第3話 いつか悪女になる悪役令嬢

 ぱっと目を開くと、目の前に美少女がいた。ほんの一瞬前まで、パソコンの前にいたはずなのに。


 不思議そうにまばたきをしたその美少女は、雪のように白い肌で、猫のようなくりっとした大きな瞳は、少し釣りあがり気味だ。アイスブルーの瞳を縁取るまつげは、長くたっぷりとしていて銀色である。髪色もまつげと同じ銀色で、まっすぐに長い。けれど、その顔はにこりとも微笑んでおらず、美しい顔立ちも相まって、冷たい印象で――。


『彼女はまさに、氷の女王という呼び名が相応しい容姿だった』


 不意にそんなト書きが頭に浮かんで、彼女ははっとする。びくりと動いた彼女と同時に目の前の美少女も揺れる。ぼんやりしていてなかなか気付けなかったが、目の前にあるのは鏡だ。けれど、映っているのは目元にクマのあるくたびれた作家ではない。


 彼女は頬に触れて、鏡の中の美少女も同じ動作をしたのを確認する。


「うそ……」


 呟いた声も、彼女のいつもの声ではなかった。鏡の中にうつった人物は確かに自分と同じ動きをする。


「私……小説の中に入りこんじゃったの……?」


 ついさっき頭の中に浮かんだ文章は、間違えようもない。それは仮眠をとる直前まで読んでいた、デビュー小説の悪役令嬢リュシー・ルベルを描写するものだったのである。


(まさか)


 小説やゲームの世界に転生した、あるいは憑依してキャラになり代わりハッピーエンドに至るという物語は、確かに流行っていた。彼女だって何本かそういう話を書いたのだから。だからといって、それが現実に、しかも自分の身に起こるなど、誰が思うだろうか。


(でも、こんなの信じるしかないじゃない)


 頬をつねれば痛い。夢なら痛覚などないはずだ。リュシーとしての自分を受け止められないうちに、この現実を嫌でも受け止めろとばかりに一人の時間は終わってしまう。


「お嬢様」


 コンコン、とノック音が響いて、男性の声が呼びかける。


「お出かけの前に旦那様が呼んでらっしゃいます。ご準備はよろしいですか?」


 ドレッサーの前に座っていた彼女は、ぱっと立ちあがる。


「ええっと、少しだけ待って」


 返事しながら結いかけだったらしい髪を彼女はさっと束ねて結う。作家だったころ、こうした髪型をしたことはなかったが、身体が髪のまとめ方を覚えていたらしい。


 出かける準備をしていたにしては、メイドの姿は見当たらない。この世界は貴族令嬢の仕度には専属メイドがつくのが当たり前だし、リュシー・ルベルは伯爵令嬢なのでメイドの一人や二人はあてがわれているはずだ。彼女は小説の中にリュシーがメイドに世話されるシーンを書いてはいないが、それはリュシーが主人公ではないからそういうシーンを省いていたにすぎない。


 だが、今の彼女はまだそうした違和感に気づいていなかった。


(こんな突然に、憑依することなんてあるのね)

「待たせてごめんなさい」


 ドアを開けて部屋を出た彼女は、扉の前に立っていた男性の顔を見た。その途端に、彼は驚いたような顔をする。


「……いえ、とんでもありません」

(この人は……ベルナールね)


 彼の顔をまじまじと見つめれば、知らないはずの男の名前がふわっと浮かんでくる。


(思い出そうとすれば、この身体の『記憶』が思い出せるみたいね。それは助かるけど……記憶が思い出せるならもしかして、憑依じゃなくて転生……? でもそれにしては……)


 浮かぶ記憶はなぜだか靄がかったようにぼんやりとしていて、わざわざ思い出そうとしない限りはわからないような感じである。まるで、インターネットでわざわざ検索をしないと情報が出てこないかのようだ。


 ベルナールは、リュシーの護衛騎士である。彼は小説にも出てきていた。いつも悪役令嬢に影のように付き従っていた騎士である。短く刈り込んだこげ茶の髪も、すっと伸びた鼻筋も、切れ長の目に緑の瞳も、全て彼の精悍な顔立ちによく似合っている。


「……どうかなさいましたか、リュシエンヌお嬢様。もしやお疲れですか?」


 彼の言葉に、違和感を覚えた彼女ははまばたきをした。


「あ、ううん。なんでもないの。お父様のところね。行きましょう」


 見つめ過ぎたと思いながら彼女は、歩き始め、そうして考える。小説の中でも彼はこんなふうに、たびたび悪役令嬢であるリュシーを気遣っていた。だが、彼女はその点について疑問に思ったわけではない。


(リュシエンヌ? 小説ではリュシー・ルベルって名前つけてたのに?)


 しかし、護衛騎士のベルナールも、先ほど鏡に映っていた彼女の姿も、『暁の救世主』の登場人物であることは間違いない。リュシーの記憶を探れば、婚約者の名前も小説と一致している。


 だが、呼びかけられて再度思い出そうとすれば、確かにこの身体は『リュシエンヌ・ルベル』という名前であり、『リュシー・ルベル』ではないことが思い出せる。

(どうして小説と違うのかしら。ここは小説によく似た世界ってこと……? 私が見てた夢、とか? それとも、リュシーだと貴族らしくない省略だから、貴族らしい名前になっているだけ……?)


 『暁の救世主』の世界に入りこんで、まだ間もなく、情報の足りない彼女には判断ができない。彼女の『リュシエンヌ』としての生活がこうして始まった。

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