いつかまた、此処であなたと。
かれん
第一章 蒼空
第1話 茶会
神が創った地球が、一月も経たぬ内に滅びようとしていた。
どうしてか、その理由は神とて分かりきっている。その世界を統べる者がいないのだ。
まず最初に、草木を生い茂らせた。緑というものは、地球を地球たらしめる。
そして次に、生命を作った。海に生息するもの、陸に生息するもの、両方での生息を可能にしているもの。その程度のことは、神にとって造作もなき事であった。
しかし、地球は滅びようとしていた。知能をもった生物というものを、作ることができなかったからだ。
神が創った、最高傑作の青い星。それはもう諦めるしかないとため息を吐い
た。 その時だった。見たことのない生物が、神の前に現れたのは。
その生き物は人間と名乗り、私は貴方が世界を創ったその日に、既に此処にいましたよと声を掛けた。
そして少女は、神に向かってこう囁いた。
「私は、神より賜りし世界に感謝しています。故に、一つだけ望みがあるのです」
私のような人間を二人、この荒ぶる大地に与えてくださいと。
神の御心を持つ彼のお方は、快くそれを承諾した。それが始まりだった。
サンプルさえ手に入れば、知姓を持った生物である“人間”を作るのは難しいことではなかった。始め二人だった人間も殖え、それと共に地球は発展の一途をたどる。まさに神の望む世界だった。
ある日、神は少女に尋ねた。何故貴女は此処にいるのですか、と。
少女は答えた。そこに私の踏む道があるからですと。神は当然首を捻る。
私が貴女を作ったのですか、と聞くと、少女は穏やかに首を振った。貴方が生まれる前からずっと、私は此処にいますと言った。神は理解を示せなかった。
ではどうして、貴女の踏む道が此処にあったのですか、と聞いてみる。少女は首を傾げ、それは道に聞かねば分かりませんと微笑んだ。
「私は、私がこの世に生まれ落ちた時のことを覚えていません。気づけば私が此処にいて、そこに道があったのです」
神には、その言葉の意味が分からなかった。神は、自分が生まれた時のことを覚えている。共感できない。
「では貴方は、どうして神と成ったのでしょうか」
それは、この世界を創るためであると答えた。少女は再び微笑むと、神を優しく抱擁した。
神はそれに驚き、固まっている。少女は愛おしげに神のかんばせを見つめ、そのつむじにそっと口づけを落とした。
「では私は、貴方に会うために此処にいたのです。貴方が、それをどう思おうと」
神は、別れの予感を感じた。少女はそれを裏付けるように、神の額に、頬に口づけをする。
少女は手を離し、神を静かに見上げた。
「いつかまた、此処で会いましょう」
神もまた、少女の唇に甘い口づけを落とした。
アラームの音が耳に響いて、神に愛された少女が目を覚ました。
「………ん」
目を開けると、優しい桜色の天蓋が目に入る。いつも通りの光景だ。
「霞様。お目覚めですか」
ふと声がして横を見ると、部屋付きの侍女・
霞はベッドに手を着いて起き上がる。視界がぐらりと揺れて、そのまま俯く。
「…陽炎は」
「陽炎様なら、先程までいましたよ。でも忙しいようで、執務室に戻られました」
そうなの、とそっけなく答えてから、着いたままの手に力を入れて、ひょいとベッドから降りた。
「今日は晴れね。よかった」
何がいいという訳でもない。ただ、彼女が晴を司る
ガチャリ、と音がした。そちらを見ると、まるで騎士のような美しい青年が、妃の寝室に入ってくるのが見える。
「失礼致します」
黒曜石の如く光る黒髪、深緑の瞳、紳士の出で立ち。十九歳の青年・
