「少年」と「雪女」三
それも元は人間だった。
しかしそれも遠い昔の話。
すでに人としての形すら留めていなかった。
今となっては自分がどこにいるのか、どんな人生を歩んできたのか、その途にいた人たちの顔すら思い出せない。1人朽ち果てた家の中で、呪詛の言葉を吐き続ける。
それが誰に向けたものか、あるいは自分自身への後悔か。
それすらも分からず、ただ憎しみだけを募らせている。
その者にあるのは妬ましさ。ただ現世に生きるものへの憎しみだけ。
自分が持っていないものを持っている。
そんな人間に叶う事なら思いつく限りの恐怖と痛みを与えたいと、その理由すらも分からずに願っていた。
本来なら、そんな願いなど叶えられるものではない。
それに常夜と現世を渡れるほどの力など無く、ただ悠久の時の中で朽ち果てる筈だった。
しかし、得てして偶然は重なり時として悲劇を齎す。
常夜と現世を結びつける窓がそれの前に開かれた。
それは誘われる。灯りに惹かれる蛾の様に。
皮と骨しかない腕を伸ばし、老人のような足取りで進んでいく。
ただ、その濁り切った瞳には似つかわしく無い爛々とした光が浮かんだ。
「見イ‥つけ‥たァ」
窓に映っていたのは1人の少女の姿だった。
◆◇
私にとって学校は少し息苦しさを感じる場所だった。
自身にとっての普通が、そこにいる多くの人たちにとっての普通ではないと分かったからだ。
何か変なところがあれば、それだけで異物と認識され排斥されてしまう。
だから、いつも自分が変な事をしないか。何処かズレていないか。それだけを気にしている。
両親や春に見せている活発的な自分とは違う他人になってしまう事に酷く落差を感じる。
まるで、小さな檻のように感じさせられる場所だった。
正門で春ちゃんと別れた後は少し心細くなった。
それは歩幅にも現れるようで、いつもより少し小さくなっている。
そんな調子で、下駄箱から上履きを出して廊下をトボトボと進む。
そうやって無駄な足掻きをしても目的地である教室がすぐに見えてきた。
5-2。
そう書かれたプレートを見ると、少し心臓の鼓動が早くなる。
いつものように教室の扉は開けられており、そこから聞き慣れたクラスメイトの甲高い笑い声が漏れ出していた。それがより一層、心臓を締め付ける。
大丈夫。私は大丈夫。今日だって上手くやれる。
自分自身に言い聞かせる様に、何度も心の中で唱えて肩紐をギュッと握った。
「おはよう!」
殊更に明るい声を出して教室の敷居を跨ぐ。
すると近くに居た何人かの女の子が紬の顔を見ておはようと返してきた。
その事に紬は少しホッとした気持ちになりながら、教室の中へと進んでいく。
すると窓際の紬の席の近くにニヤニヤとした笑顔を向ける1人の少女がいた。
「今日もお兄さんと来てたね」
教室の出窓に腰掛けながら少女が言う。
「綾ちゃん見てたの?」
それに少し呆れた様子で返すと、綾は口を尖らせた。
「人聞き悪いなぁ。偶々見えたの!‥それよりさ、やっぱりお兄さん格好良いよね。いいなぁ、私もあんなお兄ちゃんがいたらなー」
「春ちゃんはお兄ちゃんじゃないよ。ただ‥家が近所なだけ」
これは綾ちゃんだけに限ったことではなく、紬と春のことをよく知らない人は2人を兄妹だと思うようだった。それを聞くたびに嬉しい反面、中に形容し難い感情も芽生えていた。
それは春にはちゃんと血の繋がった妹への罪悪感か‥
それとも、長いこと会っていないせいで顔を忘れられそうだと笑う春に感じる仄暗い優越感か。
自分自身の中にある感情に答えを見つけれられずにいた。
「えぇ!そんなのもっと良いじゃん!いいなぁ近所の年上のお兄さん‥憧れるなぁ」
「綾ちゃんにもお兄ちゃんいるんでしょ?」
前に話の中で少し聞いただけだったが、綾ちゃんにはそれこそ春ちゃんと同じ歳の兄が居たはずだ。
「そーだけど、ウチのはウザいし全然優しく無いよ。紬のお兄さんとは大違いだよ」
顔を顰めて、心底ウンザリした顔をする綾ちゃんに思わず私も笑みが溢れた。
「でも、春ちゃんも少し下の男の子ぽいところがあるよ。今日だって、紬が怒ったらシュンとしてたし」
「そういうところも良いじゃん。ギャップだよギャップ!」
そう言って1人盛り上がる綾ちゃんにクラスの女子達が集まってきた。
「ねぇねぇ綾、何の話?」
