第18話 ねじれていく現実と既視感

 今日は夜会を終えてから初めてのお茶会だった。いつも通り馬車で王宮に向かい、侍従が出迎えた後にベルナールと二人で庭園のガゼボに歩いて行く。


(会うの気まずいな……)


 リュシーは歩きながら、先日仕立て屋で会ったイリスの様子を思い出す。


『もしよければ、私のお友達になってもらえませんか?』


 その言葉は、ちょうど店員が戻ってきたときに発せられた。今後の展開のためにもイリスとは極力接触したくないのだから、当然断るべきだろう。しかし、店員の目の前でその申し出を断れば、一体どんな噂を立てられるかわかったものではない。直前にもイリスは第五王子殿下という言葉を店員の前で話していたし、リュシエンヌの身元はバレてしまっているに違いない。そうでなくとも、この後ドレスを注文するのだから、彼女の身元は知れる。結果的に、リュシエンヌはイリスの申し出を受け入れる他なかった。


(友達になるっていうのがベルナールと親しくなる機会を増やすため、なのはわかるんだけど……)


 王宮にまで来てお茶会に気乗りせず、リュシエンヌの歩く速度は遅くなってしまう。この先にはレナルドが待っているはずだ。


(レナルドも不憫よね)


 以前のお茶会で、彼は愛しそうにイリスの名前を呼んでいたのだ。だが、イリスはベルナールに想いを寄せている。


(イリスの気持ちを知ったらショックだろうな。ううん、婚約者がいるのに他の女の子に片思いしてるほうが圧倒的に悪いし報われないのも仕方ないのかもしれないけど……。でも、ずいぶんと小説の流れからねじれてきちゃってるわね)


 そこまで考えて、リュシエンヌはとある可能性に気づいた。


(レナルドとイリスが両想いにならなかったら、もしかして私との婚約破棄の流れもなくなるのかしら)


 そもそもレナルドがイリスと結ばれないなら、レナルドが婚約破棄をする意味がなくなるだろう。そうなれば小説内の展開でリュシーが暴走したような事態にはならないはずだ。


(もしかしてもう『リュシー』が世界を滅ぼそうとするような道筋は消えているってこと……?)


 思案して、すぐにリュシエンヌは気を引き締める。


(でもイリスが暴漢に襲われそうになったくだりは起きたんだから、強制力のようなものには備えておいたほうがいいはず……)


 うまく対策が練れているわけでもないのに、状況ばかりが二転三転していく今に、リュシエンヌは溜め息を吐く。暇を見つけては魔法の練習をしていても、発動自体ができないから制御の方法もまだわからない。


(レナルドが婚約破棄しなければいいのかな。私は別にレナルドのこと好きなわけじゃないし、本当はどうでもいいんだけど……)


『僕はリュシー以外の女性には興味がないからね』


 不意にレナルドの声が頭に浮かんで、リュシエンヌは顔を赤くする。彼女の足が自然と止まってしまったが、後ろをついて歩くベルナールはそんな彼女に話しかけることはしない。百面相をしながら物思いに沈む様子のリュシエンヌが歩き始めるのに任せるつもりのようだ。


(なんでそこであのセリフが出てくるのよ。レナルドが誰を好きだろうと関係ないでしょう! 私は悪役に仕立てあげられなければなんだっていいんだから!)


 憤然として再び歩き出したリュシエンヌは続けて考える。


(婚約破棄以外の理由で、この身体が暴走を起こす可能性だってあるもの。そっちのほうを考えないと。暴走起こしたら結局、世界を滅ぼす『終焉の悪女』になっちゃうし……そう、レナルドが誰を好きかじゃなくて、魔法が暴走しないように、っていうのが大事なのよ)


 そう結論つけたところで、ちょうどレナルドの待つガゼボにたどりついた。その足音を聞いて、レナルドが立ち上がると彼女をエスコートするために、手を差し出す。前回までのお茶会ではこんなことしなかったのに、どういう風の吹き回しだとリュシエンヌは思ってしまう。


(……そんなに婚約者を立ててるってアピールしなくても、私はレナルドがイリスを想うのを邪魔したりしないのに)


 呆れたような気持ちになりながら、リュシエンヌは差し出された手に自分のものを重ねる。するとレナルドはその手をわずかに握り返してきた。


「……お待たせしました」

「うん、待ってた」


 文句があるような言葉のわりに、その声音は優しく、握られた手は温かい。


「君に会えるのを楽しみにしてたんだ」


 そのセリフを発したレナルドは、今までにない穏やかな笑顔だった。


(あれ?)


