第28話 神に与えられた祝福

 思考を放棄したリュシエンヌは、そのまま意識が闇に呑みこまれて、いつの間にかうとうとと眠りについていた。


 次に目覚めたのは、外がにわかに暗くなった時間である。宵の口の空は、夕日の光をわずかに残して菫色だ。カーテンを開いたままの窓からは、うっすらと影が落ちている。


 そんな時間になって、ドアのノック音が部屋に響いた。


(やだ、寝てたんだわ)


 ベッドから身体を起こしたリュシエンヌは、ドレスの裾を整えながら立ち上がった。


「どなた?」


 問いかけはしたものの、この部屋に直接訪ねてくるのはベルナールか、レナルドしかいない。ベルナールならばノックと同時に声をかけられるからレナルドに違いない。


「……レナルド様?」

「話をしにきたんだけど、入ってもいいかな?」

「はい」


 ドアを開けたリュシエンヌは、部屋に入るのを躊躇った顔をしているレナルドに首を傾げた。


「どうぞ」

「うん」


 部屋に招き入れてドアを閉じたところでようやくリュシエンヌは気づく。部屋は薄暗く、もう異性を寝室に入れるべき時間ではないだろう。


(でも話があるっていってたし)

「まずはお疲れ様。久々に外に出て疲れたでしょう」


 レナルドはソファに腰掛けたりせず、立ったまま話し始める。


「大丈夫です。その……さっきまで寝てましたし……」

「そうなの? ならよかった。バティスト・ルベルは昼間の裁定通り、爵位剥奪が決定して、労役が課されることになったよ。リュシーのこと以外にも余罪があるようだから、調査は続けるけどね」

「そうですか」


 相槌を打ったところで、なんとなく会話が止まる。


「……リュシー。これで僕たちは、命をつけ狙われることもないし、脅かされることもない。婚約を反対する者もいない。だから……」


 レナルドは懐から小箱を取り出す。目の前で開いて見せられた箱の中には、宝石のはまった指輪があった。


(これって……)

「結婚しよう」


 思いがけない話に、リュシエンヌはぽかんとする。


「リュシー、受け取ってくれる?」


 当然のように差し出された指輪。もしそれを受け取れば、どういう意味になるのかはリュシエンヌだってわかる。これは結婚指輪だ。そもそも二人は婚約者同士なのだし、この世界の常識からすれば、なるほど二人は適齢期だろう。国王の許しさえ出ればもう婚姻だってしていい。レナルドがプロポーズをしてきたということは、きっと許可も出たのだろう。だが。


(どうしてプロポーズ?)


 今起きていることが受け止められない。リュシエンヌの心の浮かぶのは、喜びや照れではなく、ただただ戸惑いだ。


「レナルド様」

「なに?」

「……受け取れません。私は……もともとレナルド様と穏便に婚約を解消するつもりでした。だって」


 言葉を続けかけて、リュシエンヌはつじつまが合わないことにきづく。


(だって、レナルドはイリスが好きなはずで……)


 言いかけた言葉が出てこない。

 リュシエンヌはこのところの怒涛の展開で、忘れていた。いや、考えるのを放棄していたというのが正しいのかもしれない。小説の中のレナルドはイリスを好きだったし、憑依した以後も『イリス』という女性の名前を、愛おしそうに呼んでいるのを聞いている。


 だからレナルドが好きなのはイリスで間違いないとリュシエンヌは思っていたし、イリス・デュメリーに対して冷たくあしらうのも政略の婚約者に対するポーズだとずっと思っていたのだ。


 だが、レナルドはリュシエンヌに対して甘い態度をとるうえ、怪我をしてまで彼女を救おうとした。極めつけに、リュシエンヌを『イリス』と呼んだのだ。


「だって、レナルド様は、デュメリー嬢を好きなんじゃ……」

「笑えない冗談だね、リュシー」


 リュシエンヌの言葉を待っていたレナルドは、やっとそう言った。差し出したままだった指輪の箱を、近くのテーブルの上に置いて、レナルドはリュシエンヌに向き直る。


「前にも言ったけれど、僕はこの婚約をなくすつもりはないし、デュメリー嬢なんか好きじゃないよ」


 真摯に見つめる群青の瞳に、嘘は見えない。もはや眼帯をはずした彼は神の子の証を隠すことはないのだろう。だが、今まで隠してきた理由がわからない。


「リュシー。僕が好きなのは君だけだ。イリスという名前は、僕が君につけたあだ名だよ。……リュシーは忘れてるかもしれないけど」

「私の……あだ名……?」


『ねえ、名前を教えてくれないなら、僕がつけていい?』


 呟いたとたんに、脳裏に少年の声がフラッシュバックする。


『目の色が似てるから。イリスって呼ぼう』


 それは確かに、彼女が昔見ていた夢の中のできごとだったはずだ。


(待って。それじゃあ、あの銀髪の少女の夢は……)


