3-2

 眼鏡、それは目を大きく、そして知的に見せるアイテム、もっと端的に言えば簡単イメチェン装備である。今日の縁佳はそんなものを着用しちゃってる。透明感と光沢のある暗めの赤ふちの眼鏡だった。


 何かいいことでもあったのだろうか。夏休みに入ったのに、学校に来て生徒会の仕事とか文化祭の準備をして、それで心が躍るなんて……いや、単に視力が低いだけか。眼鏡とは本来、視覚の異常な状態を矯正する器具なのだから。私は思ったより馬鹿だった。こめかみでも押して、頭を冷やした。


 縁佳は生徒会の玉座に浅く座って、両肘を机に突き、両手を組んで口に添えながら、ノートパソコンの画面と激しくにらめっこをしている。しかし一体全体何の拍子でか、縁佳はせっかくの眼鏡を外しながら、おもむろに顔を上げたので、私と視線が交わる。あいやっ、別に恥ずかしくなるほど釘付けになってたわけじゃないからっ。野生動物と同じで、普段と違うものがあって、それで警戒してただけだしっ。


「ん、どうしたー?」


 縁佳は穏当にそう尋ねてきた。縁佳の周囲は凪が続いているのに、私の心臓はなぜだか派手に跳び回っている。とにかく縁佳の上に掲げられている、額装された格言に目線を逃がす。兎って漢字が入ってるから、きっといい意味だ。


 縁佳は軽く伸びをしたかと思うと、立ち上がって今度はこっちのソファのほうにやって来て、そして隣に座った。並んでみて、自分がいかに浅く腰掛けているかが浮き彫りになる。


 とどのつまり、私は緊張して体が強張っているのだった。縁佳は人間の分解能を超える遥か上の段に立っている。と、体育祭などの活躍を目撃した私はそう悟った。だから、ここで写真を送り合ってから1か月、特に何も起こらなかったけど、それが自然な状態であると確信していた。


 その間に私は、縁佳のことをずいぶん神格化していたようで、この有様である。まるで手玉に取られているようで、だけどそうしてもらえるだけ幸運でもあるのだろう。


「はーあ、難しいねぇ」

「ん……」


 とりあえず頷いておいた。ギロチンで処刑されても、それだけはできる気がする。


「あーそうそう、文化祭に有名人を呼ぼうという話になってね。島袋さんって好きなミュージさんとか、芸人さんとかいる?」

「ミュージさん?」

「そう。シンガーソングライターとかバンドとか。それなりに有名なら何でもいいよ」


 私に質問するのだけは間違えている、レプティリアンが人類を支配しているって話とか、坂上田村麻呂黒人説ぐらい間違えてる。でもせっかく聞いてくれたんだから、会話を弾ませるためにも、今どきの女子高生の間で流行ってる何かを言わないと……。


「茂出木浩司?」

「食べ物のことしか頭にないの……?」


 これは緊張して動揺して懊悩して錯綜した結果であって、本当に呼ばなくていいっていうか、米米CLUBとかBUMP OF CHICKENとかサカナクションとかKing Gizzard and the Lizard WizardとかMrs. GREEN APPLEとか放課後ティータイムとか人気バンドなんて枚挙に暇がないのに、私とっさの判断が弱すぎ、ぐるーぷでぃすかっしょんとやらで爆散する未来が見えるーっ。


「まあ、仮にいっぱい列挙されても無理だっただろうし、むしろ良かったかもしれない」


 不服を申し立てるように、私は縁佳の開き直った顔を、破れるほどに睨んだ。


「それでさ、そっちの仕事は進んでる?」


 対する縁佳はさっさと視線を外して、机の上のノートを瞥見した。そこには私の脳内の半分ぐらいが、文字と図によって書き起こされている。


 そう、あれは夏休みが始まる直前のこと。私は始まる前から長期休暇の終わった後の世界を考えるという、そんな厭世的なことは避けたいんだけど、どうやら文化祭があるらしく、その文化祭でクラスのリーダーとなってしまった……というか、縁佳に肩を触られ、アルカイックスマイルで圧倒してきた。


 縁佳の意向だから、ということでみんな、私みたいに馬鹿の一つ覚えに頷くばかりで、教壇に上がって所信表明をするしかなかった。


「んん……。せいいいいっやいがんがんばりまっするのでっ、ふつつつつかものっすがっ、最後まで応援……お力ごえっ、お願いします……」


 思い出すだけで身震いがする。せめて笑いものに昇華してくれればいいのに、顔あかーいって哄笑してくれたのは縁佳だけだったし。スマホの表面越しに映る自分は、いつもより余裕そうにしてるし。お前が出てこいよ!


 と、自分の虚像に訴えても意味はない。私だって一応ホモサピエンスやらせてもらってるんだから、鏡越しの自分ぐらい認識できる。まあでも、自分は自分でも、もしかしたら違う自分が映し出されているかもしれない。


 それで私たちのクラスはお化け屋敷をやることになった。みんな意外と気合が入ってて、ちょー怖いのを作ろうとしている。あとこれもまた意外かもしれないけど、私はお化け屋敷経験が豊富だ。というのも、昔から家族揃って入場させられるのである。絶叫マシンなんかもそうだけど、基本的に拒否権はない。だから不本意ながら肌に染みている。


 家にいても作業が捗らないのもあって、こうして夏休みでも学校に来て、今は必要な物のリストを作成している。さっき夏休みをありがたがるような事を言った気がするけど、実の所そこまで崇めてない。テストも無くて、課題の期限も遠く彼方なのはいいけど、家に引き籠もれもしない……私の家族はそういう人たちだから。


