3-3

 鏡花の好きなものって何だろう、と好きなアーティストを尋ねた時に、ふとそんなことが浮かんだ。もちろんご飯以外で。いやまあ、何でもどれだけでも胃袋に収めてしまいそうな鏡花が選ぶ、栄えある好物にも関心はあるけども。


 どうせなら鏡花がはしゃいでいるところを見たい。だから、鏡花の興味関心のある有名人を呼んでみたくなった。……私が鏡花の興味関心を惹きたいので、そういう動機もあるにはあるが。


「あらら、考え事?」


 生徒会室に鏡花を置き去りにした後、不自然に、でも辞められない軽やかな足取りで、熱風吹き上げるすでに蒸し暑い一階を歩いていると、篠瀬に呼び止められた。というか立ち塞がってきた。おあー、腕組んでたー。


「んー、それは言い逃れできない」

「うんうん、悩むねー」


 篠瀬は首を振らなかった。


「何に?」

「あー、さっき実行委員長に出し物の申請を提出したら、断られたんだよ」

「ほぉ、鎖骨?」


 私はなんてことを聞き返してるんだ。しかし篠瀬は、待ってましたと言わんばかりに、鎖骨をポケットから取り出し、突き出して私にかざしてくる。横向きにしたり、裏側を見せてくれたり、まるで名刀を自慢されているような気分になったが、光沢なんてない、骨だもの。


「もちろん!」

「もちろんは構わないけど、それは大丈夫なんでしょうね」


 私は片手の人差し指を、その鎖骨とやらに向けた。


「おぉー、お目が高い。これは模造品」

「誰かを解剖したわけじゃないのね。安心した」


 こいつなら本物も持ってるだろうから、安心してる場合じゃないさそうだけど。篠瀬は贋作の鎖骨を左右に回して眺めながらぼやいた。


「私の鎖骨コレクションを展示しようとしたんだけど、倫理的に問題があるって突っぱねられちゃった」

「ふーん、4階の酔狂エリアでやったら?」

「うおー、そう話を通しといて」

「了解了解」


 私は顔が広いので、それくらいお安い御用である。二つ返事で請け負っておく。


 普通の流れならここで会話は終わるけど、私は意外と真面目に鏡花の好きなものを考察していたようで、事情を知らない篠瀬にとっては要領を得ない質問を投げかけていた。


「篠瀬は何か好きなものってある?」


 鎖骨に決まってるだろ。


「それはもう…………」


 篠瀬は急速に距離を詰めて、私の首元に顔を接近させる。うわー、何となく察してたーという気持ちもあれば、ボタンを外そうとしてこないことに違和感を覚える自分もいた。両手を篠瀬の二の腕の辺りで、すでに待機させてるのに。


「何すか……」

「うちは、鎖骨を有する動物なら、何でも歓迎するよ。君でも、ウサギでも、ネズミでも」


 ウサギとかネズミと同列にされると、何だか複雑な気分である。


 篠瀬は私の顔を瞥見すると、すぐに元の距離感に戻った。夏はどうしても体力を奪われて、調子が狂ってしまう。だから変なことを訊いたんだ。


「あれ、いいの?」

「今日はね、ここに来るまでに、めっちゃいい鎖骨を観測したから。満たされてる」

「そうですかい……」


 この後はバイトなので、ここら辺で篠瀬と別れることにした。篠瀬は鎖骨を振って見送ってくれる。……視界の端に入るだけでも、意識がそっちに持っていかれる。


 校舎の外に出ると、そこは地獄であった。アスファルトも行き交う車も木々も等しく焼かれ、吐いた溜息が熱された空気に押し戻される。さらに運の悪いことに、太陽のほうに向かって歩かなければならない。でもバイトだから、片手を目にかざして、日光を掻き分けながら進んだ。


 暑くて眩しい。篠瀬の鎖骨への執着みたいなものである。皮相的な努力と演技では、そこまでの境地に達することができない。でも割とみんな、作為的でなく持っていて。鏡花だって食べることに関しては、並々ならぬ偏執がある。


