第20話 神の子

 レナルドの眼帯に隠された右目は、美しい群青色をしていた。両眼ともに群青色の瞳で、琥珀色の髪を持つのは神の子の特徴である。


「……レナルド様、その目……」

「ああ、眼帯が取れてしまったね」


 苦笑したレナルドが、またリュシエンヌの頬を撫でる。


(いつの間に右目が治ったの? 小説の流れにまたねじれが出た?)


 『暁の救世主』の中で、欠落王子であるレナルドは、イリスのピンチをきっかけにして、失明していた右目に視力が戻り、神の子としての姿になるというくだりがある。強引にあてはめれば、今リュシエンヌを助けたシーンと一致するかもしれない。


(でも、さっきの夢では……リュシエンヌの記憶では、そんなこと起こらなかったのに)


 そう考えて、すぐに矛盾に気付く。


(さっき見たのが、リュシーの身体に宿る記憶なわけないじゃない。だって、リュシーとレナルドは婚約破棄もしていないし、今、生きてるもの。……じゃあ、未来に起きること……?)


 レナルドを見つめたまま黙り込んだリュシーに、レナルドはふっと息を吐いて、彼女を横抱きにして立ち上がる。


「きゃっ!?」

「ひとまず着替えと……休養が必要だね」

「レナルド様! お怪我が……!」


 彼女を抱き上げたその腕も怪我をしているというのに、そんなものを全く気にしていない様子でレナルドはリュシエンヌの額に唇を落とした。


「な……」


 突然のレナルドの奇行に、顔を赤くしてリュシエンヌは叫びそうになったが、なぜだか急に目が痛んできて視界が暗くなり、そのまますっと目を閉じる。そのときには、もうリュシエンヌの意識は落ちていた。


「僕は問題ないよ。今は……君を離したくないから」


 眠りについたリュシエンヌに小さく囁いて、レナルドは彼女を抱きしめなおす。


「殿下」


 リュシエンヌを運ぶのを代わろうとベルナールが声をかけたが、レナルドは首を振った。


「彼女はこれから僕の離宮で休ませる。卿はルベル家にリュシエンヌが今日は帰らない旨を伝えるんだ」


「しかし」

「ベルナール卿」


 反論を低い声で制止する。ベルナールが止めるのはもっともだ。婚儀を挙げていない令嬢が、若い男の家に泊まるなどありえない。それが例え婚約者で、相手が王族だとしても。けれどそんな常識を無視してまで、レナルドは今、リュシエンヌを留め置こうとしていた。


「僕は、君のことが気に入らないけど、リュシーの味方だと信じている。だから言うが、さっきのは彼女の魔法だ。彼女が魔法を使えることが周囲に伝われば……どうなるか君ならわかるだろう?」


 レナルドは静かに言う。


 魔法を扱える人間は珍しい。あれほどに強い魔法を扱える彼女ならば、聖女に認定されてもおかしくない。リュシエンヌの身体は、風を操る魔法がさきほどは発動したが、扱える属性はそれだけではない。バティストを吹き飛ばしたときには、光を発生させていた。それは実のところ、天候をも左右する力を持っている。それほどに強大な魔法を使える存在は、もはや兵器だろう。


 聖女などではなく、周辺国を侵略するための戦略兵器として使われ、あるいは他国からは彼女を略奪するために攻め入られることになりかねない。今は戦乱などない平和な国だが、彼女の魔法の力が下手に露見すれば、リュシエンヌはかならず国のいざこざに巻きこまれる。


 今ここでリュシエンヌを家に帰せば、先ほど生じた強力すぎる魔法の痕跡が、彼女の身体を通じて王都中にふりまかれることになる。以前バティストを弾き飛ばした程度の小さな魔法ならば、その痕跡はよほどのことがないかぎり気づかれることはあるまい。今の暴走だって、魔法の使えないただの人間ならばわかりようもない。だが、魔法を使える人間ならば、この規模の魔法の痕跡は探そうとせずともたやすく見つけることができるだろう。そしていずれリュシエンヌは国に取り上げられてしまう。それこそ、王族の末端に席があるにすぎない第五王子などでは手の届かない存在になるだろう。


「わかっていると思うけれど、さっき起こったことは他言無用だよ」

「……わかりました。王子殿下の、仰せのままにいたします」


 ベルナールが頷いたのを見て、レナルドはようやく小さく息を吐く。そうしてその日、リュシエンヌはレナルドの住まう離宮に泊まることになった。


***


 ずいぶんと長く眠ったような気がして、ゆっくりと目を開くと、目の前に誰かの顔があった。琥珀色のまつげを伏せて、眠っている人物。それは紛れもないレナルドだ。


「……っ!?」


 大声を上げそうになって彼女だったが、すんでのところで思いとどまった。


(これは、どういう状況……?)