「まーモロックマもいるし。何とかなるか」

「ん-、今のところは……?」

「それは良かったわー。島袋さんがそう言うのって珍しいから」


 それよりこうやって学校行事に関わってるほうが希少だと思う。


 縁佳はこの部屋を私物化しているようで、特に遠慮なく私の隣でくつろいでいる。背もたれに寄りかかって、研ぎ澄まされたクーラーの冷気をゆっくり吸い込んで、休憩を満喫している。私はというと、それを流し目に見ながら、凍るように固まっている。


 だってあの平島縁佳がっ、横でっ、……ぼーっとしてる?んだから、仕方ないことだ。その気になって手を伸ばせば、くすぐったりつねったり何でもし放題な距離なのである。まあ何というか、私も誰かに畏敬の念をいだくことがあるんだなーと思った。だいぶ今更だけど。


「そうだー、お盆はどうするの?親の実家に帰るの?」

「ん……、多分」

「そうかー。ちなみにどこ?」

「北中城村」

「ほーん、何があるの?」

「でかいイオンがある」

「でかいイオンかー。……あんまり楽しみじゃなそうね。沖縄の食べ物は口に合わない?」

「美味しいよっ。食べ物に罪はないっ」

「じゃあ何だろう……向こうの人の気質が合わないとか?時間にルーズって言うよね」

「んー、ちょっとある」

「お風呂が熱すぎる?」

「気にしたことない」


 なんか面接みたいだった。だいぶ面接官がリラックスしてるけど。


「いや、分かるよ。純粋に楽しめないよね」

「ひっ平島さんも……なんかあるの……?」


 我ながら乱雑な質問だと思う。まあ、それでも踏み込みすぎというか、こういう時こそ聞き流せばよかった。


「私、あんまり家族と仲良くないからねー。しょーがない」

「…………そっそうなんだっ。大変だぁーっ」


 縁佳を形作る一つの部品を、私ごときがさらっと聞いてしまったので、焦り極まり一人で空騒ぎしててんげり。膝の上に置いた両拳に力が籠っていく。私は自分のノート辺りに目線を集中させて、何とか耐えしのごうとした。けど、挙動不審な私と同じ空間に居座れるほど、縁佳は寛容ではなかった。


「あの、大丈夫だよ。お盆は同じく大暇な奴と遊びほうける予定だから」


 そこらのうさぎより長生きしているのに、こうやって気遣われた時の善後策を、私は未だ身に着けられていない。結局、示し合わせるように沈黙が続き、クーラーの動作音が耳にまとわりつく。


 このままだとダメだと、何かが胸を内側から叩いている。まあ多分、力が注ぎ込まれすぎて、全身が軋み始めたんだと思う。それと、それとなく後ろから視線を感じる。なぜなら、うなじが特に汗をかいているから。


 私は腹をくくり、黒目をおそるおそる左に寄せていくと、縁佳が私の後方で目を丸くしているのが目に入った。縁佳はすぐにそれに気付き、小首を傾げながらそのまま手を振ってくる。


 ……さっさと目線を前に戻した。


「いいよー、その手の話は公にしてるから」

「そう、かもしれないけど……」


 縁佳は上体を起こして、俯く私を覗き込むように共感を持ち掛けた。


「奇しくもそこが同じかー。共通点って探せばあるものね。まあ、家庭に居心地の悪さを感じてるっていう、とても前向きになれない事ではあるけど……」

「な、なんで……」

「なぜかって?お年頃だから、それに尽きるんじゃない。……世の中、仲良しこよしな家庭のほうが少ないんじゃないかって、私は思ってる。うむうむ」


 そう所感を述べる縁佳の横顔は、これまた私にとって新鮮な涼しさがあった。そして縁佳の所感も、天啓などではなく、私がいだく稚気な本心に似ていた。


「文武両道博学多彩な私でも、そういう瑕ぐらい負ってるから。あんまり買い被ることもないよーっ」


 今度は、とても私にはこっぱずかしくて言えない八字熟語に、ふさわしい爽やかで私をも元気付ける笑顔を見せてくれた。


 別に疑ってるわけではないけど、私は今まで勝手に、縁佳が全ての事柄を如才なくこなせるものだと思っていた。それはある意味で間違ってなくて、家族と上手くいかない状態を上手く切り抜けていると、言葉遊びをしてみる。


 それでも一瞬だけ、私と同じくらいの段まで下りてきてくれた。だから、一体何だと言うのだろうか。神の造りたもうた存在のくせに、完璧な個体はいないとがっかりすればいいのか?


「島袋さーん」

「ふへっ!?あーうん、ふんふん」


 名前をふいに呼ばれてよく分からず、はちゃめちゃにBPMの早い曲を聴いているかのように、何度も高速で頷いていた。やっぱりおかしいので、縁佳はふふっと隠さずに笑った。


「ほんと、分かりやすいね」


 何を指してそう主張しているのか戸惑ったが、縁佳の双眸が指し示している。


「んー……、私が……?」

「そうだよー。言っちゃおうか?」

「ぃいいや辞めてっ。別にっ、一驚を喫したとか思ってないからっ!」


 自分の顔をてかてかの机に映してみる。そうは見えないけど、まあほっぺたがほんのり温かい気がするけど。縁佳の目にはサーモグラフィーが実装されているのかもしれない。


 頬に手を当てて固まっていると、縁佳はソファから立ち上がり、扉のほうへ移動する。


「そろそろ行かなきゃいけない場所があるから、私はここら辺で。うーん、一緒にご飯食べられなくてごめんね」

「んー、そっか……」


 そんなことまで気に留めてなかったけど、言われると侘しさがある。そんなことまで汲み取られたのか、縁佳は綺麗な歯を覗かせるような、自然なわざとらしい光り輝く笑顔をさっくりと見せつけた。


