第3段:アルルカンの黒い瞳

3-1

 梅雨が明けて、空の青さとは対照的な逃げ場のない暑さが台頭する夏が始まる。比喩ではなく、家がせいろのように熱々で蒸されてしまいそうになる。家の外に関しても、空気からすでに光り輝いている。眩しいので目も雨戸も開けたくない。


 それで、そんな日に外出したいわけ無いのだけど、家族行事には逆らえない。兄も多忙なはずなのに、この三連休は珍しく新潟に帰ってきた。そうなると私の親は、常葉お姉ちゃんの家にも連絡して、一緒にどこかへ出掛けようとするのである。


 家族の馴れ合いに付き合わせないでほしい。……腹百分目まで食べられる?それなら重い腰と諸手を挙げて行かないこともない……。昔は泣き喚いても、力の差で強引に連れていかれたものである。それに比べると最近は言葉巧みに騙されて、まあ畢竟連れていかれている。


 うちのミニバンに両家の人間が押し込まれる。いつもは常葉お姉ちゃんが隣にいて、何となく心を穏やかに保てていたが、今日に限って常葉お姉ちゃんは不在だった。一番後ろの席に兄と常葉お姉ちゃんの姉と共に押し込まれ、物理的にも肩身の狭い思いをする。


 前の席では父親同士、母親同士で会話が弾んでいる。こちらの席では兄と常葉お姉ちゃんの姉で、表側の世界の話が繰り広げられている。私は……窓の下に肘を突いて、窓の外を眺めて黄昏れた……そんな時間ではないんだけど、この体勢にこの目つきではそうなってしまう。


 窓に映った自分と会話していることにしようそうしよう。よく思索を巡らせてみると、私の厳密な心境と顔に出た表情は一致しないように見えた。これじゃあ、何を信じればいいのか分かったもんじゃない。


 わがままな部分が頑なに進もうとして、自己嫌悪が踏みとどまらせる。それぞれがその時々で暴走して、明るい道から逸れていく。気が付くとそれを補うように、まばゆい光の粒を指にまとわせようとしていた。その粒子は儚く、すぐに光を失って消える。まあ、ただのチンダル現象だもんねぇ……。


 着いたのは砂浜だった。別に踏んでも不思議な音はしないし、ガラスが撒かれているわけでもないし、砂が星型というわけでもないし、いたってありふれた砂浜だ。ここでバーベキューをするらしい。


 私はすぐに、見栄えしか考慮してない影の小さいテントの下で頼りない椅子に座り、潮の香りというやつを吸い込んだ。その程度で胸のつかえは取れないけど、非日常は味わえた。


 ついでにさざ波の音にも耳を澄ましてみたいけど、それは賑やかな団欒によって無かったことにされる。横を瞥見すると、常葉お姉ちゃんの姉が兄と濃密に絡み、その様子を4人の親の立場にある人が見守っていた。


「あと1年かー。あと1年だねぇーっ」


 常葉お姉ちゃんの姉は兄にそう言いながらにじり寄り、缶チューハイを開ける。そしてそれを、兄の顔に当てて……誘惑?している。


 その後、飲んでしまったのかどうなのか、私は何も見ていないので知らないとして、とりあえず肉が焼きあがるのを、青海原はこんなに茫洋としているのに、仮に両手を広げても妨げるものは何もないのに、やっぱり肩身が狭そうに待つことにしよう。


「きょーかちゃーん、やっほー」


 その挨拶というより、獣の匂いで振り返ると、焼き肉が野面積された紙皿を、常葉お姉ちゃんの姉が運んできていた。ここでようやく、彼女とじっくり対面する。中傷するつもりなどは全くないけど、以前よりも髪色が明るくなったり化粧が濃くなったり……大人っぽくなった?


