第11話 疑いの眼差し

 どくん、と胸が跳ねて、うるさく鳴り始める。


「な……にを言ってるんですか?」


 緊張でかすんだ声が嫌に耳に響く。


(まさか、この話をするために……デートに誘ったの?)

「とぼけなくていいよ。僕は君が嘘をついているかどうか、ちゃんとわかるんだ」

「レナルド様」


 名前を呼んだ瞬間に、レナルドの口がく、と歪んで笑む。


「君はいつから、僕のことを『レナルド様』と呼ぶようになったの?」

「え……」

(うそ……小説の中ではそう呼んでたのに!?)


 驚いたリュシエンヌはレナルドを見つめ返すが、その群青の左目からは嘘を言っているようには見えない。しかし、見つめた目が細まった。


「ねえ、君はいつから僕の目をそんなにまっすぐ見つめられるようになったの?」


 レナルドはリュシエンヌの顎を固定したままだ。とはいえ、逸らそうと思えば顔は背けられるはずなのに、レナルドから目が離せない。


「それは……」


 答えられずに、リュシエンヌは唇を噛む。その痛みでやっと、目が逸らせた。視界の端で、レナルドの端正な顔が曇ったのがなんとなく見える。こういう視界でレナルドの顔を見るのは、初めてではないような気がした。


 その時、不意にリュシエンヌの頭に記憶が浮かぶ。それは過去のレナルドとのお茶会だった。レナルドはいつもの爽やかな笑みを浮かべて話しかけているが、リュシエンヌはほとんど返事を返さない。不機嫌そうな声をあげているが、決してレナルドと視線が絡むことはない。リュシエンヌは、ずっとレナルドの視線を避けていたのだ。


 きっと、誰に対してもそうだったのだろう。家の中ではバティストに折檻を受けていたから怖くて人の目が見られず、他人の前ではそれを悟られるのが怖くて、わざと不機嫌そうに振舞う。


 婚約者のレナルドのことなど、名前で呼んだことなかったのだ。『殿下』とすら呼んだことがない。

 リュシエンヌ・ルベルはそんな少女だった。彼女が憑依するまでは。


 身体に残った記憶は本棚に並んだ本の背表紙のようで、視界に入っていてもきちんとタイトルを見ようとしなければ意識できない。思い出そうとすればおぼろげに記憶が蘇るが、逆に言えば思い出そうとしなければ知識として身についているわけではない、不便な記憶だった。そのせいで、今、レナルドに不信感を抱かせてしまっている。


(何か、言わなきゃ……でも)


 嘘がわかると言われても、何をどう話していいのか彼女にはわからない。


『ここは小説の中の世界で、私は悪役リュシーの身体に憑依した作家です』


 素直にそう言うとして、そんな戯言を一体誰が信じるというのだろう。そもそも、小説においてリュシーを殺すための軍を連れてくるのは、レナルドだ。事情を信じてくれたとして、その未来が変わるとでも言うのか。


(この人は、イリスを好きなのに)


 ヒロインを好きな人間に事情を説明して、悪女が助けてなどもらえるだろうか。小説の強制力が悪い方向に働いて、もしも死期が近くなるだけだったら? それにここが本当に小説の世界かどうか、まだわからない。小説の中では『レナルド様』と呼んでいたのに、この世界では名前すら呼んでいなかったのだから、乖離がありすぎる。けれど、小説にリュシーが登場するのは後からだから、もしかしたらイリスという恋敵が現れて初めて名前で呼ぶようになったのかもしれないとまで思うと、何がなんだかわからない。


 小説の中の『リュシー』はただ、不機嫌そうな顔ばかりを見せるキャラクターだった。夢で見た印象をまとめてただの悪役として『リュシー・ルベル』を描いたから、リュシーが登場していない裏側で何を考えていたのかまでは描写していない。そんなぽっかりと開いた設定の穴埋めを、世界がこんなふうにするなんて、彼女は思ってもいなかった。


