすんねーんっ。


「がすよーっ。ポスターばっちりだったよー」

「私、写真映えするからねぇ」

「離婚届の次になぁっ」

「は?」

「しまちゃんは寝てるの?お疲れなの?」

「私のいい所が思い付かなくて、推薦文が書けないらしい」


 私の前には白紙の原稿用紙が、もう三日は静置されている。そろそろ書き始めないと、ネットで拾ってきた、誰にでも当てはまるバーナム効果みたいな推薦文を披露せざるを得なくなってしまう。それは嫌だ、自分の言葉で縁佳を褒めちぎりたい。と、駄々をこねても、何を書けばいいのか分からないのは変わらない。諸行無常とはいったい。


 隣に誰かが座って、背中を触れてきたので、ゆっくりと目をこすりながら顔を上げる。


「私もちょっと考えてあげよう」


 それを聞いてしまったら、書けることがこの世から一つ減ってしまうなーと思いつつも、このままでは埒が明かないので、葛藤しながらも明世に縋ってみる。


「例えば……どんな……?」

「そりゃあもう、優しい所一択でしょ」


 明世は人差し指を立てて、胸を張って何の役にも立たない事を即答した。もっもちろん、縁佳が優しいっていうのは神に誓って同意するんだけどっ。しかしそれでは文量が足りない。説得力を増すためには、長々と延々とトートロジーを繰り返さないといけないらしい。小説のように人を惹き付けるにはそうするしかない。


「それは、そうだけども、他に、具体的な何かが……」


 手をくるくるさせる、目の前の空気を愛でるような仕草と共に、私は明世を思索の川に引きずり込む。しかしその手は食わないと言わんばかりに、縁佳のほうに首を回して、明世は滲むように笑った。


「でもねぇ。それ以外にかける言葉が見つからないなぁ」


 私は縁佳に合わせる顔が見つからない。


「労ってくれても、きゃー縁佳さまぁーって甲高い声で言ってくれてもいいよ」

「それは大切な人にしか言いません」

「あっそ」

「まあ、そうだな、もっと色んな人に聞き込みすれば、優しい以外の言い草を拾えるかもね」


 それって刑部とか、体育祭でうちわを扇いでた人とか、写真を撮ってた人とか、文化祭で縁佳のダーツに盛り上がってた人とか……うわああああ無理無理、絶対話しかけられない。観念して自力で書こうとシャーペンを握ると、縁佳が会長の席からこっちにやって来る。


「んじゃー、私も同行しよう。私を照れさせられたら、勝ち誇っていいよ」

「ほんとに!?かかってこい!」


 明世は正面を向いて座り直し、ぐっと自分の手を握る。勝手に相対された縁佳は、流し目に氷の女王のように明世を見下す。勝利の確信があるようで、口元が綻んでいた。


「……あの人のこと、本当はどう思ってるの、好きなの?」

「えっ、さぁ、さーねぇ??どうなんでしょううう、好きってなんでしょううう?」


 縁佳が判断を誤ることなどあるはずもなく、明世は顔を赤らめて足をじたばたさせた。見事に完敗している。


「えぇ、ちょっと弱すぎじゃない……?」

「生まれ持ってのアマノジャクじゃない自分に嫌気が差してきた」

「相も変わらず重症だね。まっいいや、行こう、島袋さん……なぜ君も照れてるんだ」


 かつての浮かれてた我が身が想起されて、身につまされる思いに包まれただけだ。うぐぐ……恥ずかしい……。こうなると、手がどこかを握ってないと落ち着かない。


 私が照れ姿は明世のそれより価値があったのか、縁佳は目を見開いて腰を曲げて、んむー?とか言いながら髪をかき上げながら、私の醜態を間近で観賞しようとする。私は無言の圧力を押しのけるように、行先を決めてないけど我先に生徒会室を飛び出し、振り返って縁佳を待った。


 縁佳は真っ赤な頬を隠すように両手で顔を挟んでぶすくれてる明世に微笑むと、普段よりものっそりこちらに向かってきた。


「いやー、瑞々しいねぇ」

「あ、え、青いではなく?」

「青だと、青臭そうじゃない」


 そして予定調和みたいな言葉を交わすうちに、私はまた縁佳の斜め後ろを付けていた。こういう時間に縁佳と話題を振れたら、私は気負わずに縁佳のことを友達だと呼べるのでは……とか思ったけど、それは私の能力の問題であって、関係性とか信頼度の問題では無かった。


 お互い言葉を発することなく、靴音だけを打ち鳴らす。恐らく私だけだろうけど、綱渡りに挑んでいるような緊張を感じていた。早く終わらせたいから、ペースは縁佳に握られているのに、足を運ぶ速度が加速していく。


 私の心境と性格を具現したような異常な鼓動が、さらに追い打ちをかける。ここで胸に手を当てたり、普段と違う息の吸い方をしたりしたら、やけに興奮してることをけどられてしまいそうで、でも意識するほどに普通が遠のいて。そもそも距離があっても、何が挟まっていても、縁佳は気が付いて受け止めてしまうんじゃなかろうか。じゃあ、抵抗するのは無意味なのか、それでも、いいかなぁ。


 そんなわけで、並んで歩くだけでも私は、ポストアポカリプスの鈍色な世界より息を詰まらせそうになったのであった。こんな状況で、本当に縁佳を賛美するようなことを書けるのか、富士山の下に古い富士山が隠れているように、巨大な不安の下に巨大な不安が覆いかぶさってきた。


 縁佳はパソコン室の前で急停止して、つま先で床を叩きながら退室してきた誰かに、フランキーに声を掛ける。縁佳と歩くのに夢中になっていたので、心臓がアニメーションにあるようなトゲでも生えたんじゃないかっていう勢いでショックを起こす。