 でもそれでは足りない。餌付けなんて、誰だってできるのだから。



 真夏の炎天下、もはや活動している動物は人間ぐらいしかいない。蝉も鳥もオケラも息を潜めている。まるで茹でられるカエルのようだ……この陽炎は誠か私の視界が霞んでいるだけか。後者である場合、私は死ぬ。


 何となく生に執着して、というか苦しみたくはないので、日傘は差すし、水分補給は怠らない。私はパステルカラーの水筒を取り出した。しかし焼け石に水とはこのこと、喉元を過ぎれば冷たさを忘れる。飲んだお茶が、体の中で蒸発していくのを感じた。


 背中を反らし、天を仰いで水筒の中身を飲み干す。もっと大きいサイズの水筒も家にあるにはあるけど、運動部として溌剌に活動もしてないのにそれを持ち歩くのは、なんとなーく気が引ける。そして夏場は毎度後悔している。


 汗をだらしないほど垂らしながらも、待ち合わせ場所であるショッピングモールの入口に辿り着いた。真夏の10分は長すぎる。なんでこんな時期に甲子園なんてやるんだ。まあ屋根があるのは素晴らしい。日陰なら耐えられないこともない。


「よっっすぅーー!」


 日陰を讃美し感謝しているとまもなく、入ったことない地下通路への階段を挟んだバス停から、安栗が駆け寄ってくる。走りにくそうなサンダルを馬のようにかき鳴らして、それで私に抱き着いてくる。


「おい離れろっ。暑いでしょ」

「わたしは今日、ほぼ日の光を浴びてないから平気平気。駅まで車で送ってもらって、電車に乗って、バスに乗ったからね~」


 一体、どれだけの視線を集めれば、安栗を引き下がるのだろうか。そう有閑マダムから百合に冷ややかな普通の青年、更には同級生まで……、鑓水もすでに来てた。安栗は自分の髪を私の胸に擦り付けるように横を向く。


「あ、鑓水だー。気付かなかったー!」

「ふふっ、馬鹿には見えな間違えた、相手の意表を突いて存在感を消す忍術を練習してたまでよ」

「嘘だっ、わたしは自動ドアが開くのと同時に、鑓水がすたすた出てくるのを見たぞっ」

「早く着きすぎたから、中で休憩してた。なんか文句ある?電車でもバスでもないんだから、早く着いて怒られる筋合いはないんだけど」

「嘘だっ」

「読んでる本がウソップ寓話になる呪いをかけたから」

「本読まないから問題なし」

「教科書も参考書も対象だけどー」

「嘘だっ!」


 ところでいつまで安栗はくっついてるんだ。夏でも元気なことは結構だけど、それくらい力が有り余ってなければ遊ぼうなんて言い出さないものかと諦める。


「そいじゃあー、しゅっぱーつ!」


 ようやく離れたかと思えば、今度は後ろから腕をかけて体重を乗せてきた。折れてない、私の背骨の骨密度はみっちみちだ、よし。


「んぐっ……」

「うわ、重いって思ったでしょ。許せん」


 安栗は一度その場で軽く飛び跳ねた。再び呻き声を上げそうになり、目いっぱい口を噤む。


「そいつ重いでしょ、聞いて驚けよっすーよ、4月の健康診断の体重むぐぐ」


 安栗は鑓水の口と鼻を懸命に締め付ける。おー、ようやく解放された。冷房の冷気が素肌をくすぐり、清涼感よりしみじみとしてしまう。


 一方、はぁはぁと呼吸が乱れている鑓水は、諦めていなかった。


「わかった。ぼかそう、ぼかして伝えよう」

「うーん、ダメ」

「じゃあ嘘を教えよう」

「うーん、ダメ!」


 他にも買い物客がいるのに、フロアには安栗の小うるさい声が響き渡る。そして鑓水は肩に置かれた安栗の手を払って、何かを詠唱し始めた。


「白牡牛は、黒牡牛の5/6と黄牡牛の合計、黒牡牛は、斑牡牛の9/20と黄牡牛の合計、斑牡牛は、白牡牛の13/42と黄牡牛の合計、また白牝牛は、黒牛全部の7/12に等しく、黒牝牛は、斑牛全部の9/20に等しく、斑牝牛は、黄牛全部の11/30に等しく、黄牝牛は、白牛全部の13/42に等しい時における、牛の総数の最小解kgぐらい」