「…陽炎」
「霞様、おはようございます」
陽炎は主を愛おしげに見つめ、微笑む。霞はそれを無視してふああと可愛らしく欠伸した。
「確か今日、お茶会よね?楽しみだわ」
「…そうですね。昼からなので、お着替えは朝餉の後にしましょうか」
「分かったわ」
霞はこくりと頷くと、ぐぐぐっとその場で伸びをする。まだ東に昇ったばかりの太陽がきらりと目を刺し、思わず目を閉じる。
陽炎はちらりとスマートフォンを見ると、春蘭の方を見た。
「…では、俺は仕事に戻ります。春蘭さん、頼みますね」
「はい、承知いたしました」
丁寧に返事をした春蘭に微笑みかけると、陽炎は静かに寝室を後にした。
「……」
そんな従者の様子を、霞は横目で見る。
そして、むうっと口を膨らました。
「陽炎は、随分と忙しいようですね」
「まあ、そうでしょうね」
春蘭はベッドを整えながらそっけなく返事する。彼女は高官の娘ということもあり教養があるようだが、その分人には少し冷たいところがある。
「……陽炎は私の従者なのに」
「霞様の従者だから忙しいんです」
「……私にだってお仕事くらいできる」
「貴女、まだ十七歳でしょう」
「……陽炎だってまだ十九歳よ」
「でも霞様よりは年嵩があります」
「……構って欲しい」
「貴女、もう十七歳でしょう」
「……」
悔しいが、春蘭の言うことは尤もである。
霞は落ち込んだように俯いた。
「私、晴妃なのに……何もできてない。どうして、神は私を選んだのかしら」
この国には、
そして、天王の御手付きになる妃・天妃たちがいた。
彼女達の仕事はまず、天皇の御子を産むこと。天王は世襲制であるため、より多く子孫を残すことが必要になってくる。
そしてもう1つ、毎年天神に祈りを捧げることだ。
晴妃は晴れを、雨妃は雨を、雪妃は雪を、雷妃は雷を、雲妃は雲を、それぞれ司っている。彼女らが歌い、舞うことで、それぞれの気候が1年間滞りなく訪れる。逆にそれをしなければ、その天気は1年間訪れない。この国の人間にとっては最も重要な行事だ。
現在の天妃は、晴妃・
天王には、既に御子もいる。凍鶴の12歳の女児、月姫の五歳の女児、そして雲妃の一歳にも見たぬ女児。嫡男が生まれないのは気がかりだが、主上もまだ二十九歳と若いので至って順調と言える。
話は変わるが、天王の世襲制とは違い、妃たちは神に選ばれる。つまり、天王が好みの女性を御手付きにし、いずれ妻にするということは許されていない。
選定基準は明らかではないが、選ばれるのは、大抵帝都に住む年頃の女性だ。年頃という言葉の解釈は人によって別れそうなものだが、ここでは子を産める状態の若い女性と決まっている。前の妃が子を産むのに適さない身体になり、妃の印となる額の痣を失ってから7日以内に、まずその女性が夢を見る。晴妃の場合は晴れた空の下に佇む自分の姿が、雨妃の場合は雨に打たれる自分が、という風に、それぞれの天候と自分がひたすらに瞳の中に映る、奇妙な夢だ。
その夢から醒めると、額に痣が現れる。晴妃には太陽、雨妃には雨の雫、雷妃には雪の結晶、雷妃には稲妻、雲妃には白雲。それを確認した場合、直ちに天王に謁見されなければならない。そして簡単な儀式を終えてから、晴れて天王の側に侍る、誇り高き天妃となる訳だ。
そして、選ばれるのは妃だけではない。その護衛・側近を務める従者もまた、神によって選ばれる。天王の御手付きであるはずの娘に男が仕えるのは、そういう事情があってのことだ。
従者は、妃と同じ日に夢を見る。主となる妃と共に、それぞれの天気の空の下を寄り添って歩く、同じように奇妙な夢だ。しかし、従者の場合は痣は額ではなく手首に現れる。
