第19話 リュシエンヌ・ルベル
人と関わるのは恐ろしい。それでもレナルドは恋しい。けれど監視の目が怖くて、レナルドと親しくなることはできなかった。心の中でだけ、リュシエンヌは何度も彼の名前を呼んだ。目を合わせられなかったけれど、ずっと好きだったのだ。
好きだから躾を受けて身体がどんなに辛くとも、定例のお茶会には必ず出席した。
好きだからレナルドを取り上げられるのが怖くて、必死にレナルドに興味がないふりをした。
好きだから、だめだった。ある日のお茶会で、レナルドが愛しげに『イリス』という女性の名前を呼んでいたのが、どうしても許せなかった。
「私に、会いたかったって。いつも、いつも私に言ってたのに……!」
イリスという女性が誰なのか、リュシエンヌにはわからなかった。彼女はルベル家に囲いこまれていて、イリスという女性を調べようにも、代わりに調査をしてくれるような人は誰もいない。護衛騎士のベルナールはリュシエンヌに親身でも、彼女の側を片時も離れないのだから頼めるはずもない。社交界に顔を出させてもらえないリュシエンヌは、イリスという女性とレナルドがどんな仲なのか、知ることすらできなかった。
いつかレナルドと結婚して、ルベル家を出ていくことができる。たったそれだけがリュシエンヌにとって心の支えだった。そのせいでレナルドの裏切りは許しがたく、お茶会の度に暴れて彼を罵った。けれど、イリスという女性について言及して、はっきりとリュシエンヌに気持ちがないことを告げられるのが怖くて仕方がなかった。それゆえに、レナルドが好きな女性について聞くことはできなかった。だからきっと、レナルドにはリュシエンヌが突然わけもなく暴れるようになったと思ったことだろう。
そんなころだった。レナルドの両目が群青色になり、神の子としての地位を得て、『できそこない』の伯爵令嬢とは婚約破棄するとの噂が流れてきたのは。
政略結婚の道具としてすら使い物にならないリュシエンヌに、バティストは気がふれたように怒り狂って叱りつけた。婚約破棄はただの噂であり、まだ王家から破棄の申し入れは来ていなかったが、そんな噂が立つこと自体が問題だったのだ。
「お前が愚図だから、こんなことになるんだろうが!」
「お父様、ごめんなさい、でも」
怒鳴るバティストに対し、弱々しくリュシエンヌは謝罪する。いつ彼女に向かってくるかわからない体罰よりも、今のリュシエンヌには言葉で詰られることのほうが辛かった。噂に誰よりも傷ついているのは、リュシエンヌ自身なのだ。
「誰もお前なんか愛さない!」
「いや……」
心の奥底でリュシエンヌが一番恐れていることを、バティストは容赦なく抉る。それ以上聞いていたくなくて、彼女は耳を押さえてうずくまる。しかし、バティストの罵声は止まらなかった。
「愚図だからお前は王子殿下に捨てられるんだ!」
「やめてぇ……っ!」
叫んだ彼女がきつく目を閉じて叫ぶ。そうして白い光が部屋を包んだかと思えば、暴走した魔法がリュシエンヌの身体を守り、彼女はその力を制御できないままにバティストをつむじ風で吹き飛ばしてしまった。壁に叩きつけられたバティストはもはやぴくりとも動かない。リュシエンヌの記憶の中に、彼女が魔法が使えただなんてことは一度だってなかった。魔法が使えたなら、きっと、今までバティストからの暴力に耐える必要などなかったのに。
「いや……もう、何もかもいや……」
リュシエンヌを痛めつける人はもういない。けれど、これ以上生きていたってリュシエンヌには希望がなかった。だから潔く身を投げて死のうと、海へと向かったのだ。けれど、歩む一歩一歩が、魔力の暴走で災害を生む。
海の崖っぷちにたどりついた彼女を追いかけてきたのは、レナルドと王宮の兵士たちだった。集まった兵士たちが手にしているのはリュシエンヌを殺すための銃である。
「やめるんだ!」
叫んだレナルドに、リュシエンヌは胸を穿たれるような痛みを覚える。それは、死ぬことをやめろと言っているのか、それとも世界を滅ぼすような魔法をやめろと言っているのか、彼女には判別がつかない。けれど、どちらにしろ同じことだった。
「やめられるわけがないじゃない! 手遅れなのよ!」
彼女にさえ暴走をする魔法を抑える術はなく、彼女が死ぬことでしかもう止められない。
「撃ち方用意!」
「よせ! 彼女は拘束するだけだ!」
「撃てーっ!」