「辞めろって。どうするんだよ次の測定でそれくらいあったら!」


 そうなってしまうと、背後から抱き着かれれば一巻の終わり、私も道連れにされる。太らないことはもちろんのこと、毎日プロクルステスのベッドで寝てもらおう。


 詠唱の終わった鑓水は頭を冷やすためか、ショコリキサーに吸われていった。逆な気もする。吸うよね、飲むために。


「ところで露崎は?」

「寝てるんじゃない?」

「なるほど。夕方までには起きるかな」

「そしたらカラオケでも行こうよ。今日は遊びまくるぞーっ!あっ一口ちょうだい」

「お代金は命となります。二人も飲めばいいのに」

「だって……ねぇ」


 安栗は私に応えにくい視線を差し向けた。体重維持の動機が私に抱き着くためという、福山雅治もさっぱりわからないと匙を投げる動機である。実にくだらない。でも結局、二口は飲んでいた。


 鑓水に勧められたので、私も一口頂く。あっっっっま!五感が異常をきたして、なぜか外気の熱さがフラッシュバックしてくる。とことん無駄に甘い。鑓水はなぜそんなに、間を置かず一心不乱に甘さを享受できるのだ。虫歯になるぞー。


 私は自販機を血眼で探し、天然水を買って、ずるずる最後まで堪能しようとする鑓水に見せつけるように、半分まで一息で飲んだ。やはり無味無臭に勝るものはない。


 口の中をリセットしたところで、ショッピングのためにエスカレーターで上の階に上がると、ネコバスを待つ巨大なトトロが、突如としてお出迎えしてくれた。安栗の目がトトロみたいにぎろっと動く。そしてトトロの前まで移動した。


「あらかわいい」

「お!知ってる!?」

「そりゃあ、トトロを知らない人は少ないでしょ。あぁ、あんまりそいつの話に頷かないほうがいいよ。ジブリオタクに磨きがかかってるから」


 忠告に感謝いたした。実のところ、私はジブリについてはさっぱりである。何の作品も観たことがない。まあ安栗がオタクで、ある意味助かった。熱意を冷ややかに受け流しても、致し方ないと捉えてもらえるから。


「あぁ抱き着きたい、抱き締めたい、家の近所に森はあるけど、一度も会えたことないんだよよよよ」


 安栗は鼻息を荒げ、手を前に構えて指をくねくねさせている。明らかに不審者、幼女でもさらう寸前だ。


 小さい子が後ろでトトロを見物したそうにしていたので、というより、この酸鼻な姿態を晒し続けるわけにはいかないので、鑓水が手を引き私が肩を押して、安栗を店内に押し込んだ。


 夏と違って、店内に入ってからも安栗の熱は終わらない。


「明日!わたしの家でジブリ鑑賞会をしましょう!」


 安栗は片手をぴんと挙げてそう宣言した。安栗の声は響くのである。他のお客さん、特にさっきの子の視線が痛い。


 鑓水は前に付き合わされたことがあるようで、お前を殺すとけんもほろろに拒絶した。私は……午後は暇なので、安栗の家にお邪魔することにしよう。世界でもてはやされているのだから、つまらないという事はないだろう。誘いはできるだけ断らない人間なのだ。


「露崎も呼ぼおーっと」

「あれ、前回もいた気が……内容忘れてるか」


 そうだねーと、安栗が高らかに笑う。そして目の前の棚から生まれたての私よりは大きい、色違いトトロのぬいぐるみを両手に取って、逡巡することなくレジに運んだ。鑓水もその様子を追いかけることなく、そそくさと退店していく。そんなに愛くるしい生き物なのか?うぅーむ、手を伸ばしてみる。ほーん、トトロってもふもふしてるんだ。それを確かめて、鑓水の後を追う。