 まっ、他人の境遇の変化よりも、美味しいお肉のほうが大切だ。皿と割り箸をしゅばっと掻っ攫って、さっそく一番上の肉厚な肉を口に運んだ。塩胡椒だけでなく、擦り込まれたスパイスがたまらない。噛むほど溢れる肉の脂が、私に生の実感さえも与える。家族で出掛けるのは気乗りしないけど、メリットが全くないわけでも無い。この世に100%悪なものはそんなにないから、生きるのって難しい。


「あー……、もう少しにこやかに取りなよ。ちょっと怖いよ?」


 常葉お姉ちゃんの姉は隣の、これまた不甲斐ない椅子に座って、苦笑を浮かべていた。メリットは肉を食べられることだけ。お代として最低限のコミュニケーションが求められる。でもいつも、電子決済が対応してなくて踏み倒している、気がする。


「昔からそうだよねー。あーうん、いいんだよ、食べて食べて」


 どこかの伝統芸能のように、水をすくうような手で食指を促してくる。が、もちろん目は笑っていない。焼くのを手伝えとでも言いたげである。まあ私がその通りにしたところで、効率が下がり、友愛の輪がほどけるだけだ。これが常葉お姉ちゃんの姉なりの優しさなのだろうが、私はそういうのを素気無くあしらうことしかできない。


 常葉お姉ちゃんの姉は私の横顔をじっと見据える。少し上品に食べないといけない気がして、喉に筋を詰まらせそうになった。


「もう高校生になったのか。あっ彼氏できた?」

「無い」

「えぇー、無味乾燥だなぁー。いつも思うけど、表情に変化がないんだよねぇ」


 常葉お姉ちゃんの姉は私の短い返答に対して、腕と脚を組み高らかに笑った。しかしすぐに私の何かを覗き込むような、般若みたいな表情に変貌した。ますます食べにくくなる。


「友達ぐらい作ったらどうなの。常葉以外の」

「いるし」


 縁佳はカウントしていいんだろうか。友達トモダチだちだち……そう言えば体育祭直後に写真を送り合って以降、さっぱり話していない。まあ仮に話しかけられたとして、冷静さを欠かずに相対できるかと言えば、全くそんなことはない。


 体育祭での縁佳の三面六臂な活躍は、良くも悪くも私との距離を広げた。いやそもそも、最初から相手にされてなどいなかったのではないか。そんな気がして、でも貰った優しさはちゃんと覚えていて、そのギャップに怯みそうになる。


「本当に?」

「いっ……物は言いよう……」

「お肉に語り掛けてどうするの……。そんなに考えてそんな結論なら、友達じゃないんじゃない?」

「ん……」

「首を縦に動かすジェスチャーは、日本だと肯定を表すんだけど?」

「と、友達だしっ。私だって、昔よりは成長した……んじゃないでしょうか……」

「そう、そうねぇ、そうかな?」


 なんか胸元に視線が照射された気がした。でも横を向いた時には、常葉お姉ちゃんの姉は立ち上がって、あっちのグリルのほうに向かっていた。


「どこで差が付いたんだろうね、お兄さんと」


 潮風に揺れるTシャツ越しに浮かぶ、軽薄で逞しい後ろ姿に、箸が止まるような色々な過去を掘り返されてしまった。



 肘まで冷た……くもない、若干ぬるい水に浸かっている。それでも夏場は快適だ。しかも清涼感を得られるのに加えて、水槽を綺麗にすることができる。立方体状のスポンジで、徹底的にガラスを磨き上げていく。本当は毎日でもやりたいけど、金魚にとってはストレスなのでそうもいかない。


「てきとーでよくなぁーい?」

「うんうん、わたしもそうおもーう」


 後ろに気を配ると、同じ生き物係の二人が、この金魚みたいなあくびをしそうに、退屈そうにしていた。うーん、何度見てもこの金魚は恰幅が良過ぎる。鯉に混ざってたとしても微塵も違和感がない。生き物係の使命感で、つい餌をあげすぎてしまう。それは私も例外ではなく……。


 二人と王魚を見比べていると、片方の子が水槽を覗き込んでくる。


「いつまでやってるの?」

「えぇっと……綺麗になるまで」

「もう十分だよ。早くかえりたいー」

「わたしも、遊ぶ約束してるの。だからえっと、早くしてほしいなーって……」


 とは言っても、金魚のお世話をするのが生き物係の使命であり、そのためには多少なりとも小学生なりに頑張らないといけないと思う。そもそも二人は「なんか、ぬめぬめして気持ち悪い」と言って、最初の一回以後、突っ立ってるだけである。


