第7話 怒涛の一日を終えて
お茶会が終わって、自室へと戻ったリュシエンヌは、ベッドに倒れ込んだ。時刻的に、もうすぐ夕飯時だろう。わずかではあるが、憑依してからやっと一人の時間が再び持てた。
(状況を整理しなきゃ)
リュシエンヌは頭の中で憑依後のことを振り返る。
茶会で会った婚約者のレナルド王子が『イリス』と愛しげに呟いていたから、ヒロインのイリスと既に出会った後なのだろう。少なくとも、原作小説はもう始まっている。
小説の中で『リュシー』と名付けていたのが『リュシエンヌ』に変化していることについては、小説憑依物によくある、原作小説と実際の世界との乖離である可能性が高い。父親から受けていた折檻についても恐らくそうだろう。
(リュシエンヌの魔法はこの世界ではやっぱり、今日が初めて……ではないよね)
今日はすでに二度、魔法を暴走させているのもあるが、バティストの反応もある。
(『力を取り戻した』って言ってたから、リュシエンヌは元から魔法が使えたってことよね。……でも、リュシエンヌの記憶の中に、魔法を使ったなんて記憶がない……?)
おかげで考えても考えても、魔法が暴発したとき以外は、リュシエンヌが魔法を発動する条件のようなものがわからない。
何か理由があってずっと使えなかった魔法が、今日久しぶりに発動した。だから今までのリュシエンヌは折檻を甘んじて受けていたし、魔法が復活した今後は折檻がなくなった。そう考えれば、つじつまが合う。
(もうしないって言ってたし、折檻を受ける心配はとりあえず回避できたんだよね)
そう結論付けると、どっと身体の力が抜けた。
(わからないことだらけだけど、この先はどうしようかな)
小説『暁の救世主』でリュシエンヌが暴走をしはじめるのは、レナルドに想い人が発覚し、恋敵のヒロイン・イリスに嫌がらせを続け、婚約破棄されることが内定してからだ。
(まだイリスとリュシエンヌは出会ってないから、いじめをしなければ断罪なんてされないはず。だけど……)
お茶会でのレナルドの様子を思い出して、リュシエンヌは眉間に皺を寄せた。
(婚約破棄をするつもりはないって、どういうこと?)
円満な破棄ができると思ったのにとんだ誤算である。
あんなに愛おしげにイリスの名前を呟いていたのだから、イリスと両想いになっているかどうかはともかくとして、レナルド自身はきっともうイリスに想いを寄せているに違いない。リュシエンヌの婚約破棄の申し出は渡りに船に違いないのに、断るとはどういうことだ。
(もしかして、まだ婚約破棄をするデメリットのほうが大きいから?)
小説内ではもともと、王家との繋がりを作りたいルベル伯爵家が、どの家門も歓迎しない欠落王子を狙って婚約を結んだだけだった。欠落王子のほうも、後ろ盾のない身分だから伯爵家だとしても婚約者がいるのはありがたいということで婚約を受け入れていたはずだ。
この世界において、どのような経緯で婚約が結ばれたのかは記憶にないのでわからないが、小説の本文に書いていた内容なので、よほどのことがない限りは婚約のいきさつに違いはないだろう。
ならば、現状欠落王子として扱われている彼が、婚約破棄をするメリットはない。
今後物語が進めば、現在は隻眼の欠落王子として扱われている彼も地位を確立するはずだ。そうなればレナルドはルベル伯爵家との繋がりを持っておく必要はなくなるので、レナルドは婚約破棄に同意するだろう。
(でもそれじゃ遅いのよね)
リュシエンヌはため息を吐く。
小説の中では『神の子』にまつわる伝承を設定していた。暁の神の子は、琥珀の太陽の髪を持ち、朝焼けの瞳を持って産まれるとされる。これは親の容姿にかかわらず、つまり金髪に群青の瞳という、レナルドの特徴そのものである。
だというのに、彼が欠落王子とされるのは、その右目が灰色で視力がなく、神の子の特徴が欠けているからだ。神の子その者であれば、信仰の象徴として祀り上げられるが、神の子に欠損はありえないので、神の子に似て非なる者は迫害される。
彼はこのあと、イリスとの愛によって右目を回復させ、神の子としての地位を築くことになるのだ。
(正式な神の子になったレナルドとの婚約破棄を、バティストが許すはずがないもの。今の欠落王子の状態なら、彼よりもいい条件の嫁ぎ先を用意できでばバティストも納得するはずだけど……)
身分社会のこの国では、結婚は何より親の意向が重視される。本人同士に結婚の意志があっても、親が承諾せねば婚約を結ぶことも破棄することもできない。
