「少年」と「雪女」五

「まだ応援は来ないんですか‥」


応援を呼んでからかれこれ2時間は経っていた。

一番近くに赴任している担当も、ここから車で数時間は離れているのは知っていたが、

目の前に手がかりがあって何も出来ないことに苛立ちが募っていた。


「本部の話だと都市の方でも怪異案件が起きたみたいでな‥到着はいつになるか分からんのだと」


スマホを見て河田部長がため息をつく。

制帽を脱いで後頭部を掻く姿は、俺同様にやるせなさを感じているのがよく分かる。


ここにいると精神的に疲弊していく。

オカルト染みた現象のせいで脳が処理しきれずにパンクしているせいかもしれない。

あるいは、目の前に手がかりがあって何も出来ない事に対する無力感がそうさせるのかもしれない。


いや‥多分違う。

俺は怖いのだろう。


このタイミングで応援に来るのが遅れるくらいにこんなことが頻発してるのかもしれない。

自分が知らないだけで、こういうことが誰かの手で水際で抑えられているのかも。


目線を境界線の方へと向けると依然としてこちらに関心を寄せる者達が立っていた。


あんなのが、そこらじゅうに隠れているこの世界が恐ろしく感じてしまったのだ。


「吉崎‥お前は少し休‥」


顔を覆い項垂れる俺に部長が何かを言いかける。

幾ら待てども続きがない事を不審に思い、手を退かして部長の方を見ると俺の後方に視線を向けたまま固まっていた。その視線に釣られるように俺も背後を振り返る。


すると、そこには1人の少年がこちらに向かって歩いていた。

こう言っては語弊があるかもしれないが、なんの変哲もない制服に身を包んだ子供だ。

その肩には、自分が高校時代に持っていた懐かしいバットケースが掛けられていた。


確か、この辺の中学校の制服。

こんな田舎にそう学校なんて多くはないし、毎日見る風景の一部だったから自信があった。


なんだってこんなところに‥。

面倒な事になったと内心、嘆息していると部長が少年へと近づいていく。


「実ミノルのところの春くんか?」


どうやら部長の知り合いの家の子だったらしい。

驚いているのか少し声が高くなっているのが分かった。


「河田の叔父さん」


春と呼ばれたその子は、部長の3歩前ほどに立ち止まる。

街頭に照らされた事によって、その子があらためて中学生3年生くらいの子供だとよく分かった。

顔に精悍さが現れ始めているものの、どこかあどけなさがあるあの年頃特有の顔つき。

しかし、その目は子供というには成熟したものがあった。


「そうか、春くんは蜂屋さんの子と仲良かったもんな‥分かってると思うけど」


「ごめん叔父さん」


少年は道を塞ぐように立つ部長をものともせずにそう言うと、脇を抜けて通り過ぎていく。

それを部長は止めるでもなくただ見送る。


慌てて俺が代わりに止めようとした瞬間、耳元で鈴を転がす様な声がした。


”春の邪魔をするな”


そして、金縛りにあった様に俺の体は言うことを効かなくなった。

手足は勿論のこと、口を開くことすらできず、ただ少年が境界線へと進んでいくのを見ていることしかできなかった。


境界線に立つ少年に、黒い影達は狂喜乱舞したように必死にその手を伸ばす。

無数の黒い手は少年の体を掴み沼に沈めるように境界線の奥へと所の少年を誘った。


俺達の金縛りが解けたのは、少年が姿が完全に見えなくなった頃だった。

あまりの出来事に解けた後も呆然と立ち尽くす俺だったが、暫くすると責任やらなんやらで頭を抱えそうになった。


しかし、そんな俺を他所に部長はどこか面白そうに頬緩ませる。


「あれが窓憑か‥実の血だな」


部長はそう呟くと、何かを思い出すかのようにフッと軽く笑った。





◆◇ side:紬


目の前で痛めつけられる綾ちゃんを前に私は声を抑えることができなかった。

それが化物の罠だと理解していても、綾ちゃんの目を見てしまった。


当然、悲鳴を上げた私の声をソレは聞き逃しはしなかった。

キョロキョロと態とらしく周囲を確認した後、私が隠れている方向を見て口を限界まで歪める。

甲高い歓喜の声を上げ、私の隠れる倒壊した家屋にと近づく。

関節が無いかの様に可動する手がこちら向けて伸ばされ、私はそれに足を振り回して抵抗する。


「やめて!来ないで!」


必死の抵抗のおかげか、化物は私の足を掴みかね、悔しそうに声を上げる。

そして、幾度かそれを繰り返すと化物の癇癪がより激しくなっていく、そして諦めたかの様に腕を伸ばすのを辞めた。


まさか‥。


私の中で安堵よりも不安が広がる。

そして、それは最悪の形で当たってしまった。


「うぁ‥あっ‥やめぇ」


私が捕まらない事に業を煮やした化物は、綾ちゃんの首を片手で絞め上げ、こちらに見せつける。

苦しそうな声を上げ、首にかかる手に爪を立てる綾ちゃん。

そんな必死さすらも化物には愉快なのか、体を軽く揺らすながら笑みを浮かべていた。


”お前が捕まらないから、友達がこんな目に遭うんだぞ”


