4-2

 秋が始まったようで、虫たちが大合唱を繰り広げている。大合唱の中で個というものは失われ、幼い頃に絵本とか図鑑に書いてあった聞きなしというものは、全くあてにならない。多様性なんてあっても、可能な限り均質化されていく。それを客観視した時、もっと出色してやろうと意気込んだり、とても悲嘆に暮れたりする。虫たちはそもそも客観視する発想自体がないので、いいよなぁーと羨んでみたりもする。


 いまや私を照らすものは三日月しかない。ところが三日月は弱すぎる。そのくせにあまねく人類を照らしていて、私もあなたにも得がない。んまあ、天体相手に何を言ってるんだという話ではある。でも水面に鏡にガラスに映った自分に、はっとさせられたりする人なので、手遅れだった。


 隣に街路灯があるけど、そっちは先客が飛び回ってるので、若干ずれた場所で終バスを待つ。今日は土曜日なので、これが最終。まあ危なかったと言いたいところだが、来るまであと三十分はある。少なくとも早歩きの必要は皆無だった。


 超暇なので、たんまりと黒い空気を吸い込んで、肺がしわくちゃになるぐらい体内の空気を吐き出す。深呼吸って、リラックスするためのものなはずなのに、かえって寂寥感が全身の細胞に行き渡って、思考もまとまらない。私の脳は、無数の点を矢継ぎ早に観測しても、繋いではくれないのである。


 今度は頬を手で、ぱちんと潤いの音がするぐらい叩いてみた。その音はよく響いたけど、私以外の人間には届いていない。だから寂しいのだ。さっきは無我夢中に肉を食べていても、前後左右から誰かの声が届き、そして私が何か行動すれば、縁佳が反応してくれる。それによって、私は精神的にも満腹になれた。


 けれどもすぐ空腹になる。胃袋の中は満杯だけど、精神的な充足はもう求め始めている。しかし、人間特有の想像力のおかげで、しばらくは満たされないことが分かっていた。夜でさえ満月の日にはそこそこ明るくなるのに、私の心は今日みたいな夜が続くだけ。お祭りの後ってこんなに息苦しいのか、と人知れず溜息をこぼす。


 暑くも寒くも風が強くも天災もない夜を日々を、これほど恐れたのは初めてだった。



 その予感は的中して、次の登校日から私は、まあ見慣れた、無味乾燥な毎日を送ることになった。たまに遭遇した時に常葉お姉ちゃんと話すぐらい。それ以外で言葉を発することもなく、もちろん誰かと行動を共にすることもなく。私が縁佳と居たのは、縁佳がサプライズを用意していたから、私も縁佳を蒼白させるような催しを拵えたから、二人三脚のため、不埒に抗うため。理由は与えられるもので、日常に落ちているわけでもなく。だから今日も、斜め前の人の耳の形を、ノートの隅に模写している。結構、個性があって興味深い。


「昼ごはん食べないの?」


 はじめは自分に向けられた言葉だと思わず、視線を紙に戻して、ダーウィン結節を書き込んでいると、明世は前の席に腰掛けて、机の隅に購買で買ってきたパンを置いた。他人の耳を描いているのを直視されたり、明るみに出されては恥ずかしいので、というか邪魔だろうからノートを閉じる。


 明世はパンの包装を解きながらも、手元ではなく私の顔をじっと見つめてくる。そういうことをされると落ち着かなくなる。からかっているのか、明世は食べる時も首を動かさない。口はよくもぐもぐしている。逃げようにも体がすくんで言うことを聞かない。ノートを胸元でぎゅっと抱きしめていた。


「食べます……?もう売り切れてるだろうし」

「あっやぁ、もう食べたから……」

「そっか、いつもお弁当だもんね。でも早いなっ」


 早弁してたら半分しか残ってなかっただけだけど。


 明世は自分の昼食への脅威がなくなったとわかって、安心して私を観察する。しばしの小康の後、明世は食べ終わったパンの袋を折り畳みながら、椿の散るように一瞬だけ頭を下げる。


「あざしゃっしゃー」

「なんと……?」

「はい、さぁーっしったぁー」

「さぁー、したー」

「ごめんなさい」

「ごめんなさい?」


 勢いに負けて、舌が回ってないなーと思っていたら、冷静沈着な謝罪が続いた。理解が追い付かず、そっちにリソースが持っていかれて、ノートを抱きしめる力が緩む。


「どっちがいいのかなぁ」

「どっちでもいいんじゃない……」

「誠実すぎると負い目を感じてしまうだろうし、かと言って運動部の真似事をするとふざけてるって思われるだろうし。どっちでもいいってことは無いよ、うむ」


 明世はうなりながら頭をひねりながら、もう一個のパンの包装を開ける。そう言えば、一度も購買のパンを食べたことが無いなぁと回顧する。そしてそれを回顧するのは今ではないと、目の前の人の一口の小ささを見て驚愕する。