従者に選ばれる条件は定かでは無いが、大抵は帝都に住む妃と同じくらいの歳の男が選ばれ、妃を守るに相応しい力が与えられる。戦闘などほぼ起こったことは無いが、それなりに身体を動かせるようになるらしい。
因みに現在の従者は、晴妃の
妃は、天王を第一に、一人の下僕として仕えなければならない。無論、従者と恋に落ち、ましてや閨に入るなどということをすれば天罰が下る。
「……霞様」
春蘭が心を痛めたように名前を呼ぶ。その口から「妃」と言葉が出たところを、霞は見たことがない。
「私ってば、だめね。入内してから2年も経つのに、雲妃と違って未だ子も授かれない……妃として恥ずかしいわ」
「そんなことはございません」
いつものように、春蘭は否定してくれた。この侍女は根は優しいので、霞がどんな弱音を吐いても寄り添ってくれる。
霞は迷うように口を開いて、閉じて、を幾度か繰り返す。
結局少しだけ口を開くと、優しい侍女に穏やかな微笑みを向けた。
「ごめんなさい。良くないことを言ったわ」
「……」
春蘭は複雑そうな顔で目をそらす。彼女は気の利いた言葉が下手だ。
「……えっと、わたくしはこれで。失礼致します。多分、すぐに緋桃さんが掃除に来ますので」
パタン、とドアを閉める音が響いた。先程まで言いくるめられていた霞も少し呆れたが、変なことを言ったのは自分なので仕方がない。
「……はあ」
ため息が漏れて、バタンとベッドに寝転んだ。
「失礼しまーす」
少し経って、侍女としては感心できない間延びした声が聞こえてきた。
ドアの向こうからやって来たのは、赤毛の侍女・
「霞様、おはようございます!昨日はよく寝られましたか?」
ニコニコと気持ちの良い笑顔を浮かべながら、緋桃は部屋をテキパキ掃除する。つられて霞の口元にも笑みが浮かんだ。
「ん。いつも通り、ちゃんと寝たわ」
改めて身体を起こしてから、自分の赤毛をくるくると弄る。晴妃らしい赤い瞳は、つまらなそうに緋桃の姿を追っている。
「……緋桃はいいわね。髪は同じだけど、目がきれい」
思わず呟くと、緋桃は疑問符を浮かべた表情で振り返る。
「そうですか?」
西洋の血を引く緋桃の瞳は鮮やかな翠色だ。この国には様々な色彩を持つ者がおり、陽炎とて緑の瞳だが、緋桃の色は他と比べても群を抜いて美しい色だ。赤毛との相性もいい。
「私は、霞様の赤い目が羨ましいです。なんだかかっこいいですもの」
「でもこれ、よく怖いって言われるのよ」
赤い目といえば、西の異国には吸血鬼という鬼がいるそうだ。吸血鬼が赤目であることはこの国でもよく知られていることなので、そういう意味で怖がられているのだろう。
「そうでしょうか……?柔らかい色ですし、あまり恐くは見えませんけど」
「直接言われるわけじゃないのよ。晴妃の目の色は赤色っていう話を聞いて、勝手に怖がる人が多いの」
「へぇ…変ですね。自分の目で見たものでないものを信じて怖がるなんて」
緋桃は「さっぱり分からない」とでも言うように首を捻る。明るい性格で子供のように見られるが、二十七歳なだけあって中身は成熟した大人だ。
「最近は、西方から来られる方も多いと聞きます。実際、私もそうですし」
「西の更に西にある大陸からも多いようよ。帝都にも少なからずいるし…飛行機が発達してからは国家間の行き来が激しいのね」
掃除に戻りながら故郷を思い出すようにしみじみと言った緋桃をまた目で追い、霞はうっとりと目を輝かせる。
「それにしても、西はきっと素敵なんでしょうね……いつか行く機会があるかしら」