「……答えられない?」


 黙り込んでいるリュシエンヌに、レナルドが追い打ちをかける。またも誤算だ。悪女になる未来を避けることは考えていても、レナルドに疑われるなど、想像もしなかった。


 黙っているままでは、状況は打開できないだろう。嘘ではない『何か』を言うほかない。


「昨日からです」

「うん?」


 首を傾げたレナルドに、生唾を飲んでリュシエンヌは逸らしていた目線を戻す。


「昨日から『レナルド様』と呼ぶことにしました。目を合わせるのも。今は婚約者、なので」


 心臓がずっと早鐘を打っているのは、彼に伝わっているだろう。しかし、こんな密着していれば誰だって焦るに違いない。少なくとも結婚するまで男女の仲にはならないのが当たり前の世界なうえ、今まで視線を合わせることすら避けてきた婚約者に腰と顎をホールドされた状態で動揺するなというほうが無理だから、これは誤魔化せるだろう。


「ふうん? それは嘘じゃなさそうだね? でも昨日は婚約破棄をしようって言ってたのに? 婚約者ぶるの?」

「婚約破棄を……レナルド様が望んでいるなら、そうしたほうがいいと思って……」

「へえ……嘘でもないけど、本当でもないってところか。じゃあさ」


 顎を支えていた手が、すすっと滑って、首を柔らかく締める。


「僕と『リュシエンヌ』が一緒に外出するのは初めてなのに、どうして『久しぶり』って言葉を否定しなかったの?」

「……聞き逃してました」

「何度も言ったのに?」

(もう! 何なのよ!)


 首に添えられている手に力は籠っていない。だが、無理に逃げようとすればレナルドがどう反応するのかわからず恐ろしい。なにしろ、彼は小説の中の爽やかなレナルド王子ではなく、どこか腹黒さを漂わせる男だ。


「聞き逃したんじゃなくて、聞き流してたんでしょう? 本当かどうかわからなかったから」

「なんで……?」

(それを知っているの?)


 驚いて息を飲んだリュシーの首を、レナルドの指が撫でる。


「じゃあもう一度聞くね? 君は、誰?」

「私、は……」

(白状して、レナルドに協力を仰いだほうがいい……?)


 喉元まで答えが出そうになった、その時だった。


「お嬢様! リュシエンヌお嬢様! どこですか!?」


 慌てた様子のベルナールの声が遠くから聞こえる。


「……ッベル……!」


 叫ぼうとしたリュシエンヌの口を素早くレナルドが抑え込んで、小さく嘆息する。


「残念。時間切れか。彼けっこう優秀だね」


 するっと拘束を解いて手を繋ぎなおすと、レナルドはベルナールのいる大通りのほうへと彼女を連れて戻って行く。


「やあ、すまないね」

「殿下」

「別のお店に行こうと思ったんだけど、道に迷っちゃってね。君が探してくれてよかったよ」


 ベルナールと合流したレナルドは用意していたかのように嘘をついて爽やかに笑う。


「街中を移動されるのでしたら、私をお待ちください。護衛なしで歩かれるなど……」

「わかったよ、次からはそうしよう。それより」


 ちら、とリュシーに目を向けて、レナルドは心配そうな顔を作った。


「リュシエンヌの体調が悪いようだから、今日はもう帰ろう」

「! お嬢様、大丈夫ですか?」

「え、私は……」


 大丈夫、と言おうとしたが、先ほどのことのせいで顔が赤かった。これでは体調が悪いと思われても仕方がない。


「……そうね。今日は、帰らせていただきます」

「うん。そうしたほうがいい。茶葉を見に行くのは、リュシエンヌが元気になったらにしよう」

(さらっと次の約束とりつけたわね、この人)


 顔が引きつったが、ここで断るわけにもいかないだろう。それが例え、腹黒な男の策略だともうわかっていても。


「はい……そうですね」


 かろうじてそう返事をして、レナルドとの初デートは幕を閉じた。

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