 リュシエンヌに憑依する前に何度も見ていた夢。銀髪の少女が金髪の少年と遊んでいて、イリスと呼びかけられる夢だ。朗らかな少女と、暴れ回るリュシーのイメージが結びつかなくて、全くの別人だと思っていたのに。


(そんなはずない! 私が、イリスなわけ……! レナルドが私を好きなはずないじゃない! それに)


「私の首をしめようとしたり、誰だって言ったり……おかしいじゃないですか」


 まるで態度がバラバラだった。あれは一体なんなのか。リュシエンヌのことを元から好きだったとしてもわからないし、後から憑依した彼女を好きになったんだとしたら、唐突にすぎる。好きになられるきっかけなどなかっただろう。


「あのときはごめん。まだ思い出してなかったんだ」

「思い出す?」


 リュシエンヌがぴくりと震える。彼の気持ちなど、わからない。わからないことだらけの思考の中に、『思い出す』という単語が刻まれる。刹那に心が拒絶を訴えた。


(だめ。たぶん、これ以上聞いたら)

の意識が、今までの『リュシエンヌ』と違うことにはすぐ気づいた。だって、僕には『神の与えた慧眼』の祝福があるからね。……普段は嘘がわかるくらいしか働かないけれど」


 苦笑したレナルドはさらに続ける。


「慧眼が、いつだって万全ならすぐにわかったのに。ごめん。リュシーが、『リュシー』だって教えてくれるまで、忘れてたんだ」

「レナルド様」


 待って欲しい、という意味でかけた声は無残にも無視された。


「僕たちは、二周目の人生だってことを」


 瞬間に大きく胸が跳ねる。


「違います」


 つい口をついて出たのは、否定の言葉だった。心臓の音が大きくなったかのように、どくどくと身体を支配する。


(考えたらだめ)


 冷や汗が噴き出て、次の言葉を探そうにも出てこない。彼女は今まで、ときどきに感じていた違和感について、忙しさで考えられなかったのではない。思考をずっと放棄していたのだ。


 リュシエンヌとまるで同化したかのようにリンクしやすくなってきている感情も、喋り方も、家族への想い、そして、レナルドへの気持ちも。さっきだって、どうして『リュシエンヌ』ではなく『私』のことを好きなはずがないと思ったのか。全ての原因にうすうす勘づいていて、それでも考えないようにしていた。


「リュシーの祝福は、『神に与えられし廻る運命』でしょう? 君は、生を終えても別の人生に生まれなおし、転生することができるんだ。だから、君が海に身を投げたあの人生から、今、やり直しているんだよ」

「うそだわ、だって……」


 首を振ったリュシエンヌは、レナルドから目を逸らす。


「だって、そんなわけない。私が……最初から、リュシエンヌだったなんて」


 否定したくて口にした言葉は、ずっと心の奥底では考えていたことだ。

 この世界は、小説なんかではない。小説の展開や設定とあまりにズレすぎている世界は、彼女が過去に夢で見ていた世界そのものなのだろう。そして、見ていた夢がいつも誰かの目線を通したものばかりだったのは、きっとそれが彼女自身が経験したことを夢で見ているだけだからに違いない。


「私が、私が魔法を暴走させて、世界を滅ぼそうとしたなんて」


 過去に見ていた夢が、全てリュシエンヌの記憶だとしたら、彼女の過去がリュシエンヌだったことになってしまう。誰からも愛されず、最後には自滅した悪女が。


(リュシエンヌが自分の過去だなんて、気づきたくなかった)


 だが、これで全てのつじつまが合う。宵の神の子の少女として、レナルドと交流をしていた少女の『イリス』も、リュシエンヌの過去だった。経験していないはずの折檻を身体が異常に恐れるのは、彼女自身が経験した前世だからなのだろう。そのリュシエンヌの記憶が酷く遠いのは、『神に与えられし廻る運命』によって、何度も転生し、いくつもの人生を経て、ようやくこの人生に戻ってきたからだ。


「そんなの、いや……!」


 叫んだリュシエンヌの身体から、暴風が吹き出した。

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