「なー、いる?」


 お盆だから財布の紐が緩いのかなーと思っていたら、小走りで店外の私に向かってきて、腑抜けた顔でそのぬいぐるみを突き出してくる。


「まーそいつの家、いっぱいうじゃうじゃいるからなー。というか、要らないなら買うなよ」

「よっすーーーーが貰わないなら、私の家族にする」

「要らないかな……普通に悪いし。それなりに値がしたでしょ」


 ぬいぐるみと目が合ったら、そんな言葉がやけに饒舌に出てきた。


「そっかー。じゃあこれからよろしく、トトロ8世」


 安栗は人目も憚らずトトロ8世に話しかけ、高い高いまでしている。その光景は昔懐かしで子供っぽくて、こちらまで小恥ずかしくなってくるけど、安栗は全く気にしてない。まあ、好きな物は人それぞれだから、私と鑓水は示し合わせたように一歩引いて、満足いくまでそっとしておいた。意識の逸れている今は、私の背骨も守られるし。



 今年のお盆休みはお金と体力を消耗した。そう、安栗が元気すぎるせいで、毎日遊びに行く羽目になったのである。カラオケに行った翌日は安栗と露崎とジブリ鑑賞会ののち外食、他にもプール行ったりまたショッピングしたり合間を縫うようにバイトしたり。去年はどうだっただろうか。これくらい活発だった記憶があるけど、年を取ったのかなぁ。


 学校がまた開いたので登校したけど、存外やることがない。いやまあ、文化祭の準備で忙しい場所もあるし、自分から声をかければ引く手数多だろうけど。こうして、ぬるい缶のお茶をたまに口にしながら、吹き抜けの柵に手をかけて、下の階の様子をつくねんと鳥瞰すると落ち着けることを発見した。ちょうどこの場所が、下からの熱風と廊下からの冷気のハロクラインになっていて、いつまででも居られる。


 ふいに、安栗と同じトトロのぬいぐるみを、鏡花が同じ様に掲げている情景が脳内で再生される。今度はすっと肘を曲げて、胸元でぎゅっと抱きしめた。後ろ姿だけだけど、手放しに喜んでいるようだった、あぁ手放す気はなさそう。


 どうしてまた唐突に、と焦りもしたが、私は鏡花の好きなものを探っているんだったそうだった。ぬいぐるみ……ライナスの毛布として、寝る時は抱きかかえて傍から離さない。それくらいの趣味ならありそうだなぁと思う。少なくとも、鎖骨よりは可能性がある。何より似合ってる。しかし、核心には迫ってない感じがした。どうしてかは知らん。


「ん、どうかした?」


 刑部の手が肩に伸びるのが視界に入り、そちらに体と顔を向ける。


「よっすー?」

「そうですよ。ばっちりよっすーですよ」

「……まろやか、だね」

「お茶が?」


 これはUnsweetened Green Tea。缶を上から三本の指でつまんで、一応刑部の顔の前に差し出がましくしてみる。特に関係なさそうなので、すぐに引っ込めた。


「うーん、悩み方が」

「悩み方?考え事なら根深くしてる」

「文化祭絡み?」

「ええまあ。島袋鏡花って知って……この間話してたか。あの子って、何が好きなのかなーって。何か知ってる?文化祭でいいー感じに喜ばせたいんだけど」

「随分と曖昧模糊な質問ね……」

「洞窟っちなら、私の知らない島袋さんを知ってたりしないかなーって」


 私は仕事ができるので、それなりに人口に膾炙したバンドをすでに呼んである。でも娯楽が多様化しすぎている現代では、それだけで全員の需要は満たせない。鏡花もその一人だ。私は鏡花からの羨望と欽慕も欲しい。鏡花に慕われたい。


 島袋鏡花は正直で意固地で一生懸命、だからこそ私と親和性がある。せめてこの3年は生きる糧となってほしい。まあその割に、私は鏡花のことを全然知らないので、これだけ難渋しているわけですけども。


