第15話 ねじ曲がった展開と恋心

 すぐに答えられなかったリュシーに、イリスは質問を繰り返す。


「リュシエンヌ様の騎士様を、『ベルナール様』と私が呼ぶのはご迷惑ですか、と聞いているんです」

(呼び名? そんなの)

「ええと、好きにしてくれて構わないわ……?」


 呼び方など当人同士が納得していればそれでいいだろうと思ったその答えに、イリスの顔がわずかに曇る。


(今の言い方だと、まるで私が『許可』を出したみたいじゃない? ベルナールが所有物みたいに……)

「ありがとうございます」


 リュシエンヌが言い訳をしようとした時には、イリスはベルナールの方に向き直った。


「では騎士様のことはこれからベルナール様とお呼びさせていただきますね」

「しかし……」

「騎士様のご主人様は『構わない』とおっしゃられましたわ」


 イリスが語気を強めてそう言う。

 話の流れとしては、ベルナールのことを名前で呼んでいいかと尋ね、それを拒否されたイリスがリュシエンヌに許可を求めた、ということのようだと彼女は理解する。


(呼び名にこだわるなんて、イリスはベルナールに執着しているの?)


 普通、他人を呼ぶ時はファミリーネームで呼ぶのが通例である。親しい間柄ならともかく、ほとんど初対面の間柄で名前を呼びたいとごねるのは失礼だ。ベルナールであれば、彼のファミリーネームはモランだから、『モラン卿』あるいは『サー・モラン』と呼ぶべきであろう。加えて、許可もなくリュシエンヌの名前を呼んでいるのだって無礼である。


 小説の中のイリスは確かに天真爛漫で可愛らしいキャラクターだったが、現時点でベルナールが嫌がっている呼び方を強要するのは、可愛らしいどころかただあつかましいだけだ。


 思わずリュシエンヌの口から溜め息が漏れる。それを聞き咎めたイリスがさらに不機嫌そうになった顔をリュシエンヌに向ける。


「ねえ、デュメリー嬢、ベルナールの意思を尊重してあげて」

「でもリュシエンヌ様はさっき構わないって」

「そう言ったのは、呼び方なんて当人同士が決めればいいと思っただけなの。ベルナールが私の護衛騎士だからって、彼の名前をどう呼ぶべきかなんて、私が決められることじゃないわ。ベルナールは物じゃないもの」

「お嬢様……」


 リュシエンヌの言葉に対して、穏やかな微笑みを浮かべたベルナールと、苛立ったふうなイリスは対照的だ。


「っそれは、そうですけど」

「デュメリー嬢」


 さらに言い募ろうとしたイリスに対して、ヒヤリとするような低い声を出したのは、レナルドだった。


「君が引き留めるからここにいたけれど、君のその態度はなんだい? リュシエンヌは伯爵令嬢だよ。僕の婚約者へのその無礼な態度は看過できないね」


 いつも爽やかな笑顔を浮かべているレナルドの口元が笑んでいない。それどころか気分を害したように引き締められている。


「第五王子殿下……その……申し訳ございません……」


 イリスが項垂れて、震えた声をあげた。


(どうしてレナルドはイリスに冷たくしてるの? イリスをなんとも思っていないっていう演技? 私に対するカモフラージュ? でも……)


 彼女の中身が元のリュシエンヌではないとレナルドは疑っているうえ、婚約破棄をしたがっているリュシエンヌに対し、婚約関係をことさら強調する必要がどこにあるのだろう。呆然としながらリュシエンヌが二人を見ていると、レナルドは彼女の肩にかけられていたマントをするりと取って、自分の羽織っていたマントをリュシエンヌにかけなおす。


「それから君も」


 ベルナールに笑っていない目を向けて、彼のマントを突き出した。


「婚約者でもない男が、淑女に自分のマントをかけるものではないよ。彼女に不貞の噂でも立ったらどうするつもりかな?」

「……考えが及ばず、申し訳ございません。お嬢様も、失礼しました」


 マントを受け取ったベルナールがそれを羽織りなおすのを見てから、レナルドはあいた手でリュシエンヌの肩を抱き寄せる。今の彼は、まるで婚約者以外の者は全て邪魔だとでも言いたげだ。


(この人、本当にどうしちゃったの?)

「大丈夫よ、ベルナール」

「リュシー」


 叱咤を含んだ声で名前を呼ばれたリュシエンヌは反射的にレナルドを見る。


「彼が専属の護衛騎士だからって、そんなに親しげにするべきではないよ」


 まるで嫉妬ともとれるようなその発言に、彼女はぽかんとする。


(あなたの好きな人はあっちにいるでしょう……? なんで私にそんなこと言うわけ?)