「よー篠瀬」

「あらよっすーじゃない」


 見覚えがあると思ったら、体育祭でうちわを扇いでた人だった。制服のリボンの色から察するに二年生だろうか。まだ緊張している。全然手刀を構えるしかない。どうして縁佳はこんなに気楽に会話してるんだ、友達だからか?そりゃそうだな。


「何してたの?」

「あら、私、パソコン部でしてよ。k8sをいじってまして」

「はへー、鎖骨以外に趣味があったのか。うむ、意外だ」

「そう?」

「まぁー……、ステレオタイプに縛られるのは良くないのかもしれないけどぉ……」


 縁佳は篠瀬のつむじからつま先までを、順次眺めていく。私もそれに続いた。冒険してない程度に染められた髪、しっかり萌え袖、スカートの丈も短いし、その姿態から連想できないという意見は、この苦笑を浮かべる縁佳と一致した。


「なんと私、兄貴と違ってディスプレイの光をいくら浴びても、目が悪くならないの。だからIT向いてるんじゃないかと思い至った」


 えっへん、と篠瀬は口に出した。威張ることなのかは分からないけど、太らないから食べるのが趣味っていうのと、同類な気がする。親近感は……あんまり沸かない、人は見た目が全てなので。


「とりあえず、ちゃんと私に票を入れてね。頼みますよー」

「言われなくても。鎖骨に誓ってPray for Clavicle」


 鎖骨より、せめて縁佳に縋ったほうがいいだろ、と心の中で呟いた。


「ということは、よっすーの斜め後ろで鎖骨を隠してる子が、推薦人ってこと?」


 無意識に首元で手を組んでたのを指摘されて、ビクッと体が跳ねる。思わず縁佳に視線を送って、助けを求めていた。


「そうだけど、すぐ鎖骨を狙うのを辞めなさい」

「そんなに怖がらなくても、自分の手は汚したことないのにー」

「とりあえず、唐突だけど私のいい所を言ってくれない?」

「鎖骨以外?」

「Except鎖骨」


 鎖骨を封じられた篠瀬は腕を組んで、上を向いて真剣に考え始める。そして電球が光ったように、あからさまに思い付く。


「人徳が篤いところ」

「……どう、島袋さん」


 縁佳が渋い顔をしながら、こちらに確認を求めてくる。参考になるかもしれないので、首をほんのちょっと傾けるだけにしておいた。


「それだと、推薦文が完成しないと申してますね」

「具体的な話が欲しいんだろうけど、難しいんだよねぇ。やってることの一つ一つは小さいんだけど、でもよっすーがいるから上手く回るというか。でもでも凄いんだよ、私は尊敬してるよ!」

「それはどうも~」


 縁佳はよく誰かに呼び出されて、調整や調停に動いている。それでみんな仲良く、過ごしやすくなっているというのは、風の噂でも聞いている。しかし当事者の声を直接耳にすると、隣で「わっはっは」とわざとらしく笑いながらいい気になっているこの人は、本当に、格段に上にいるんだなーと再認識する。その凄みを言葉に起こすのは、骨の折れる作業だぁ。文才でもあったら、これだけのエピソードから山盛り脚色できるのだろうか。先が思いやられたところで、肩が凝ってきたところで篠瀬と別れる。


「まー、本命じゃないからね。次行こ」


 やっぱり難しいことは抜きにして、本命がいるならその人に書いてもらえばいいのに。と、そういう事には気付いてないふりをして連れ回し続けた。


「よっすー」


 10 mぐらい先の部屋から出てきた刑部は、すぐに縁佳のオーラを嗅ぎ付け、片手を顔の高さに挙げながら接近してくる。私は思わず引き返しそうになるも、縁佳は全く動じない、動じずにしばし前進を続けてから、一歩後ずさる。


「ほあっ!?これはこれは、どぉーくつちゃんではありませんかー」

「なんてわざとらしい」


 私でさえも存在を認識していたのに。気を遣って刑部をスルーしようとしてたとか……?それにしては通常通り会話を始めたので、足が震えてくる。刑部の視線がこっちに向かないことを願うばかりだ。いないものとして扱うのは、最大限の侮辱だと思うけど、今の私としてはぜひそうして欲しい。


「前置きはさておき」

「そっちが小芝居挟んだんでしょ」

「このお方がー、推薦文を書けるよう、何かアイデアをー、無いですか?」


 ここでようやく、刑部は縁佳の手首から指先まで視線をスライドさせ、その先に佇む私を瞥見した。


「そりゃあもう、勝てない勝負でも果敢に挑むところ……」

「冗談はよしてくれ。真剣なんだ、島袋さん」

「それなら、やっぱり文化祭のこととか?」


 あの時のことを今でも恨めしく思う権利があるのか……はどうでもよくて、教室にあまり顔を出さず、何だか鞅掌していたけど、具体的な功績は知らなかった。私は縁佳のことを何も知らないんだ……。推薦文の内容を人任せにしている現状も相まって、刑部に対する劣等感を再認識してしまったので、内容があまり頭に入ってこなくなった。


「なんかしたっけ」

「うちのクラスも揉めたじゃん、先生たちと。そこで交渉して見事一歩も譲歩せずに切り抜けたよっすーの手腕こそ、生徒会長にふさわしい」

「私すげー」

「まあ、一つ心配なのは、教員が介入して結果がひっくり返ることかな。目ー付けられてるっしょ」

「そこまで反抗的な態度は取ってないよ。うさぎカフェやっていいよって言われるぐらいには信頼されてるし」

「だってさ」


 刑部は予告なく私に呼びかける。せっかく落ち着いてきたのに、また心臓が跳ねる。心拍数は上がって、目線は下がっていく。


「あっあぁ、うん、そう、ですね……」

「えぇー、何なの、足りないの」

「洞窟ちゃん、頑張っているので、暖かく見守ってあげてくださいな」

「あれ以来、魚の骨はよく噛んで飲み込んでるよっ」

「は?」


 縁佳と刑部が瞳の奥の真意を探り合い始めた。しかし、魚の骨をよく噛んで飲み込むのは共感できる。もったいないもん。


 しばらくしてから、刑部はもう一度私の目線を追いかけてきた。


「内容も大事だけど、一番はパッションだ……ってモロックマが言ってたでしょ。まあ、頑張ってね」

「ふむふむふむー」

「何が?」

「何でもないよ。それより、他の人にも褒めてもらわねばならないから、この辺で。時間使わせてごめんね」

「しばらく先輩の補習を待たなくちゃいけなかったから。いい暇潰しになった」


 軽く手を挙げて挨拶しながら、縁佳はさらに先に進んでいった。こうして縁佳の先導の元、縁佳の友達から縁佳の良い所を聞いて回った、縁佳が。みんな揃って、縁佳を慕っていて、尊敬していて、恩義を感じていることだけは、ひしひしと胸に牢記される。もちろん私もその一員だ。