レナルドの制止を無視して、無慈悲な掛け声が響き、銃が発射される。きっと、その魔法の弾丸すら今の彼女なら魔法で防ぐことができた。けれど、彼女の心があまりにも死を願っていたせいで、その無数の弾丸はあやまたず彼女の身体を貫く。その衝撃で、彼女は崖から身体をほおり出されてしまった。
「リュシー!」
叫んで伸ばされたレナルドの腕は、リュシエンヌには届かない。そうして痛みを抱えながら世界が白くなり、リュシエンヌはその命を散らした。
***
「……っは……っ」
脂汗を浮かべたリュシーは、どくどくと跳ねた鼓動に息を吸って目を覚ました。木漏れ日から落ちる日差しが目を焼いたいせいで、リュシエンヌは眩しさに一瞬目を閉じて、再び開く。そこは、王宮の庭園のガゼボ前だった。崖っぷちでも、ルベル家の折檻部屋でもない。
「リュシー?」
「……」
リュシエンヌのすぐ近くで心配そうに歪められたその顔は、崖から撃ち落とされた時、最後に見たレナルドの顔に、酷似していた。それを見とった途端に、また心臓がドクンドクンと跳ねて彼女の息が荒くなる。
「リュシー、大丈夫?」
レナルドの腕の中に抱き留められているのに気がついて、その緊張はピークに達した。
「いやぁ……っ!」
叫んだ途端に、リュシーの身体からつむじ風が起きた。それはレナルドの身体を吹き飛ばすには至らなかったが、制御を失った暴風はレナルドの身体を容赦なく傷つける。
(いや、いや……怖い……!)
恐怖が身体を支配して、かちかちと歯が鳴るほどに震える。
さっき見たものが夢なのか、それとも身体の記憶なのか、混乱した今のリュシエンヌにはわからない。あんなのは小説とも違う。けれど、無数の弾丸が身体を貫いた感触が、まざまざと蘇って吐き気がした。ただ血の気が引いて冷えていく感覚に、どこでもいいから逃げ出してしまいたくなる。その想いが強くなるほどに、つむじ風の勢いも増した。
「……リュシー」
名前を呼んだレナルドが、彼女の身体を抱きしめる。暴風は変わらずレナルドだけを傷つけているのに、彼はリュシエンヌを離さなかった。
「大丈夫だよ」
「離して!」
優しく囁く声も、力強く彼女の身体を抱きしめる腕も、暴走する魔法も、ただただ全てが怖い。
(レナルド様は私がティーカップを投げつけた時も、大丈夫だっておっしゃってた)
「離さない」
(違う)
「やめてよ!」
(それはさっきの記憶だわ!? 私は、そんなの知らない! 私の記憶じゃないのに……!)
リュシエンヌと彼女の意識が混濁して、心が勝手に悲鳴をあげて、さらに魔法が暴走する。
「なんで、私がこんな目に遭うの!?」
「辛かったね」
「あの時、抱きしめて欲しかったのに」
(違う、こんなの私言ってない)
リュシエンヌの声と、彼女の声が逆転して口に乗る。もう彼女にも、何を喋っているのかわからない。目からは勝手に涙が溢れた。つむじ風の外で必死に彼女の名前を呼ぶベルナールの声さえ今は届かない。ただ、うるさいリュシエンヌの声と、レナルドの優しい声だけが彼女を支配する。
(魔法の暴走が止まらない!)
「やだ、やだやだ……!」
混濁したリュシエンヌの声が、レナルドを否定する。魔法の暴走は止まるどころか嵐のように強まるばかりで、このままではとりかえしのつかないことになるだろう。それなのに、レナルドは離すどころか、抱きしめる腕を強めた。
「絶対に、離さないよリュシー」
耳元に囁かれた言葉と共に、嵐が吹き荒れる。
「リュシー」
優しい声だった。
(前も、ずっとそう呼んでくださってた……)
そう思った一瞬あとに、ふっと風が消えた。さきほどまで荒れ狂っていた風などなかったかのように、木漏れ日が落ちたガゼボは穏やかで、周りの物は一切何も壊れていないが、レナルドだけが傷ついている。彼は服が切り裂かれた上、身体のあちこちに怪我をしていた。
「早く、レナルド様にこうして欲しかったのに……」
誰のものなのかわからない涙が、リュシエンヌの頬を伝う。
「ごめんね、リュシー」
傷つけたのは彼女なのに、痛みをこらえるようにリュシエンヌの顔を覗き込んだレナルドは、彼女の頬を労わるように撫でる。
(どうしてあなたが謝るの……?)
「もっと早く、抱きしめられなくてごめん」
そう呟いたレナルドの右目にかかっている眼帯が、するりと滑り落ちた。
「お嬢様! 殿下!」
駆け寄るベルナールと、謝るレナルドの声を遠くに聞きながら、リュシエンヌは眼帯の下から現れた澄んだ群青色の瞳に釘付けになっていた。
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