「あっ文化祭、期待してるよ」

「いやいやっ、それは……っ」

「そうだ。私、当日わぁーきゃー叫びたいから、準備の様子は見に行かないことしよう」


 指名したのはそっちなのに、一任するってそんな血も涙もない……。情けない命乞いをこぼす前に、縁佳は生徒会室を出て行ってしまった。


 扉のほうを向いたまま10秒ぐらい待ってから、私は腕も背中も脱力してソファに寄り掛かった。冷や汗が一転して枯れ始める。ソファの革に温もりを見いだせるほどには凍えている。


 自分には向いてないし、みんなの思い出を一つ消してしまうから、クラスリーダーから降りたかった。でも私は性格上、逃げることができない。それを見透かすように、縁佳は期待を追い打ちする。


 私には、これからたくさんの試練が降り注ぐんだろうなぁ。それを想像すると、もう一度冷や汗が滲み出てくる。だからここで、口を緩く開けて、やたらと悲観的になっている場合ではない。だけどもう少しだけこのまま、この部屋の空気に自分の憂いを混ぜていたかった。


 でも私は、縁佳の声と残滓が残る生徒会室で、少し得をした気分にもなった。この役を引き受けなければ、私はこうして縁佳と、もう一度雑談することさえ叶わなかったかもしれないんだから。うーん?雑談ざつだん……したかったのかなぁ。



 それから数日、最初に立ちはだかったのは、プレゼンテーションであった。実行委員や生徒会の前で、自分のクラスの出し物について構想を語る。その評価に応じて、場所決めや予算の配分がなされるらしい。


 それを知った時は、大切な人と共に街の夜景に別れを告げて、薄明に照らされる掴みどころのない青の中、新幹線で東を目指そうとも考えたけど、肝要な大切な人がいなかった。


 そんな戯言はさておき、さておかせてくれないと寝られない。寝れば否応なしに明日が来ると思ってベッドに入ったのはいいけど、腰とか首筋とかが擦り切れるぐらい寝返りを打つだけだった。目が冴えるどころか回りそう。タオルケットに巻かれて、物理的にも圧迫されていた。


 放っておくと体が熱を帯びて、ますます寝付きにくくなる。喉の渇きが限界に達して、足がキッチンへ自然と導かれる。他に誰も起きてないだろうし、冷蔵庫の一番上の扉を開けて首を少し突っ込んだ。冷気が頭からつま先まで全身を撫でていく。


 って、あんまり開けっ放しにして、食べ物が腐ったらまずい。さっさと麦茶を飲んで、一思いに冷蔵庫を閉めた。そして自分の部屋に戻って気が付く。冷蔵庫の中を照らす白い明りを思いっきり浴びたせいで、自分がまるで高原で迎える朝の潔さを感じているということに。


 寝転がることも諦めて、ベッドの上にぺたんと座ってぼーっとした。月明りもなく、眼が順応できていないのもあって、部屋が異様に黒く見える。色はないけどこの景色は、失敗してしょげた自分に突き付けられるそれと等しい気がして、光明を探らずにはいられなかった。


 私は現代っ子なので、身近な光明、スマートフォンを手に取っていた。


 時々タッチパネルを爪で弾く音を奏でながら、縁佳へ明日……今日の発表についての、そうでもない相談を送信した。しかし寝てるようで返信がない。まあ、心の準備というものもあるので、すぐに返されるとカエサルになってしまうのだけど。


 というか、本当に当日わぁーきゃー叫びたいらしく、文化祭に関しての相談は、悉皆はぐらかされている。


 …………本当は鬱陶しいと思われていたりしないだろうか。私が縋れるのは縁佳しかないって言い訳して、自分で地に足を着けて立てないほど寄りかかっている。毎日のように一方的にメッセージを送っているのを見返して、そう自省した。


 一旦はスマホを元の位置に戻すも、暗闇の中で気分だけが青天井に浮かれていく、まるでお化け屋敷の中にいるような眠れぬ夜に耐えられず、再びスマホを手に取っていた。目が悪くなるとか何とか、口酸っぱく言われようが、この光で忘れられるもの、和らぐものがあるのだ。


 スクロールするまでもなく、縁佳の下には常葉お姉ちゃんとの個チャがあった。そう言えば審査委員長であることを思い出す。生徒会長の座は一応、まだ常葉お姉ちゃんが持っているんだった。あの席はいつも縁佳が占有しているけど。


 それなら辛うじて用件が存在する。ぜひとも一票お願いします、と……これって公平性に問題があるんじゃないかって、送ってから一人で転げ回りたくなった。


 しかし私は、常葉お姉ちゃんがどういう人間なのかということが、高校生になってから関わりが薄かったからか、頭から抜け落ちていた。転げ回る隙もなく、夜更けでも構わず、疾風怒濤の勢いで電話してくる。


「一票どころかぁ、五票は入れるよぉっ!」

「ん……不正は良くない」

「一人一票じゃなくても、世界は回るよぉ?株主総会だって、ドイツ連邦だって」


 でももし、常葉お姉ちゃんの政治力によって、広くて入口に近い場所と多額の予算を獲得できてしまったら、私はしばらく疚しさを背負うことになるだろう。……だけどもそれは、私の胸が締め付けられるだけで、クラスの皆にとっては何も不都合はないのか。


 むしろ、清廉潔白を意識しすぎて、発想力と独創性で殴られ、成果を持ち帰れないことを危惧するべきだった。私だって罵詈雑言を受けたら、もっと自分のことが嫌いになる。そっちはどうでもいいけど、私に任せた縁佳が非難の的になるのは、それだけは絶対に良くないっ。