緋桃は少し考えてから、ニッと頼もしい笑みを浮かべる。
「霞様は、我が国の大切な晴妃ですからね。そう簡単には行けないかと……でも、引退したら絶対一緒に行きましょうね!」
その瞬間、ガチャリ、と音がしてドアが開いた。外から背の高い女性が入ってくる。
「……それは、霞様は主上の奥方になれないということかしら。不敬ではなくて?」
冗談めかしているが、呆れを含んだ言い方で、侍女頭・
当の緋桃は慌てた様子で、プルプル首を振る。
「え、すみません、そういうつもりじゃ…」
梓はふふ、といたずらっぽく笑うと、霞に微笑みかける。
「霞様。朝餉のお時間です」
「……あら、もうそんな時間?」
霞はゆっくりと立ち上がる。可愛らしいあくびが1つ漏れた。
「陽炎も呼んでちょうだい。食事は家族揃ってするものよ」
いつかにされた口付けを思い出し、美しい唇が弧を描いた。
朝餉を済ましたあとは、茶会のための身支度だ。
「わあ、すごい衣装……汚れないかしら?」
「転びそうになれば俺が支えますよ」
茶会とは、月に1度、天妃とその従者たちが集まって行われる座談会のようなもののことだ。しかも今回は一風変わっており、丁度今日に誕生日を迎える雷妃・天草夏菜を祝うことになっている。
「ふふっ、楽しみね。夏菜様、喜んでくださるかしら?」
「大丈夫ですよ。可愛らしい御方ですから、恥ずかしがるかも知れませんが」
さらりとそう言われ、霞は思わず不機嫌な顔で陽炎を見てしまった。
「……霞様?」
彼は無自覚なようで、不思議そうに見つめ返す。
「何でもないわ。夏菜様は、私よりもずっとお可愛らしいものね」
そっぽを向いて誤魔化すと、陽炎は「あっ」という顔になり、優しく微笑む。
「とんでもありません。俺にとっては、霞様が一番お可愛らしいですよ」
「……貴方って、女たらしよね」
何の羞恥も無く言ってのけた自分の従者が得体の知れないもののようで、呆れるように言った。これでは将来意中の相手ができても、嫉妬されて別れられてしまいそうだ。
「え、そんなつもりじゃ…いえすみません、気をつけます」
陽炎は素直に反省すると、化粧台の引き出しから首飾りを取り出した。
そして霞に近づき、それを首元に着けてあげる。
「これ、和装に合ってる?洋装でも良かったんじゃない?」
「美しいですよ。やはり貴女には紅玉がよくお似合いで」
陽炎の言葉は、決して世辞などではない。彼の言う通り、霞の姿はとても美しかった。
この日のために用意した着物は、三椏の花が刺繍された最上級の召し物。太陽の如く赤く、霞によく似合っている。真っ赤な髪には紅玉の簪が施され、綺麗にまとめられた団子型にはこちらも三椏の花飾りを纏わせている。まるで天女のようなかんばせには、派手な顔を立てるように淡い化粧をしており、その美しい肌はおしろいを必要としない。
更に、首元にはたった今従者が着けた紅玉の首飾りが輝いている。金を基調としたデザインだが、どこか慎ましささえ感じる美しさだ。
「……あら、もう時間だわ。陽炎、行きましょう」
「ええ、そうですね」
霞は袖のひれを舞わせ、ゆっくりと歩き始める。それに陽炎と、三人の侍女が続いた。
「今日……晴れで良かったわね」
「そうですね。貴女のおかげですよ」
「雨の時は、いつも大変だったものね」
他愛もない話をしながら宮を出ると、朝と同じで美しい秋晴れだ。あと一月もすれば雪が降り始めるはずだが、比較的暖かい。
優しい風が吹き、赤い髪がふわふわと舞った。自然と風が吹いてきた方角に目を向けると、何やら視線を集めていることに気が付く。
「……見られてるわね」
