第29話 暴走の果てに
考えたくなどないのに、リュシエンヌの頭の中はぐるぐると回る。自覚してしまえば、あとは記憶の蓋が開くのは簡単だった。今まで靄がかかっていたようにおぼろげだったリュシエンヌの記憶が、一気に蘇ってくる。それは一度悪女として死んだ過去世だ。今まで夢としてしか見ていなかった、崖に飛びこんだ記憶まで。
婚約破棄の噂が流れ、疲弊したリュシエンヌが暴走したあと、彼女は無残にも鉛玉に打ち抜かれてその命を落とした。彼女を追って崖の下に身を投げたレナルドは、彼女と共に転生したのだろう。
だが、同じ人生を再び歩んだレナルドと違って、深く傷ついていたリュシエンヌは、もう一度同じ身体に転生するのを拒んだ。
結果として、彼女の魂は別の世界の身体に産まれなおし、数え切れないほどの人生を繰り返したのだ。満たされた人生も、平凡な人生も、いくつも廻ってようやく彼女の魂の傷は癒されたのだろう。そしてやっとこのことで彼女は『リュシエンヌ』の記憶と向かい合うだけの余裕が生まれた。
だから作家としての人生を歩んだ次に、彼女は『リュシエンヌ』に戻ってきたのだった。
「私は、リュシエンヌなんかじゃ……!」
首を振って現実を拒むリュシエンヌの身体からは、暴風が溢れる。だが、その風は彼女の身体をとりまくばかりで、まるで自身を傷つけるために発生しているかのようだ。以前暴走したときが、近くのものを全て巻きこんで破壊する勢いだったのに対し、今リュシエンヌを取り巻いた暴風は、酷く小さく、けれども酷く荒れ狂っている。
「リュシー」
「近寄らないで!」
後退りしたリュシエンヌの拒絶にも関わらず、レナルドはまた一歩近づいてくる。暴風の中で、音が聞こえなくなってもいいはずなのに、レナルドの声は明瞭に聞こえる。それは、彼女が声を聞きたいと願っているからなのだろう。
彼がリュシエンヌを好きだと言った。その気持ちが理解ができない。だが、それが本当なのだとしたら、過去世を台無しにしたのは、ほかならないリュシエンヌ自身のせいだ。
この人生に戻って来る直前に彼女は確かに『悪役令嬢も幸せにしたい』と思った。そうして戻ってきたとき、『終焉の悪女』だなんて最悪の結果を避けるためにできることはなんでもやろうと決心した。婚約破棄が必要ならば、穏やかに受け入れようと思ったし、レナルドとイリスの恋を応援しようと考えていた。それら全てが、見当違いだった。
鮮やかに思い出された記憶で、リュシエンヌの過去の気持ちまでもが蘇る。
(そうよ。私は、あのとき……お茶会でレナルドがイリスの名前を呼んでるのを聞いて、デュメリー嬢が好きなんだって、誤解したんだわ。私……レナルドが好きだった……)
あんなにも暴れていたのは、好きだったからだ。レナルドのことが好きでたまらなかったから、辛かった。
(全部、私のせいじゃない。勘違いして、暴れて。レナルドのことを信じられなくて……今もまた、暴走して)
「リュシー。落ち着いて。君は制御できるはずだよ。魔法を、解くんだ」
レナルドの声は優しい。
(ずっと、この人は変わらなかったのに)
自分が愚かしくて、それが悲しかった。
「……ええ、そうね。私は、制御できるはずだわ」
(魔法が使えてたなんて記憶はやっぱりない。でも、もう多分、できる。だから)
リュシエンヌは、目を閉じて暴風に念じる。彼女の周りを球体のように取り囲んでいた風は、ぎゅるんと音をたてて鎌の形になった。
(周りを巻き込む前に、今度こそ私が死ぬべきだわ)
「リュシー!?」
自身の死を願って歪んだ風の凶器が、彼女の身体めがけて降り降ろされる。
「だめだ……っ!」
それはほんの一瞬のできごとだった。目を閉じたリュシエンヌの耳に、ずしゃっと鈍い音が響く。もう『リュシエンヌ』でいる必要がないのだと、晴れ晴れとした気持ちに、暴風が止んだ。不思議と傷みも苦しみもない。
「……あ……」
「え?」
不意に、リュシエンヌの身体に重みがかかった。目を開けば、レナルドが彼女の身体に抱き着いている。よろよろと顔を起こしたレナルドは、震える手でリュシエンヌの頬に触れた。
「怪我は、ない……?」
「うそ……だって、私……今……私を殺すつもりで……」
風の鎌は、リュシエンヌを狙ったはずだった。けれど、実際にはその鎌は、彼女を救おうと抱き着いたレナルドを斬りつけていのだ。
「だめ、だよ……リュシー。自分で、傷つけるなん、て……」
「レナルド様、どうして」
「ああ、でも。今度は……間に合った、な……」
頬に触れていた手から力が抜けて、滑り落ちる。同時にもたれかかっていた身体がずるりと落ちそうになった。身体は温かい。けれど、さっきまで合っていたレナルドの目線が合わない。
彼の目は、虚ろになって光を失っていた。息すらしていない。
「やだ……だって……」
その光を失った顔を、リュシエンヌは見たことがあった。
まだ彼女が魔法を使えていたころ。少年と一緒に庭園で遊んでいたあの少女のときに、虚ろな目をした彼に呼びかけ、必死に蘇生を願った、あの少年の名前は。
「ミオ……! 私のせいで……死なないで……!」
ぎゅうっとレナルドの身体を抱き締める。途端に彼女から魔法の力が迸る。けれど、今度は暴走ではない。まばゆく目を焼くほどの光が部屋の中に満ち、レナルドを包み込む。目を閉じて、リュシエンヌは念じる。
(ミオを、レナルドを……助けたい……!)