「わっ私、みんなの前で話すの得意じゃないけど、頑張るからっ」


 子の刻も後半戦に突入したのを忘れて、詰まるたびに取り返そうと声を張り上げていた。


「おぉー?いぃー気張りぃだねぇ」

「あでも……、頑張ったら一票はください……」

「えらい鏡花にはぁ、人生の先輩からぁアドバイスをあげるねっ?気合入れて死力を尽くせぇ!」


 夜の寂寞が舌に絡みついて、しばらく言葉が出てこない。たまにはお姉ちゃんらしい事も口走るんだなぁと思った。体育祭の時みたいに、死力を尽くすって言葉は、どちらかと言えば私のものなのに。


「それよりぃー、交換しない?」

「うん?何を」

「帰省だよぉー。私が鏡花のばっちゃまの家に、鏡花が私のばっちゃまの家に行くの。しれっと入れ替わったらぁ、みんなびっくりするだろうなぁって」

「確認してみる」

「えぇ!?」


 私は常葉お姉ちゃんを踏み越えた回数が、数えきれないことに気が付いた。だから、なんとでもなる……と、闇の中で一人ガッツポーズを取ってみたり、通話を終えてから、露程も緊張が解けてないことに絶望したり。



 白くそびえる雲さえも突き抜ける蝉の声と、コンクリートから這い上がる熱で、視界が霞んで思考がぼやけて、緊張を紛らわせたから、学校に辿り着くことはできた。だが、冷房のよく効いた会議室に足を踏み入れると話が変わる。私の覚醒を妨げていた眠気さんはシャイらしい。つまり私が人嫌いなのである。人がいっぱいいると心が休まらない。


 そんなに厳粛な場ではなくて、むしろ雑談で騒がしいぐらいだった。当たり前だけど、大方の人にとっては試練ではないのだろう。なのに一人だけ、様子のおかしい人がいる。自覚はしてる。周りに緊張してることを悟られたくないから、とりあえず入口に程近い席に座った。


 スカートの裾を強く握りしめて、極力動かないように努める。何となくたまに息を止めてみたりする。それでも、ついに横がざわついてきたら、一人称が騒がしくなった。


 向かいの長机に数少ない知り合いの姿を探してみる。縁佳はいなくて、常葉お姉ちゃんは普段通りおどろおどろしい人と一緒……と。縁佳や常葉お姉ちゃんみたいに顔が広ければ、そこそこの知り合いと雑談でもして、気を紛らわせることができるのに……。無い物をねだっても仕方ないので、気合を入れて死力を尽くすことにした…………具体的にどうやるの?



「少し、落ち着いた?」


 喉は清らかに潤い、細胞が活動し始めるのが分かった。それに加えて背中では、カーテン越しの夏の日差しだけで説明できないほどの温もりを感じる。しかし心ここにあらずから帰還した私は、それを易々と受け入れられなかった。藻掻くのを諦めて、海に沈んで楽になることは決してできない。それが私の宿痾である。


 経験ないけど、私はスーパーの特売を思い出した時のように立ち上がった。パイプ椅子が大きく音を立てる。


「うおっ、違うよ、すごいふさふさだぁーって、無邪気におじいさんの髭と同じ感覚で撫でてたわけじゃないよ」

「無邪気なら弁明しなくていいのでは?……大丈夫?」

「記憶がないなら手の施しようがないじゃないbyマリ・アン」


 自分の発表の記憶がじわじわと蘇ってくる。早回しになったり、コマ落ちしたり、今さっきの記憶とは思えないけど。


 たくさん噛んだ。動揺してレーザーポインターを審査員に照射した。質問に好きな黒毛和牛を返した。啖呵を切りすぎて1分で発表が終わった。転んで額を椅子の角にぶつけてたんこぶを作るどころか、プロジェクターのコードに足を引っかけて切断した。


 散々が燦々と輝いている。私はたんこぶを確かめるように額を丁重に撫でながら、ゆっくりと腰を下ろした。


「スキャットみたいな発表だったな……えぇっ、褒めてるんだよ!?」

「あ、うん、あなたの熱意は伝わったみたいで、なんと10万円も手に入りましたー」

「え……、はぇ?」

「大事なのはね、パッションなんだよ!」


 先ほど私の髪をぺたぺた指で梳いていた活きのいい人が、両拳を胸の前に構えて、目線を合わせて、そんなことを言い放った。私はもう一度、朦朧とした頭を限界まで振り絞った、間抜けな声をこぼした。


 後から仄聞した話によれば、やる気のあるクラスへ優先的に予算を割り振るための、アピール合戦だったらしい。だから私が入念に準備を整えて、本番に全部台無しにしたのが功を奏したんだとか。もしかして縁佳は私を手駒に……勘繰りすぎかなぁ。


 とりあえず、会が終わっても私の面倒を見てくれた同じクラスの二人には、体を回転させて頷くように感謝の言葉を渡した。


「ありがとう……」

「まあまあ。逆だよ逆。我が勝ち取ったんだぞーって、あなたは皆に少しぐらい威張ってもいいと思う」

「それは……文化祭が終わってから。これは通過点なわけだし……」


 つい自分の指と指を交差させながら、目線を逸らして話してしまう。要は、私は人と普通に話すことすらままならない。


「真面目だねぇー。よっすーに頼まれるだけある」

「真面目な人に真面目だって言うの、不毛だから勘弁してあげなって」

「いや、率直な感想を述べたまでなんだけど。あっ、全然悪いことじゃないよっ。学校行事に真剣に取り組むのって」


 水色と白色の絡まったリボンが目立つ方は、そう言ってご機嫌取りに微笑む。気を遣わせていることに危機感が迸った。何とかご機嫌なことをアピールしないとっ。そうだ、表情が硬いんだ。口角を上げてスマイルスマイル……頬が膨らんだ。


