第4話 小説にはなかった『悪役令嬢の過去』

 リュシエンヌの父であるバティストの部屋に向かいながら、リュシエンヌは考える。


(今は暁の救世主のどの時点の時間なのかしら。リュシーは最終的に力を暴走させて世界を滅ぼそうとするけど、そんな未来にはならないようにしないと……)


 そう考えたところで、リュシエンヌはふっと口元を笑ませた。


(婚約者に振られて世界を滅ぼそうとするなんて。これは、婚約者の恋を応援してあげて、円満に別れればいいだけじゃない?)


 どうあがいても破滅の未来ばかり待ち受けているのだとすれば、やるべきことは沢山ある。とはいえ、指標はシンプルだ。要は断罪されないように努めればいいだけである。


(小説では感情のせいで魔法が暴走してたから、魔法の制御の練習をしておかないと……あれ、でも魔法ってどうやって使うんだろう……?)


 小説の中では、リュシーがただ手をかざしただけで、魔法をくりだし大気を操っていた。呪文などは何もないのだから、きっと念じるだけでいいのだろう。けれどその魔法の発動の仕方がいまいちわからなかった。


 考えが行き詰まったところで、先導をしていたベルナールが立ち止まる。父の執務室にたどり着いたのだ。部屋のドアは、他の部屋に比べて使われている木材も、装飾の意匠も異なるものだった。それはここが特別な執務室だからなのだろう。


 その執務室に続く特別製のドアを見た途端に、リュシエンヌの身体が硬直した。さあっと顔色が悪くなる。


(この部屋は、だめ……!)


 瞬間的にそう思った。


 彼女がこの扉を見るのも、執務室に来るのも初めてのはずだった。なのに『リュシエンヌ』の身体は、この扉に強い拒否感を覚えて本能的に震えている。おかしいことに先ほど歩いてきた廊下に、リュシエンヌの身体はほとんど見覚えがなかった。それは、彼女が乗り移るよりも前の『リュシエンヌ』だったころ、地面ばかりを見て歩いていたからだ。そして、これから入る部屋に入るのが、リュシエンヌが怖くて怖くてたまらなかったせいである。


(この部屋に入ったら……折檻されるんだわ)


 怖い理由は記憶が教えてくれた。けれども明確に折檻の内容は思い出せない。それでも身体は怯えている。


 もちろん、今の彼女は酷い目に遭わされたことなどない。だが、リュシエンヌの記憶には、気に入らないことがあるたびに父に酷い折檻を受けた記憶があった。その記憶に引きずられて、部屋に入らねばならないのに、足がすくむ。


 そんな彼女を痛ましそうな目で、ベルナールが見る。


(彼も、私が折檻を受けてるのを知ってるんだ。でも、どうして……?)


 小説には、悪役令嬢が父親から折檻を受けていた設定など書いていなかった。なのに。


「……リュシエンヌお嬢様。遅れますと……」


 彼女への仕打ちが酷くなる。きっとそう言いたいのだろう。辛そうな顔を見るに、それはベルナールだって望んでいないに違いない。小説の中でも彼はこんなふうに、たびたび悪役令嬢であるリュシーを気遣っていた。だというのに、小説と状況が違う。


(考えても仕方ないわね)

「そう、ね。ごめんなさい」


 執務室にリュシエンヌが呼ばれるとき、ベルナールは一緒に入室することを許されていない。だから部屋に入るのはリュシエンヌ一人だ。


 ノックをすれば、すぐに入室の許可が降りる。きゅ、と握った拳を解いて、リュシエンヌは小さく息を吸った。


「失礼します」


 リュシエンヌが入室したところで、ドアは閉められてしまう。

 部屋の中には、執務机についた男が一人だけで待っていた。窓のない執務室は昼間だというのに暗く、質素なテーブルの上におかれたランプで、この部屋には壁にかけられた何かの道具と執務机、そしてその前に誰かが座って話を聞くための椅子が用意されているのが見て取れる。逆に言えば、それくらいしかない。それもそのはずで、ここは折檻専用の執務室だからだ。


(いやな部屋ね……)


 眉をひそめそうになるのをこらえて、リュシエンヌは無表情で男の言葉を待つ。


「来たか」


 男は立ち上がって、リュシエンヌに感情の見えない目を向けた。彼が父のバティストに違いない。


 リュシー・ルベルが『氷の女王』と表現された怜悧な容姿なら、バティストの容姿は『人のよさそうな男』と評するのが合っているだろう。二人は親子にもかかわらず似ても似つかない。リュシーが銀髪にアイスブルーの瞳なのに対して、バティストは赤銅色の髪に茶色の瞳で、笑顔を浮かべていれば優しそうな印象を受ける。

 もっとも、彼の本質は優しさとはかけ離れているのだが。


 小説の中でバティストは、リュシーが断罪すべき対象になった途端に討伐隊の編成を王に訴えた。娘を売ることで保身を図ろうとした人物である。そんな男がいい人間であるはずがない。そもそも、いい父親が折檻部屋を用意し、その部屋に一人娘を呼びつけるなどありえないだろう。しかも彼は今、あろうことか手にバラ鞭を持っていた。


(この人が、バティスト・ルベル……)


 手のバラ鞭にちらりと視線をやれば、リュシエンヌは背中に汗をかいているのを感じる。


「さて、今日は茶会だな? その前にいつものをする」


 つまらなそうに、ぺちぺちと鞭を手で叩いて、バティストは顎をくい、と動かして壁を示した。


「どうした。いつものように壁に手をついて、背中を向けろ」


 動こうとしないリュシエンヌに、バティストは苛立たしげな顔をした。


(……お茶会のたびに、わざわざ鞭で叩いてから送り出すの!? こんなのばかげてる!)