 何というか、私は知らなかったのである。私より遥かに友達が多いだけだと見くびっていたけど、そうなる蓋然性が縁佳にはあった。そして、私とかけ離れていく程に、憧れは強くなっていく。憧れは色々なものを諦めさせる。


「どう、推薦文は書けそう?」


 バスを一緒に待ってくれる縁佳がそう尋ねる。だけど私は、コンクリートの割れ目から伸びる雑草に目線を落として、声を空のように曇らせる。


「んー……」

「洞窟ちゃんの文化祭の話は良さそうだったんじゃない?」

「人が考えたエピソードを使うなんて、間違ってる」

「ありゃ、本末転倒だね、それは」


 縁佳はそう言いながら、萎れた私の顔をさり気無くいつものように覗き込む。


「何か、思うところでもできた?」


 で、そんな事を聞かれると、いつものように私は正直に答えてしまう。


「ひっ平島さんがみんなからあれだけ敬慕されてるって、初めて知ったから。やっぱり、私に推薦人なんておこがましいって、ごめんなさい、ごめんなさい……」


 悪い癖だ、きっと自己嫌悪はしないほうがいい、自分とは死ぬまで付き添うのだから。それでも、後ろに回した手を弄りながら、悪びれもせず悪びれる。縁佳も飽きずに言葉で背中を押してきた。


「前に憧れてるって言ってくれたけどさ、憧れっていうのは目標に近いものだから。そこを目指して前進しないとねっ」

「うん……」

「まー大丈夫、島袋さんは進めてるよ。文化祭のクラスリーダーをやってのけたんだから」

「うぅん……」


 推薦文が中々書けなくて、自信が漸減して忘れていたけど、私が引き受けた元手はそれだった。縁佳はできる、できる、と根拠に乏しい軽薄な言葉を連呼して、どこまでも視線を逃がす私を励ます。でも、そんな縁佳が言うのだから、成せてしまうのかもしれない……と、難しいことに足を絡めとられたくない自分が、そうやって話題を終わらせにきた。


 バスに片足を掛けた時、一瞬だけだからと私の中の保守派を説得して振り返り、縁佳の景気付けの笑顔を拝んでおく。端正な計算された笑顔に、私は心を揺り動かされる。俯いてないで直視するべきなんだろうな。目を逸らしても、逃げようとしても良いことなんてない。勝手に芽生えた事実だけど、紛れもなく縁佳がきっかけだった。


 早くシャーペンを握りたい気分にもなって、弾みをつけてバスに乗車する。しかし私は、縁佳ほど打算的ではないので、バスの中で内容を練るとは思い付かなかった。そう言えば縁佳に手を振ってもない。なんて自分本位な別れ際、と頭を抱えていたら、最寄りのバス停に到着していた。



「まだ当選してもないのに、この部屋を独占するなんて許されません!今日は私たちが使いますので」


 対立候補の人はそう宣言して、生徒会室の扉をずだんと閉めた。今日の放課後は応援演説の練習をするつもりだったのに、縁佳も口元に手を添えて困っている。


「どうしようかー」

「今日は帰る……とか」

「えぇーでも島袋さん、練習しないと本番で目を回しちゃうでしょ」


 それはごもっともな指摘だ。私も錯乱したくないので、練習はしたい。


「カラオケ……はなんか重たいな。歌いたいなら別だけど」

「全然……歌える曲とか無いから……」

「んむー、金に物言わせて賄賂送りまくるだけなのに、なんでこの部屋が必要なんだよー」


 縁佳がカラオケとか言うから、空き教室を利用するとかそういう発想に至らず、あくまでこれも縁佳がきっかけで変なことを、壁に向かって口走っていた。


「平島さんの家……とか」

「え、私の家?」

「あっ」


 縁佳が自分を指さして固まると、私は首を横に振ることも忘れて、口を半開きに固まっていた。生徒会室の前で、私たちは何をやってるんだろう。とても選挙を間近に控えた候補者とは思えない余裕ぶりだ。


「うーん、ぬぬーん、らぐーん……」

「あっほらっ、ただ何となく、近い、近いよねここからっ。だから言ってみただけだから真に受けないでだからっ」


 縁佳を振り仰いで、腕をぶらんぶらんさせながら、勢いのままに取り繕うというか、傷口を広げて、縁佳に一考の隙を与える。


「確かに徒歩圏内だけど、うーん……」


 縁佳は頼りがいがあるし、私の感情も極力読み取ってくれるけど、その上でスルーしてる時がある、気がする。それも通り越した言動なのかもしれないけど、私が追い付けないから勘弁してっ。まあ、心の中で叫んだところで伝わらない……ということまで織り込み済みだったら……。


 縁佳は私の顔を瞥見すると、空き教室に心当たりがあったのか、思考からお目覚めになる。


「島袋さんの家は?」


 出てきた折衷案はそれかいっ。いや多分、私が家を提示してしまったから、配慮してくれたのだろう。私って余計なことしか言わないなぁ……。斜めに捻りながら頷こうとしながら、縁佳の後ろの床に目線を合わせる。