 ぬあーっ、いつもこうだ、一見不可解な仕草で周囲を惑わしてしまう。カーテンのように後ろ髪を掴み横顔を覆いつくして、この場をしのごうと試みていた。なんでこの人たち早くどっか行かないんだと、あくまで頭の中で文句的な何かをぶつけてみる。


 はわはわしてると、救世主たる縁佳が様子を覗きに来た。もう一度、スーパーの特売を思い出したかのように、私は弾みを付けて立ち上がっていた。


「どうだったー?」

「文句なし異議なし」


 後ろに立ってる方が手早く答える。


「それは良かった。島袋さんはもう帰る?」

「えっ、あーうん……」

「じゃあ帰ろう、バス停までだけど。二人は部活頑張ってね」

「うぇー、代打よっすーカード切ろうかなぁーっ。暑いし」

「本当に必要な時まで取っておきなよ」

「はいはい。あと2枚か。誕生日までもつかな」

「何それ私も欲しい」

「モロックマにはちゃんとした誕生日プレゼントをあげたいんだけど」

「うおー、期待で破裂しとく」


 立ち上がったまま微動だにしない私に、縁佳がここでようやく目線を送ってくれる。それでようやく解凍された。まだ準備すら始まってないけど、三大中華街食い倒れツアーでもしないと回復できないぐらいには疲労が溢れる。どうして新潟には中華街がないんだ。今は無性に中華料理が食べたいんだ。なんて、背後から何の前座もなく、縁佳に欲望をぶつけたらどうなるんだろう。うん、私が一段戻るだけか。


 せっかく一緒に帰ろうと誘われたのに、特に会話が弾むことはなく、私が縁佳の斜め後ろをてけてけと付いていくだけである。……いつかは改善したいけど、それは今じゃない。


 校舎から出る五歩前から、頭がおかしいぐらい熱いしうるさい。今日は散々な目に遭ったのにそれでも、校舎に戻りたくなってしまう。縁佳も華麗なターンを決めた。


「バスが来るまで中で待とうか」

「あと3分がもどかしい……」


 ちなみに校舎の中央は無駄に吹き抜けになっていて、それにガラス張りなので、外よりはマシ程度だったりする。バスを逃すと面倒なので、そこら辺の壁に寄り掛かって、一緒に時間を潰した…………もう蝉しか聞こえない。


「どうかした?」


 睥睨してたら、ようやく人間の声が耳に入ってきた。


「あ、何でも……ないの?」

「まあ、何でもないね」


 何でもないんだ。


「だって、つぶさに聞いたら、ネタバレになっちゃうし」

「うん」

「島袋さんもやればできる子ー」

「ん……、そうなの?」

「だから、楽にしよう、楽しそうにしよう。自分だけ茨の道を進まなきゃいけない、特別な人間ってことは、きっとたぶん無いはずだから」


 縁佳は人生のアドバイスみたいなものを、どこか遠く、例えば空に向けて、よどみなく言い連ねて見せる。さっきまでの先から見下ろす感じとは打って変わって、澄んだ横顔がとても印象的だった。あっもちろんいつもなめられててムカついてるとかじゃなくてっ、いつも手を引いてくれてありがとうって思ってるから!


 おっほん、それはそうと、そうか、そうなのか?私は茨に痛がっていた……らしい。顧みてみたけどむしろ、ぬるま湯が薄く張られているような人生というのが、言い得て妙である。試練から招かれたことなんて無い。


 私は反論しようと熱々の空気を溜めるも、その前に縁佳が壁から離れた。


「そろそろ時間だから行こう。まあ一旦は、お盆休みを満喫しなね」


 縁佳はそう言って、私を日の元へ先導していく。これ以上、語る必要もないということだろうか。標高の違いを再認して、私は率直に頷いて後を追いかけた。


 私は目の前のことを片付けるのに精一杯だけど、やっぱり縁佳には深邃な謀略がある……のかもしれない。でも、縁佳の手のひらで踊るのは、悪くない……というのは嘘嘘、首を縦にじゃなくて横にぶんぶん振った。



 時々学校に来て文化祭の準備をして、家でも心理学とか行動科学とか色々調べて、それで高校1年の夏休みは幕を閉じた。まあ、親の帰省に巻き込まれたり、児玉家とレジャーに興じたりした記憶も薄っすらあるけど、早くも例年の記憶と混ざりつつある。


 白高の文化祭は九月の第一週末に行われる。だから新学期が始まってからが正念場、私は久しぶりに我を忘れた。働き者の蟻のように這いずり回り、汗をとめどなく流す。働いてるなぁーという実感がある反面、これで縁佳を怖がらせることができるのか、というか当日までにこんなに壮大な計画を完遂できるのか、そんな懸念がよぎる度に、余計に冷や汗が滲む。


 部屋の隅の椅子に座って、雰囲気作りに置く竹の角を安全のため削っていると、クラスの人に話しかけられた。慌てふためいて、落とした竹が足の甲に突き落ち痛みが走る。


「島袋さーん、天井の暗幕って……」

「うわわわわ、今やりまするるるる」

「いや私やるよー……聞いてないか……」


 今度は舌を切った。でもそれくらいは、身を粉にする第一歩として気にしないことにして、床に無造作に重ねられた暗幕を手に取り、黒いマスキングテープを腕に通して、脚立の最上段に立った。