「霞様は目立ちますからね。いつものことでしょう」
陽炎は霞への視線だと思っているようだが、霞はそれは違うと辺りを見回した。男性の視線も女性の視線も多くあるが、女性の大半は陽炎を見つめている。やけに熱っぽい視線だ。
「見て、晴妃様よ。お茶会かしら、今日もお美しいわ」
「それにしても、陽炎様は今日も素敵ね!あんな殿方と添い遂げたいわ」
そんな会話も聞こえてくる。帝都に住むのは王家の人間、貴族、政治関係者とその家族のみである。きっと大臣の家族か何かだろうが、上品な娘も噂話は好きらしい。
霞は男の中の男のような従者を半眼で見る。
「……やっぱり、女たらしだわ」
「何でですか…」
主の気苦労も知らず、陽炎は首を捻った。
宮から会場までは、徒歩でもそれほどかからない。普段はもう少し離れた場所にあるので車を使うが、今日はその必要がなかった。
会場である大きな建物に着くと、既に雪の主従が現着していた。
「あら、霞様、陽炎くん。ごきげんよう」
「凍鶴様」
霞は顔をほころばせると、凍鶴の前に立ち、上品に礼をする。
「凍鶴様、ご機嫌、麗しゅう。本日もよろしくお願い致します」
「ええ、こちらこそ。特別な日ですものね」
凍鶴も笑顔で返した。
雪妃・寒昴凍鶴は、霞に負けず劣らず美しい妃だ。
肌も髪も全てが雪のように真っ白で、瞳は薄い青。切れ長の目元は初対面の人には怖い印象を与えるが、その奥に潜んだ本性は、雪妃とは思えぬほど温かい。
今日着ている着物は、勿論白だ。雪の結晶が散りばめられ、所々に青が入っている。白く波打つ髪は手を加えず、シンプルな金剛石の簪が挿してあるだけだが、それもまた自然な美しさだ。
「霞様、貴女のお陰で今日は楽しくなりそうだわ。夏菜様も、きっと喜ぶでしょう
「いいえ、とんでもありません。皆様のご協力あってこそです」
少し腰痛があるが、霞はぴしっと姿勢を正して返した。凍鶴は微笑み、何かに気がついたように霞の背後へ目をやる。
「見て。雨の方々よ」
視線の先には、雨妃・碇星月姫を先頭とする集団が見えた。月姫の背後には従者である龍燈幻月と、二人の侍女が控えている。
「凍鶴様、霞様。ごきげんよう」
月姫は美しく品のある声で二人に声を掛けた。今まで二人で話していた従者たちも、雨妃に向かって礼をする。
「月姫様。お元気そうで何よりだわ」
「ごきげんよう、月姫様。本日も、よろしくお願い致します」
凍鶴と霞は軽く会釈をして、にこやかに話しかけた。
「お二人とも、お変わりないようですね。今日は是非楽しみましょう」
雨妃もまた、他の妃とは違った美しさを持つ女性だ。
髪や目はどちらも深い青で、顔立ちは凛々しく整っている。豊満さはないものの、一方で無駄なものがないとも取れる体型だ。
衣は紺地で、淡い青の秋桜が咲き乱れている。上品に結わえられた髪には豪奢な藍玉の簪が挿してあった。首元には霞と揃いの首飾りを着けており、こちらは銀を基調とした藍玉だ。
「月姫様、今日もお美しいですね。幻月様もお変わり無く、素敵です」
「どうもありがとう、霞様。貴女こそ、いつもどおり美しいわ。勿論、陽炎様も」
「ありがとうございます、霞様。主の言う通り、御身もお美しくあられますよ」
「まあ……ありがとうございます、月姫様、幻月様」
霞は照れたように笑う。雪主従と話している陽炎が何か言いたげな目で見ているが、気づかなかったことにしておいた。
「……ねえ、霞様。夏菜様への贈り物、何を用意したの?」
「ええっと、私は香水と手ぬぐいを……普段使える物の方がいいかと思いまして。月姫様は何を?」
「私は洋菓子を用意したわ。甘いものがお好きだから」