(実の娘を虐待するようなあんな男の許可をとらないといけないなんて腹が立つ)
とはいえ、婚約破棄をするにはバティストを納得させる材料が必要だ。それにレナルド側も納得させる必要があるだろう。
(そうだ。レナルドと仲良くなっておいて、神の子として目覚める直前に婚約破棄をお願いして、その後すぐにもっと別の身分が上の婚約者と婚約できる算段をつけておけばいいんじゃないかな)
欠落王子よりも上の身分に嫁げるとなれば、バティストは婚約破棄に賛成することだろう。
幸い、リュシエンヌには魔法の力がある。魔法は誰にでも使えるものではなく、貴族の中でも珍しいものだ。世界を滅ぼすほどの力があるとなれば、神殿に行けば今なら聖女にでもなれるかもしれない。『できそこない』とバティストに罵られていたようだが、魔法を使えるようになった彼女ならば、結婚という家門同士の契約をする商品としての価値は、かなり上がったはずである。
魔法はとっさに発動しただけだが、徐々に覚えていけばいい。
(とにかくレナルドが神の子になる前に、婚約破棄を狙っていく方向でいいとして……あとは、『暁の救世主』の強制力が、どの程度働くかよね)
物語の世界の中に憑依する王道のストーリーの一つに、キャラクターがどんなに原作と行動を変えても最終的には原作ストーリーに引き戻すような強制的な力が働くというものがある。
(魔法が使えるようになるタイミングがズレてるのは小説通りではないけど……でも、『リュシエンヌ』の身体の記憶に引きずられて、バティストの前でうまく身体が動かせなかったりしたし……)
どちらかと言えば、折檻については小説には書かれていないことなので、強制力は言いにくいだろう。とはいえ、である。
(ここが本当に小説の中なのか、よく似た別の世界なのか、私が昔見てた夢の中なのか……まだわからないけど。とにかく、原作の強制力はなかったとしても、これからも『リュシエンヌ』の身体の強制力みたいなのは注意が必要なのかも)
小説の中で、リュシーはイリスと会うたびに酷い虐めをしていた。それはリュシーがレナルドに執着していたがゆえだ。
(……このリュシエンヌは、レナルドのことを好きだったのかな?)
『殿下に、会いたい……!』
脳内に響いた声に、彼女は息を呑んだ。これは、リュシエンヌの記憶の声だ。
(この世界のリュシエンヌもやっぱり、好きだったんだ……じゃあ、もし……記憶に身体が支配されたら、イリスに会ったときに衝動的に虐めたりしちゃう……のかな)
そう思った途端に、ぞくりと背中に悪寒が走る。もしもそんなことになれば、リュシエンヌの意思とは関係なく、世界を滅ぼす終焉の悪女になってしまう。ぷるぷると頭を振って、リュシエンヌは考え直す。
(そうならないようにがんばるんだから! バティストにだって抵抗できたんだし!)
がばっと起き上がって、意思を固めたところで、部屋の扉がノックされた。
「お嬢様、お食事のお時間でございます」
ベルナールの声だった。
本来ならばメイドが声をかけるべきところだが、どうやらこの屋敷の中でリュシエンヌは冷遇されていて、ベルナールとバティストくらいしか彼女と直接言葉を交わす者はいない。
(私は楽だけど、ベルナールが大変そう)
「わかったわ」
ベッドからおりて部屋を出ると、待っていたベルナールがリュシエンヌを見るなり、目をみはった。
「……どうしたの?」
護衛騎士の様子がおかしいので問いかければ、ベルナールが眉間に皺を寄せてリュシエンヌの顔をまじまじと見つめる。
「お嬢様、その左目はどうされたんですか?」
「目?」
「色が濃くなってらっしゃいます」
「濃いって……?」
ぱっと左目をおさえた途端に、ずくん、と目の奥が痛む。
(あれ、今日、他にも痛かったときがあったような)
それはいずれも、リュシエンヌが魔法を暴走させた瞬間だった。
「あ」
思い出した瞬間に、リュシエンヌは、かくん、と足から力が抜けて倒れ込む。彼女にはわからなかったが、アイスブルーのはずの目は左目だけ群青色に変じている。目の痛みが酷くなり、目を開けられなくなってしまった。
「お嬢様!? しっかりなさってください!」
(あれ、力入らない……)
ベルナールが彼女の身体を抱き起こしたが、リュシエンヌは答えることもままならず、そのまま意識を手放した。
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