「先帰っちゃおうかな」

「ダメだよ、先生に怒られるよ」

「めんどくさぁ。来年は別の係やろーっと」


 段々、二人の言葉が強くなっていく。友達も何もない私に対しては、どんなことを言ってもバチは当たらない。私もそれで傷付きはしない。けれども、私みたいな惨めな奴が誰かを傷付けるのは、……それも良くないと、水面に映った自分が応答した。


 だけど私は、水槽から手を引き揚げる決断を、いつまでも渋っていた。心臓が揺れて、水面に微かな波紋を描くぐらい手が震えて、それでも凝り固まった前頭葉は碌な采配を下さない。それどころか、春巻きの皮みたいな胸鰭に、気まぐれに腕をくすぐられると、もっと掃除しようという気分になる。


「じゃぁー、帰っちゃえばぁー?」

「えっ、え?」

「誰、ですか、あなたは……」


 二人の混乱は見なくても伝わってくる。まあそれより、私にとっては聞き馴染みのある声だった。常葉お姉ちゃんである。常葉お姉ちゃんは、ふるふると小刻みに、小学生っぽい悩みに揺れる私の肩に手を置いて、二人に帰宅を促した。


「私が手伝いますんでぇ。ね?」

「でも終わったら、3人で先生にほーこくしないといけないんです……」

「わたしらの担任、めっちゃ怖いんです……」

「小学生はぁ、うぃうぃしぃーねっ。でもぉ大丈夫、私が何とかするぅーからぁ」


 常葉お姉ちゃんは反対の手で自分の胸を叩いて、自信を体現した。結局、二人は常葉お姉ちゃんに言いくるめられて、何度か手洗い場を振り返りながらも、のっそり立ち去って行った。


 いやいや、こういうのって連帯責任で私も怒られるじゃん。どんなに猛省しても、常葉お姉ちゃん以外は誰も許してくれない。だから怒られるのは、この金魚が死んでしまう次ぐらいに嫌だ。どうして兄は、親にあれだけ叩かれても、翌日にはけろっとしているのか、私には理解しがたい。


「あっ、鏡花泣きそぉー。泣くなぁーっ」


 常葉お姉ちゃんは私のほっぺたを、伸ばしたり揉んだりして遊んだ。違う違う、そんな悠長なことをしている場合じゃないって!涙袋?あたりに力を入れて、常葉お姉ちゃんの手を払い、重たい水槽を持ち上げようと手を掛ける。


「ダメだよっ、早く終わらせないとっ」

「鏡花が怒られることは無いよぉー」


 常葉お姉ちゃんは私の手首を、添えるように掴んだ。


「よく見てみぃ?私の姿。んぬぅー、そろそろ来るねぇ」


 常葉お姉ちゃんの意味深な発言の通り、ぱかぱかと足音が廊下から聞こえてくる。何となく、自分の呼吸が乱れる音がする。知らないふりをしようそうしよう。私は水槽の底面に手を掛けたまま、嵐が過ぎ去るのを待った。


「おいお前!何やってるんだ!」

「うわぁーっ、怒ってるぅー。新鮮しんせぇーん」

「何だと!……って、またお前か。まったく、いくら大島中に言っても、一切咎めてくれないんだが、どうなってんだ……」

「えぇーっ、また呆れてるぅ。でもだからこそぉー、怒りって儚くて美しぃーんだぁー」


 常葉お姉ちゃんは多分、人が制御できない、一瞬垣間見せてしまう剥き出しの感情による行動を食べて生きている。そんなもの、全然美味しくないと思うけど、何が食えるかは文化に依存する。


 中学校の制服に包まれた常葉お姉ちゃんは、そのまま私から距離を取り、手の平を向けて「また後でね」と告げながら、指を一小節分弾くように動かした。先生は常葉お姉ちゃんに気を取られて、特に見咎められることはなかった。


 私の思うように、というよりは、常葉お姉ちゃんの狙い通り事が運んだ。ところで、この水槽を運ぶのを誰か手伝って……。重すぎ、小学生なのに腰を悪くしそう……。途方に日が暮れた。


 誰かを傷付けたくはないけど、逸る気持ちは制御できない。こんな葛藤が月に届きそうなぐらい重なり、私は小学校を卒業する頃にはすっかり孤立を物にしていた。水面に映る自分と相談した結果、そうすることに落ち着いたのである。まあ元々、常葉お姉ちゃん以外ににじり寄ってくる人なんていなかったけど、こちらも極力話しかけないよう努めた。


