閑話 「紬」と「春」

紬、それが私の名前。

両親はこの名前に紬糸の様に異なる様々な糸に撚りをかけ、紡いでいって欲しい、異なる人同士を結びつける人になって欲しいという意味を込めたのだと言っていた。

そんな両親の期待とは違い、幼い頃の私は引っ込み事案なところがあって、とても人との縁を繋ぐ社交的な人間にはなれなかった。


まぁそれは今でも変わらないかもしれない。

こう言うと今の私を見る人は、意外と思うかもしれない。

確かに今は少しは自分を出す術を覚えてきたけど、そんなのは経験によるもので、

私は臆病なまま‥。


ただ1つ変わったとしたら、今はそれでも良いって思える様になったことくらいかな。


だって人はそれぞれ違うし、常に受け入れられることばかりじゃないでしょう?

どうしたら受け入れて貰えるんだろうとか、心機一転して他の場所を探してみるとか、色々考えて動いてみたってダメな時はダメなもんだもんね。


だから、本当に大事なのはこの人にさえ受け入れて貰えればそれで良いやって思える人を1人見つけること。自分にぽっかりと空いてしまった穴を埋めてくれる様な人を作ることなんだよ。

それだけで良いんだよ。


まぁ、それが凄く難しいんだけどね。


でも、私は逢えたよ。

そんな人に。



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私も最初から、異形の姿が見えていたわけではなかった。

ふと気づいた時には、それらは忍び寄っており、何でもないかのように日常に溶け込み始めていた。



「‥猫?」


昼休みの教室の中に悠々と佇む猫の姿があった。


迷い猫だろうか?


その首には紺色を基調とした赤いラインが入った首輪がつけられており、飼い猫であることを示していた。私が友達の後ろを指差して聞くと、彼女達は何のことかと振り向き、周囲を確認する。


「え‥猫?何もいないよ」


しかし、明らかに視界に収めているはずの彼女達はその猫に気づくことは無く、

何かの冗談だと思ったのか、周りの子も笑ってそれを否定した。


しかし私の目には茶トラの毛色をした1匹の猫の姿が確かに見えていた。

その猫は毛繕いをし、次に大きな欠伸をしたかと思うと、

のそのそといった足取りで歩くその猫は近くにいた子の足に顔を擦り付ける。


その事を告げると周囲の顔が若干強張り始め、中でも猫に擦り寄られている子は顔を伏せてしまった。


「もう、紬ちゃん冗談はいいから!教室に猫がいるわけ無いじゃん」


顔を伏せた子と特に仲が良い子が、隣を気遣う様に見ながら言う。


その時に気付けば良いものを察しの悪い私には、逆に周りが冗談を言っている様に思えた。


「えっでも‥」


「もう辞めてよ!面白くないって!」


再度その猫を差そうとした私の指先は顔を伏せた子の声に止められた。

彼女は少し赤くなった目でこちらを睨みつける。


「紬ちゃん‥どうしてそんなこというの?‥もしかして、私のこと嫌いなの?」


泣き出してしまう彼女を隠す様に周りの子達がその周囲を囲っていき、

正面に立つ私に責める様な視線を向けた。


その視線に貫かれた私は逃れるように顔を伏せた。


「そんなことない!‥でも、本当に‥猫が」


締めつけられる心臓に声も次第に小さくなっていく。


どうして皆んなには見えないの?

私がおかしいの?


