1-5

 噂だけが反響するこの世界に、一人で居たくないけれど、それは簡単なことではない。もう手遅れだから、自分が時に溶けてしまうのを待とう。何もできないから、誰にも愛されない。利用されていただけでも、幸せだった。


 こうやって、いつも受動的なところも、ダメだって分かってる。私はこの、県内随一の高校に受かるぐらい頭がいいんだから。でも、どうすることもできない。ただ歯がゆいだけ、辛いだけ、胸を締め付けるだけ。


 こんな時、時雨が傍に居てくれたら、どんな悩みも晴らしてくれる。結局、時雨が居てくれたら万事解決するのに。


 無理なこと、できもしないことに縋って、またぼんやりとしていると、すごい視線を感じた。それはX線のように、絶対に感じないのに、全てを看破する不思議な力があった。思い切って一瞬だけ振り返ると、後ろの席で縁佳が微笑ん……ほくそ笑んでいるのが見えた。


 逸る気持ちを抑えて、頑張って前だけを向いていると、先生がまたペアを作れと言ってきた。……どうせ一人なら、また逃げてしまえばいい。目を背けたってバチは当たらない。神はそんなに暇じゃないんでしょ。


 私はトイレに行くとだけ言い残し、教室を後にした。そうしてみたけど、もうあーいう場所には立ち寄りたくない。漫然と涙が溢れてくるだけ。楽しくも悲しくも忘れたくもない。


 足音を立てずに廊下を、あてもなく歩いていると、後ろから誰かに追いかけられている気がした。気迫を感じた私は、なぜか振り返ったりせず、我を忘れて走り出していた。人生で一番の速さで階段を駆け下りて、階段下のデッドスペースに収まった。


 ほこりっぽい暗がり……こういう陰湿な場所は、私と相性がいい。しかし呼吸を整えている暇もない。鈍い足音は構わず迫ってくる。意識すればするほど、心臓が波打つように脈打ってしまう。私はとにかく息を殺してうずくまり、祈るように胸の前で両手を握り、涙が滲むぐらい強く目を瞑っていた。


 足音が消えたので、恐る恐る目を開くと、縁佳が私の前に立ちはだかっていた。その巍々たる立ち姿に、今まで出会ってきた色々な像を重ねてしまう。この人は、私をどうしてしまうつもりなのか、皆目見当もつかない。とりあえず、もう一回目を瞑っておいた。それしかできなかった。


「大丈夫?具合悪くない?」

「……ほっといて」

「そういうわけにもいかないよ。高校でも留年ってあるんだから」

「だからっ、ほっといてって言ってるでしょ」

「ごめんね、こういうのを見過ごせない質で」

「知らない、どうでもいい」


 いくら自分が悪いとは言え、こういう時に私の前に現れる人間は揃って、こっちの気の迷いを否定して、決められた結末に向かおうとする。縁佳も例に漏れず、そこかしこで濫用されている、普通の説得を試みてくる。こういうのに傲慢にもうんざりしている私は、諦めてくれるのを、目を閉じたまま待っていた。


 すると今度は距離を詰め、私の手を両手で優しく包み込みつつ、これまた幾度と聞かされたことのある当たり前の理を、目と鼻の先で縁佳はささめいた。


「どうでも良くない。嫌なことから逃げたらダメだよ」

「私のせいじゃないっ。嫌なことが逃げてるだけ」

「じゃあどうして逃げたの?堂々とトイレに行っても良かったよね」

「うるさいっ、正論なんか聞きたくない」

「聞いて?島袋さん、目を背け続けても、傷は癒えないし、状況が好転することもない。明日も明後日も辛いまま。変えようとしなきゃ、暗く閉ざされた人生が続くだけだよ」

「私は信じない、誰の言葉も信じない。みんな本音を隠して、気が変わって、正しさで誤魔化して……」


 共感は欺瞞で、結局は私が自我を殺さないと満足しなくて、私の感情なんて、幼稚で切り捨てて構わないもので、密かにうんざりするしかない。


 そう思っているのに、怖くて臆病で、体も喉も全然動かない。私には縁佳を突き飛ばして、突っぱねたり出来ない。小手先だけの反論が限界だった。


「まったく、それはその通りだよね」

「その通りなんかじゃ……分かったような口を!」


 目を大きく見開いて、思わず強い口調で反論していた。私を安心させようと言ってくれたのに……。その上視界までぼやけていく。私って最低だ。これ以上墓穴が深くなる前に、早くどっか行って……!


