第4話 体育祭は始まらない

────4限・校庭────




コーナーを曲がった塩瀬さんは、向こうから物凄い勢いでコチラに向かってくる。

無駄のないフォームに、力強く踏みしめる地面。

彼女の運動神経の良さが、余すとこなく走りに反映されていた。


そして塩瀬さんのかなり後方、委員長はようやくコーナーに差し掛かった辺り。

へろへろとしたフォームから、運動神経のなさが伺える。




「へぃ! ぱぁす!」


「……? ありがとう?」


塩瀬さんの手にあった赤色のバトンは、僕の手元に乗っていた。

すると横から、にゅっと影が伸びてくる。


「うぉぉぉい! こっちだよ! 塩瀬さーん!」


隣の山本が両手を広げて、大袈裟に叫ぶ。

ただ、うん、山本がこれくらいのリアクションを取るのも納得はできる。


「……塩瀬さんは赤チームだから、このバトンは山本に渡さなきゃ」


「ええっ!? 私また間違えたっ!?」


山本と同じくらい慌てふためく塩瀬さん。

ちなみに、彼女の着ている体操服にはデカデカと『島田』と書かれていた。


……また他のクラスの友達から借りてるのか。


「おいおい! 塩瀬さん頼むよぉー!」


「ごめん! ……えっと、あっ! 川崎くん!」


「ちがーう!」


そう言った山本は僕からバトンをひったくるように奪うと、そのまま走り出してしまった。


「俺は山本だぁぁぁ!」


彼の声は校庭中に響き渡った。


すると同時に、委員長が走り込んでくる。

彼女はまるで、持久走を走ってきた後の人のように、今にも倒れそうだった。


「……はぁっ、はぁっ……ごめっ」


「しょうがないよ」


僕は委員長から白いバトンを受け取って、地面を蹴った。




──今はそう、中間考査が終わって、期末考査までの期間。


もちろんこの期間内に何もないはずもなく、体育祭がバッチリと計画されている。

今はそんな、体育祭を見据えたことによって男女混合になった、体育の授業中だ。


「うぉぉぉぉぉぉ!」


「……はぁっ、はぁっ」


前を走る山本の背中はぐんぐんと近づいてくる。

僕の呼吸は少々乱れたくらいで、疲れなんて微塵も感じない。

んでもって空は晴天という、完璧な状況。


だからだろうか、あの日のことを思い出す。

あれは忘れもしない、去年の、中学最後の体育祭だ。




────


あの時の僕は、体育祭が終わった後、倉庫で片付けをしていた。

するとたまたま外から、友達の会話が聞こえてきた。


「佐藤さ、アイツ、陸上部だからってアンカーに選ばれてたけど──」


今では名前も覚えてない、顔も覚えてない、そんな人間の言葉。

直接言われたわけでもないし、悪意だって含まれてない、落胆の言葉。


「……なんか、走りは普通だったな」


なぜか、あの言葉だけは記憶に残っている。


────




「うっ、うぉぉぉぉ…………」


「はぁっ、はぁっ……くそっ……」


山本の背中はすぐそばまで迫っている。

アイツの勢いも、走り出した時と比べてかなり落ちている。


あと少し、ほんの一歩、……なのにどうして抜き去れない?


「まけねぇょぉ、俺はっ! まけねぇぇぇぇ!」


「……くそがっ」


山本は突如加速する。

前の僕なら反応して、ピッタリ彼の後ろにつけただろう。

ただ、何かが足枷のように僕の足に絡みついた現在、僕は遠のいて行く山本の背中を眺めることしか出来なかった──。






「はぁっ、よっっしゃあ……! 佐藤に勝ったぜ塩瀬さん……」


疲れて仰向けで寝転がる僕と山本、それを上から覗き込む塩瀬さん。

彼女は結構、この状況を楽しんでいるようだった。


「うんうん! ちゃんとこの目で見てたよ!」


「……ふっ、塩瀬さん、俺に惚れちまってもいいんだ──」


「あっ、ごめん。それはない」


プシュュュュ……


「やまもとぉぉぉ!」


山本が塩瀬さんに軽くあしらわれたことによって、風船みたいに萎んじゃった!

