「少年」と「雪女」七
目の前に広がっている光景は目にも当てられないものだった。
場所はさっき迄の自分がいた化物の棲家のようだった。
煤の落ちた古い畳の上には‥紬と綾の死体が転がっていた。
首の骨が折れ曲がり、開かれた両目は乾き光が無い。
呼気も家鳴りも無い静寂が恐ろしい。
「紬‥綾ちゃん」
これが結末だ。
そう言われてる気がした。
脳裏に浮かぶのは、自身を呼ぶ2人の声、心底安心したような信頼を向ける彼女達の顔。
それが今はどこにも無い。
叫び出したい。
この場から逃げ出したい。
そう思っても、俺の足は根を張ったようにそこから動くことが出来ず、
ただ2人の姿を見下ろすことしかできなかった。
自分には2人にこめかみに残る涙の跡から目を背けること資格はなかった。
そうして、数時間にも感じられる時間を過ごした後、新たな地獄が姿を現した
「どうして‥どうして‥私はお前さえいれば‥それで」
今度は今にも消えそうな鬼火が微かに照らす薄暗闇の中。
そこで雪が泣いていた。
1枚の羽織を抱きしめた彼女の顔は幽鬼のように精気が抜けていた。
眼からは、はらはらと涙がこぼれ落ち、そのまま両目が溶けて落ちてしまいそうだった。
あぁ、そうだ。
これはあの日の夢の続きだ。
「‥‥雪」
無駄だと分かっていても声を掛けずにはいられなかった。
当然、側に立っているはずの俺の声は届かない。
いくら手を伸ばし触れようとも目の前の雪には触れられない。
「あぁぁ‥ああぁ」
返ってくるのは迷子の幼子のような悲しみだけだった。
自分が1人になってしまったと気づき、その孤独に‥心細さに泣いている。
雪が縋り付いている羽織はあの日の夢の中にいた青年のものだろう。
きっと彼はあまり考えないようにしていた雪の過去の窓憑だ。
雪に俺の知らない過去があることは分かっている。
そのことに醜くくも嫉妬している自分もいる。
でも今はそれ以上に気付かされたことがある。
‥俺はこの時と同じ事を雪にしてしまったんだ。
俺は見ているこれは走馬灯か何かで、こうしている間にも死に近づいているのだろう。
いや、もしかしたらもう死んでいるのかもしれない。
そして、そう遠くないうちに紬も綾も‥雪も同じ結末を辿る。
「ごめん‥。ごめんなさい」
これは帰ってくると助けると約束したくせに、何の実力も覚悟も足らなかった己への罰。
いくら謝ろうが、手で耳を塞いでも、その声は止んではくれない。
時折のその声が、紬やその友達である綾の悲鳴にも聞こえる気がした。
後悔に苛まれる俺の心は、形を失い溢れ出すように目からこぼれ落ち続けた。
「分かったかい‥これが僕らがした事の結末だよ」
既に涙も枯れ果て、蹲る自分に誰かの声が降ってきた。
あれほど、聞こえていた悲痛な声も止み、その声がポツリと響く。
ゆっくりと顔を上げると、近くにいた雪の姿は無く、代わりに居たのはあの夢の青年だった。
「君は自身の無謀さを反省した方が良い」
頬を掻きながら困ったように彼が言う。
何処か親近感のある仕草だった。
何故か今はそれが腹立たしく感じてしまう自分がいた。
「‥あんたのこと何となく分かってるよ‥前の窓憑だろ。自分と似た最後になった俺を笑いに来たのか?」
「それを言われると耳が痛いね。確かに、私は彼女を残して死んだ。後悔も懺悔も言い尽くせない程ある。でも、少なくとも私は前を向いて死んだ。次に生まれ変わって彼女に会った時、恥じないように死んだつもりだ。それに引き換え君はどうだ?」
真っ直ぐと自分を見据えるその瞳にかっと血が昇る。
そして気づけば言葉よりも先に体が動き、青年を突き倒していた。
「前を向いて死んだ?だから俺よりマシだって?そりゃあ立派だな。助けに行った女の子も救えない馬鹿よりは最高だ。だけどな、お前の言うことに何の意味がある?‥それを雪の前でも言えるのかよ。あいつは‥あいつがどれだけアンタのことを‥」