「さすがにダメかー」

「なっなわけ、喜びます、わっはわっは」


 出来損ないの盆踊りで歓迎してみた。私は変な人だ。そうだ、縁佳だって否定しなかった。だから真似してくれる、余計に恥ずかしくなる。背中にぶわっと汗が噴き出る感触があった。縁佳といると心臓に悪い。そっぽ向かずにやってられない。


「一応、家の人に許可取ってね」


 とか言われちゃったので、もう家でごろごろしてる母親にメッセージを送るしかない。もちろん、こんな経験は無いわけで、緊張して指先が震える。縁佳にすっぱ抜かれてないといいけど、縁佳は私をよく見てるからなぁ。いつも手の平で右往左往している。その意識はある。けれど、前に進んでいるなら、階段を上れているなら、むしろ逃げないほうがいい。


 母親に連絡すると、なぜか学校まで迎えに来てくれるという話になった。確かに、縁佳に交通費が掛かるのが問題だったけど、これでもう踵を返せなくなった。


 校門のすぐ横で、縁佳と並んでうちの車が来るのを待つ。……誠に縁佳が私の家に……夢でもなくifな世界に迷い込んだようだ。縁佳は平静を保って、髪の毛が秋風の調べになびかれている。それだけが、私の精神的な支柱となっている。もし縁佳までもそわそわし始めたら、私は上と下も分からなくなって、昼と夜が区別できなくなって、食欲のあまり毒を食らって、死ぬ。


 普段乗ってるバスが通りかかる。走って乗って、縁佳から離れることもできるよなーと、人でなしな考えが脳裏に浮かぶ。しかし、そこまでする必要もないと、私の足は微塵も動かなかった。単に緊張で固まってるだけかもしれないけど、この緊迫感も板についてきたのかもしれない。そう、ピアノ線で首を絞められるような、細胞が張り裂けそうな苦悶は変わらず味わっているのだ。筋肉がみしみしと音を立てて、今にも破断しそうになっている。後ろで自分の手を強く結ぶたびに、すり潰された胡麻のように手汗が滲み出る。


 だけど縁佳の横には幸せの欠片が落ちていて、そして向こう岸に安らぎが見えるから、私は縁佳ともっと仲良くなって、それで……スリーパーホールドでも決める?


「過ごしやすくなってきたねぇ」


 そうだ、沈黙というのも気まずいんだった。何度でも頷きながら、縁佳の表情をうかがう。


「でも秋は長続きしないよねー。というか、季節の変わり目は往々にして儚い」

「が、含蓄があるね……」

「そう?適当なこと言ってない?」

「ななっなわけ、本心だよっ」


 蛇に睨まれた蛙とは私のことなのかもしれない。やっぱり、縁佳の顔を長く見つめ続けるのは危険だ。


「ところで、その、島袋さん自身は、大丈夫なの?」

「ん?」

「何だろう、部屋に見られたくないもの、置いてない?」

「んーと、私、平島さんに見られて困るもの、何もないよ!」

「えっ、はえぇ?」


 縁佳を見上げると、小首を傾げて目をぱちぱちさせていたので、これはきっとどえりゃーことを言ってしまったのだろうと、両手を胸前で左右にスライドさせながら、弁明というか傷口を化膿させていく。


「あっあぁっ、見られたくないものあるよ、あるある。……胸中とか」

「……ダメなの?」


 顔の向きを前に戻して頷くと、視界の端で縁佳が一人静かに笑っていた。もういくらでも見透かされてるってことですかそうですか。私にしては珍しく、見せつけるように溜息を施さざるを得なかった。


 何か自分から話題を振ってみようと口をパクパクさせてみたり、つま先で地面を叩いて足を靴の深淵まで押し込んでみたり、要はいつも通り何も進展はなかったけど、時間は動いてくれて、見慣れたミニバンが狭い住宅街の隙間を縫ってやって来た。無論、試練は始まったばかりである。


 私たちはミニバンの中列に並んで座った。着席するや否や、母親は縁佳を詮索し始める。


「名前はなんていうの?」

「平島縁佳といいます」

「あらいい名前。でも、鏡花が友達を連れてくるなんてねぇ。どこで仲良くなるのさ」

「同じクラスなので、それでなんか仲良くなったと言いますか」


 いつにも増して口数が多い母親に対し、縁佳は当然のように淀まず濁らせず、会話を弾ませていく。この世界はどちらかと言えば、母親のような人間のほうが多数なのかもしれない。私は即興のラリーを、シートベルトを爪でなぞりながら鑑賞した。


「いやいや、鏡花ぜんっぜん喋らないでしょ。寡黙な上に無表情。縁佳ちゃんの前では違うのかな」

「どうですかねー。私は比較的わかりやすいと思いますよ。いつ何時も」

「そうかねぇ」

「嘘偽りのない瞳をしてます」

「ははっ、自慢の娘だからなっ。正直な子になるよう、頑張って教育したんだ。成果が出てるみたいで良かった良かった。遅咲きだったんだなぁ」


 母親は高笑いしながらアクセルをふかしたので、私と縁佳は背もたれに打ち付けられる。母親の運転はそそっかしい部分があって、しばしば恐怖を感じるのだ。見せたくないものに、これも含まれるかもしれない。どうか事故りませんように。シートベルトを握りながら、流れる郊外の風景を嗜む縁佳を凝視して、安心しておく。うん、こっちに意識が向いてない時の縁佳は、見てて何だかほっとする。


 会話自体は盛り上がっていたけど、終始皮相的な部分でとどまったので、私の痴態が晒されずに済んだ。とりあえず一つ目の試練は乗り越えた。こうして無事に自宅に到着する。とは言え、縁佳が隣にいるせいでまだ緊張している。自分の家に緊張するなんて、初めての体験だった。


「お邪魔しまーす、おっ、鮭を咥えてる熊」


 縁佳は靴を脱ぎながら、玄関にある小さな木彫りの置物に着目する。それは昔に家族で北海道旅行した時のお土産だ。色んな場所で色んな物を買い込むせいで、玄関だけでもキーホルダーとかが溢れかえってるし、ある日突然変な絵が廊下に飾られることもある。縁佳には一個ぐらい持って帰ってほしい。


「あげないよー」

「へっ!?別に、いらないですけど……」

「鏡花がこれ欲しいってわがままを言って買ったやつだから」

「そうなの」


 と、宝箱の中身を漁ってる時のような目で、私を見上げられても……。そうなの?