 刑部は半笑いで知ってるわけないと言いおる。


「よっすーって貪欲だね」

「当たり前でしょ。この間も篠瀬に何度か頭下げられたし。我が世の春ですな」


 篠瀬は何もなくても、鎖骨を見ようと勝手に頭を下げるけど。


 冗談っぽく言ってみたけど、私が利害を調節し、望むものを与えているおかげで、恋愛のもつれ以外はたいてい解決するし、みんなの学園生活に艶が生まれているわけで。私は正しく有れている気がする。それの集大成たる文化祭が何よりの証拠である……まだ始まってもないけど。


 まー私の生き様など、刑部には今さらどうでも良かろう。それで、私の願いが天に届いたのか、冗談に清々しく微反応だった刑部は、にわかに何かを閃いたように口を開いた。


「あいつに聞くのは?あの、ほら、付き合ってたんでしょ?」

「名をば多々良時雨と申したか。これまた勇気のいる提案をするねぇ」


 しかし妙案だ。時間もないし、ぱぱーっと聞き出しに行こうとしたら、刑部がくねくねし始めた。


「あの先輩、かっっこいいよねぇ~。余裕ぶってる感じというか、内心みんなを見下してる感じというか……。行くならサイン貰ってきてよ」

「うむむ、クズベーシストには人を惹きつける何かがあるんだな……。見習おうっと」

「いやいやっ、よっすーはそのままでいてよ!」


 そう言えば、鏡花は時雨のどこに惹かれたのだろうか。まあ、そんな事をあからさまにできる仲でもないし、古傷を引っ掻き回すようなものだから、迷宮に押し込んでおこう。刑部と別れてお茶を飲み干し、途中で缶を捨ててからスタジオに赴いてみる。


 その予想は外れたけど、夏休みでも登校しているらしく、軽音部の人に居場所を教えてもらった。その通りに4階をふらつくと、校舎の西側の、人気のない廊下の端で、ちょうどゼミ室から出てくるところを発見した。文化祭の熱気にあてられてないからか、少々肌寒い。まっ、聞きたいことをさっさと聞いて、生徒会室に戻り仕事を片付けようっと。


 一方、時雨は私の顔面を見るや否や、お化けにでも遭遇したみたいに震えだした。


「また……暴言吐かないでね……傷付くから……」

「だいだいファンです。サインください」

「んあっ!?……しょうがないなぁ……」


 怯んでいるのも構わず色紙を突き出すと、時雨はなぜか左右を確認してからそれを受け取り、ふふふーんと鼻歌?交じりにペンを滑らせた。よし、タスクを一つ片付けた。


「それだけ?なわけないよね」

「えぇ、はい。件の件で、贖罪したくないですか?」


 それを言った途端、山の天気ぐらい目にもとまらぬ速さで、時雨の表情が曇った。


「別に、大したことじゃないですよ。島袋さんの好きなもの、食べ物以外で教えてください」

「なるほど……。そういう事ならっ、三本勝負、いきましょう!」


 時雨はそう言って、表情は曇らせたままにしつつも、指を三本立てて突き出した。思わず「はぁ?」と顔を歪ませながら唸ってしまう。しかし時雨はゼミ室に戻り、ごそごそ準備を始めたので止めようがなく……気付けばチェス盤が長机の上に展開され、時雨と対面して座っている。どうしてこうなった。


 時雨が白のポーンを前進させる。よく分からないけど、同じ場所を前進させてみる。


「おー、やるねぇ」


 そうですかい。本当ですかい?


「鏡花は、えっと、元気にやってる!?はおかしいかな……」

「元気なんじゃない。食欲も変わらず」

「それはそれは……いいことだ」


 チェス盤に目線を落とし、でも時々こっちに一瞥を投げる。会話と盤面と合わせて、相手の心情を探る……的なことがやりたいんだろう。なんで私はこんな事に付き合っているんだ、こうしたら時雨は私を慕ってくれるのか?