興味を惹かれたのか集まった1人が綾ちゃんに尋ねる。
すると、綾ちゃんはまるで自慢をするかのように春ちゃんについて話し始めた。
「ちょっと、綾ちゃん」
こういった話の中心にされるのが苦手だった。
綾ちゃんを止めようとするが、盛り上がる周囲には何の意味も無かった。
「えー良いなぁ、紬ちゃん」
「帰りも迎えに来てくれたりするの?」
集まる視線に体が固くなる。
それでも何とかコクリと小さく頷いてそれに応えた。
すると、周囲から黄色い声が飛び交った。
「ねぇねぇ、その人って中学生なんでしょう?」
「どんな感じの人?」
そうやって矢継ぎ早に来る質問に曖昧に返すことしかできなかった。
どうしてこんな事になったのだろう。
自分と春だけのものが、他人によって唯の娯楽として消費されていることに悲しさと怒りが
少しずつ溜まっていく。
しかし、その事を周囲には気取られないように、困ったような薄い笑みを浮かべることしか自分にはできなかった。それしかできない自分がたまらなく嫌いだった。
◆◇
下校時刻を迎えた小学校の正門玄関は帰宅する生徒達でごった返していた。
色とりどりの傘が次々と開かれている様は、灰色一色の空とは違って華やかに見える。
そこらで聞こえてくるのは、この後どこどこの家で集まろうだとか、ゲームをする時間を決めたりだとか、放課後の予定を楽しそう話す声ばかり。
いつもなら、自分もこの後の事を考え、胸を弾ませていたはずだった。
でも、今日の放課後は違っていた。
周りに集まった少女達がそれを許してはくれなかった。
「紬ちゃん、ほら待ってるよ」
「良いなぁ、紬ちゃん」
そう言ってこちらを急かす少女達の目には隠しきれない好奇心があった。
側から見れば姦しくも年相応で可愛らしく映るのかもしれない。
しかし、当事者からしてみれば、自身の繊細なところに土足で上がり込まれたような苛立たしさしかなかった。
「うん」
促されるままに傘を開き歩き出す。
少女達もそれに続くように数歩離れた形で続いた。
いつも春ちゃんが帰りの待ち合わせをしているのは、2人の学校から少し離れた小さな公園だった。
あるのは小さな滑り台と一脚のベンチだけの簡素なもので、雨の中ではその寂しさがより一層際立っていた。その入り口にボツんと紺色の傘を差した学ラン姿の春の姿があった。
春ちゃんもこちらに気づいたのか軽く手を挙げ、それに小さく手を振って応えた。
あぁ、春ちゃんだ。
胸の中に暖かいものが満ちていくのを感じた。
しかしそれもすぐに後ろから聞こえてきた声にかき消される。
「ねぇ、あの人がお兄さん?」
後ろにいた1人が紬へと尋ねた。
「うん‥そうだよ」
肯定するや否や、少女達はまるで有名人でも見つけたかのように春へと群がっていく。
そんな状況に完全についていけていない春は困惑した様子だった。
「えっと‥君らは紬の友達だよね?」
「そうです!私たち紬ちゃんとは同じクラスで仲良しで!」
「そうそう!それで今日お兄さんの話になってね。私たちも会いたいなって」
そう言って頷き合う少女達のやり取りに春は微笑ましそうに笑みを浮かべていた。
その光景をただ見ることしかできず、足元が崩れていくような衝撃を覚えた。
昨日まで色彩に溢れていた思い出が、急に色を失っていく。
その喪失感に耐えるように無意識に傘を握る手に力が入る。
指先は血の気が引いたように青白くなっていた。
どうしてこうなっちゃうんだろう‥私、何かいけない事したのかな。
いつも何かに怯え、自分を曝け出せる場所さえ限られていた。
それでも良いと思えていた。
たとえ異形の影に怯えても。息の詰まりそうなあの教室にいても。
春ちゃんのように自分の苦しみを理解し、側に居てくれる人がいれば良いと思えていた。
なのに‥。
真一文字に結ばれた唇は微かに震え始め、その視界に映る物の輪郭がボヤけていく。
「紬、どうかした?」
春の心配そうな声に顔を挙げそうになるのをグッと堪え、傘で顔を覆い隠す。
それが春を心配にさせるとしても、今の自分の顔はどうしたって見られたくなかった。
「ごめん‥春ちゃん‥紬、学校に忘れ物しちゃったから戻るね。春ちゃんは先に帰ってて」
「いや、それなら俺も行くよ」
「いいから!春ちゃんは先に帰って!」
私の思ったよりも大きくなった声は、春ちゃんだけでなく周囲にいた子達も驚かせた。