 しかし私は取るに足らない身長しかないので、筋肉が張り裂けそうなぐらい手足を伸ばして、ようやく天井に手が届く。脚立が心霊現象のようにカタカタと音を立て続ける。いつバランスを崩すかわからないので、なるべく早く終わらせたいけど、隙間ができたりたわんだり、上手に貼り付けられない。


 腕が悲鳴を上げている。指が満足に動かなくなってきた。さすがに一回休んで作戦を練ろう。そう思って肩の力を抜いて、後で貼り直すために暗幕を引っ張ると……ちょっうおわっぎゃー。


 尻を床に打ち付け、一拍遅れて伝達される痛覚に、目と口をぎゅっと縮める。全身を強張らせて抑え込もうとするも、次々に援軍を送り込まれて、その場で悶えそうにもなる。腕の筋肉はさっき酷使したのもあり、患部をさすりあぐねていて、打ち付けた部位がどんどん熱を帯びていく。


 いっってぇと小さく呟かれたのが耳に入る。それで私は周囲の状況を理解した。私の肩甲骨が、下で四つん這いになって、厚紙の長さを計測してた人に突き刺さったらしい。周りの人たちの視線も釘付けにしている。はわわっわわわっ、私はおぼつかない足取りで立ち上がり、その人に何度も頭を下げた。


「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。あっえとっ、お怪我は無いですか無いですか無いですか…………やっぱごめんなさいっ」


 頭を下げたまま目を微かに開いて瞥見すると、ぶつかられた人は渋い顔つきで、のっそり立ち上がっていた。10対0で私に非があるので、されて当然ではあるんだけど、威圧感を下降気流のように押し込まれて頭を上げられない。


 みんな作業を止めて、こちらに注目している。物音は消え、空気が一切対流せず、ずっと一か所に滞っているような感覚。それは集団の持つ凄まじい力で固定され、私が呼吸で乱すことも叶わない。


「もっと周り見てよ。自分一人で怪我するのは勝手だけど、他人を巻き込んだら面倒だよ」

「はい……」


 低い声で叱られる。そして私の蚊の鳴くような返事は、重苦しい空気にさらなる貢献を果たす。


 こういう経験は何度もあるけど、正しく反省できたことはたぶん一度としてない。どうしたらいいのか、心臓をばくばくさせながら突っ立っていると、そのうち先ほどの水色リボンの子も右側に並び立って、私を圧倒してくる。


「そもそも、頼んでないんだけどー。できないなら私がやるから」

「はっはい」

「はぁー、結構ひりひりする」

「あっえっ、肩をお揉みしましょうか」


 はきはき返事しても足りなさそうだったから、変な提案が滑り出た。私は何を言ってるんだ取り消したい五分前に戻りたい……。事態はどんどん悪化していく。私が謝罪の言葉を喉元で順番待ちさせていると、二人はこちらに聞こえるように潜潜話を始めた。


「ねー洞窟ちゃん、この人だよね?」

「あーそうだよ。だいぶ前の話だけど」

「うーんと、あの先輩も……酔狂な趣味をお持ちというか」

「こまっしゃくれてはいるけど、でもそこがいいんじゃん」

「それに引き換え?」

「いやまあ、どうして射止められたのか気になりはするけども……」

「ちょっとは身の程を弁えたほうがいいよ。あんたを無条件に擁護してくれる人は、もういないんだから」


 突然自分に向けられる落ち着き払った声に、私は逃げ場を失う。そして時雨との短い日々の記憶を重ねて、私がとことん浅ましい人間だと実感させられる。私はそんな動機で、好意を寄せていたんだと。


「あーあ……。それは言い過ぎだって」


 もう一方の人は、ある種の失言に眉をひそめつつ、私のご機嫌を取ろうと、目線で理解を要求してくる。以前も、こんな風に腫れ物のように扱われた気がする。


「えー、事実だし」

「とっとにかくね?あなた一人が全力を挙げるより、他の人に指示を投げたほうが、効率いいし怪我もしなくて済むからさ。まー、休憩したらっ?」

「うんうん、果報は寝て待てとな」


 同級生なんだから、多少ムキになったりしてみてもいいのかもしれない。けど後々、人を殺したみたいな罪悪感と絶望感が襲ってくるのが目に見えている。それで目を伏せたまま、私は固着して動けなかった。


 私はきっと、裏でも言いたい放題されているのだろう。こんな使い物にならないリーダーに、どうして付き従う道理はないとか、思い出を削られたくないとか。めくるめく熱々の毎日で、俯瞰が頭から抜け落ちていた。


 自分は縁佳みたいに、リーダーできてない。私よりも皆のほうが、常識とか社会性とかを持ち合わせているから、これまでトラブルが露呈しなかっただけなんだ。と、自省してみるも、それは相手に伝わらない。でも何とか伝えないといけない。壊れたロボットのように息を吸い、喉に力を籠めて……何かを言葉にしてしまおうとした。


「はーい、喧嘩というかいじめはお辞めくださーい。もぐっ、ひまわりの種あげますんでー」


 縁佳の声ではなかったけど、不思議と聞き馴染みのある声が私たちを包む。それは、凝り固まった空気を打開するだらけた呼びかけで、吸った空気が音もなく吐き捨てられてしまう。


 ひまわりの種につられて顔を上げると、ギンガムチェックのカチューシャを装備して、腰に薄い杏色のカーディガンを巻いている人が、右の人の首元で手を交差させて、背中に体重をかけていた。宣言通り、ジッパー付きの袋の中には、パンパンにひまわりの種が詰まっている。あぁ、縁佳によくツッコまれてる人か。