そう言われている様だった。


「やめてよ‥どうしてそんなことするの!?」


私の精一杯の怒りを見せても、化物は虫を弄ぶ様に綾ちゃんを苦しめる。

いやらしい事に、時折、締め付ける力を緩めているのか彼女が必死に呼吸する様を楽しんでいる節すらあった。



なんで‥こんな目に遭うの‥なんで綾ちゃんなの‥なんで私なの?


友達がそんな目に遭ってるのに私に出来るのは声を上げるだけ。

私の心は限界だった。気づいた時には、何かの義務の様に震える足を殴りつけ、引き摺る様に穴から這い出ていた。


「なんで‥出てきちゃうのよ」


涙を滲ませた綾ちゃんが搾り出す様に呟く。


それに私は俯くことしかできなかった。


その行動の真意は友情でも、自己犠牲の気高さでも、勇気でもなかったから。

私にあったのは、ただ楽になりたい‥自身が責められたくないという卑屈な防衛本能しかなかった。


化物はそれまでの鬱憤を晴らすかのように手の甲で私を殴り飛ばす。

そして、地面にへたり込む私と綾ちゃんの髪を引っ張り上げた。


「ごめんなさい‥ごめんなさい」


耐え難い痛みにポロポロと涙を出しながら許しを乞う。

しかし、そんなことは化物にとってもは何の意味を成さない。

化物は、まるで犬のリードでも引っ張るように私達の体を引きずるとそのまま歩き出す。


髪を引っ張られる痛みを我慢し、自身の髪を握る腕に爪に立て必死に抵抗するが、煩わしそうに髪を強く引かれることで分からせられる。

聞き分けのない犬を躾けるような行為に、私達は従うほかなかった。

それがどんなに恐ろしいことでも、どこかへと連れ去られる恐怖と断続的に与えられる痛みに、次第に私も綾ちゃんも抵抗する気力すら無くなった。もう心が折れてしまった。


痛みから解放されたのは、ここに迷い込んだ時に数ある廃屋の1つの中に着いた頃だった。


7畳ほどの土壁に囲まれた部屋は、そこかしこに物が散乱していた。

ささくれだった畳に乱暴に投げ捨てられた私達は、声を上がることも出来ないほどに憔悴し切っていた。きっと涙も枯れ果てたお互いの目には諦観が浮かんでいた。


そんな私達を見て面白くなかったのか、しらけ顔になった化物が顔を覗き込んでくる。


きっと頭の中では、どうやったら私達の顔を歪めさせられるか考えているのだろう。


そうして化物は交互に私達の逡巡すると、何かを思いついたかのように部屋にある押入れの穴だらけの襖を開けて中にあった物をひっくり返し始めた。



何をする気なんだろう。

痛いのは嫌だなぁ。


化物の嬉々とした後ろ姿を見ながら他人事の様にそう思った。


そうして、逃げることもせずにただ従順に待っていた私達の前に

2つの小さな刃物が投げ捨てられた。

私の掌くらいの刃には所々に錆が浮き、何か固い物でも切ったのか少し歪んだナイフだった。

目の前に差し出された凶器にゴクリと唾を飲む音が聞こえた。


「1人‥1人だけ‥助け‥てやる。こ、コれ‥で‥コロシ‥あえ」


そのぶつ切りの言葉を最初は理解できなかった。

彷徨った視線が綾ちゃんと合い、その後に畳の上に転がった刃物に行き、その意味を理解した。


綾ちゃんと私が‥殺し合う。

そんなの出来るわけない。


ジッと刃物を眺めたまま動けずにいると、視界の端でスッと綾ちゃんの腕が伸びていくのが見えた。


「ごめんね」


綾ちゃんはそう言うと転がったナイフの1つを掴み、刃先を自らの首元へと向けた。


「私ね、紬が羨ましかった‥ここじゃない何処かにいた事があって、ここにきた理由だって紬のためだって聞いて両親に大切にされているんだなって。それに、自分のことを気にかけてくれる優しいお兄ちゃんもいてさ‥だから意地悪しちゃった」