「単刀直入、不躾にあけすけも無く質問することって良いことかなって疑問を持つのが迂遠なんだよね」

「うん」

「えっと、がすよとはなんで喧嘩してるの?」


 思いがけない質問に、泳いでいた目が止まる。


「しっしてないっ……です……」

「へぇ」


 どうせ正直に答えていると、明世は歯が抜け落ちたような声を返す。


「えっ、じゃあなんでがすよの耳なんて描いてるの?」

「刑部のも描いてるからっ」


 私は明世にノートを見せつけ、パラパラ漫画のようにめくっていく。しかしそんな猟奇的な暇潰しを誇らしげにされても、そりゃあ困る、顔が引きつる、掛ける言葉が時間と共に消えていくだけだ。


「上手いな。これなら皆の耳も喜ぶよ」


 顔をノートに近付けて、しっかり鑑賞した明世はそう評した。褒めてくれるのは縁佳と同じで優しいけども、相手に気を遣わせてしまったわけで後味が良くない。今こそ謝るべきかもしれない。


「んとー、本当にがすよと揉めてるわけじゃないのね?」

「うん」

「えー、実はこんなものなの、そうなの?」

「ん……、こんなものとは?」

「ここ最近、がすよと話した?」

「打ち上げの時に」


 それ以降に事由が落ちているわけもなく。でもそれが平常運転で、この期に及んで俎上に載せることでもない。のだけど、明世はパンを片手で掴んだまま、その手を机に置いて、やっぱり断続的にじとーとこちらを眺める。


「そういうものなのかー」

「そういうもの……」

「人それぞれではあるけどもさぁ。いいの……かなぁ?」

「うん……」

「ご飯ぐらい、たまには一緒に食べればいいのに」

「いっいや、別に話すことないし、食べたい人と食べればいいと思う、ねぇ」


 遠回しに、なんでお前がそこに座ってるんだと、責めてるように聞こえないだろうか……。


「一家言を押し付けるのも良くないけど……。がすよともっと仲良くなりたい……のかなぁどうなの?」

「もう十分だよっ」

「でも無味乾燥な日常にがすよが欲しくならない?」

「んっ……それは……」


 私はあまり考え無しに、まあ名前が挙がったから、斜め前で談笑している縁佳を瞥見していた。


「しまちゃん、結構がすよのこと見てるよね」


 そう指摘されて肩が飛び跳ねる。自分でもびっくりしてしまう。なぜかそこに収束していくのだ。描いた耳の数も一番多い。形がいいのかしら。


「実は実はー、傍から観察してると、結構わかりまっせー」

「そんなにっ、そんなわけ……」


 私は懸命に首を横に振ったが、明世は気にせず、こっち見んなとか突っ込む隙もなしに話し続ける。


「朝、教室にがすよが入ってくる時とか、授業で指名されそうな時とか、枚挙に暇がありませんねぇ」

「しょ、しょーこはあるんですかっ」

「用もないのに話しかけていいのかって、煩悶する気持ちは分かるけど。いや良いんだよ。友達とはそういうもの」


 縁佳が隣にいなくて寂しいとか、でも縁佳がいないのが普通だったとか、私の思考が縁佳中心になっていることを指摘されたようで、顔を赤くして反撃したのをスルーされたのがどうでもよくなってきた。明世ががすよと微妙なあだ名を呼ぶだけで、動揺して言葉が継げなくて、縁佳のことをもっと考えさせられてしまう。もういいから早くパンを食ってくれ。


「まー最初は逡巡してしまうよねぇ。でも大丈夫、相手はがすよですから。会話を続ける方法など、いくらでも心得てるでしょう」

「ん……でも、でも私は……何というか、生半可な気持ち?しかないから……」

「そんなわけ無いでしょー。じゃあ、がすよが明日引っ越して転校しますってなったら、どうする?」

「んー……追いかける」

「でしょ?わるっぽく言えば、しまちゃんはもう、がすよ無しで生きられない。人の温もりに心を許してしまったから。まっ、それは是正せんといかん事でも何でもないよー」


 ずっと真顔で愛想の悪い私を宥めるように、明世は作り笑いを披露する。私には出来ない芸当で、眩しいというより脱帽していた。


 そうこうしている内に、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る。明世のパンはまだほとんど残っていた。