それまでの楽しかったお喋りの雰囲気はどこかへと消え去り、

私に謝罪を求める無言の圧力だけがその場を支配していた。


「‥ごめんなさい」


これは後から聞いた話だったが、その猫の特徴は泣かせてしまった子の亡くした飼い猫に酷似していたらしい。

当時の私はその事を知らなかったが、周りの目にはそう映らなかったらしく、

周囲の気を引きたいがために友達を気付ける嘘を吐いたと認識されてしまった。


この時からだ、私の周囲で奇妙なことが起こり始めたのは。


最初に見え始めたのは、あの日の様な犬や猫といった動物霊。

それから、少しすると生きている人と見間違えるような幽霊‥そして最後には異形姿を捉え始めた。


それらは、私が見える人間だと認識すると所構わずイタズラを仕掛けてきたり、脅かそうとしてきた。安全な場所など何処にもなかった。


通学路の合間でも。

学校の中にいても。

たとえ、家の中にいたとしても。


彼らに何かをされる度に驚き、恐怖する私の姿は周囲から見て奇怪に映ったことだろう。

周囲からの孤立と向けられる奇異の目に次第に私は憔悴し、いつしか家の中に閉じこもる様になっていった。


◆◇


私が家に引き篭ってから数ヶ月が経った頃、変わったお客さんが家を訪れた。


母の遠い昔に別れた本家筋に当たるというその親戚は、私の状況を知るやいなや態々、数百キロ離れた私達の家にお見舞いに来てくれたのだそうだ。

そんな事情だからか、いつもは来客が来ても部屋にいて良いと言われる私もこの日ばかりは挨拶だけはしなさいと言い含められていた。



「どうも初めまして櫻庭おうばと申します。君が紬ちゃんか‥怖かったろうによく頑張ったな」


一見すると厳しそうな印象を受けるお爺さんは、しゃがみ込み私に視線を合わせると優しい手つきで私の頭を撫でてくれた。


「ほれ、お前も挨拶せんか!」


「どうも。櫻庭おうば‥春です」


お爺さんに促された少年はムスッとした顔でそう名乗った。

話では私よりも4歳年上のその子は、遠い親戚ということもあってか母の親戚の人達ともあまり似ていなかった。どちらかといえば鋭い冷たさを感じる顔立ちで、私が苦手とするタイプだった。