「そんな顔しないで。こんなことで怒らないから」

「嘘……私、酷いこと言った……」

「そうかな。私はまだ島袋さんのこと、全然わかってないはずだから」


 矛盾の塊みたいな自分のことなんて、私にもわからない。その時々で矛が貫くのか、盾が守り切るのか、まるっきり行動が変わってしまう。知ろうとしなくていいって言う前に、縁佳に先を越された。


「だから聞いてもいい?あなたのことを、少しだけ」

「ん……、ちょっとだけだけど」


 縁佳の顔は、本当にすぐ目の前にあった。何かの拍子で1 mmでも前に動いたら、縁佳の鼻にぶつかるぐらい。物理的にも深入りされて、心が鷲摑みにされている感覚に戸惑っているうちに、私は勝手に頷いていた。


「あの日、私が来る前に何があったのかなって。腰が抜けるぐらいの事はあったんでしょ」

「そっそこまでじゃないっ」

「まあ、何となく状況は読めてるけどねぇー」

「そう……なの……?」

「だってその場に居合わせたんだし。初対面じゃないしね」


 私たちのことは噂になっていたし、そもそも恥も外聞もなく、堂々と付き合っていたので、痴情のもつれだってことは明らか過ぎる。だけどそれだけじゃなくて、縁佳には私の本心が見透かせるようだった。そう、だから、縁佳の質問に答えてしまった。決して私が尋問される前から、仲間の居場所を吐くような人間だからじゃない。


「じゃあ今、あの人のことを、率直にどう思ってる?」

「わからない……」

「まだ気持ちを整理できてないのかな」

「ん……、どうしてこうなったのか、わからない……」

「向こうの態度が急変したってこと?」

「んー……」

「そうだなぁー、本人と、もう一度話してみたい?」

「それはっ、たぶん無理……!」

「そんなこと無いよ。わったしにまっかせっなさーい!ほら、これで涙拭いて」


 頬をくすぐる感触があって、いつの間にそんな涙ぐんでいたのかと焦ったけど、たぶん縁佳の横髪を留める紐上のリボンがかすめただけだ。私は観念するように、縁佳からティッシュを受け取った。


 疑懼の念と同じくらい、清々しい気持ちがある……かもしれない。いつもこうやって、簡単に言い負かされてしまう。向こうには伝わってないといいけど、縁佳のことだし、ちょろいなとは思われてるんだろうな……。いやそうじゃなくて、もっと縁佳のことを信頼しないと。せっかく私のことを気遣ってくれたんだから。


「さっ、教室に戻ろう?誰も待ってないだろうけど……、私と一緒に、図太くいこう」

「うん……」


 私は間違いばかり、勘違いばかりしてきた。だからこんな痛い目にも遭う。だけど、私は脆すぎる。誰かに縋らないと前に進めない。そうだよ、縁佳は今まで出会った人とは違う。それは階段を上る後ろ姿で、一目瞭然だった。だから、相手の目を見て、きちんと頷いた。


「あれ、平島さん、授業中にこんな場所で何をしてるんですか?」

「あっ、大村先生!そうです、保健室に体調不良の子を送り届けてきたところでして。すぐ戻りまーす」


 先生に声をかけられた縁佳は、軽々と階段を上って、髪をなびかせながら体の向きを変え、素早い言い訳で言いくるめた。その華麗な手腕に、というか単に大村先生とは馬が合わないので、私はその場に立ちすくんでいた。


 階段の上に立つ縁佳は、私には雲上の存在に思えた。とても追いつけそうにない。まあ、自分より上に立っている人は山ほどいるけど、さっきの私はそんな縁佳に、一方的に心を開きかけた。何かもう、よくわからない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る