少し釣り上がった綾ちゃんの目には大粒の涙が溢れ出していた。

涙が雨垂れのように頬つたりナイフを持った腕へと落ちる。


「あ‥綾ちゃん」


綾ちゃんがそう言う風に思っているなんて知る由もなかった。

私は知らない、なぜ綾ちゃんが私を羨むのか。

私は知らない、友達がどんな悩みも持っているのかも‥。


私はいつも自分のことばかりで‥目の前にいる友達の事を何も知らない。


「綾ちゃん‥わたし‥私は」




「紬が走って行っちゃった時にさ、やっと自分が何をしたのか分かって‥全部遅いけど、ごめんね。こんな私より、紬が生き残って」


揺れる刃先が徐々に細い首へと近づいていく。


「だめぇ!」


止めようと必死に腕を伸ばした。

しかし、それよりも早く化物の腕の方が早く、綾ちゃんの持っていたナイフを弾き飛ばした。


刃先が喉を擦り綾ちゃんが苦痛に歪んだ顔をしていると、化物はそんな綾ちゃんの脇腹を蹴り上げる。吊り上がった顔と奇声を上げ様子は癇癪を起こした子供だ。


きっと綾ちゃんの自己犠牲とも言える行動も、この化物にとって自身の遊びに水を差された程度のものだったのだろう。


こいつに‥こんなやつに‥何で私達が弄ばれなきゃいけないんだ。

人の心も痛みも分からない奴にどうして怯えなきゃいけない!


執拗な暴力に体を丸める綾ちゃんの目はやめろと言っていた。

そんなことをしても無駄だと。


でも、すでに私の手は転がったナイフを掴んでいた。

たとえ敵わなくても、このまま友達が殺されるのを見ているだけなんてできない。

もう守られるだけなんて嫌だった。


「私の友達に酷いことしないでっ!」


化物はどうせ私には何も出来ないと高を括り、背を向けあまりにも無防備だった。

振りかぶった小さな刃はそのまま、化物の足へと突き刺さり、醜い悲鳴を上げさせた。


痛みに慣れていないのか、化物は地面を転がり悶える。

その隙に、私は綾ちゃんへと駆け寄った。


「どうして‥逃げないのよ」


「私、もう嫌なの。誰かに怯えるのも‥守ってもらうだけなのも‥それに、友達を見捨てるなんて出来ないよ」


「‥紬」


横たわる綾ちゃんを抱き起こし、部屋の外を目指し引き摺る。

元々そう力も強くない私の体は至る所が悲鳴を上げるが、無視して早く早くと急かす心臓に従って進む。


亀のような歩みで部屋の出口へさしかかった瞬間、眩むような光が目を焼いた。

それは戸も何も無い玄関口から差し込んだ西陽だった。


二度と見ることが叶わないと思っていた陽の光。

状況は何1つとして変わっていない。

なのに、夕日を見ると安心する自分がいる。


私達はその光に導かれるまま敷居を跨ごうとしたその時、足首に掴まれる様な感触がした。

そして次の瞬間には強い力で引っ張られ、私は床へと叩きつけられた。


「綾ちゃん、逃げて」


「そんな、紬」


咄嗟に綾ちゃんの体を突き飛ばすと、そのまま私の体は部屋の中へと引きづられていく。

徐々に遠ざかる綾ちゃんの顔を見ながら、私は精一杯の笑顔を作った。


綾ちゃんじゃなくて良かった。

最後に誰かに守られるんじゃなくて、誰かを守れた事に初めて心が軽くなれた。


「に、にがさ‥ない」


四つん這いになった化物は異常に長くなった腕を縮ませて私を引き寄せると

もう一方の手で首を締め上げ始める。

足で何度も化物の顔を蹴り上げるものの、怯んだ様子は無く、黄色く濁った目からは明確な殺意が滲み出ていた。


「あっ‥かぁ‥あ」


じわじわと締め上げられる苦痛に口から苦悶の声と漏れた。

四肢から力が抜けていき、口の端から溢れ出した涎が頬を伝り地面へと落ちていくのが分かった。


こんな事なら‥もう少し春ちゃんに、もうちょっと甘えれば良かったなぁ。


徐々に狭まっていく視界の中でぼんやりと考えるのは、春ちゃんのことだった。

叶う事ならもう一度会いたい。そして謝りたい。


そんな事を考えていたせいだろうか、朧げになる視界の中でここに居る筈のない少年によく似た顔が見えたのは。


「おい、クソ化物」


いつもとは違う低く冷たい声音だった。

私には何よりも安心できるあの人の声だった。

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