「それは良いですね。きっと喜んでくださるでしょう」
「ただ……まあ、ちょっと心配な方が一人いるのよね」
「ああ、ええ、まあ……」
二人がそうして楽しく話をしていると、再び会場に向かう妃の姿が見え始めた。
次に会場に到着したのは、雲妃・春永雲母とその従者・黄昏六花の陣営だった。六花一人に荷物持ちをさせ、雲母は感情の読めない顔で歩いてくる。
霞はすぐに近寄って頭を下げた。
「ごきげんよう、雲母様。本日もよろしくお願い致します」
「……」
が、雲妃はちらりとそちらを見ただけで、すぐに顔をそむけてしまい、挨拶すらない。他の妃も同じようにしたが、悉く無視されていた。
まあ、これはいつもの光景である。雲母はいつも寡黙で、何を考えているのか分からない妃なのだ。
「ごきげんよう、皆様。よろしくお願い致します」
そしてその尻拭いをして皆に話しかけるのは、いつも六花である。彼は明るく社交的で、どちらかと言うと霞に近い性格をしている。
(雲母様はどうして、お話なさらないのかしら……?)
雲妃は代々、孤立しがちであった。というのも、他の妃とは一線を画す、ちょっと変わった役職だからだ。
晴妃、雨妃、雪妃、雷妃の主な仕事は、天神に祈りを捧げることと、天王の御子を産むこと。つまり、夜伽が必ず必要になる。
しかし雲妃は、必ずしも天王の子を成す努力をしなければならないわけではない。彼女の仕事は主に、データ管理というものだ。
データ、即ち天候に関する記録。雲というのは天候を調べる上で、極めて重要な役割を持つ。故に雲を司る妃は、他の天気も含めて全てが滞り無く訪れている事を確認しなければならない。
愛してもいない男と夜伽など、国母になる欲を持たない者にとってはしたいものではない。今までの殆どの雲妃は拒んでいる。一応天王の御通りは定期的にあるが、普通に茶を飲んだり夜食を食べたりするだけだったそうだ。
実は霞もその辺りのことはよく知らないが、どうやら雲母は自ら望んで、必要のない夜伽をしているらしい。事実として、雲母には一人の娘がいる。今年の春に生まれたそうだし、天王もそれはそれは可愛がっているそうだ。
それはそうと、他の妃と概ね同じことをしているにも関わらず、それでも雲母は孤立している。冷淡、寡黙、無表情を兼ね備えた彼女は他の四人の妃からしても謎な存在だ。帝都に住む民たちは腹黒とか、自らの情報を明かさずにいることから国家転覆を企んでいるとか言っている。
霞としては、神が選んだ妃がそんなことを企むわけがないだろうとは思っている。しかし、正月の日以外は本当に全く話しているところを見ないので、人格はよく分かっていない。
強いて言えば、雲母には他の妃と比べても遜色ない美しさがある。髪や目は黒色で特徴のないようだが、何故だか目が離せない、という美しさだ。どうやら大陸の血を引くらしくそのような服を着ており、黒地に刺繍がされたデザインである。髪に挿されたのは黒水晶の簪だ。
というように美しい雲母は、当然天王の寵愛を受けている。一番が霞ならばその次だろう。やはり若い女性は好かれやすいらしい。
それにしても、天王も天王である。雲母のことは少なからず知っているようなのに、全く教えてもらえない。凍鶴には話したらしいし、やはり主上からすれば一七歳の少女などただの子供に過ぎないようだ。霞としては、子供扱いは甚だ不満だ。