「えっ、あっ、嘘だよ嘘。もー、鏡花ったら覚えてないの!?」

「な、何を?」

「小学一年生にしてね、熊の木彫りを見て、『肉と魚両方食べられてお得』とか言ったんだよ。だから買った、でっかいのは高かったから断念したけど」

「い、言ってない言ってない、そんな食いしん坊なこと言わないっ!」


 縁佳が余計なものに目を付けるから、こういう事になるんだ。下唇を押し上げて、前にこけた階段の一段目に足を掛けて、縁佳をたまに睥睨する。


「え、私のせい?」


 これ以上、掘り下げられると息の根が止まるので、自分のことを指さす縁佳は放っておいて、一人で帰ってきたように階段を駆け上がった。


 縁佳を二階の自室に上げると、ただちに温かい紅茶とてんこ盛りクッキーが運ばれて、真円形の白いローテーブルの中央に展開される。やっぱり、母親が明らかに張り切っていて、何だか恥ずかしくなってきた。元を辿れば、私が蒔いた種なんだけど……まあいいやと、とりあえずクッキーを頬張る。んまっ、どこにこんな美味しいものを隠してたんだ。バターの芳醇な香りと、想いのように溶けてなくなる食感がたまらない。


 ふと山盛りクッキーの向こうに目を向けると、縁佳が頬杖を突きながら微笑んでいた。私が全部食べるとでも思ってるのだろうか。


「ん……?」

「お気になさらず、どうぞどうぞ」

「食べないの?」

「甘い物は好きじゃないんだよねー」

「じゃあポテトチップス持ってくる」

「いやいや、そこまでしなくても。ほら、私に遠慮せず食べ尽くしていいから」


 客人を差し置いて、しかも縁佳に、一口の大きさから食べる順番、噛む回数、飲み込む時の喉のうねり、紅茶で口を潤すタイミングまで、一つ残らず偵察されると、さすがに食欲が減退する。私は時々、見つめ返してみたり、意味ありげに勉強机の棚に視線を合わせたりしてみるも、全部お見通しなようで、縁佳の意識と集中は全くぶれない。


「いいね~」

「何が?」

「きちんと揶揄われてくれるの」

「……私を揶揄って楽しい?」


 食指を止めてそんなことを聞いたら、忽然と縁佳が頬杖を辞めて、まあ相変わらず小手先で私の心臓を揺り動かす。


「怒った?」

「んー、んっ!?なぜなぜ、怒ってないよ!」

「だろうけど知ってるけど、まるで気を悪くしたような言い回しだったから、もっと揶揄いたくなった」

「んー、でも本当に楽しい?」

「楽しくなかったらやらない」


 縁佳はそこに正座してから、常にぼんやりとシスターのように微笑んでいる。まあ、シスターにしては性悪だけど。


 けれども、縁佳がほんの少しでも、歪んでいても自然と楽しさを感じているのならば、私もその分だけ自信が持てる。夢のような友情に、私だけが恐れながら震えながら遠回りしながら、手を伸ばすだけの一方的な関係ではなくて、縁佳にもそれに自分の手を添えてほしいって、根底ではそう望んでいるのだろう。だから、不慣れでもシスターのように口角を上げてみる。


「島袋さんが笑ってる?のは貴重だから、写真に残しとこうかな」

「えっ、それはちょっと、待って待って!」


 自分の手で顔を覆い隠す。指の隙間から、縁佳が虎視眈々とニコニコしながら、スマホを手にしてるのが目に入る。しかし、こうやって分かりやすく照れてるのも、写真に撮られるかもしれない。縁佳と雑談なんてしてたら墓穴を掘るだけだと気付いた。私はかばんの中身を漁って原稿を取り出し、凛々しい表情を脳内で思い描く。


「おっうえん演説の練習、しよう!そのために遠路遥々お越しいただいたんだから……」

「真面目だ。遊びたいのかと」


 縁佳は後ろに手を突いて傾いて、勉強机の棚に注目する。そこにはボードゲームとか漫画とかが雑多に並んでいる。一人で嗜むのは虚しいから普段は手に取らない。なので、一応週末にほこり取りはしてるとは言え、なんかいつも埃っぽい。でもなんと、今日は奇跡的に来客がいるので、絶好のチャンスなんだけど、やることやってからと自戒する。


「あっあーでもでも、遊びたいって言うなら、それでも私は構わないっていうか……」

「意志は強く持って。島袋さんが弱気だと、私は流されちゃうかもよー」


 家で勉強会しますって時に、果たして本当に勉強するべきものなのだろうか。世間ではどうやらそうでは無いらしいというのを、常葉お姉ちゃんから聞いたことがある。なので「んむー」と自分の原稿に目線を落として、縁佳に全肯定というか丸投げの態度を全開にしていると、共感が得られた。


「ふふっ、どちらかと言えば私も、島袋さんと同じで真面目ちゃんなのよー。終わったら遊ぼう」

「うん」


 例え全てが計算内だったとしても、正直な私は清々しく頷く。


「そうそう、一昨日もらった推薦文、概ね良かったよ。でもって、モロックマに添削してもらったから……」


 縁佳の眼差しが険峻となる。それを受けて私も、背筋を伸ばして、縁佳から目を離さないように必死に食らいつく。応援団長の時しかりダーツをしてる時しかり、縁佳は目の色が変わった瞬間が非常に分かりやすい。というか、おのずと魅了されて引き付けられて見せつけられる。それに比べて私は……まっまあ、縁佳はなんか掴んでるらしいし、このままでも良いのかなぁ……。