あーでも、ほっといたら治るだろ、山本だし。


「うーん……」


塩瀬さんの後ろに立っているのは委員長。

顎に手を当て、深い思考の伴った発言をする。


「山本くんと塩瀬さん、2人とも足は早いんですけど、バトンパスが上手くできませんね……」


「あーそれ、俺思ったんだけど──」


山本は「よいしょっ」と言って、仰向けの状態から上半身を起こす。


「アンカーを佐藤にすれば丸く収まるんじゃね?」


「……は? 無理だが?」


「いやいやっ」


そう言いつつ、山本は軽く掌をひらつかせる。


「だってお前、中学の頃は陸上部だったんだろ? めっちゃ頑張ってたって──」


「おい」


自分でも恐ろしく感じるほどの、低くて怒気の孕んだ声。

……時が止まるっていうのは、こういう事なのかもしれない。

しかしながら、次に出てくる言葉に乗せた口調は緩やかだった。



「おい山本、なぜそのことを……」



そう聞いたのち、僕はなんとなく察しがついて、塩瀬さんの方をチラッと見る。

彼女は僕の視線に気がつくと下を向いた。


「はぁ」と無意識のうちにため息が漏れ出ていた。

そして僕の心の奥底から、封じ込んでいたドス黒い感情が吹き出す。

無論、言語化されていた。




──そういうのは、覚えてるんだな。




こんなことを口に出さずとも、頭の中心で考えてしまった。

最悪だ、最悪だ……僕は最悪な人間だって、自己嫌悪に陥る。


「……ごめん。ちょっと体調悪いから、保健室行ってくる」


「あっ、それじゃあ私もついて行きま──」


「いや大丈夫。……ほら、委員長はクラスを纏めなきゃ」


僕はそう言い終わって、ゆっくりと立ち上がって、ゆらゆらと足を前に踏み出す。

これを繰り返すと、どんどんクラスの纏まりから遠のいてゆく。

委員長の提案を断ったからか、僕の後を追うものはいなかった。


空は……曇天だった。




「──ねぇ!」


「……」


塩瀬さんの声だってことは分かっている。

でも振り返らない、歩みも緩めない。

いや、塩瀬さんだからこそ振り返りたくない、早く遠のきたい。


「待ってよ佐藤くん!」


「……」


後ろから腕を掴まれた。

ぎゅっと力強く、その掌からは「絶対に離さない」という意思が伝わってくる。

自然と僕の歩みは止まったが、未だに振り返ってはいない。


「昔のこと、話してごめんね」


「謝らないでよ」


僕は知っている。


悪いのは塩瀬さんじゃなくて僕の方なんだってこと。

僕が陸上を辞めた原因が、あの言葉なんかじゃないってこと。

僕は天才なんかじゃなくて、ただただ部活を3年間頑張っただけの、凡人なんだってこと。


知っているけど、知らないふりを続けている。




「昔の僕が嫌いなんだ。自分のことを天才だと思い込んで、タイムに執着していた昔の僕のことが……だいっきらいなんだ」


「……うん」


「県で何番だとか、マジでしょーもない。結局どんだけ頑張ったって、全国……上には上がいる」


「ううん、それでも佐藤くんは戦ってた」


「ねぇ。塩瀬さんはいったい、僕の何を知っ──」


「……佐藤忠洋。……104番。……第3コース。……私、全部覚えてるよ?」


「引退前、最後のヤツか。見に来てたの?」


「そのっ、友達に誘われて……」


僕の最後の大会は準決勝、コーナーを曲がる前での転倒。

もちろんそれで決勝に残れるはずもなく、そのまま終わった。

周囲からの同情すら、僕には硫酸をぶっかけられているように感じた。



──ほんと、なんでそういうのだけは覚えてるんだろ?



ポツポツポツ……と、雨は降ってくる。

さっきまでの晴天が嘘だったかのように、空は灰色で染まっていた。


「あれは良いきっかけだったと思う。きっと陸上の神様が、僕に辞めろって言ったんだろうね」


ははははっ、陸上の神様なんて烏滸がましい。

お前のことなんか、誰も見向きもしねえのによ。


「じゃっ、僕は保健室だから」


パッと塩瀬さんの手を振り解こうとすると、思いのほかすぐに解けた。

その後も僕は彼女の方を振り返らず、校舎へと歩みを進めていった。




────塩瀬さん────




佐藤くんが離れた後も塩瀬は、しばらくその場に立ち尽くしていた。

彼女は失恋にも似た、ショックを受けていたのだ。


「カッコよかったのになぁ……」


虚空にポツリとそう呟く。


転けてもなお、先頭を目指して必死に走る佐藤の姿。

3年間の全てが、あの走りに詰まっているようで、心の底から応援した。

隣に座っている、彼女の友達だってそうだった。


神様がいるとしたら、あの時だけは彼の背中を押していた。


「佐藤くん……」


塩瀬の呟きは、雨音にかき消された。


ただ、そうやって立ち尽くす彼女を、委員長は追い越して行った。


──無論、保健室へ行くために。







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