「‥なんだよ」


ジッと顔を見ていた私を不躾な奴だと言わんばかりにその子は睨みつける。


慌てて顔を伏せ、ごめんなさいと呟いた。

するとその子はバツが悪いように頭の後ろを掻いて顔を逸らす。


きっと、私が寂しくない様に歳の近い子を呼んでくれたのだろうけど、

その気遣いも無駄に終わりそうだった。


嫌われちゃったかな‥。

そうだよね私なんて皆んなに嫌われてる。

だから今更、それが1人2人増えたくらいどうだってない。


そう考えることでチクリと痛む胸を誤魔化した。


そんな子供同士の微妙な雰囲気を感じとったのか、お父さんはどうしたものかと視線を漂わせ、お爺さんも気まずそうに咳払いをした。

そんな空気を払拭したのは能天気なお母さんの言葉だった。


「まぁ、春ちゃんって言うのね?うちの紬と仲良くしてあげてね。うちの子引っ込み思案だから色々引っ張って貰えると助かるわー」


どう私達のやり取りを見ていたら、そんなこと事を言えるのだろうか。

私ですら面を食らったが、彼はそれ以上に呆気に取られていた。


「ほら、ここからは大人達だけでお話があるからね、そーね、子供達は2階で一緒に遊んでらっしゃい」


そう言ってお母さんは、固まる私達を急かすように自室に行くように促し、

私達も言われるがまま自室へと向かった。



◆◇


2階にある私の部屋。

日中にも関わらず厚い遮光カーテンが締め切られていて少しだけ薄暗い。


蛍光灯を点け、私がどうぞとクッションを手渡すと、彼は何か言いたげな顔をしながらもスッと腰を下ろした。


こちら見るからと私とで何度か視線がぶつかるものの、その度に思わず顔を伏せてしまう。

そんなことが数回繰り返された時、彼は重いため息を吐いて私の方ににじり寄ってきた。


「なぁ、お前名前は?」


「‥紬」


「ここにくる時に爺ちゃんから少し話を聞いた。紬もアイツらが見えるんだって?」


紬もということはこの子も見えるのだろうか。


ここで言うあいつらとは、恐らく幽霊達のことを指しているのだろうと察した私は

それに、こくりと頷いて答えた。



「どんなのが見える?黒いとか、人ぽいのとか色々あるだろ?」


「最初は動物の幽霊?みたいのだったんだけど‥そのうち、人みたいなのも見えるように‥」


自身でポツリポツリと口にしながら思い出すのは、これまでの数ヶ月間だった。

髪を引っ張られたり、手足を掴めれたりするのはまだ良い方で。

ただジッとこちらを見据え、恨みがましく睨みつけたり、ボソボソと悍ましい言葉を掛けてくる方が私にとっては堪えた。


嫌なものを思い出したせいか、気づけば自身を守る様に両腕を抱えて震えていた。

そんな私に彼はそっと手を差し出す。


「‥ごめん。あいつらの事思い出すの辛いよな。こう言う時はさ、誰かの手を握ってると安心するからさ‥ほら」


そう言ってぶっきらぼうに差し出された掌と彼の顔を数巡させた後、

そっと自分の手を乗せギュッと握った。

すると手足に感じでいた冷たさがじんわりとした彼の熱で絆されていき、嘘の様に消えていく。


それから彼は自分が見えるようになった時の事を話してくれた。

本当は自分が怯えていた話なんてしたくはないだろうに、まるで面白い失敗談を聞かせる様に

笑って話してくれた。


私もいつかこんな風に話せる時が来るのだろうか。

そう思うと、胸の鈍痛が少し和らいだ。


そしていつしか、彼は聞き手へと回り、私の言葉に耳を傾けてくれた。


「私‥自分がおかしくなっちゃったんだって‥」


「うん」


「友達も誰も信じてくれなくて‥」


「うん」


「‥かまって欲しいからだとか‥嘘つきだとか‥キモいって‥」


「うん」


要領の得ない私の言葉を彼は言葉少なげに相槌を打つ。

そして、私が言葉に詰まり、ぼろぼろと涙がこぼれ落ちると黙って手を握ってくれた。


それが私にとって何よりの救いだった。

自分が1人じゃないんだって‥そう思えた。



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不思議な夢だった。

夢というものは、直近で目にしたものや強烈な記憶が元になることが多いとお父さんが教えてくれたけど。

私の作り出したはずのそれに映るものはどれも、私の記憶にはないものだった。


庭先の風景、家屋、そこにいる人が着ているものの全てが初めて目にするもののはず。


なのに、どうしてこんなに‥胸が締め付けれられるほど懐かしいのだろう。



