第21話 記憶はない
ロベリアさんの背中は遠く、そして今、曲がり角を曲がった。
ここで彼女を見失うといけないので、僕は加速する。
「──どっちだ?」
遅かった。
曲がった先は階段。ロベリアさんの姿は見えない。
上か、下か、彼女の思考を読まなくては。
……ぽたっ
僕が立ち往生していると、上に上がる階段から赤い液体が一粒、垂れていることに気づいた。
──血液?
まさかっ!
僕から逃げる途中に怪我でも──
「──うぅぅぅぅ。かわいすぎゆぅぅ」
「なんだ山本か」
階段を登ると、山本が鼻血を出して倒れていた。
なぜ、コイツがここにいるのか……まぁおおよそ、ロベリアさんの後をつけてきたってところか。
これで彼女の居場所はわかった。ありがとう。山本。
山本が倒れていると言う事は、この先に彼女がいる。ないしは彼女がここ通った。
この上は3階の教室。そしてさらにその上は屋上。
上へ向かう階段は、ここにある1つのみ。つまり袋のネズミ。
ここで待っていれば──いや待て。
目の前、掃除用具入れがある。
大柄な男子生徒は入れないにしろ、小柄な女子生徒は容易に入れるだろう。
怪しい。
僕はその掃除用具入れに近づき、勢いよくドアを開けた。
「……ヘンタイ」
「ごめんっ。まさか本当にいるとは──」
彼女は突然、僕を突き飛ばした。
あまりにいきなりだったので、彼女の力でも容易に僕をよろめかせることができた。
彼女は階段を降りて行く。
僕は倒れている山本を尻目に、ロベリアさんの後を追った。
──この鬼ごっこは、夕日が見える頃まで続いた。
「見つけた!」
「……しつこい」
例えば、ロベリアさんは、茂みに隠れていたり。
見つけるとすぐに、彼女は茂みの中を進んで逃げていった。
「見つけた!」
「……なんでわかるの?」
美術室の彫刻に混ざっていたり。
ちなみに彼女は、ミロのビーナスの隣に隠れていた。
「……そこはズルいじゃん」
「ズルくない。どこに逃げるかは、私の勝手」
「……じゃあ。どこを追いかけるかも、僕の勝手」
「それは、さすがに──」
トイレに逃げ込んで、勝ち誇ったような顔を見せたり。
覚悟の決まった僕には、あまり効果がなかったが。
──そんなこんなで夕日が落ちて、2人とも疲れて、また教室に帰ってきた。
黒板には相変わらず、美しい桜の絵が描いてあった。
朝見るよりも夕日のおかげか、それは何十倍にも美しく見えた。
ロベリアさんは、教壇の上にある教科書類をまとめていた。
「……ずっと1人で勉強してたの?」
「……」
彼女は何も答えない。
ただそれは、朝のような無関心からの無視ではない。
むしろ肯定的な無言のように見える。
「──今回の先生、ずっと学校来てるよ。その、前の時みたいにはならないと思うけど」
「……1度、裏切られた。私たちの出来が悪かったから、先生は逃げ出した」
「それもこれも全部、過去のことだよ。今、この瞬間……、そして今日。僕たちはそこを生きてるんじゃないの?」
「過去は消えない。嫌だったこと、全部消えない」
「…………っ」
この僕の沈黙も、肯定のような気がしていた。
ロベリアさんは僕の、そんな姿にウンザリしたのだろう。
カバンを肩にかけ、教室の扉に手をかける。
去り行く彼女の姿を呆然と見つめていると、その姿が塩瀬さんと重なった。
「──好きだったのに、勉強」
そう言ってロベリアさんは、扉を開ける。
ガラガラガラと、優しい音色が教室内に響く。
斜陽は窓から廊下に差す。
「……じゃあね。……ロベリアさん」
「………………」
彼女は少し立ち止まった後、何も返事をせずに教室を後にした。
……カラスの鳴き声が、薄く聞こえてくる。