 こうして限りなく友達に近しい人と、せっかく同じ屋根の下なのにも関わらず、一糸の遊びもなく演説の練習をしていた。くたびれて目を醒ますと、日が暮れている。時計を確認するまでもなく、とっくにチャイムは鳴っているだろう。いつも翌日の不安を煽ってくるから、夕暮れ時の空にはあまりいい思い出がない。でも、人間と同じ速さで移ろいゆく点で目が離せなくなる。縁佳みたいなものなのかもしれない。


 縁佳も手を突いて後ろに倒れて、頭を重力任せにのけ反らせて、青息を短く吐きながら天井を仰いでいた。


「終わりにしますかー」

「あっうんうん。……これで平気かなぁ」

「あら不安?あんまり緊張してなさそうだったのに」

「そうかな」

「まっ、自分の家だしねぇ。それで落ち着きを失ってたら、さすがに心配になる」


 つまり私は心配されていた。んーいや、真面目に練習に取り組めたという点では、落ち着いていたと言えるのかもしれない。それをアピールするように、肩でも回してみた。縁佳はそんな私にまた微笑むと、立ち上がって勉強机のほうに興味を向ける。


「島袋さん、漫画とか読むのね」


 縁佳は棚から頭文字Dを取り出してパラパラめくった。私は薄っぺらい座布団の上に座ったまま、その様子を見上げる。


「私は別に……。そこにあるのは全部、常葉お姉ちゃんが忘れてったもの」


 常葉お姉ちゃんは、まるで棚を埋めるために持ってきたので、私の前では読んでないし、感想を尋ねてみても、掴みどころのない回答しか返ってこなかったから、そう、難癖を付けて読んでない。


「はへー、現会長かー。血の気が盛んなのね」


 どうやらお気に召さなかったらしく、縁佳は頷きながらすぐに元に戻した。今度は、数多あるボードゲームの中からDominionを取り出す。


「やってみる?ルール知らないけど」

「あーうん…………本当に未経験者?」

「え?そうだよ。だから手加減してよ」


 それを常葉お姉ちゃんが持ってきた時は、ゲームの流れすら把握してない段階で、コンボを組まれてこてんぱんにされた。それでいて、どうして私より友達が多いのだろう……。とにかく私も未経験者同然だから、きっといい勝負になる。


 残るクッキーを残さず胃袋にしまってから、皿を床に置いて机の上にスペースを確保する。そして縁佳がカードを指定通りに並べていく……手が止まった。箱をひっくり返したり、一枚一枚チェックしたりして、ついに嘆く。


「コインの札がねぇ」

「なんか、とても大切だった気がするよ」

「そうなの?いや、そうだよねぇ」

「他のにする?」

「そうだね。これじゃあ遊べないな」


 縁佳はDominionをしまって、別のカードゲームを展開する。しかしそれも要石なカードが足りなかった。というか、その棚にあるゲームはどれも、何かが足りないのである。お前にタダで遊ばせるわけないと、常葉お姉ちゃんがけらけら笑ってる様が目に浮かんだ。常葉お姉ちゃんはそういう人だ。どうせ漫画も面白い巻だけ抜き取られてる。


 全ての夢が破れた縁佳は、再び私の向かいに膝を揃えて正座した。そして相も変わらず、余裕で無敵で天性な微笑みを続ける。この部屋から音が途切れる。気まずくなる。それは私だけなのだろうか。確かめられるわけもなく、しかも結果的に縁佳が慰めてくれるのを、翹望していたみたいになってしまった。


「そんながっくりすること無いよ~」

「でも、なんか、もどかしい思いというかかっか、すぐそこに答えがあるのに、手が届かない感じというかっ」


 頭の中では完璧な文章なのに、口に出した途端、酸鼻を極める。私が明後日の方向に目線を向ければ向けるほど、縁佳は私の深奥をかすめようとする。


「それが本心?」

「ちがっ……くはない……かもっ……?」

「うむ、応援はしておくよ。頑張るんだ島袋さん」


 具体的に、何を頑張ればいいんだ?変な風に捉えられてないだろうか?つま先がぎゅーっと丸まって、やっぱり髪の毛を握ってしまう。人間経験が乏しくて、正しくあれない。すぐに何かにしがみ付きたくなる。


 母親が階段を上る足音がする。それに合わせるように、私の心をかき乱したまま縁佳が立ち上がる。


「よし、そろそろ帰ろうかな」

「う、うんっ、そうだね、もう暗くなってきたしっ」


 それを言いながら、如実に心拍数が下がっていくのを自覚する。人間は適応力の権化、縁佳の隣でずっと緊張していると、それが当たり前になってしまう。縁佳にまた一段近付けたかと思ったけど、ただ順応してきただけだった。


 縁佳がスクールバッグを手に取ったその時、ちゃんとしゃもじを手にした母親が部屋の扉を、特殊部隊の突撃並みに苛烈に開けてきた。ちゃんとってなんだ?