「冬さん‥イトが大きくなったらお嫁さんにしてくれる?」


私によく似た容姿の少女が目を輝かせる。

そしてどこか彼に似た隣に立つ青年を見つめていた。


顔の輪郭、髪型は少し異なるもののよく似た存在が、自分がしたことのない表情をしているのだ。しかも、体の角度、仕草、視線から少女の青年に対する感情が分かってしまう。

自身が写ったホームビデオを見せられている時以上の恥ずかしさを感じていた。


そんな傍観者の気持ちなどつゆ知らず、少女と青年だけの時間が流れていく。


「そうだなぁ‥イトが大きくなったら来てもらおうかな」


傍らに立つ青年はそれに困った様に優しい笑みを浮かべ、当たり障りの無い言葉を口にする。

それが少女には不満だったのか、眉間に皺寄せてむくれていた。


「えぇー、絶対嘘だぁ。いつもそう言うもん」


そう言う少女に青年は黙って頭を撫でて落ち着かせると、

少女も満更では無さそうに目を細める。


ここまでのやり取りから青年と少女は幼馴染か親戚か何かなのだろうと察した。

少女の見せる好意は年上のお兄さんに向ける淡い憧れのようなもので、それに対する青年の反応も妹に向ける様なものだったからだ。


登場人物が自身や、どこか彼に似ている事に目を瞑れば、平和で幸せに満ちた良い夢だった。


私にもお兄ちゃんがいたらこんな感じだったのかな。

我ながら現金なものだと思う。

最初は、冷たさを感じる相貌や、粗暴な態度が苦手に感じていたくせに

自身が弱さを見せた時に優しくしてくれただけでこんな風に思ってしまう。


そんな風に思い、少し目の前にいる自身に良く似た少女を羨んでいると、

それに気づいた様に顔をこちらに向けた彼女と目が合う。


それは青年に向けていたあどけない年相応の少女の顔ではなかった。

自身が欲してやまないものを持っている、嫉妬に歪む女の顔だった。


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-


「‥っ!‥ぎ‥紬!起きなさい!」


体を揺すられ、次第に意識が明瞭になっていく。

目を擦りながら起き上がると、呆れた様にこちらの顔を覗き込むお母さんがいた。


「春ちゃん、本当にごめんね」


「俺は別に気にしてないです」


お母さんの言葉に彼は困った様に軽く笑って答える。

そこで自分が寝ていたことに気づき慌てて周囲を確認するとお母さんがため息を吐いた。


「紬、春ちゃんは貴女が起きない様にずっと同じ体勢でいてくれたのよ」


そう言われ横を見ると足を伸ばして摩る彼の姿があった。


どうやら、私は話をしているうちに泣き疲れて眠ってしまったようだった。

しかも彼に寄りかかる様な形だっただけでなく、その服も掴んでいたのか

彼の着ているTシャツが少し伸びてしまっていた。


「あ、あう、ごめんなさい‥桜谷さん」


今日が初対面の相手に見せた醜態に恥ずかくてたまらなかった。

目も合わせられずにいると、ローテーブルに手を掛けながら立ち上がる。

そして何も言わず私の手を掴むとそのまま部屋を出て、ずいずいとそのまま階段を下っていく。


「えっ、どこに行くのっ?」


彼は私の疑問には答えてはくれず、そのまま玄関先の方へと辿り着くと漸く手を離してくれた。


「あれ、春くんお爺さんなら車を取りに‥え、何、どうしたの?」


玄関に居たお父さんは私と彼の姿を見ると、不思議そうに声をかける。

しかし、それにも彼は答えず、靴を履いて爪先を床で鳴らす。


「おじさん、そこにあるバット使って良い?」


そう言って彼が指差したのは、お父さんが防犯用に置いている金属バットだった。


「え?うんいいけど‥素振りでもしたいのかい?」


「まぁ似たようなもんかな」


彼は何かを確かめる様にグリップを握って回すと、こちらに振り返ると手を差し出した。


そこで彼が何をしたいかが分かった私は、その手から逃げるように後ろに下がった。

すでに、玄関口の磨りガラス見える外からは夕陽が差し込んでいた。

アレが活発的になリ始める時間、とてもじゃないが外に出る勇気なんて出てこなかった。


しかし、彼はそんな私の目を真っ直ぐと見据え、手を出し続ける。


「春くん‥気持ちはありがたいけど‥紬は本当に怖い目に遭ってきたんだ。こんな時間に外に出るなんて無理だよ」


私の反応を見たお父さんがそう言うと、彼は腕を下げながらも私からは目を逸さなかった。


「紬はどうしたいの?」


「‥私?」


「ここにずっと閉じこもるの?この先ずっと?何年も何十年も?