────次の日────
「……きつい」
全身が痛い。
倦怠感と脱力感、そして頭痛。
仰向けに寝ていると天井が見えるのだが、その天井が大きくなったり小さくなったり、グニャグニャしている。
「…………」
なんとか体を起こして、ベッドの傍、スマホを手に取る。
学校に連絡をするためだ。両親は出張だから、僕1人でなんとかしないと。
「……体温計」
体温計を脇に挟み、スマホを耳に当てて、ゴチャゴチャな頭の中を整理する。
どういう症状で、どういう状況で、なぜ休むのか、色々と言語化する。
そして……
「──はい、すみません。……はい。ありがとうございます。失礼します」
『ピッ』と電話が切れた瞬間、ベッドに寝転がる。
ぐにゃぐにゃする視界に嫌気がさして、瞳を閉じる。
「──暑い」
これは無意識的だったが、どうやら僕は、寝巻きを脱いでしまったようだ。
ボーッとする思考の中、本能が勝ってしまった結果である。
暑いから脱ぐ。寒けりゃ着る。当たり前の行動。
──ピーンポーン
鳴るインターホン。
宅配か、はたまた宗教勧誘か。
いずれにせよ、無視し続ければ勝手に帰るだろう。
「すみませーん…………」
玄関から、女の子の声。
いや、あの元気溢れるパワフルな声は塩瀬さんの声。
わざわざお見舞いに来てくれたのか……。
「…………」
体は勝手に、玄関へ向かう。
少し寝たとはいえ、千鳥足ということに変わりなく。
──ガチャ
玄関の扉を開けると、塩瀬さんの姿が。
その瞬間以降の記憶は、どこかに飛んでいった。
「……あっ! 佐藤く……えっ!? ちょっ! 服っ!」
「──お見舞い、ありがと……う」
──パタンッ
────────
バランスを失った佐藤くんが私に寄りかかり、私は彼を受け止める。
持ってきていたプリントは、玄関に散らばる。
ドクッ、ドクッ、ドクッ……。
私の心臓の音は、外まで聞こえているだろう。
佐藤くんの匂い。一つ息を吸うたびに、鼻の奥を貫く。
クラクラしてしまうほど、危険。理性が吹っ飛びそう。
「お父さんかお母さん、いないの? お仕事?」
玄関からまっすぐ伸びる廊下。
その向こう側を見ても、人の気配が全くなかった。
「……出張」
「そっか。じゃあ、とりあえず……服、着よっか」
「……暑い」
「暑くても……そのっ。刺激が強すぎるというか……」
私も一応、年頃の女の子。
パンツを履いているとはいえ、ほぼ全裸で抱きつかれるとパニックになる。
それも……ちょっと気になっている人に。
「──ベッド」
「ベッド?」
「……僕のベッドに服、ある」
「あぁー。ベッドはどこにあるの?」
「…………」
返事がない。寝てしまったようだ。
無防備にリラックスしきったその顔を見てしまえば、再び起こそうという気もなくなる。私はとりあえず彼を背負って、廊下を1番近くの扉まで歩いた。
「──ベッド、ある」
ドアを開くとそこは、佐藤くんの部屋だった。
ベッドの上に脱ぎ散らかされた服、その反対側の壁に向かって勉強机。
ドアの左手側に聳える本棚には、分厚い本が収まっている。
よくよく見るとそれは大抵、参考書だった。
机の上にも参考書が置いてあるが、表紙に『数学・応用』と書かれてある。
隣には開きっぱなしのノートと、散らかるシャーペン、消しゴム。
「──よいしょっと」
とにかく佐藤くんをベッドに寝かせた。
ころんと転がり、さっきよりも表情が柔らかくなる。
私は玄関に戻り、散らばったプリントをかき集める。
そして再び佐藤くんの部屋に戻って、机の上にそれらを置いた。
これで先生に言われたことを終えた。
佐藤くんに掛け布団をかけて、帰ろうとした──