 ベルナールとのやりとりは、普段通りのものだし、今までの茶会も全てベルナールが随行しているから会話をしているところなど、何度も見られているはずだ。なのに、こんなことをわざわざ言ってくる意味がわからない。


「いいね?」

「……はい」


 念押しされた勢いに圧されてリュシエンヌは頷いた。


「震えてて体調もあまりよくないみたいだし、そろそろ帰ろうか」

「そうですね」

(イリスから離れられるなら、体調不良でもなんでもいいわ。ここに居続けるともっと面倒なことになりそう)


 頷いたリュシエンヌに、イリスが小さく声をあげる。その彼女にレナルドは鼻で笑ってみせた。


「まだ何か用があるのかな?」

「いえ……お大事になさってください、リュシエンヌ様」

「ありがとう。では失礼するわね」

「……」


 無言で礼をとったイリスに見送られて、リュシーたちはテラスを後にした。


 そうして夜会の会場を出た帰りの馬車の中は、何となく気まずい空気が流れていた。行きと同じように、馬車の中にはリュシエンヌとレナルド、そしてベルナールがいる。


(レナルドはどうしてイリスに冷たくしてたんだろう……?)

「リュシー、何か気になることがあった?」


 馬車の外を見ていたところに、レナルドから声がかけられる。


「……ええと、デュメリー嬢に酷い態度を取ってしまったかなと心配になりまして……その、レナルド様のお知り合いのようでしたし」

「ああ。知り合いと言っても彼女は僕の乳母の娘でね」

「それはかなり親しい間柄なのでは……?」


 思わず口が滑ったリュシエンヌに、目を丸くして、レナルドはふっと笑った。


「それは嫉妬?」

「違います!」

「親しくはないよ。デュメリー嬢の姿を遠目に見たことは何度かあったけれど、乳母は城に彼女を連れてこなかったからね。名前を知ったのもつい最近なんだ」

「そうなんですか? でも、乳兄妹なら彼女を名前で呼んでもいいのではありませんか?」

「……デュメリー嬢を『イリス』って? 呼ぶわけないだろう」


 ぴくりと眉を動かしたレナルドの声音は、やけに冷たい。


(お茶会でイリスの名前を呟いてたことを、誤魔化すつもりなの?)

「でも、前に、イリスの名前を呼んでたじゃありませんか。私が婚約破棄の話をしたのは」

「リュシー」


 ため息交じりに、低い声がリュシエンヌの声を遮る。


「前にも言ったけど、君と婚約を破棄するつもりは、ない。それに他の女性と婚約するつもりだってないよ」

「デュメリー嬢ともですか?」

「もちろん。僕はリュシー以外の女性には興味がないからね」


 何の気なしに告げられた言葉のせいで固まったリュシエンヌは、リップサービスとしか思えないのに次の糾弾のセリフが不意に飛ぶ。とくん、と胸が跳ねたように感じたのは、きっとレナルドに執着していたリュシエンヌの身体の記憶のせいだろう。


「……レナルド様?」

「君は僕の婚約者なんだ。当たり前だろう?」

(全然当たり前じゃない。イリスが好きな人が何を言ってるの?)


 顔に困惑ばかりを浮かべたリュシエンヌに、レナルドはまた笑う。


「……君は表情が豊かになったね」


 小さく呟いたレナルドの言葉をリュシエンヌは聞き洩らしたが、彼は気にしていないようだ。


「とにかく、伯爵令嬢であり僕の婚約者であるリュシーに対して子爵令嬢が無礼な態度だったんだから、あんなの冷たい態度にも入らないよ。身分相応の扱いをしただけ。リュシーが気にするような令嬢ではないよ」


 最後の言葉を強調するようにゆっくり言うレナルドに、リュシエンヌは眉をひそめる。


(やっぱり、イリスへの想いをカモフラージュするためにわざとこんな態度取ってるんだわ)

「……わかりました」


 頷いてリュシエンヌは更に思案する。


 イリスへの恋情を隠し、リュシーの目からイリスを守るためにあえて冷たく接した。そうすれば浮気相手をリュシエンヌが糾弾することもないだろう。


(ここで騙されてあげれば、レナルドはイリスを隠し続けるだろうし、イリスと接する機会が経って彼女に嫌がらせをしたっていう強制力も働きづらくなって、穏やかに婚約破棄に繋げられるかな。協力を仰ぐよりも、レナルドのさせたいようにしてあげればいい?)


 リュシエンヌの中身が変わっていることをレナルドが疑っている件は、ベルナールの前では話せない。ずっと甘い婚約者の演技を続けているのはベルナールの前だからなのだろう。


(でも、私に事情を話して協力したほうがずっとやりやすいはずなのに、レナルドはどうしてイリスとの関係を隠そうとするの……?)


 思考は行きづまってそれ以上レナルドの行動の理由について考えられず、リュシエンヌはさじを投げた。


「レナルド様の言葉を信じます」

(とりあえず、波風は立てないでおこう)


 慣れない夜会のせいだけでない疲労を感じながら、リュシエンヌは屋敷へと戻ったのだった。

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