 まるで空気だ。ただクラスに在籍して、たまに行く手を阻んで。空気は地球の悠久の時の流れを感じているのだろうか。私は感じなかった。気付けば制服の袖に腕を通していた。そして常葉お姉ちゃんみたいな、大人にはなれなかった。時間は感じて初めて進むものなのだろう。



「今日は前回伝えた通り、デッサンをします。もちろん、上手いほど成績が上がりますので、時間の許す限り書き込んでください」


 机の上にはぽつぽつとペットボトルが置かれている。そこに差し込む光と影をも、鉛筆とか消しゴムだけで書かなければならないらしい。何色もクレヨンが使えた幼稚園が懐かしい。覚えてないけど。


 冷房は効いているはずなのに、窓から差し込む烈日と、それを私の目の前で反射するペットボトルと、黙々と眼に闘魂を燃やす前後左右のせいで、クロッキー帳が使い物にならなくなりそうなぐらい、腕に汗が昇る。


 周りの人はみな、成績が上がるという先生の一言で、注射針ぐらい尖った視線に切り替わり、壁紙ぐらいざらざらした紙に、黒鉛を巧緻にばら撒いていく。


 一方、私はペットボトルを見つめて網膜を焦がすばかりで、腕は紙に張り付いたように静止している。なんたって、もう絵を描きたくないのだ。それだけじゃなくて、何かを作ったり、何か提案したりしたくない。なにしろ、時間がかかりすぎる。私はそういう事に向いていないのだ。それに気が付くまで、実にたくさんのものを失った。子供は肩張って頑張っても仕方ないらしい。それが小学校での、唯一と言える収穫だった。


 そんなわけで、私は鉛筆を握っても、少しずつ回転させながら、角張り具合を確かめるばかりだった。何だか懐かしい気持ちになる。さっきから何を懐かしんでいるんだろう?


 しかし高まる熱に、じりじりと押され始めた。私にとっての正義は、白紙のまま提出するのではなく、次元を一つ擦り減らすことである。そうしなきゃならなくなったら、抗うことができない。やがて紙には段々と輪郭が浮かび上がり、そこで授業が終わった。


 でも無論、そんなことで引き下がるわけにはいかず。教室に戻ってからも、ペットボトルと光と影と対話を継続した。部活動の掛け声が聞こえてきて、冷房も切られた放課後になっても、私は妥協というものを拒んでいた。汗が鼻筋を伝うのも意に介さず、何というか、空回りした。


「おぉーいぃ……えぇっ、何を書いてるのぉ?」


 そんなことは無いのに、毎日聞いているような、勝手な親近感のある常葉お姉ちゃんに声を掛けられ、テレビのチャンネルを変えるように、私の世界はまるっきり変幻した。って、常葉お姉ちゃん!?また不法侵入してる……。しかも、ブレザー以外は高校の制服だし……。


「びっくりさせないで……。というか、何その格好」

「変だなぁーって思われるじゃぁん。頭から順に見たらぁ、スカートが全然違うのっ。はぁー、たまらないよぉー」


 両手を合わせて、上の空になりながらそう説明された。まっまあ、常葉お姉ちゃんには、常葉お姉ちゃんなりの正義というものがありますし……。


 常葉お姉ちゃんは次に、私の手元を冗談じゃないぐらい見つめた。


「これは、デッサン。美術の授業の課題」

「それはいいけどぉ、デッサンなら実物はぁ?」

「地球って、迷惑なことに回ってるからあてにならない」

「そぉいうことかぁ。納得納得ぅ」


 しかし、何枚描いただろうか。手も真っ黒になっていたけど、なかなか納得のいく出来栄えにならない……そもそも、自分自身に納得できたためしが無い。


 ぱらぱらとページをめくり、数々の没をやるかたなく眺める。そうしていると、常葉お姉ちゃんは中腰になって、私のすぐ横に顔を置いた。


「うーん。鏡花は頭がいいからさぁ、覚えられるんだろうけどぉ。ちょっとずつ薄れてきてるんじゃなぁい?明日、同じ時間に同じ場所で同じ物を観察しなよぉー」


 それは一理ある意見だ。まあ、常葉お姉ちゃんの登場により、緊張の糸が切れてしまったし、私はそうすることに決め、しっかりと頷いた。常葉お姉ちゃんは珍しく、人のしかめ面以外で笑っていた。