「ッ‥‥」
羞恥と後悔で顔が熱くなるのを感じた。
重い沈黙は雨音を鮮明に聞こえさせ、それに耐えきれず、逃げ出すように来た道へと走り出す。
「紬!」
背中から聞こえてくる声も全て無視して、ただここから離れたかった。
自分だけが居ない居場所を見たくなかった。
ただ、ここじゃ無い何処かにそう願ってしまった。
◆◇ side:紬
感情のまま走り出してしまった私は、いつの間にか知らない道に出てきてしまった。
荒くなった呼吸を整えながら辺りを見渡すが、目印になるようなものは見当たらない。
あるのはここらでも珍しくなったトタンで覆われた家々だけ。
それも赤錆が目立ち庭は人の手が入っているようには見えない廃屋ばかりだった。
学校の近くこんな場所があるなんて知らなかった。
重い雨粒を落とす厚い雲のせいで、昼下がりだというのに暗く独特の雰囲気を放っている。
生まれ育った小さな町の中の筈なのに見知らぬ町に見え、不安になった。
それでも元来た道には戻れなかった。
きっともう春も綾も他のクラスメイト達もあの公園には居ないかもしれないが、鉢合わせた時を考えると、同じ道を使う気にはなれなかった。
仕方ない‥学校の方向に行こう。
知らない場所とはいえ学校からそう離れている所ではない。
ある程度進んでいけば校舎が見えてくるだろうと思い、そう広くない道を進んでいく。
しかし、そんな紬の考えとは裏腹に道を幾ら進めど、校舎の影すらも見えなかった。
目の前に広がる風景は、変わり映えのしない朽ちた家々が連なる住宅街だった。
「なんで‥」
本当なら、とうに学校に着いていてもおかしく無いくらいの距離を歩いているつもりだった。
なのに目の前の風景は少しも変わらない。同じところをグルグルと回っているのかと思ったが、
真っ直ぐに伸びる道がそれを否定していた。
こんなの普通じゃない‥もしかしてお化けの仕業なの‥。
頭に浮かんだのは、登校の際に見かけた黒い影の姿をした異形だった。
嫌な想像が頭の中で広がり、心臓の鼓動が大きくなっていく。
不安と焦燥感に釣られるように歩く速度もどんどんと早くなっていく。
終いには傘すらも投げ出して駆け出した。
「どうして‥何で‥何で‥帰りたい!帰してよ!」
必死に走る自分の声に焦りが出てくる。
しかし、どれだけ走っても悪夢のような現実は何1つとして変わってはくれなかった。
それでも懸命に走り続けるが、アスファルトの窪みに足を取られ、体を強く地面に叩きつけられた。
咄嗟に手を突くことで顔を打ちつけることは無かったが、その掌と膝にはジクジクとした痛みが広がる。いつもなら我慢できるような痛みだったが、今の自分にはもう限界だった。
もはや立ち上がる事すらできず、そばにある塀に背中を預け座りこんだ。
春の隣に立つ同級生達の姿、理解できない現象、体の体温を奪っていく冷たい雨、そしてそれを現実だと教える傷の痛み。
その1つ1つが積み重なり心を追い詰めた。
「‥お母さん‥お父さん‥春ちゃん‥」
膝に顔を埋め嗚咽を漏らす。
それが何の意味も無さないと分かっていても、もう歩く気力は無かった。
そうして蹲り時間だけが過ぎていく中、不意に誰かの足音が聞こえてきた。
濡れたアスファルトの上を革靴で歩いているようにコツコツと音を立て近づいてくる。
その音は聞き馴染みのある名前を読んだ少年のローファーの音に似ていた。
紬のこと迎えに来てくれたんだ。
春が自分のことを気にかけてくれていた。
そう思うと現金なもので心に確かな熱が生まれ、身体の痛みも何処かへと消えていった。
そして靴音が目の前で止まる。それでも顔は上げずにいた。
泣き顔を見られたくないという気恥ずかしさでもあり、一種の意趣返しのつもりだった。
自分を置いて同級生にちやほやされていたことに対する小さな嫉妬。
きっとそんな自分の気持ちを分かってくれる春が、なんて声をかけてくれるのか期待が高まっていく。
しかし、そんな紬の期待とは裏腹に春ちゃんからの言葉無く、ただ沈黙が落ちる。
「‥春ちゃん?‥え」
ついに痺れを切らし、濡れそぼった目を擦りながら顔をあげた。
その瞬間、自分が馬鹿な勘違いをしていることを思い知らされた。
「見イ‥つけ‥たァ」
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