「縁佳ちゃん!ご飯食べてくぅー?行くよね!」


 私は言うまでもなく、縁佳も気圧されて言葉に詰まるかと思いきや、すかさず爽やかな笑顔で応対する。


「いいんですか?」

「遠慮しないで!こんな事って滅多にないんだから」

「じゃー、喜んで頂きますっ」


 縁佳は私の母親に対して清々しくお辞儀する。私は二人を交互に見上げて、仲裁人を気取ってみるも効果がない。母親との会話を終えた縁佳は、さっきと同じ場所にさっきと同じ表情で正座する。また胸が高鳴ると言えば聞こえが良くて、実際のところは飼い主の言いつけにも耳を貸さず、心臓が暴走していると評するのが正しい。


「だ、そうです。だからもうちょっとここに居るね」

「え、えぇ……」

「せっかく用意してくれたのに、断るのも申し訳なくない?」


 縁佳は机に片腕を置いて、私の困惑を先回りする。


「家に……ご飯ないの?」

「あぁ、今日は自分で作らないとだったから。実は願ったり叶ったり……。別に、狙ってたわけじゃないよ?」


 縁佳は机に置いたほうの手を、肘を机につけながら振って否定した。


「知ってるけど」

「まー、島袋さんが食卓でどんな会話してるのか気になるっていうのもある」

「あんまり話さない……」

「そっかー」


 私が家族と話さないせいで、縁佳との会話も途絶えてしまった。それで話題を提供できるようになるわけでもないのに、交感神経が全身の筋肉とか汗腺をたぎらせる。必死さをアピールしたくもないのに、逸る気持ちを抑えられなくて、口がパクパクしてきて完全に閉まらない。


 私が懲りずに混乱していると、縁佳がこちらに視線を戻す。


「んじゃー、現会長、常葉お姉ちゃんとは?」

「それはっ、また難しいことを……」

「確かに、質問が悪かったね。……話題を変えようか。お母さんの料理で何が好き?」


 思っていたより変わって当惑する。まあそうじゃなくても、難しい質問が来ちゃった。


「え、うん。何だろう。肉を甘辛く炒めたやつ、とか……?」

「だいぶ幅広いねぇ……。中華でも和食でも、たぶん洋食でもいけるよ」


 記憶の限り、母親の手料理ではずれを引いたことがない。多分好きな料理を聞かれたら、別に孝行者でも何でもないけど、母親の手料理と答えることだろう。だって美味しいし量もあるし、不満があるとすれば、最近胃が弱ってきたのか脂っこいものが減ったことぐらい。縁佳にも食べてほしいって、勝手に自慢してみる。


「まあ、楽しみにしておくよ」

「う、うん、お腹を空かせて待ってな」

「ほぉ。…………筋トレでもするか」

「へっ?」


 私と同じで話題を繋がないと死ぬ病気に罹患してるのか、縁佳はクッションに手を突いておもむろに腕立てを始める。震えたり中途半端な深さで折り返したりせず、筋力の余裕を感じさせる丁寧な所作に、私も対抗したくなった。


「うぐぐ……あっ、おーっ、ぬぬぬっ」


 一回沈み込んだら、そこから這い上がれない。息を吸ったり吐いたり止めたり、歯を食いしばったり色々試すも、私の腕っぷしでは自分の体が支えられない。


「ぐあぁーむりだー」


 時間が経てば経つほど腕がしびれて力が入らなくなって、麻酔を打たれた野生動物のように、転がるように床に崩れた。腕の筋肉がまだ痙攣している。縁佳の前だからって、無茶し過ぎたかもしれない。


 開き直って大の字になっていると、いつものように鏡花に見下ろされる。何だか懐かしい気持ちになった。


「私と二人三脚してた頃の島袋さんは何処に……」

「体力は、まあ人並み?かもしれないけど、力がなくて。あっでも!握力は二桁あるからね!」

「そりゃあ、無かったら心配になる」


 はははーと笑い合ってみながら、縁佳の視線が私の腕に向いていることに気が付く。


「きっ筋肉ぐらいあるしっ」

「筋肉はあるでしょうけど。骨は単独で稼働しないのよー」


 そんなに小馬鹿にされたら、見せつけてやらないといけない!って血迷った。しぶといゾンビのようにずばっと飛び起きて、ワイシャツをワクチン接種の時ぐらいまくって、力こぶを披露してみる。縁佳が私の上腕を吟味する…………。もう片方の腕もまくりたいぐらい、室温ごと上がってきた。


「綺麗だねー、傷跡一つない」

「そうじゃなくて!は、八海山を連想させるでしょ?」

「国中平野だねー」


 汗が滲んでるんじゃないかとか、目の前の縁佳が何に関心を払っているかとか、私がそういうことを目を回しながら考えているのに、縁佳は計算高く気高く微笑んでいる。それでいつもいつも、私ばっかりが恥をかいてるのは不公平じゃないか、とか訳のわからない考えに至り、縁佳にも腕を見せるよう要求していた。


「島袋さんがご所望なら、仕方ないなぁ」

「えっあっ、こっこれは対価というか……」

「私の腕を自分の腕で買ったってこと?まー、他の友達に見せたこともあるし、ほら、ご堪能なさい」


 縁佳はつっかえることなく、片腕を肩近くまでまくる。私と違って肝が据わっているので、ちょっと力こぶがあった。


「目を逸らしていいの?」

「いやだって……見たいわけじゃないし」

「でもー、一生に一度のチャンスかもしれないよ?」


 縁佳は自分の腕を瞥見してから、もう片手を口に添えてそんなことを囁く。私はそれに言い絡められ納得して、落ち着きのない視線を縁佳の力こぶに収斂させていく。デッサンするわけでもないのに、まじまじと見つめて脳内に造形を刻み込む。でも、ふと縁佳が筋肉を弛緩した時、気が付く。私と大差な……。


「い、って思ったでしょ」

「うひゃっ!?ないない、邪な気持ちないから!」

「運動部に三年所属して何も身に付かなかったのに、毎日十回腕立てするぐらいで変わるわけないよねーって話」

「十分、あると思う!」

「んーーーー、やめよっ、この話題も!なんで、こんな歯応えのない腕を見せ合いっこしてるんだよぉっ。ただただ虚しい」


 縁佳はそう叫びながら、まくっていた袖を下ろして、むしろ袖口を手で掴んで引き延ばそうとしている。本当に、まったく、その通りでしかない。こんな局面、親に見られたら誤解される、語り草にされる……。