 その翌日、私は胸のはれるような出来栄えに達することができた。でも今度は、先生のしかめ面で現実に引き戻される。受け取ってはもらえたけど、半分説教がなされたし、この頑張りは成績にあんまり反映されなかったし、世界は私が努力することを否定しているんだーって、そういう被害妄想に取り縋りたくもなった。


 でも世界は、努力しないことも否定してくる。筆記テストにも軽くスケッチする問題があって、さすがにテストの時間を過ぎたらタダでは済まないから、適当、適当に……と、祈るように何度も心の中で唱えつつ、穢れのない園児だった頃のように、好き放題シャーペンを滑らせた。


 時間は余ったけど、それで提出した絵は言うまでもなく、ただただ酷かった。どれほどだったのかを説明すれば、幼稚な反撃だととられて放課後、職員室に呼び出されてしまうぐらい。


 恐らく、解答欄に馬鹿とかデデデ大王とか書いた時と、罪は大差ないんだろう。私は先生に向かって何度も謝った。でも先生こそ、脚や手を組み替えて、姿勢は変えるけど表情はずっと同じ、しかめ面のままだ。それで、串刺しにされる心臓の痛みは、大人げなく鈍っていく。


 それでいつものように、先生が呆れて解放された。常葉お姉ちゃんに後で話したら、所詮30点分だから気にすることないと笑顔で励まされたけど、今はその生ぬるい言葉に身を委ねるしかないけど、ともかく私は創造から距離を置こうと心に決めたのであった。もう痛い目は見たくない、泣きたくなるから。


 私には、程よく手を抜くという行為がよくわからない。それは今も昔も、そしてこれからも、身に付かない気がする。だから基本的に何もやらない。木鐸でもいない限り、何でも許されない限り、私は頑張らない。これを人は殻に籠るとでも呼ぶのだろうか。


 無能だ、だから何もしないと卑屈になる一方、私は時々、やっぱり頑張りたくなってしまう。矛盾した性格、うずくまるだけで殻に籠った気になっているだけ。どうもこれが、後に誤作動を起こす予感がしてならない。


 そういったエゴを殺して、自我を葬る。何度も心の中で呪いのように唱えたら、空気よりも当たり障りのないものになれた気がした。



「鏡花ちゃんって家でもあーなの?」

「そうねー。いつも無表情。言ったらなんだけど、まずそーに山ほど食べるの」

「兄だけど、俺にもわからん」

「仲悪いん?」

「仲良い悪い以前に、関わりが皆無だから。まあ、話したくないんだろうな」

「うちの常葉も似たようなもんっすよ」

「えぇー?常葉はまだ話通じるっしょ」


 何かを炒める音と同時に、そんな会話が聞こえてくる。だいぶ腹が膨れてきたし、少し体を動かそうと椅子から立ち上がる。そしてテントを出て、一縷の救いもない日差しを背に、熱い砂浜をサンダルで踏みしめ、鉄板の上の焼きそば、中華鍋の上の炒飯の苦労を体験しながら、波打ち際に到達した。


 ここまで来れば、潮騒が邪魔されることはない。それに耳を澄ましながら、メダルゲームの押し出すやつみたいに、もどかしい位置まで来ては、白い泡を立てながら戻っていく波の生き様を確認した。


 いや熱い、日焼け止めは塗りたくったけど、それでも明日にはハワイ帰りを疑われるぐらいに焼かれていると思う。太陽にもう一度背中を押されるように、私は膝を海水に浸けていた。


 海水に映る自分の顔が不安に揺れている。……なんでそんなに煩悶しているのだろう。抑圧されて亡き者にされた自分か、それとも独りぼっちなことによる寂寥感の現れか。って、なななな、なんでそんな、ひとのぬくもり?みたいな値の張るものを求めちゃってるの!?そろそろそろろろろ焼きそば仕上がってないかな、食べよう、食べよう!

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