「イライラしすぎですよ。カルキが足りてないんじゃない?」

「それを言うならカルシウム」

「日本の水道水を煮沸してから飲むような繊細さが、貴殿を生きにくくしてるんじゃない?という意味ですが」

「は?」


 首を傾げられたのに、ふはは、とはっきり発音した。


「誰も怪我してないなら、それでいいじゃない。小学生みたいな揉め事を起こさないでよ」

「何だと!私を踏ん付けたの、反省してないんだな!」


 なんか向こうで寝っ転がって作業している人から横槍が入った。救世主様は振り返って、ムキになって怒声を返した。


「邪魔なんだよ!なんでふてぶてしく、部屋の真ん中で寝そべってんだ!猫か、猫なのかっ!」

「てめーがミケミケ呼ぶから、みんながネコネコ呼ぶから、猫っぽくしてるんでしょうが!」

「うるせえ、仕事しろ!」

「あ?だから犬小屋の裏にスライムを張り付ける作業で忙しいんだよ!」

「だから誰もそんな所に手を突っ込まねーよ!」


 みんなのボケ役はすっと顔をこちらに戻した。


「空気を悪くするのはやめてね。楽しくやろう」

「じゃあモロックマ、この子を見張っておいてよ。危なっかしいから」

「言われなくても、君のことはずっと見てる、ぜっ。…………でも、学校から帰った後は見てないよ」


 モロックマとかいう変な人は、右の人をぱっと控えめに突き放し、逆に私へラブコールを送ってきた。そこに追記を与えると、変な人度合いが増す。でもそんなモロックマに諭されて、二人はどこかに去っていった。そして、他の人も作業を再開する。これで秒針も気兼ねなく秒を刻めるだろう。


 しかし結果的に私は、見ず知らずの情け深い人の威を借りて、仮初の無事を獲得したのである。罪は晴れてないし、クラスの不和は加速したし、何より自分が、泣いて先生からの支持を取り付けるような卑怯者な気がして、堂々とここに立っていられない。


 自分の肩の辺りの髪を摘みながら、床に散らばる紙屑を数えてみる。やっぱり居た堪れないので、このまま帰ってしまおうとか思って、実際に一歩目が出た。


「腰、痛くない?」

「ん……」

「無理は良くないよ。痛みが引かないようだったら、保健室に行こうね」

「……大丈夫だから」

「ならよし。手、出して」


 そう言われたので、恐る恐る両手を、水を掬うように出してしまうと、ざらざらとひまわりの種が、私の手の上で山積みになった。そうなったら仕方ないので、一粒残らず一気に口に入れ、二人揃ってもしゃもしゃと咀嚼する。飲み込むのには、それなりに時間がかかった。


「聞いていた通りの健啖家だー」

「うん……?」

「そうでもないみたいに頷かないでよ。そうでしょ」


 でも同量のひまわりの種を頬張ってたじゃん。


「喉、乾かない?」

「うん、かなり」

「じゃあ飲み物を買いに行こう」


 モロックマという人に連れられて、1階の自販機コーナーを訪れる。ここに来るのは二度目だった。前は時雨に校内を案内してもらった時である。他の階に比べ品揃えが充実してたり、お菓子が売ってたりするらしいけど、たいがい当校比怖い人がたむろっているので、近寄らないようにしていた。今日は文化祭の準備で、そういう人ははけている。


 私は一度ドクターペッパーを味わってみたかった。ので迷わず押した。


「通だね。美味しいの?」

「うん。賢くなれそうな味」

「どんな味だい……」


 薬っぽくて美味しい。やはり人間は何でも一度は口に入れてみるべきだ。癖になってくる。


 私たちは背もたれのないベンチに座って、飲み物とひまわりの種を片手に、大きな段ボールに張り付くように運ぶ人、行って帰ってきたせわしない人など、行き交う人たちを眺めながら、時間を無駄にしてみる。私はそれで満ち足りていたのに、大慈大悲か強迫観念か、明後日の方角を見つめながら話しかけられた。


「そういやぁー、こうやってサシで話すのは初めてだねぇ」

「んー……」

「私の名前って知ってる?」


 人差し指で自分を指してそう尋ねられた。度々縁佳の傍でお目にはかかるけど、どういう人なのか知ろうとしたことも無かった。言葉に詰まっていると、意気揚々と、あんまり分かりやすくない自己紹介が始まる。


「ふふふーん、諸葛亮の諸に、曹熊の熊に、王陽明の明に、李世民の世で諸熊明世といいますっ。秋生まれなのにあきよじゃないよ、はるよだよっ」

「ん……」

「反応薄いねぇ。しーまちゃんっ」


 初秋に咲く満開の笑顔と共に、明世は私のあだ名を吹き込む。無論、そういう経験はなくてどぎまぎしてしまう。こういうノリは苦手なんだ。まあ逆に、どういう波なら乗れるんだって指摘されると、黙り込むしかないんだけど。


 体を前に向けて、缶を口に当ててちびちび飲んで時間を稼ぐ。でも時々、流し目に明世の様子を確認してしまう。その度に明世は口角を上げて応じてくれる。申し訳なさと、このまま凝視され続けると溶けそうになるので、缶から唇を離して、もう一回明世のほうに上半身をねじった。


