第6話 婚約破棄はお早めに

「ありがとうございます」


 どう返していいかわからずに、とりあえずリュシエンヌはそう礼を告げる。

 彼のこの言葉は、お茶会の始まりのお決まりの文句だった。それに対して、小説の中のリュシーは『うそばっかり!』と暴れていたのだ。そうでなくとも、フラッシュバックしたリュシエンヌの記憶の中では、リュシエンヌはただ不満そうに黙って拳を握るばかりだった。


 今まで彼に愛想よく振舞っていなかったのでこの態度は不自然かもしれないが、これから円満な婚約破棄を目指すなら、印象をよくしておいて悪いことはないだろう。


「今はお茶の気分じゃなかったかな?」

「いえ」


 笑顔を貼り付けたままだったリュシエンヌは慌ててカップを手に取る。口元に近づけると、ふんわりと甘い香りが鼻をくすぐった。


「……いい香り」


 ぽそりと小さく声が出て、一口飲みこむ。初めて飲むはずの味わいだったが、どこか懐かしくて優しい甘さだ。


「おいしい……」


 あれこれ考えていたことが吹き飛んで、ほっと息を吐く。そんな彼女を探るような目つきで王子が見つめていたのに、リュシーは気付かなかった。


(茶葉から淹れたお茶なんて久しぶりに飲んだなあ……)


 続けてお茶を口に含むと、先ほどの貼りつけた笑みではなく、自然と口元が緩んだ。


「口に合ったならよかったよ」


 その言葉で、ギクリとする。レナルドが目の前にいたことを思い出して顔色をうかがえば、彼は群青の目を細めてにこりと微笑む。


「リュシエンヌは前からお茶が好きだったかな?」

「言ってませんでしたっけ?」


 答えてから、しまったとリュシエンヌは心の中で叱咤する。小説の中に、リュシーがお茶好きだなんて設定は書いてなかったはずだ。


「……そうだね、リュシエンヌからは、聞いていないかな。それはハーブティーだけれど、ドライフルーツをブレンドした紅茶はどう? 甘い風味が似ているだろう?」

「好きです!」

「それは良かった」


 言下に答えてしまって、リュシーは口をつぐむ。


(どうしよう、こんなに馴れ馴れしくして大丈夫……? まず、レナルドがリュシーのことをどう思ってるのか確認しないといけないのに)


「なら、今度一緒に茶葉を見に行こう。明日なんてどうかな?」

「えっ?」


(今この人、私のことをデートに誘ったの?)


「だめかな?」

「あ、あの……」


 レナルドは楽しそうな顔で聞いてくるのに、どうすべきか焦ってリュシーはちらりと後ろのベルナールを見てしまう。


「できれば」


 唐突に低い声になったレナルドにまた驚いて、リュシエンヌはぱっと視線をレナルドに戻す。


「ふたりきりで行きたいのだけど」

「えっと……」


 顔は相変わらず笑んでいるが、なんとなくレナルドが怖い。


(ふたりでないと話せないことでもあるの?)


 そう考えたところで、リュシエンヌは(ああ)と小さく嘆息した。


「……レナルド様。大事なお話があるんですね?」

「うん?」


 目線に険がこもっていたように感じられたレナルドの目元が、ふっと和らぐ。まっすぐにリュシエンヌを見つめる彼は、とても誠実そうだ。小説の中でも、リュシエンヌの記憶の中でも、彼はいつだって穏やかで優しかった。きっとこの先々のことについて、リュシエンヌがショックを受けないように、まずはふたりで話すつもりに違いない。


「婚約破棄をなさりたいのでは?」


 リュシエンヌが尋ねた瞬間、それまでのレナルドの笑顔が崩れた。


(いきなり核心に迫りすぎた? でも……!)

「どういうことだい?」

「さっき、聞いてしまったんです。レナルド様がイリスって名前を呟いていたのを。その方と結婚されたいのでは?」


 結論を焦るあまりに、リュシエンヌは余計なことまで口走る。


「リュシエンヌ」


 すっとレナルドの腕がリュシエンヌの頭へと伸びてくる。それは、つい先刻のバティストを想起させ、とっさにリュシエンヌは目をぎゅっと閉じた。途端に目の奥が痛むような感覚に陥る。


「や……っ!」

「殿下!」


 リュシエンヌの叫び声とベルナールの声が重なる。だが、ベルナールが王子の手を制止するより、彼の手がリュシエンヌの頭にとどくのが先だった。瞬間にバチン、とレナルドの腕が弾かれる。


「……?」


 恐る恐る目を開けば、レナルドは驚いたような顔で自分の手とリュシエンヌとを見比べていた。バティストのときほどとは言えないものの、彼女がきっと魔法で彼の手を弾いてしまったに違いない。


(怖かったからって、また、暴発させてしまったの?)


「……ごめんな、さい……私……」

「ふふっ」


 謝るリュシエンヌに対して、突然レナルドは声をあげて笑いだす。手がヒリヒリとするのだろうか、開いたり閉じたりして手の様子を見てはいるが、ごく楽しげである。


「あの……?」

「いや、悪かったよ。驚かせちゃったね。君に熱でもあるのかなと思って、額を触ろうと思っただけなんだ。僕は大丈夫、気にしないで」


 掌をリュシエンヌにひらひらと見せて、笑いを納める。


「それでね、リュシエンヌ。さっきの話だけど」

「……はい」

「婚約破棄なんてするわけないだろう? 僕はただ君とふたりきりでお出かけを楽しみたいだけだよ」


(イリスのことは? 待って、魔法のことも流された?)


 ね、と言われて、リュシエンヌは答える内容に迷って一瞬言葉に詰まる。その様子をどう思ったのだろうか、ベルナールが一歩前に出た。


「恐れながら殿下。発言をお許しいただきたく」

「なんだい?」


 ベルナールの声かけに、レナルドは首を傾げる。


「殿下とお嬢様のご身分を考えると、ふたりきりでのお出かけはあまりにも危険です。どうか護衛騎士をお連れください」


 ベルナールの言うことはもっともだろう。


「うーん、そうだね。わかったよ」


 あまりにもあっさりと頷いて、レナルドは了承する。


「リュシエンヌは、護衛つきなら一緒に行ってくれる?」

「ええ、はい」

「よかった。楽しみにしているよ」


 そう答えたレナルドは、デートの約束を取りつけたものの、ふたりきりでのおでかについては引き下がってくれたのだった。

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