そんなことしたってアイツらは消えてくれないし、何も変わらない」


確かに彼の言う通りだった。

この先何年も何十年も家に閉じ籠ったところで、状況は何も変わってはくれない。

他の子が楽しく外の世界を楽しんでいる中で、自分はこの家の中だけが自分はずっとここにいるしかないと考えると、別の恐怖が体を巡った。


怖い。

でも、逃げ続けるのも同じくらいに怖かった。


そんな私をお父さんは痛ましそうに見つめていた。

その目は、逃げても良いんだよ私に語りかけているようだった。


いつの間にか私の横にいたお母さんは、そっと肩に手を置き目線を合わす。


「紬のしたい様にしなさい」


当然止められるものだと思っていた私は、母のその言葉に目を丸くした。

そしてそれはお父さんも同じだったようで、


「郁さん、なんで!?」


「春ちゃんが一緒なら大丈夫よ」


「なんの根拠があって‥春くんだって子供じゃないか!」


「そんなの女の勘よ」


あんまりな言葉だったが、お母さんには冗談のを言っている様子はなかった。

故にお父さんも口を開けたまま何も言い返せずにいた。


「紬、本当に貴女の好きな様にしなさい。逃げても良い。でもね、貴女の為に言葉じゃなくて行動で示してくれた人には誠意を見せなさい」


誠意。

そうだ。

彼は‥私の為にこうしてくれているんだ。


初対面で‥何も面白くなんて無いはずなのに私の話を聞いてくれて。

縋り付いて眠る私を起こさない様に足が痺れても動かないでいてくれた。

そして今はこうして私と一緒に外に出てくれようとしているんだ。

また怖い目に遭うかもしれないのに‥。


気づいた時には足は前に出ていて、手を伸ばしていた。

縋る様に彼の方へと。


そして私は連れられるまま靴も履かず扉を潜ると待ち構えていたかのように、耳障りな猿の声が聞こえた。ドクンと心臓が跳ねる。


茜色に染まる景色の中にソレはいた。

猿の様な体に老人の顔をした化け物。

ここ数ヶ月窓から私の部屋を覗いていた異形の姿だった。


喉から引き攣った悲鳴が上がる。

そして、何故か後ろからも同様の悲鳴が上がった。


その反応を楽しむ様にソレはケラケラと笑う。

嗜虐的に手を叩き恐怖を煽る姿に体が震えた。


逃げ場なんて無いんだ。

ずっとこんな化け物に目をつけられ続けるんだ。


深い絶望を受け入れ諦観に変わろうとしたその時、強い怒気を含んだ言葉が聞こえた。


「クソ猿が‥何がそんなに面白いんだよ。こいつが何したって言うんだよ」


彼はそう呟くと私の手をギョッと一瞬強く握って離すと左手に持っていた金属バットを両手に構えた。その瞬間、異形がギョッとした顔をしたのが見えた。

しかし、彼はそんな事などお構いなしに足を強く踏み込むと、そのまま異形の側頭部目掛け振り下ろした。

妙に手慣れた動作にバットは綺麗な弧を描いて、叩きこまれ、

鈍い音と同時に猿の甲高い悲鳴がその場に響いた。


殴られ道路への飛ばされたソレは倒れ伏すとビクビクと数回痙攣した後動かなくなる。

そして、そのまま体が徐々に薄くなっていき、最後には何も居なかった様にその場から消えてしいった。


「あ、悪い‥こんなの見たくなかったよな‥。これであいつらももう来ないと思うから」


彼は驚きで何も言えずにいる私を見て、手を伸ばしかけて辞めた。

そして少し悲しそうに笑い、手に持っていたバットを抱えて家の中に戻っていく。


そんな顔をさせたかったんじゃないの。

ごめんなさい‥ありがとう。


そう言葉にする前に、私はその背中へと手を伸ばした。


「うっ」


彼の首襟を掴んだことで意図せず首元を締める形になってしまった。

くぐもった声が上がる。


「ご、ごめんなさい」


「い、いや大丈夫だけど。どうかした?」


喉を摩りながら咳込む彼に、何も考えていなかった私はどうしたものかと視線を漂わせた。

すると、少し離れた道の先に犬の散歩をしている人が目に入った。


「さ、散歩がしたいの。ダメかな」


「‥別に良いけど」


◆◇


沈みかけた陽の光が、私と彼の影を伸ばす。

全てが茜色に染まり、なんでも無い日常の風景が一瞬の美しさの中で照らされている。

見慣れたはずの街並み、帰りを急ぐ人達の喧騒、それら全てが新鮮で、その中にいることを欲してやまなかったはずだった。


なのに、今の私はそのどれにも惹かれず、ただアスファルトに伸びる少し前を進む影に目を奪われていた。

心臓が痛くないのが不思議なくらいに私を囃し立てていた。


「久しぶりに外に出た感想は?まだ少し怖いか?」


「えっ‥うん」

不意に投げかけられた疑問に何も考えずに応えてしまった。

すると彼は立ち止まって、私の方へと振り返る。


夕陽に照らされた彼の顔に、最初の冷たさはもう感じていなかった。

その瞳に私だけを映してくれている事に言いようもない幸福感があった。


「あんな奴に怖い目に遭わされたらいつでも俺に言え。そしたらいつだって追い払ってやるからさ。だから心配するなよ」


「うん‥分かった」


俯いて、小さく答えるのが精一杯だった。

そんな可愛げの無い私の頭を彼は優しく撫でてくれるとまた前を歩き始めた。


あぁどうして夕陽は私の前に居てくれないのだろう。

もし、太陽が反対に沈んでくれるなら、

この赤く染まった顔も、潤んだ瞳も全部、全部そのせいにしてしまえるのに。


私はその顔を隠す様に彼の‥春ちゃんの背中に押し当てた。


「おい、歩きにくいって」


勢い余ってツンのめる彼が文句を言うが、私には関係ない。


「ねぇ、私も春ちゃんって呼んで良い?」









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