「……ん? なに?」
佐藤くんが制服の裾を摘んできた。
弱々しく、折れてしまいそうだった。
「──寂しい」
消え入りそうな声で、彼はポツリと呟く。
それは彼の、心からの声だった。
思えばこの家、全く生活感がない。
より正しく表現すれば、1人分の生活感しかない。
彼はポツリと、もう少し続ける。
「──塩瀬さん」
「……どうしたの?」
「……一緒に、寝よ」
「──えっ!? きゃっ!?」
言葉の意味を理解する前に、ベッドに引き込まれた。
そこは思考が蒸発してしまいそうなほど暖かい。
彼は身をすり寄せてくる。私の腕に抱きついたり、足を絡ませたり。
「──そういうのはっ、結婚してからっ」
私も体を捻って抵抗したい。したいけど。
正直あまり嫌じゃないと、どこかで思ってしまっている。
陥落する理性という城を俯瞰し、自分の弱さを噛み締める。
「……」
「…………ふぅ」
一呼吸整えた。
この先を求められたら突き飛ばそう。そうしよう。
それまではただの添い寝。添い寝なら友達同士でもやるって、誰かが言っていた。
「──塩瀬さん」
佐藤くんの抱きつく力が、より一層強くなる。
私の心臓は壊れそうなくらい速く脈打ち、思考も上手く回らない。
だから、彼の瞳と私の瞳がピッタリ合った時、その先は何も考えられなくなった。
──ただこの時間が永遠に続けばいいと、本気で思っていた。
────次の日・教室内────
「おいお前ら。……なにがあった?」
「──先生っ! 授業しましょう!」
訝しむ先生に対して、塩瀬さんは話を全力で逸らす。
そして塩瀬さんは、僕から視線を逸らし続ける。
何があった?
そう聞きたいのは僕も同じだ。
昨日、塩瀬さんが訪ねてきたのは覚えている。
玄関のドアを開けて、塩瀬さんがいて、で、その先の記憶が全くない。
「──ヘンタイ」
ロベリアさんは顔を赤くして、僕を睨んでいた。
「いやっ、まだ分かってない! 僕は覚えてないっ!」
引き続き、ジトっとした視線を向けるロベリアさん。
僕はどうしようもなくなり、助けを求めて塩瀬さんを見る。
「昨日のこと──」
塩瀬さんは僕から視線を逸らし、ポツリと呟いた。
彼女の、ほんのりと赤く染まる頬。
「──っ!? へんたいっ!」
「へぇー」
ロベリアさんは絶句し、怒り、先生はニヤつく。
僕は訳が分からず、四面楚歌な状況にさらにパニックになる。
シュレディンガーの猫。
この状況を最も簡潔にかつ分かりやすく伝えるのなら、コレである。
箱の中の猫が生きているのか、死んでいるのか、観測するまで確定しない。
つまり猫は観測する以前において、生きていてかつ、死んでいる状況である。
ありえない。そう、コレはありえない状況。
でも僕は現在、童貞であり非童貞であるという存在。
ありえないが、僕の視点ではそうなのだ。
塩瀬さんに教えてもらうという『観測』をしない限り。
「──佐藤くんも、昨日のこと覚えてないの?」
「……も?」
それじゃあまるで、塩瀬さんも忘れてるみたいな──
「私、添い寝した後、何があったか全く覚えてないんだけど……」
「──えっ?」
『言葉を失う』というのは実際にあるらしい。
現に今そうだから。
「……2人とも、覚えてない?」
「──うん」
僕の最後の確認。
それに塩瀬さんがうなづいた時点で、僕の体にものすごい電流が走った気がする。
──そう、塩瀬さんは忘れっぽい
シュレディンガーの猫。
もしも仮に、観測する手段がなければ、どうなるのだろうか。
僕はシュレディンガーさんに問いたい。
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