「たくましいよねー」

「傷付けた本人が何をおっしゃいますか」

「そうだよ。鏡花は傷付いた。傷付いたということは、ガラス細工として出来上がっているということ。そういうことなんだ」


 そう言って、時雨はキング自ら出陣させた。なんか、技巧じみたことを言おうとして、失敗している気がする。無言で駒を動かしていると、体験を交えた言葉で敷衍された。


「別れ際にね、鏡花から離れようとした時、足に引っかかって見事に転んだんだよー。でもあれは、わざとだったんじゃないかって、勘繰りすぎかな」

「ふーん」

「鏡花は自分で愛を囁こうと決めたんだ。私が手のひらで転がしたなんてね、それは勘違いだよ。とにかく一生懸命で、それに制約も制限もない」


 真面目に演じるなーと鏡花みたいに何度も頷きながら、全軍総突撃させていたら、時雨がうししとほくそ笑む。実はチェックメイトだったりするのだろうか。わからん。


「そう考えたら私、とんでもない地雷を埋め込んだかも……まっいっか、死せる孔明生ける仲達を走らすって感じで、なんかかっこいい」


 憧れが極まっているようで、そうした意味深な一言も欠かさなかった。満足したのかこれにて、しかつめらしい話は終了らしい。しばしの沈黙ののち、後方で控えていた数学部の人が盤面を覗きに来る。彼女は呆れた顔つきでこう尋ねてきた。


「えっと、二人は何をしてるの?」

「チェスですね」

「チェスでは無いですね……」


 日本語でもチェスと発音するらしいのでそう答えたら、ばっさり切り捨てられた。まあ、チェス盤の実物を見たのも初めてですし、向こうも実に一貫性のない動かし方をしてましたし。


「仕方ない。一戦目は私の敗けということにして差し上げよう」


 時雨は自陣のクイーンを倒して降伏を宣言した。それが白旗と同義なのかは知り得ない。というかまだやるの?こんな茶番。


「最初のキーワードはー…… “う” でございます」

「うなぎとか言ったら、パインスティックカッターを頭から下ろしますよ?」

「ちょっと待ってウサギっ、ウサギだから!痛々しいこと想像させないでよっ!」


 時雨は両手を前に突き出して順当に慌てだす。そしてキーワードを口走る。


「鎖骨をお持ちの、あのウサギ」

「鎖骨の有無は知らないけど、長い耳がぴんとしてるやつ。……あっでも、垂れ耳派かもしれない見境ないかもしれない」


 時雨の首と人差し指が左右に大きく振れる。変な人だけど、嘘を吐いている感じでもないって、確証バイアスが働いてそう思えたので、根拠ぐらいは尋ねてみる。


「ウサギを追いかけて、迷子になりかけました」

「たった一人が暴力とか破壊に訴えても意味ないんだけど、例外はあるよね……」

「待って待って、鏡花は大久野島に行きたがるような、筋金入りのウサギ好きだぞい!」


 時雨は立ち上がって、両手を震わせて決死の釈明を行う。その、多くの島は何のことだか存じ上げないけど、無邪気な必死さに免じて、根は悪い人じゃないと騙されてあげることにしまして、拳は取り下げた。


 何はともあれ、目的の情報は得られた。時雨たちには礼儀正しくお辞儀と感謝をして、ゼミ室を後にする。ウサギかー、私の中の鏡花像に合致してる。とか思いを馳せる前に、扉を閉めようとする手がかじかんでいる事を、鳥肌が立っていることを、今さら自覚した。夏は暑かったり寒かったり、めんどくさい。


 鏡花は自分のことが嫌いである。最後まで受け止めてくれる人が現れなければ、あの気質で自信など持てるはずがない。でもこの文化祭で、それは少し緩和される。そのためにクラスリーダーに任命したのだ。でもって私は、さらにその先で待っている。というよりは飴とムチな気もする。私は飴を手に入れたのだ。


 吸い込むと夏のめんどくささを忘れられる、生暖かい空気に満ちた中央階段を、一段一段踏みしめるように降りていく。私には確信があったから、今のうちから惚れ惚れする未来を想像するのであった。


 鏡花は見せてほしい態度を見せて、映してほしい表情を映す。だから相性がいい。これだけで、懊悩など跡形もなく消し飛んでしまう。高笑い……はしないけど、生きていれば、努力を怠らなければ、良いこともあるもんだ。

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