「ごめんなさいっ、食事の邪魔しちゃって」

「あぁ、これは次の現文の時間にゆっくり食べるよ。誰かさんのおかげで、授業中にもさもさしてても、怪訝な目で見られなくなったから」


 明世は座っていた椅子を机に入れて、二口齧ったパンを振りながら、じゃあね~と自席に帰巣していった。手を振り返そうか迷ったけど、ノートを強く抱きしめてて、出遅れたので止めた。ノートは跡が残って、複雑に波打ってしまった。授業で使ってるやつなんだけど……じゃあ耳の落書きをしてる場合じゃないかも。


 あんな会話をしたら、私は縁佳のことを意識せざるを得なくなる、真剣に正々堂々と向き合ってしまう。当たり前のように授業は聞いてないし、縁佳の耳を描いている。


 縁佳と話したいと言えたら楽なんだろうけど、あいにく話題を持ち合わせていない。ただ一緒に居られれば満足……一緒に居るの定義は?同じ教室で、同じ授業を受けていたら、それで満足なのか?そうだったらもっと楽だ。そうじゃないから、諦めつつも至上命題が常に頭の中をうろついている。


 確かなことと言えば、もし話題が無限にあったら、目的が無尽蔵にあったら、私は迷わず縁佳とそれを消費する。それと現状、私は寂しさを覚えている。馬鹿なこの間の私が、三日天下の幸せを受領してしまったから。


 しかし簡単にまとめると、縁佳に話しかけてみるかどうか、ただそれだけなのである。うぬぬぬ……こんな事で右往左往しているようでは、この関係を友達だなんて口が裂けても言えない。その自覚だけは一人前にある。


 こうして放課後になった。私はホームルームが終わった途端、カバンを持って、椅子が倒れそうになるぐらい勢いよく起立する。そしてそれで力を使い果たす。縁佳がカバンの中身を整理している今が、猿にはギリギリ分からないぐらいチャンスなのに、直立不動モードが解除されない。奥歯が擦り減るような思いになっても、親から注がれた勇気をドブに捨ててきたから、どうにもならない。


 いや、そもそも物理的に距離があるのだ。私はいつまでも振り仰ぐばかりで、いつになってもその階段を上ろうとしない。階段という卑近な例えにすると、私の腰抜けぶりが際立つ。


 こんな風に、私が無駄に全身を強張らせている間に、縁佳は教室の扉にしがみついてぶらんぶらんしながら待ってた、別のクラスの友達とどこかへ行ってしまった。追いかける選択肢は使用できないし、脱力してそのまま椅子に腰を下ろして、教室に誰もいなくなるまで、格子が浮かび上がるぐらいよく掃除された黒板でも見つめた。負の感情が上塗りされて、増幅されて、伸長して、明世に申し訳なくなって。また人知れず溜息をつく。


 その日は後悔と反省と自己批判をしながら家に帰った。今日のガラスに映る自分は、普段よりいっそう手厳しかった。



「島袋さんっ」

「うひゃっ!ひゃぁ……」

「あら、この間と同じ反応」


 今日も無理だったと、自席に座りこけていたら、縁佳が驚かしてきた。髪を束ねて握って戦々恐々としながら横を向くと、縁佳は腕を組みながら、私が知ってる限り一番よく笑っていた。


 縁佳に笑われても悪い気はしない……じゃなくてっ、ここが正念場だからっ。覚悟を決めてその場で立ち上がり、目を瞑りながら叫んだ。


「帰ろうっ、あっあぁ一緒にっ」

「おぉ?その前に、少しお茶でもしない?まあ生徒会室で、だけど」


 …………うおあっ、喜んでお供します以外の返答を想定してなかったので、沈黙を作ってしまう。このままだと、そんな敷居が溝みたいな申し入れも認められない、意固地な人間だと思われてしまう。まずいまずい、そうだ頷いておこう、そうだ、それでいいんだっ。


「あー、目を開けられたら満点だねぇ」


 目を閉じていることを忘れていたというか、瞼の裏に縁佳が映っていた気がしたもので、言及されてようやく目を開けられる。縁佳がさっきより一歩引いて、同じ姿勢で同じように笑っていた。私は俯いて口を固く結んで、スカートのプリーツを握り、恥ずかしさを堪えるというか前面に押し出す。縁佳は気遣いができる人なので、それを堪能しようとはせず、さっさと生徒会室に向けて歩き始めた。私は雛鳥のように、手をばたつかせながらそれに付いていく。