「はいっ」


 反応が薄いとのことだったので、意識的に口を動かして、はっきりと返事をしてみた。目線は合わせられなかった。


「……いい返事だー。孫の顔を思い出すー」


 からかうように笑われるかと覚悟してたけど、さらり?とスルーされた。そして明世も姿勢を正して、神妙な面持ちで言葉を紡ぐ。


「これを聞いて引かないでほしいんだけど。実はずっと、しまちゃんに自己紹介する機会をうかがってたんだよね」

「んー、どうして……?」

「特別な意味はないよ。同じクラスだし、がすよとよく話してるし。友達の友達っていうもどかしさが無くなるじゃん?」

「そう」


 話しかけにくかったのか、そうか、そうだよなぁ。しかしここで一顧してみる。これまでも私に話しかけてみたかった人がいたのではないかと。うーん、無いか。あったとしても、私と肝胆相照らせるとは思えない。無益な時間が流れなくて良かったのだろう。


 一方、明世はたくましく、まだ会話を続けようとしてくる。私の定型句による相槌に、そんなに価値があるのだろうか。私たちの前を、神輿やアメリカバイソンの群れでも通れば、気が逸れていいのに。そんな事を割と本気で願いながら、明世の瞳を追いかける。


「しまちゃんは、がすよとはどうして仲良くなったの?」

「それは……それは、正確に言葉にできないから……」

「内緒?」

「内緒」

「んーまーそうだよなー。きっかけって、ある方が珍しいよなぁ」


 明世は自分の顎に手を添えて、光を失いつつある思い出の中を巡っている。私は今のところ、全部の出会いにそのきっかけとやらがある気がするけど。


「しかし、良い奴なのか悪い奴なのか、判断に困るよなぁ」

「悪いってことは無い……と思う」

「しまちゃんからクラスリーダーになりたいって言ったの?」

「ん?違うけど」

「じゃあ、すーぱーなちゅらるぽじてぃぶ人間だね」


 縁佳が私をクラスリーダーに据えたのは、何か意図があって、でもそれは私の成長?みたいなのに繋がることでもあって、それに縁佳の期待に応えないといけないし、こんな私に縁佳は期待してくれてるらしいし、だからこの責務は挫けないでちゃんと全うしようと、天に向かって誓っただけだから、ポジティブでも何でもないし、縁佳は良い奴っ。


 よくもそんなに舌が回るなーと思った。正直な性格を恨む余裕もなく、あわあわおろおろしていても、明世は視線を送れど穏やかな面貌を崩さない。


「がっ頑張りますっ。頑張るので……未熟者ですが上手にクラスをまとめられないけど……頑張るのでっ」

「がんばれー」

「なんか分かんないけど、がんばれー」


 気怠そうな応援が二回飛んできたので、顔を上げて横を向くと、猫みたいなクラスメイトがサムズアップしていた。ますますボルテージが上がってきて、まだ中身が入ってる缶を潰しそうになるし、唇を切りそうなぐらい噛んでしまう。便利な後ろ髪で自分の顔を覆いつくしちゃいたい。


「ミケ?どうかしたの?」

「いや、我が家の瓦をひっぺがえす許可が下りたので。明日持っていくよ。それだけ」

「すげー許可……」

「あぁ、島袋さんはよくやってると思うよ。君がいないと、匹夫の勇しかないこのクラスは、何も完成させられないから。そいじゃ、私は金切り声をサンプリングしてくるー」


 私は肩を丸めて身震いを確かに感じる。心穏やかに保てるわけなかった。お世辞ならお世辞と言ってくれても、体の芯は構わず融解していく。こんな事で赤面して、変だと思われたらどうしよう、すでに手遅れかもしれないけど。


 ミケが去っていく後ろ姿を見送ることなんて……うお、ドクターペッパー買ってる。一口飲んで首を傾げた……。それでようやく、ゆっくり清澄な空気で気持ちを入れ替えられると油断したら、明世の声がよく通ってびっくりする。


「そろそろ、私たちも戻ろうか。やることはいっぱいあるし」

「ひゃっえっうん、うんうんうん」


 体が熱い。それを冷やすかの如く、私は残りのドクターペッパーをあまり味わうことなく飲み干した。


「ところで、本当にしまちゃんとかいう凡庸なあだ名でいい?タケミガキヅチとかがいい?でもあだ名って4文字以内がいいんだよなぁ」

「ん……、お好きにしてください……」

「ほな、しまちゃんでいっかー」


 でもやっぱりあだ名は落ち着かない。果たしなく本名から遠ざかったあだ名なら、そもそも認識できないからこんな心持ちにならないだろうけど、しまちゃんって、島袋の島だから、否応なしに反応してしまう。


 伸びをしながら立ち上がる明世の後を追うように、私もベンチを発った。背中を私に押されて、意識が一瞬飛ぶぐらい激しく、明世に深々と頭を下げる。


「あっありがとうございますっ」

「んむむ?何かしたっけ」

「その……助けて?くださったので……」

「あーね。困っている人がいたら助けますよそりゃ。それがノブレス・オブリージュってやつらしいので」


 うふふと明世が上品に声を出して微笑む。この人は竹を割ったような性格なのに、どこか掴みどころが無くて、まあ私が掴んでいい場所なんてどこにも無いんだけど。でも心優しさを心得ているから信頼できる。……向こうから近付いてきた人、全員に対して諸手を挙げて信頼してる気がする。


 そう言えば体育祭の時も、逃げようとした私を縁佳の元に送り届けてくれたんだっけ。他の誰かだったら、私はもっと抵抗していたかもしれない。あでも、ということは泣き顔見られてるかもっ、うわぁーっ。


「ところでひまわりの種飽きたな。みんなに配るか?でもキットカットに比べて、あんまりウケが良くないんだよなぁ」


 私は歩幅を大きくして明世に追いつき、ひまわりの種の袋をかっさらう。


「私が全部もらう。やけ食いだ」

「うぬぬ、冬眠に備えてるのかな」

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