 そんなことよりも夕飯だ。来客がいらっしゃるので、誰でも私も諸手を挙げて喜びそうな、唐揚げとかハンバーグとかが出るかなーって勝手に垂涎してたけど、結果は無数の煮物だった。主役っぽいぶり大根に、定番のかぼちゃや、いかと里芋、なすと厚揚げ、れんこんとしいたけと人参、どれも出汁が染みていてご飯が進む。いくらでも食べられる。幸せとはこういうことだ。つまり哲学書とはレシピ本のことなんだ。


 自由奔放に食べ始めると、今日の食卓は以前の騒々しさがあり、熱い視線を感じて箸を止めていた。我が家は昔から夕飯は家族揃って食べましょう、を金科玉条にしていたけど、兄が家を出て会話が弾まなくなって、もう十か月は静まり返っていた。


「島袋さん、美味しい?」

「うん?うん、美味しいよ」

「鏡花はねぇ~、何食べても美味しいしか言わんのよ。そりゃ嬉しいけども、でも十六年近く言われ続けると、さぁすがにもう一言くれんか?って思っちゃう」

「美味しいものに美味しいって言って、何か悪い……?」


 ほらね!と母親が茶碗を片手に、箸の先を上下に揺らす。私は里芋をよく咀嚼しながら、かつて兄の座っていた位置で、島袋家の食卓に馴染めている縁佳に視線を送る。兄にも泣き付いたことないのに、縁佳には縋ってしまう。情けないなぁって、自分を責めれば気が済むのに。


「まー今さら違うことを言うのも、憚られるんじゃないですか?例えば、この里芋が美味しいって評したら、それ以外は?と疑問を持たれることを危惧してるんでしょう」

「なるほどな、そうだったのか。でも安心しろ鏡花、父さんたち安直だから言葉の裏とか読まないぞ」


 そう言って味噌汁をすする父親はどうでも良くて、再び縁佳に視線を送る。縁佳の意識が吸い付いたら、今度はちょっと目をきょろきょろさせて、私の想いを乗せてみる。無視された!?


 そういうわけで、時々箸を止めざるを得なかったせいで、普段より時間がかかりつつも、二人分を平らげる。はぁ、でもでも、縁佳のいる食卓は、いつもより気が楽だった。言われたい放題じゃなくて、たまには縁佳が反駁してくれるから……少し甘えすぎたと、血糖値が上がって眠くなってるのに抗いながら反省してみる。


「わざわざ家まで送ってくださり、ありがとうございます」

「この時間に、しかもこの距離なら当然さ。また来てなー」

「島袋さんも、また明日……おーい?ありゃま、寝てますな」


「…………寝てないよっ!」


 夜の車は余計に眠くなる。一日中出かけて歩き回って、その帰りというイメージが刷り込まれているから。縁佳に呼び掛けられているのが夢じゃないと判断するのに、思わず吹き出す隙を与えるぐらい時間がかかってしまった。あっいやっ、別に、近ごろ縁佳を夢見るなんてことは全然ないんだから!


「島袋さん、ちょっと降りて?」

「はっ、うん」


 縁佳様の云う通りにする。外はブレーキランプとかがあるので、車の中より明るく感じられた。その反面、縁佳の立ち姿からは何となく物悲しい印象を受ける。昼下がりから日が沈むまで、ずっと一緒に居たから名残惜しいのか、ただ玄関灯が点いてないからか。縁佳の家なんだから当たり前だけど、板に付いた笑顔が、この先に吸い込まれていくって意識すると、なぜだか直感が戦慄してしまう。


「ご飯、美味しかったよ」

「んと、えっと、それは私じゃなくて母親に……」

「島袋さんが船を漕いでる間に言いました」


 食後に寝てしまうなんて、何だか子供っぽくて恥ずかしい、縁佳の前で居眠りなんてもっと恥ずかしい。まっまあ、夜だから、いくら赤面してもバレない……よね。縁佳、半笑いだけど。


「これは完全に勘だけど、何か確認しておきたいことでもあるんじゃないかなーって」

「うん、確認……?」

「私に、はっきり言葉にしておいてほしいこと、かな」


 縁佳に、言葉にしてほしいこと……。勘繰られて、まるでずっと前から握っていたような、質問の骸が水面に浮上してくる。


「た、楽しかった、ん?」

「ふむ、島袋さんのこと、もっと深く知れたからね。収穫もあったし、なかなか楽しかった」

「ま、満点の回答をありがとう……」


 縁佳の発言の真偽は夜の闇に覆われてよくわからないけど、語義通り受け取れば私は満たされた。そんな条件が存在しようとも、私の心は踊れた。


「島袋さんはどうなの?」


 心がかき乱されているのか、余韻をかいつまんでいるのか、不明瞭なまま車に戻ろうとすると、縁佳がそんなことを聞いた。こんな簡単な質問を理解するのにも時間がかかって、それどころか私の裏声が寂莫とした夜の街に響いて。


「ひゃえ!?言うまでもない、無いに決まってるっ」


 私が声を張り上げて、そして恐る恐る縁佳の表情をうかがおうとすると、縁佳はまた口を手で覆いながら笑った。


「じゃあ、明日の朝は八時だから。よろしくね」

「うん、おやすみなさい」

「おやすみなさいー」


 手をかざしながら、縁佳が更なる闇の奥に消えていく。まあ今の私に、そんな寒色な出来事の付け入る余地はなく、ただ縁佳の残り火の傍で眠りたいという欲しかない。明日まで保つかな……。


 縁佳と過ごす時間にはたくさんの砂金が埋もれている。私は宝玉の輝きを知らないから、そんな点のような光でも血眼になって集めたくなる。いつの間にか砂利はふるい落とされて、綺麗な幸せな部分しか残らない。そのおかげ、どれだけ恥をかこうと試練があろうと、私は縁佳と友達になろうと、少しでも一緒にいようと思えるんだろうなぁ。都合のいい解釈をさせてくれる、自分の愚昧さに礼を…………すやすや。

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