 生徒会室に着くと、縁佳は奥の倉庫から缶の緑茶を二本持ってきて机の上に置き、前と同様に私の横に座って伸びをした。やっぱり縁佳は遠目に見上げるのが丁度いいっ。私は肘掛けを使って、自分の体をソファの端っこにずり動かした。


「島袋さんは、何か私に言いたいことでもあったの?」


 縁佳は後頭部を両手で支えて、そんなことを悠々と聞いてくる。確かに明世の言う通り、縁佳が話題を提供してはくれるけど、単調に受け答えるのも中々至難なのだ。ぶんぶん首を横に振っていると、縁佳は察して、そしてまた笑った。


「だよねーっ。モロックマもそう言ってた」

「またお手数をお掛けしまして……。ごめんなさい……」

「いやいや、友達ですからー。必要としてる友達の元には、現れないとね」


 こんな暑くも寒くも不自由もない毎日であっても、私は縁佳を必要としていたのかなぁ。太ももの間に手を挟んで、そんなものかを吟味する。……やっぱり、そうなんだろう。縁佳と二人きりの生徒会室は、酸素原子一粒に至るまで縁佳の支配下にあるような空気に満ちて、返す言葉も刀も定められているようだけど、早く解放されたくてたまらないけど、でも明日は今日を何度も夢見ることだろう。そして再び縁佳に呼ばれれば、断ったり逃げたりせずに、懲りずにソファの端っこで、脈を加速させ目を泳がせ、粗削りな息を吐くんだろうな。


 私はおかしな人だ。でも縁佳には、その珍奇さを買われているのだから、それで良いのかもしれない。今は縁佳の赴くままに、緊張して空回りするままでいいのだと、脚で挟んだ手でスカートの布を強く押さえつけ決意する。


「でも……一緒に帰ってくれれば、それで……」

「バス停までじゃ、すぐお別れになっちゃうじゃん」

「でも、でも……ここである必要は……」


 ぼそぼそ呟きながらこの部屋の全貌を、首を回して確認する。見渡す限り、生命は縁佳しかいない。あと、ロッカーの上の段ボールが埃を被ってるのが気になる。


「あーあー、それ聞いちゃう?だって島袋さん、他の人がいたら、ますます縮こまっちゃうでしょ?」


 縁佳は自分の人差し指を振り回しながら、人を揶揄う時の顔をした。そんなものを長々と意識していられるわけもなく、自分の前に置いてある缶のお茶に焦点を合わせる。


「独占欲が強いところもあるみたいだし」

「はっ、はあっ!?ちっちがいますよっ、独占欲?独占欲って言った??」

「言った」

「そそそんなつもり、無いっ、無い!」


 缶の中身を覗き込むぐらい前屈みになって、縁佳の言葉を懸命に否定する。そろそろインフルエンザの時に見る夢が上映されそうなぐらい、全身が熱を帯びている。まさか、私が、縁佳を独占したいなんて、なんでそんな事を企てないといけないのだだっだ。私は何に熱くなってるんだーっ。


「でもぉー、先週の打ち上げ、洞窟ちゃんとバチバチだったじゃん。見応えはあった、しかし懸賞にされる気分は最悪だ」

「あれはっ!あれはだよ、あれなんだよ……」

「はい、言ってごらん」

「もし明日、世界が終わるとしたら、その前日ぐらいは一緒がいいなぁーなんて、おっ思っちゃったんだよ、その鏡花って女の子はっ」

「世界、終わらなかったけど」


 縁佳は問い詰めるような声で指摘する。まあ、別に普段の抑揚なのかもしれないけど、文脈のせいで少なくとも私はそう解釈した。それでもっと頭の中がぐちゃぐちゃになる。目がぐるぐるする。意識が天に吸い込まれていく。自分の体が壊れていくのに、抵抗してみようとする意思だけが生き残っている。


「まっいいや。島袋さんとしては用件があって欲しくないだろうけど、実は頼みたいことがあってね。それをお願いするのも兼ねて、今日はここに来てもらったの。……大丈夫?お茶飲んで落ち着きなよ」


 お茶飲めって天啓があったので、私は震える指を励ましながら缶を両手で支えて、お茶を何口か体に流しこむ。緑茶ってこんなに美味しいんだ。旨味と甘味が淑やかに舌と脳を撫でる。そして体内に入った水分が沁みて、ぼやけていた視界は晴れ、水風呂に飛び込んだように体温が下がっていく。むしろ反動で、ぶるりと一回震えてしまった。


 ひっそりと大きく息を吸い込んで、一番の問題児である心臓を黙らせようとしてみる。やっぱりこの部屋は縁佳に支配されていて、縁佳を取り込んでいるような気さえする。ソファの端と端に座ってるから、お互いの柔軟剤の香りなんてしないはずなのに。