「早くしろ」

「躾などなさらなくてもいつものように言いつけは守ります」

(こんな生活に甘んじるわけにはいかないもの)


 背中の冷や汗は消えていないし、指先は震えている。だが、怯えているのはリュシエンヌの身体であって、彼女自身の心ではない。


「はあ?」

「日常的に鞭打ちをしていることが表沙汰になれば、不利になるのはお父様です。もうおやめください」


 毅然とリュシエンヌが言い放つと、バティストは鼻で笑った。


「いつからそんな口答えができるようになった。この、できそこないが!」


 リュシエンヌの見開いた目に、バティストが振りかぶった鞭が映る。スローモーションで動くその鞭から目を離せないまま、恐怖で身体が硬直してしまう。やけにゆっくりとした心臓の音が響いて、目の奥が開いていられないほど熱く感じる。


(避けなくちゃ)


 そうは思っても、経験していない記憶のせいで、恐怖に支配された身体は思うように動いてくれない。鞭が当たり、殴打されるまで、あとほんのわずか。世界が青く染まったように見えて、非現実的だった。


「いやぁ……っ!」


 喉からついて出た悲鳴と共に、身体の硬直がやっと解けて目を閉じる。それでも鞭を避けるのに間に合うわけではない。しかし、鞭がリュシーの身体を打つことはなかった。


「うわぁっ!」


 白い光がほとばしり、リュシーの身体を守るようにしてバティストの振り下ろした鞭を跳ね返した。ばちん、と音をたてて走った光がバティストごと鞭を弾き、彼の身体は床に叩きつけられている。


「……え?」


 薄暗かった部屋が光に満ちて、来るはずだった打撃が来ないことに驚いて、リュシエンヌはおそるおそる目を開ける。


(なに、これ……?)


 光が自分を取り巻いて、眩しい。白いだけだった光はやがて、まるで夕暮れの空のように淡い黄色からオレンジ、そして群青に変じてから霧散した。


「お、お前、その力は……」

「……今の、私が、したんですか……?」


 呆然と呟きながらリュシーは自身の両手を見るが、すでに光は消えている。


(もしかして今、魔法が暴走したの?)


 小説の中の終盤で、リュシー・ルベルは、魔法を使いすぎた結果、暴走させ天候を破壊する流れではあったが、それ以前には魔法が使える描写を入れてはいなかった。彼女はもともとリュシーが魔法を使える設定のつもりで書いていたけれど、小説の中には明言されていないのである。結果として、小説の中の世界では、リュシーが婚約破棄をきっかけとして魔法に目覚めた、ということになっていたとしてもおかしくはない。加えて、バティストの折檻である。


(……小説の中に折檻の設定なんて入れてなかったけど、小説の本文に書いてないことは、どんな設定になってたっておかしくないよね)


 もともと天候をも操るほどの力があったとしたら、リュシエンヌが父親からの虐待などに耐える必要はなかっただろう。彼女がリュシエンヌになったことによって、力の覚醒が早まったに違いない。


(きっとそうなんだわ)


 はっとして、リュシエンヌはバティストを見る。バティストは床に這いつくばったまま彼女を見つめていたが、先ほどの苛立たしげな顔ではなく、今はニタニタと笑っている。それも嗜虐の喜びとはまた別の顔だった。


「そうかそうか。お前は、その力を取り戻したのか! 顔をよく見せてみろ」


 目をぎらつかせたバティストが立ち上がり、リュシエンヌの顎をぐっと抑えつける。


「んん? なんだ、見えづらい」

「ちょっと……やめてください!」


 眉間に皺を寄せたバティストは、彼女を乱暴に引っ張って部屋の外に出た。リュシエンヌの抗議の声も虚しく、彼女はそのまま連れていかれる。暗い部屋から廊下に出たせいで、視界が急に明るくなって目を閉じたが、次に目を開いた時、バティストの興味はもう薄れていた。


「……できそこないはできそこないのままか」


 舌打ちをして呟いたバティストは眉間に皺を寄せたが、すぐにまた笑顔になった。


「リュシエンヌ」


 猫なで声が、名前を呼んだ。瞬間に、背中にぞわりと悪寒が走る。


「今までお前にした躾は、間違ってなかった。けれど、お前が望まないなら、もう躾はやめよう。その代わり、お父様の言いつけはちゃんと守れるね?」


 頭を撫でられ、更にぞわりと悪寒が増す。反射的にその手を払って、リュシエンヌはバティストから距離をとった。


「最初からそう言っています」

いい子だ」


 バティストは手を払われたのを気にするそぶりはない。それに返事をせずに、リュシエンヌは待っていたベルナールを振り返る。彼は、部屋の中の物音を聞きつけて、心配そうな顔をしていたが、素知らぬふりでリュシエンヌは彼の前を行く。


「行きましょう、ベルナール」

「はい、お嬢様」


 いつもと様子の違う二人に理解が及ばないながらもベルナールはついてくる。


(……『力を取り戻した』ってどういうこと? 昔は、魔法が使えたの……?)


 一つの疑問を残して、バティストからの折檻をなんとか回避したリュシエンヌなのだった。

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