補習編
第19話 補習は地獄
人間はいつ、地獄に落ちるのか。
死んだ時ではない。死んだら何もなくなる、感じなくなる。
つまり死んだ先の地獄というのは幻想に過ぎない。
そして、僕は塩瀬さんを見て思った。
今が地獄であると。
それ即ち人間は、諦めた先に地獄へ落ちるのだと。
────夏休み初日・補習1日目────
「──私の補習は来るもの拒まず、去るもの追わず。嫌になったら帰っていい」
僕らの補習の先生は、教室に入ってくるなりそんな事を言った。
ピンとはった背筋と、シワのないスーツ姿の、いかにも真面目そうな女の先生であった。
若くて凛々しい見た目と、自信と迫力に満ち溢れた声。
個人的に、最初の言葉とその姿から、補習という地獄にふさわしい先生だと思う。
「──というか、帰って欲しい。私の休みを潰さないでくれ」
否、この人はあまり補習に向いていない。
ちゃんと人間であった。
「それじゃあ、出席を取る」
そう言って先生は名簿らしきモノを取り出した。
軽く周囲を見たところ、補修にかかっている生徒数は微々たるもの。
この教室内には僕と塩瀬さん以外に、女子生徒1名しか存在していない。
それほどまでに、今回のテストは簡単だった。
「佐藤っ」
「……はい」
先生の視線が軽く、僕を刺した。
人を物色するようなその視線、僕は好きじゃない。だがこれも仕方がない。
あんな簡単なテストで赤点をとった人間を、普通の目で見る方がどうかしている。
「次は……。……塩瀬っ」
「はいっ!」
塩瀬さんの元気は相変わらずだった。
まるでこの前の『諦め』が全くの嘘だったかのように。
逆に先生の表情はなにか、苦いものを噛み潰したみたいに歪んでいる。
塩瀬さんに対する拒絶の表情だ。
「あの塩瀬か……」
先生が漏らした発言から考えるに、どうやら塩瀬さんは有名らしい。
生徒だけではなく、教師にも。
あまり良いこととも思えない方向性で。
「最後、ロベリア・環(たまき)」
「外国人……?」
僕の反応に対して、ロベリアさんは返答しない。
「…………」
ただ1人黙々と正面を見続けている。
────補習席順・始まり────
教 壇
たまき
塩 瀬 佐 藤
────補習席順・終わり────
金髪、青い瞳。凛とした表情から感じるのは、人に対する拒絶。
孤高を極めるため、わざとその格好になったのかと疑うほどの美貌。
美しいを通り過ぎて神々しい。もはや作品である。
──僕には、地獄に咲く一輪の花のように見えた。
ロベリアさんが、小さく手を上げた。
そして声を発する。鈴のように優しい声だった。
「……先生」
「ん? どうした?」
「帰ってもいいですか?」
「あぁ、もちろん」
先生は快くうなづく。
まるでトイレに行きたい生徒に対して、許可を出す時のような。
そういう、潔さがあった。
「──では」
そう言ってロベリアさんは机の横にかけてあった荷物を持ち、立ち上がった。
そのままゆっくりと、教室を後にする。
幽霊みたいな動きだった。
「──えっ? はっ!?」
「よし、それじゃあ授業を──」
「ダメでしょう!?」
流石に理解できない。
僕は大声を出して、立ち上がってしまった。
視線は二つの方向から突き刺さる。
片方は驚愕。そしてもう片方は想定内といった感じで、対照的だった。
「……? 意味はない。いま、お前が彼女を追いかけても──」
「いや、そうじゃなくて。なんで帰宅を許可したんですか?」
「そりゃあ、最初に言った通りだ。来るもの拒まず、去るもの追わず、って」
「そんなっ」
メチャクチャだ。
僕はこの補習を、地獄に垂らされた蜘蛛の糸だと誤解していた。
いや、違う。その認識は正しい。
ただ蜘蛛の糸は、人に絡みつくわけではない。
つまり先生の言葉を借りるとするならば『来るもの拒まず、去るもの追わず』。
登りたければ登ればいいし、登りたくなければそれでいい。
ロベリアさんは、登ることを拒んだ。それだけ。
僕と塩瀬さんは登ることを望んだ。たったそれだけ。
「でもっ、何かおかしいような」
「おかしい? そんなの、この際どうでもいい。私はとにかく、このサービス残業を早く終わらせたいんだ」
先生はさらに続ける。
瞳を鋭くして、声色も低く冷徹に。
「わかったら黙って座れ」
「──いやっ、でも」
「黙って座れ。もしくは帰れ」
「……はい」
先生の圧に反論の余地はなく、僕は黙って座ることを選んだ。
やはりこの間にも驚愕の視線を塩瀬さんは向けていて、僕を一心に見つめている。
それが良いことか悪いことかの見分けはつかなかった。
────補習初日・終了・教室内にて────
「びっくりしたでしょ?」
「…………あぁ」
塩瀬さんの発言の意味が分からなかったが、すぐに解決した。
「ロベリアさんのこと?」
「うん」
塩瀬さんは、今日やったプリントをカバンに詰め込みながら話し出した。
「忘れっぽい私でも、名前を覚えてる。それくらい不思議な子なの」
「へぇ」
僕もカバンにプリントを詰め込みながら話を聞く。
「ゴールデンウィーク……。私たち、臨時で補習を組まれてね」
「……マジかよ」
中間テストで赤点を取っても、補習は組まれない。
なぜなら長期の休暇がないから。でも、ソレがあったか。
「最初は普通の子だった。でも、あの補習のせいで──」
「……」
僕は手を止めた。
聞く耳を研ぎ澄ませ、塩瀬さんの次の言葉を待った。
「あの補習で、私たちは見捨てられたの」
「……そんなっ、嘘だ」
「嘘じゃない。こんな嘘、つきたくない」
「……ごめん」
重々しい空気が教室を包む。
斜陽が、僕らを煽るように輝かせ、世界から見つかるようにしてくる。
惨めな僕らを、みんなに見せつけるように。
「3日目、担当の先生は来なかった。その代わり、大量のプリントが教壇の上に置かれてた」
「……自分から呼び出しといて」
「次の日なんて、もっと酷かった。プリントもなくて──」
「もういいよ。思い出さなくていいよ。そんな酷い話」
何が『来るもの拒まず』だ、何が『去るもの追わず』だ。
お前らが先に裏切っておいて、悪いのは塩瀬さんとロベリアさんだとか、どの口が言ってんだ。
「──救出する人が増えたな」
地獄へ落ちてみて分かった。
ここから引き上げるべきなのは塩瀬さんだけじゃなくて、ロベリアさんもなんだ。
2人とも、この補習に絶望している。
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