「取り乱して、わるうござんした……」

「ちょっと頼み事が心配になったけど、お気になさらず……」


 私は座りながら頭を下げた。一方、縁佳は満面の笑顔と共に、両手の平をこちらに見せて宥めてくる。


 頼み事、という単語が耳に飛び込んできたので、襟を正そうと手始めに背筋を伸ばしてみたけど、縁佳のことだし、私がわぁーきゃーするのは織り込み済みだろうし、むしろそれをお望みだろうし、背伸びするのは辞めた。


「もうすぐ、生徒会長選挙があるじゃない。その推薦人を島袋さんにお願いしようかと」

「な、なぜ」

「んーだって、私のことよく見てるじゃん。私の長所、お世辞でもなく発表できるでしょ?」


 素直に礼賛してくれた……じゃないっ、私が最近、縁佳から話しかけてこないかなー、いい耳だなーって視線を送ってるのがバレただけだっ!


 引き受ける、頷く、けどふてくされる。扉に貼られた、プロキシマ・ケンタウリ旅行ツアーのポスターに目を奪われながら、唇を尖らせる。


「うみゅみゅむ、想定外なあっさり具合」

「えっ?」


 私が振り返ると、縁佳は目をしばたたかせながら、背もたれから体を起こして、緑茶に口を付けていた。そして元の姿勢に戻ると、ひとりでに一瞬だけふふっと笑って間髪を入れずに、役目として人を見下ろすような、通常の縁佳に帰着した。


「任されてくれるよね?」

「う、うん」

「頑張ろおー、うおー」

「不退転の覚悟で頑張ります、うおぉー!」

「ちなみに島袋さんは、私が当選すると思いますか?」


 縁佳は片膝を抱えながら、でも真剣に問いかける。それに対して私は正解を即答する。


「それはもひょん……噛んだ……もちろん、もちろん」

「まっ、この私だからね。人望の塊、負けるわけない」


 ぱっと膝を解放して、私にしたり顔を見せつける。自信があることは、良いことだ。私は自分に自信が持てない部分が欠点で、縁佳はその真逆でバランスがいい……なんのバランスだろう?


「とは言ったものの、実は相手は強敵なんだよ~」


 縁佳が恐れる相手なんているのか。露骨に驚いたから、なんかわざとらしくなってそうだけど、これは馬鹿正直な直観だ。


「向こうは現副会長の支持も取り付けてる。それに名家の血筋でね、旧知も多いみたいだよ」

「かかっか、勝てるの……?」

「えっ、急に弱気にならないでよ」


 叱りつける百歩手前ぐらいの口調でそう言われ、反省というか言い訳が零れる。


「だって、らしくない……」

「まあ、なんだ、島袋さんが手を抜かないように?っていうか、奮い立たせようとしたっていうか」

「私っ、手抜かないよ!平島さんのためだから!」


 私はなぜか立ち上がって、前のめりになりながら、両腕を斜め後ろに突き出しながら、大きな声でそう反論する。絶対、やかましいと思われた。大げさだと嘲られた。


 それでも、それをおくびにも出さないのが縁佳だ。縁佳もカバンを持って立ち上がり、作り物と自然な感情のハーフな笑顔を繰り出す。


「だーよね。じゃあ今日は帰りますか。書類書いたりするのは、また明日の放課後。ここでやろう」

「あ、うん……」

「どうかした?」


 縁佳が見ている私は潜在意識さえも表出させて、自分の思っているどんな姿よりも滑稽なのだろう。縁佳が立ち止まったので、何か質問しなければいけない気がした。一方、縁佳の瞳に移る私は、聞いておかずにはいられなかった。


「ん……私ってさ、変、かな……」

「人それぞれじゃない?」


 そう言いながら縁佳は扉を押した。私はまたそれに、雛鳥のように付いていく。文化祭のクラスリーダーをぶん投げてきたのも、私の矛盾した性格を買っていたのだろう。でもつまり私は、縁佳の元なら価値がある……多分、断言はできないけど。


 こうやって誰かに存在を認めてもらうのは、何だか懐かしい。そう、この心が温まる感覚をもう失いたくないんだった。私は縁佳と途切れることなく友達でいたい。それが青春を無為に過ごす私の、珍しく食欲以外の欲望だった。独占したいのかと言えば……そんな事はないんじゃないでしょうか。鏡裏の私に聞いてください。


「それよりも、私がその瞳にどう映ってるか、それが一番大切」

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