嫉妬と怒りがごちゃ混ぜになっていた。
あの溶けてしまいそうな雪を見た後にそんな事を言う青年への怒り。
そして、あの夢を見る前から自分以外の男の影を感じていた矮小な嫉妬。
仕方のない事だと分かっていてもどうしようもなくやるせなかった
自分と重ねられていた男への羨望だった。
俺は怖い。
俺の死が雪に目の前の青年の時と同じだけのものなのか知るのが怖かった。
悲しみの総量でしか、雪の中にある自分の存在を計ることができない。
それが酷く惨めだ。
「雪達にとって窓憑は自分の半身ようなものだ。そしてそれは窓憑にとっても同じ。そこに後か先かなんて比べようがないんだよ」
胸ぐらを掴む俺に、青年はそれでも優しく語りかける。
そして続けて彼は言う
「君も彼女に初めて会った時感じただろう。あれが彼女が思う僕達への想いなんだよ。そして、それを今受け取れるのは窓憑である君だ」
「‥分かってる‥分かってるんだ、でも、どうすれば良かったんだ」
真摯に説く青年の言葉に自分でも不思議なくらい素直な言葉が出た。
過去の影に燻られた心はそう簡単には消えてくれやしない。
それどころか、あの夢を見てからはより苛立ちが募っていた。
どんな馬鹿なやり取りとしていたって、普段通りに振る舞っても滑稽さだけがあった。
それならいっそ離れようとさえ考え、祖父には嘘を言って生家に帰る事にした。
‥今回の事件があったのはそんな矢先のことだった。
知り合いの女の子が怖い目にあっているのに、何もしないなんて自分にはできない。
ただ思いだけが先走り、覚悟の1つ出来ずにいた結果がこの様だ。
「‥少し大人げなかったね。そうだな、君くらいの歳ならよくある事だ。私もそれで雪に何度も叱られたよ」
青年は体を起こし、フッと息を吐いた。
その眼差しは、出来の悪い弟見るようだった。
「どうすれば良かったか‥返すようだけど、どうして雪の事を名前で呼ばない?窓憑なら名を交わすことの意味くらい分かっているだろう?」
名を交わすという事の意味は俺も知っていた。
一種の契約とも言えるそれは、お互いの名を教え合い呼び合う事それだけのものだが、それをするかしないかではその関係に大きな違いがあるらしい。
実際、俺も雪という名前をあいつに教えられた。
一回も呼んでいないけど‥。
「‥‥なんでって‥別に」
「どうせ気恥ずかしかったとか、そんな理由だろう。はぁ、雪も雪だ、自分の窓憑だと分かっているなら早く済ませれば良いのに。変なところで強情なんだから」
適当にはぐらかそうとしものの、俺の胸の内など彼にはお見通しのようだった。
馬鹿にされても仕方がないことだが‥今まで呼んでこなかったのに、この歳になって今更名前で呼ぶとか無理だった。他人から見ればしょうもない事だが、俺にとっては難しい問題だ。
それにしてもコイツ雪、雪って昔の男みたいな感じを出してくるのは何なのだろうか。
この人が俺の前の窓憑なのは分かるが、こうも名前を連呼されるのは癪に触る。
俺のしつこく燻る嫉妬を見透かしたように彼は俺の頭を乱暴に撫でた。
「名前を呼ぶという行為は君が考えているより大事な事なんだよ。それをする事で僕らは彼女達の力を貸してもらえるんだからね。でもそれだけじゃない」
「‥俺があの化物に止めを刺す事を躊躇ったから」
「そう。情けを持つことは悪いことじゃない。でも、それと覚悟が足りない事とを同義にしてはいけない、怪異はそんな心持ちで相手にできる奴らじゃないんだ。‥君は自分が死んだらどうなるか考えたかい。助けに行ったあの子達がどうなるのかを」
「‥‥」
分かっていたなんて口が裂けても言えない。
止めを躊躇った時、自身が負けると、
紬と綾があんな酷い姿になるかもしれないと少しでも考えただろうか。