リュシエンヌの全てをかけて、レナルドの身体を癒す光が溢れ出す。首に下げた暁と宵のペンダントが、チカチカと光り輝いていた。
やがて、彼を抱き留めていたリュシエンヌの身体が脱力した。途端に光を失い、床に尻もちをついたリュシーの膝に、レナルドもずりおちて倒れ込んだ。
「……っ、は……ぁ……?」
荒い息を吐いたのは、レナルドだ。
「リュシー……?」
へたりこんでいるリュシエンヌを、膝の上のレナルドが窺う。彼の身体は、ついさっきついたはずの傷などどこにもない。
「リュシーが、助けてくれたの?」
「……ごめんなさい……、私のせいで……」
うっすらと瞼を開いた彼女の瞳は、菫色からアイスブルーに変じている。
「……リュシー、目が……」
「あ……力を、使いすぎたのね」
けれど、過去にレナルドの命を救ったときに比べ、脱力が少ない。
「僕を助けるために、力を使いすぎたんだね」
苦笑したレナルドは身体を起こして、リュシエンヌの顔をもう一度まじまじと見つめる。
「大丈夫、ゆっくり休めば、またすぐに瞳は戻るよ」
「……でも」
こんな魔法を暴走させる自分は、いてはいけないのではないか。そう思う。今レナルドを助けたと言っても、その原因を作ったのはリュシエンヌ自身だ。ただの迷惑でしかないだろう。
「リュシー。もう自分を傷つけようなんて、したらだめだよ。君が怖いことは全部、僕がなくしてあげるから。だから、僕の傍にいて、守らせてよ。これまでずっと守れなかった分……お願いだから、僕の隣で幸せになって」
レナルドの顔は苦しみに歪んでいた。それでまた胸が苦しくなる。
(……いつも笑ってた人なのに……)
リュシエンヌは自分可愛さに現実逃避をして暴れ、さっきもまた逃げようとした。けれど、それをレナルドは身体を張ってとめてくれたのだ。そんな彼の気持ちを、これ以上疑うのはばからしい。
「……私、幸せになんかなっていいんでしょうか」
あんなに暴れて、レナルドまで殺しかけたのに。
「なってくれなきゃ、僕が困るよ」
レナルドが、リュシエンヌの頬を両手で包んだ。懇願するようなその言葉に、泣きそうになる。
「レナルド様が、困っちゃうんですね。それは、やだな……」
「じゃあ、さっきの指輪、受け取ってくれる?」
それは二度目のプロポーズだろう。瞼を伏せたリュシエンヌの目からこぼれたものが、レナルドの指先を濡らした。
「……はい」
頷いて瞼を開いたリュシエンヌの瞳に、破顔したレナルドの顔が映る。それは『終焉の悪女』の記憶にある穏やかすぎる笑顔でも、リュシエンヌに戻ったばかりのときに見せていた胡散臭い笑顔でもない。ミオがイリスに見せてくれていたころと同じ、無邪気な笑顔だ。
(そっか。私、何度も記憶を失って……そのたびに)
「レナルド様」
「どうしたの?」
首を傾げたレナルドに、リュシエンヌは微笑んで次の言葉を紡ぐ。
「好きです」
「……うん。僕もだよ、リュシー」
彼の顔が近づいてきて、涙をこぼしたまなじりに口づけされる。驚いているリュシエンヌに、至近距離で照れくさそうに目を細めたレナルドは、もう一度顔を近づけた。柔らかに唇に重なった感触を受け入れて、リュシエンヌは再び瞼を伏せる。
そうして、ようやくリュシエンヌは、この世界に帰ってきたことを受け入れたのだった。
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