第5話 委員長は、かけた
僕はもちろん、保健室なんかに行くつもりはなかった。
ただ、みんなと離れて1人になりたかった。それだけの話。
長い長い廊下。視線は伏し。灰色の空を映し出す窓は、この先も綺麗に並んでいる。
この廊下が無限に続けば、僕は永遠、1人になれるんだろうな。
しかしながらそんなこともなく、教室にはついてしまう。
扉を開けると、教室内は静寂に包まれていた。
いつものような、ガヤガヤとした雰囲気はどこへ行ってしまったのか、彩りの少ない、つまらない平穏がそこにはあった。
自分の席に座って、何をしようかと考える。
机の中を漁ったらテスト用紙が出てきたので、これでもやって時間を潰そうか。
解けなかった問題はたくさん。そしてそれは、今でも解けないまま。
──そんな時だった。人の気配を感じたのは。
「……そんなに勉強がしたいのですか?」
「別に、暇だったから」
見上げると、腕を組んでいる委員長がいた。
教室の扉を開けっぱなしにしていたからか、彼女がこの距離にまで近づいても全く気づかなかった。
委員長は怒っているようにも、安堵しているにも見える瞳で、僕を見下ろしていた。
「その割には熱心に、解けない問題をやってますね」
「……解けないわけじゃないし」
「へぇー?」
委員長は、塩瀬さんの椅子を持ち上げ、僕の机の方に寄せてきて、テスト用紙を覗き込む。
僕のシャーペンが全く動いていないことなんて、すぐに分かるだろう。
「人に甘える事だって、時には重要なんですよ」
「……」
「1人じゃあ出来ないことの方が、多いですからね」
「……」
「だから佐藤くん。感情に蓋をしないでください」
「……」
ポタッ……
水滴がテスト用紙に落ちた。
落ちた水滴はゆっくりと紙に吸い込まれ、文字を歪める。
僕は、胸が締め付けられるその感覚がたまらなく苦しくて、隣にいる委員長に、もたれかかってしまった。
彼女はそんな僕を拒むことなく、むしろ身を寄せてくる。
「塩瀬さんには、嘘をついた。けど、委員長には本音で話す」
「……どうぞ」
「僕は未だに、自分の限界を知らない。テストも、走りも、人間関係も、全部そう。……自分の限界を知るのが怖いんだ」
「それはなんとなく、分かってました。テストの問題の解き方からある程度」
やっぱり、委員長は頭がいい。
「だからあの時。……自分の限界を知ってしまったあの時、僕は陸上を辞めようって思った」
「……」
「あの走りだったら、全国になんて行けない」
委員長は僕の言葉を咀嚼し、飲み込んだ。
そして微笑み混じりの口調で、ゆっくりと話す。
「そうですか、そうですか……。でも、走るのは好きなんだと思いますよ」
「僕が? そんな、まさか……」
「楽しそうに競ってたじゃないですか、山本くんと」
「いや、あれは──」
って言い訳を考えても、上手い言い回しは一向に浮かんでこない。
「あれは? その続きはなんですか?」
「……競うのを、やめたから」
「けっこう競っているように見えましたけど、私の見間違いですか?」
「……部活じゃない、から」
「早く認めたらどうですか?」
「何を?」
「ふふっ、分かってるくせに」
委員長は軽く笑って、僕の中を覗いたような一言を突き立てる。
図星をつかれて、僕は少し狼狽えた。
けど、分からない。
このよくわからない感情に名前をつけるなんて、初めての行為だったから。
「──好き」
ちょっと、突然のことで思考が止まる。
誰を? 僕を? いつから……みたいな、勘違いさえしてしまった。
「それが、好きってことなんです」
委員長は続ける。
「日常の中に溶け込んで、毎日少しずつ関わっていく。そんな小さな積み重ねがいつしか、自分では気づかないうちに、好きっていう感情になっているんです」
「小さな、積み重ね……」
毎日の走り込み。
雨が降ったら屋内での筋トレ。
大会に出る時の緊張と高揚。
結果に対して落ち込んだり、喜んだりして、また次の日から練習をする。
あの時から生活の一部になっている。
僕は、陸上が好きだから続けていた。
なんでこんな簡単な事に気づけなかったんだ?
それくらいあっさりとした回答。
テスト問題で表せば、基礎のさらに基礎の問題。
「……僕は、走ることが好きなのか」
「絶対そうですよ。自信もってください」
────佐藤が去った後の、塩瀬と委員長の会話────
塩瀬の背中を、委員長が追い越す。
空から降ってくる雨はまだ、弱々しかった。
「ねぇ、塩瀬さん」
「……どうかしたの?」
委員長は立ち止まり、塩瀬に話しかけた。
その声はどこか、覚悟を決めたような調子であった。
「賭けをしませんか?」
「賭け?」
「はい、賭けです──」
──賭けの内容は次の通り
委員長、塩瀬の順に、佐藤がどこへ行ったのかを予想する。
次に双方、予想した地点に向かう。
向かった地点に佐藤がいた場合、その地点を予想した方の勝利。
「それで、この賭けに勝ったらどうなるの?」
「佐藤くんと2人きりで話せます」
「……? 私は嬉しいけど──」
塩瀬は首を傾げる。
佐藤と話せて嬉しいのは、佐藤の事が好きな人間だけだと思っているから。
無論、その予想は当たっている。
「塩瀬さん、やっぱり忘れてるんですね」
「えっ? 委員長だよね? 違った!?」
「そうじゃありません。いえ、……ある意味ではそうですが」
委員長は体操服のポケットから眼鏡を取り出す。
そして徐にかけるのであった。
「……あっ」
「思い出しましたか?」
塩瀬の脳内に溢れ出てくる、かつての記憶。
それはあの日、塩瀬に『佐藤くんの最後の大会を見に行こう』と誘った、張本人だった。いや、それ以前も──
「塩瀬さん。再度、あなたに問います。賭けをしませんか?」
────回想、終わり────
私は賭けに勝った。
教室を覗き込んで、彼を見つけた時には飛び上がって喜びたかった。
ただ、その気持ちは押し殺した。
──だって、眼鏡をかけて会う勇気がなかったから。
変わった自分と、本当の自分、どっちが彼にとって最適解なのか。
あいにく、彼の口調や反応でそれを確かめることはできなかった。
だけど、あなたは私に本音を話した。
それも塩瀬さんには話していない、心の奥底を話してくれた。
これってそういうこと?
勘違いしてもいいの?
だけど──
佐藤くんとの話がひと段落ついた。
窓の外を見てみると、分厚かった雲に切れ目が入っている。
もう、雨は止んでいた。
「ねぇ、佐藤くん。そろそろみんなの所に戻りませんか?」
「……うん、そうする」
まだ早い──
「委員長、さっきはありがとう」
「……いえいえ、感謝したいのは私の方ですよ」
「……? どういうこと?」
彼の困惑に満ちた表情を眺めて、意地悪をしたくなった。
これも、小さな積み重ね。
「ふふっ、内緒です」
──その答え合わせは『体育祭』でしよう。
体育祭編に続く……
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