もし考えていたら、手を止めてはいなかっただろう。
そうだ。あの時、俺が思っていたのは、ただ人の残滓を残すあいつを消さなくても良い、手を汚さず済むという安心だけ。
情けなんて高尚なものじゃない。
窓憑という異質な存在である自分が、人の側に立っていることの線引きにあの化物を使っただけだ。
結局、俺は人と化物どちらの世界に立つ覚悟がなかっただけだ。
もし、もう一度が与えられるのなら、もう迷わない。
好きな人を名前で呼ぶこともできない意気地なしで、
いつも一緒にいる女の子の苦しみすら分かっていなかった俺だけど。
大切な人を守れるのなら、人にも化物にだってなってやる。
「アンタの言う通りだ。俺は、何も分かっちゃいなかった。でも、もう迷わない。」
「‥僕ら窓憑はいつの時代も間に立っている。外と内、隠り世と現世を繋ぐ窓のようなものだ。故にどちらの側にも入れず、どちらの者にも寄り添い苦しむんだ。君にその覚悟はあるかい」
「多分、色々悩むし苦しむんだと思う。でも今決めたよ。誰にどう思われようとも後ろ指を刺されても良い、それで何かを守れるのなら本望だ」
そう告げると、青年はジッと俺を見つめた後、何かに満足そうに頷き笑った。
「その目なら大丈夫そうだ。もう良いかい」
何をとは聞かなかった。
その一言でどうして、彼が現れ、俺にあれを見せたのか自ずと理解した。
「うん。あの蝋人形野郎にも会いたいしな」
態とらしくいきった事を言うと、彼は破顔し晴れやかな顔で手を挙げた。
「じゃあね、今世の僕」
そう言った彼の顔は、それまでの落ち着いた大人の表情ではなく、まるで悪戯好きな子供のように無邪気な笑顔だった。そして、それを最後に俺の視界は明るい光の中に包まれ、その言葉の意味を知る事もなく浮上していった。
◆◇ side:___
そいつは死んだ筈だった。
とろりとした精気の無い眼、弛緩した肉の感触。
それは生前自身が幾度と行ったからこそ分かる殺しの実感だった。
なのに、なんでコイツは生きている。
手など一部の隙も無く締め上げていた筈だ。
こいつは俺の獲物逃したのだからその怒りを込めて遊びもせずに殺した‥なのに。
どうして、俺の前に立っている。
なんで俺は倒れているんだ。
自身が勝ったと確信した瞬間の出来事に理解が追いつかなかった。
確かに殺した筈の子供の目に精気が戻った。
その瞬間、あれだけ熱気を放っていた部屋の火も煙も掻き消え、部屋の中の全てが凍土の様な冷気が広がった。その異様さに気を取られ、気づけば強い力で床に引き倒されていた。
「おい、やってくれたな」
手形のついた喉を摩り、咳き込みながらその子供は俺を睨み付けていた。
そしてそのまま立ち上がると、床に転がっていた金属バットを握り、感触を確かめるように軽く振る。
この子供は他の奴と違う。
それは最初に殴られた時から分かっていた。
恐らく、我々のようなものに干渉する力が強いのだ。
でも、それだけだ。
このガキに殴られ、痛みこそあるもののそれだけで自身が死なない。
「‥助けえて‥助けて」
そう獲物の小娘どもの猿真似をするとこの子供は動けなくなる。
そうなればどうにでもなる、お優しいこいつは自分にトドメを刺せないのだ。
隙を見せたらまた同じように殺せば良い。
そうだ、今後は刃物を使って滅多刺しにしよう。
白濁とした記憶の中で思い返す嘗ての犯行に胸を馳せ、目の前の獲物に舌なめずりした。
「うるせぇ」
しかし、奴の目は先程とは違い小さな揺らぎすらもなかった。
ただ、自分が浮かべたような愉しむものではなく、ただ純粋な殺意がそこにはあった。
振り下ろされるそれに一切の躊躇も無かった。
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