 視線をさまよわせて辺りを見回せば、見覚えのない部屋で戸惑う。窓から入る光から察するに、まだ夕方前といったところだろう。ゆっくりと目覚めるよりも前の状況を思い返して、どうやらレナルドの離宮らしいと彼女は見当をつける。


(でも何で隣に寝てるの? いくら不遇の王子だからって、いくらでも別の部屋があるでしょう?)


 身体を起こしてそっと距離を取ろうとした彼女は、そこでやっと、手をしっかりと繋がれていることに気がついた。それをそっと剥がそうとしたところで、ぎゅっと握りなおされる。


「起きたの……?」


 うっすらと目を開いた群青の瞳が笑んで、ぐっと腕を引っ張られる。その勢いで彼女の身体はぽすん、とベッドに再び沈み込んでしまった。


「僕も寝ちゃってた。もう少し一緒に寝よう?」


 ふふ、と小さく笑いながら言うと、レナルドは再び目を閉じる。いつもの彼女なら、レナルドの態度が甘すぎることに眉を顰めるところだが、今はそんな気にもならない。彼の頬にも腕にも、包帯などの手当の跡がたくさんあったからだ。


(私が、傷つけたんだ……)


 魔法が暴走する直前に見た夢が現実に起こるのならば、あの時の暴走でレナルドの命を奪っていたかもしれない。それほどに危険な状況だった。なのに、レナルドは彼女を抱きしめて絶対に離さなかったのだ。


「レナルド様、ごめんなさい……痛かった、ですよね……」

「大丈夫だよ。こんなのすぐに治る。君の痛みに比べたら……」


 小さくあくびをしたレナルドはまだ寝ぼけているらしい。


「私は痛いところなんて、ありませんよ」

「うん。今はね」

(今は?)

「どうして……私を助けてくれたんですか? こんな怪我をしてまで」

「そんなの、当たり前だよ。もう一生、痛い思いなんてさせないから」


 寝ぼけ眼が再び開いて、彼女の顔を見つめると幸せそうに微笑んだ。


「ああ。僕のイリス。やっと言える」


 彼女の手を引き寄せると、レナルドは頬ずりして目を閉じる。


「イリス、君は僕が守るよ」

「え……」


 小さく呟いたのを最後に、レナルドの反応がなくなり小さな寝息が部屋に響く。酷く優しい声音のせいで頬がわずかに赤らんだが、すぐに胸が小さく痛みを訴える。


「イリス……?」


 自分に向けられた言葉なわけがない、と身体を起こして彼女の動きで、ベッドの上で何かがしゃらっと音をたてる。それはレナルドの首にかかったペンダントの鎖がこすれた音だった。そのペンダントトップは、本のような形をしていて、表紙には紫の花の飾りがついている。


(アイリスの花?)


 思わずそっと手を伸ばした彼女の指先が触れた瞬間、そのペンダントトップはカシャっと音をたてて開いた。いわゆるロケットペンダントだったらしく、中には小さな肖像画が収まっている。


(もしかしてお茶会で、イリスの名前を呼んでたときに見てたものかも)


 肖像画を見ながら、愛しい女の名を呟くなんて、ずいぶんとロマンチックだ。てっきり茶色の髪の少女が描かれているかと思ったのに、目に入ったのは銀髪の少女の肖像画である。


(これは……リュシエンヌ?)


 猫のようにほんのり釣りあがった目に、見事な銀髪。きっと腕のいい職人に描かせたものなのだろう。だが、そのリュシエンヌにしか見えない少女の瞳は、菫色に描かれている。


(どうして……? ……ううん。勝手に見るものじゃなかったわ)


 ようやくそのことに気づいたリュシエンヌは、小さく息を吐く。


(まるで暁の救世主のイリスみたいな色あいね)


 思いながらロケットペンダントから目を逸らした彼女の視界に映ったのは、大きな鏡だった。鏡の中の彼女の姿は、紛れもないリュシエンヌの姿である。けれど、一つだけ、今朝この離宮に来る前の彼女と違うところがあった。


「……どういうこと?」


 彼女のアイスブルーのはずの瞳は、菫色に変じている。


(今度は、小説の『イリス』にでも憑依したの? でも、この身体はリュシエンヌのままだわ? それにこの色……)


『宵の神の子だ』


(どうしてリュシエンヌが、宵の神の子で……イリスって呼ばれるの?)


 混乱する彼女をよそに、すうっと寝息をたてたレナルドはもうリュシエンヌに言葉をかけることはない。彼女に巨大な爆弾を落として、レナルドはそのまま寝入ってしまったのだった。

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