『君に会えるのを楽しみにしてたんだ』


 頭の中に同じ言葉が響いて、リュシーの頭がズキンと痛む。響いた声は、今のレナルドよりももっと甲高い、少年の声だった。


(この言葉、前にも言われたことがある……?)


 確かに、そのセリフはお茶会のたびに言われている言葉だ。だが。


(もっとずっと、昔に……?)


 そう考えた時には、ぐるりと視界が反転して、リュシエンヌの身体は倒れこんでいた。


***


 『リュシエンヌ』の身体に宿る記憶の始まりは、十歳のころ、ベッドの天蓋で目を覚ましたところからだ。身体を起こせば、ズキズキと頭が痛んで、触れてみればそこには包帯があった。見覚えのないベッドに、見覚えのない部屋。


「お嬢様がお目覚めに……!」


 そう叫んで部屋を出て行った女の人にも、見覚えはなかった。


「……なに……?」


 自分の名前すら思い出せなかった彼女は、いわゆる記憶障害というやつだった。頭に酷い怪我があるから、きっとそのせいなのだろう。怪我の理由についても、すぐに見当がついた。


「記憶がないだと?」


 部屋にやってくるなり不機嫌そうに言った見知らぬ男は、「役立たずが!」と罵ってリュシエンヌの頬をしたたかに叩く。勢いでベッドに倒れこんだリュシエンヌは、頭の怪我は彼のせいだろうと悟った。


「祝福がないだけでも頭が痛いっていうのに、欠落したから罰を与えたらこれか? 何度問題を起こせば気がすむんだお前は!」

「ご、ごめんなさい……」


 怒られているからとりあえず謝罪が口からついて出たが、彼女には、その男が言っている言葉が全く理解できない。わかるのは頭が痛いということだけだ。


 その罵倒から始まった日にリュシエンヌが目を覚ましてから数日が経ち、部屋に来た男はどうやら自分の父親らしいと知ったが、彼女は父親に対して恐怖しか湧かなかった。なぜなら、口で言えば済む躾を、この父親は体罰という折檻でリュシエンヌに刻みこんできたからだ。


 以前からこんなふうだっただろうかと、記憶がないリュシエンヌはぼんやりと考える。父という人は名前を呼んでくれず、メイドたちは皆、リュシエンヌに冷たい。子どもを守るはずの母親もおらず、誰も彼もが怖かった。唯一護衛騎士だけは丁重に接してくれたが、七歳年上で成人男性と変わらない体格の彼は、父親の姿と重なって、話すのが恐ろしい。


 だから、屋敷の中に心を許せる相手など、誰一人としてリュシエンヌの側にはいなかった。


 そう時間をかけずに、彼女は恐怖でバティストの言いなりになった。出かける仕度をさせられたのはそのころすぐのことである。


「お前の婚約者になった王子殿下に会いに行く。お前は口をつぐんでおけ」


 身支度を済ませたリュシエンヌに、バティストが告げた言葉の意味がよくわからなかったが、とにかくリュシエンヌは黙っていた。


 きっと、この後に起きたことは、こんな環境に身を置いていたせいなのだろう。

 王宮の敷地内で案内された庭園に、その少年はいた。琥珀色の髪が日の光を浴びて、きらきらと輝いている。眼帯をしているのに、それが気にならないほど整った顔が、リュシエンヌの姿を見つけると屈託なく微笑んだ。


「君に会えるのを楽しみにしてたんだ。僕はレナルド。ねえ、君の名前を教えて?」


 優しい声だった。リュシエンヌの手を握る手も暖かくて柔らかい。たったそれだけ。


 けれどそれで充分だった。まっさらな記憶の中に暴力ばかりを与えられて、ずたずたに傷ついたリュシエンヌの心を、暖かいもので埋められる。


 そうしてたやすくも、彼女は恋に落ちてしまったのだった。

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