というわけで、霞は霞で独自に調べたりもしている。どうやら雲母はかなりやんごとなき生まれで、入内する前から天王の母親である王太后に目をかけられていたそうだ。天王との面識はなかったが、一時は妹と王弟との縁談が持ち上がり、そちらとは良好な関係を築いていたらしい。霞とて貴族の出身であり身分は高いし、妹がいるところも同じだが、人生は何もかも違う。入内してから子ができるのが早かったため多産な性質だと言われていて、后になる可能性が高い人物でもある。色々と、まるで空想の世界のようだ。いや、霞も天王の寵妃なのだが。
「霞様。ご安心を、プレゼントは用意しております」
六花が駆け寄ってきて、わざわざ夏菜への贈り物の包みを見せてくれた。こちらの心配を見越していたようだ。人のいいこの従者は苦労しているのだなと実感する。
「良かったです。これできっと、夏菜様にもお喜びいただけるでしょう」
やんわりと労ると、六花は嬉しそうに微笑んだ。年上だが、なんというか少し可愛らしい方である。
可愛らしいが、霞はこの従者がどれだけの苦労を強いられているか知っている。
「六花様。その……大丈夫ですか?」
「……?何がですか?」
六花はきょとんと首を傾ける。霞は表情を曇らせた。
「色々、大変でしょう……お疲れではないかしら?もしよければ、こちらの侍女か……少しくらいなら、陽炎をお貸ししますよ」
雲主従が住まう雲の宮には、侍女がいない。普通、妃は三人から五人ほどの侍女を雇って家事をさせたりするものだが、どうやら六花以外には一人の厨番の老女しかいないらしい。つまり、普段の業務だけでなく、掃除などもする必要がある。
これに関しては、実家に問題があるのだと霞は踏んでいる。侍女は妃になってから雇う者もいるが、実家から連れてくる者がいるはずだからだ。
六花は霞の言葉を聞くと、ああ、と小さく声をあげて雲母の方を見た。派手な格好の雲妃は一人椅子に腰掛けてぼうっとしている。
「それが、私も主上も侍女を雇うべきと言ってはいるのですが、いかんせん雲母様が許可を出してくださらなくて……此度の雲妃は、どうやら疑り深いようです」
「そうなのね……主上が、よくその話をされるから、どうしてかしらと思っていたのだけど。そういうことだったのね」
霞は六花をちらりと見上げる。陽炎に勝るとも劣らない魅力的な彼だが、そこにはやはり少々疲れが見える。
心配だが、取り敢えず困ったら連絡するようにと伝えておいた。
雷妃の一行がやってきたのは、それから少し経ってからだった。
雷妃・天草夏菜は、若い妃の中でも一際若い。今日で十三歳になったので、入内したときはわずか十二歳である。無論、両親は夏菜を常に気にかけているらしい。
そして、それは両親だけではない。天王もまた夏菜を哀れみ、気にしている。此度の誕生日祝いの事を話すと、大いに賛成してくれた。
「皆様、こんにちは。本日もよろしくお願い致します」
夏菜は飾り気のない、可愛らしい声で挨拶する。黄色い髪が美しい彼女は、少し幼さが残るが、実際の歳よりも大分大人に見える少女だ。
身長は人並みくらいの霞よりも頭半分ほど低く、華奢な身体は和洋折衷の黄色の袴を纏っている。亜麻色の髪は少し現代風に、愛らしく結わえており、黄玉の簪を控えめに挿していた。足元はブーツで、踵部分が高いようだ。
「えっと、皆さん、今日はありがとうございます。本当に楽しみにしておりました」
きっと宮で練習して来たのだろう、夏菜はしっかりとした態度で皆に頭を下げる。この場にいる妃や従者たちの口元に笑みが零れた。雲母は相変わらず、輪から外れて椅子に座っている。
「ふふっ、今日はご馳走もあるし、ケーキも用意しているのよ。夏菜様も肩の力を抜いて、楽しんでいって頂戴」
夏菜と特に仲が良い凍鶴が1歩前に出て微笑む。普段から凍鶴に懐いている夏菜は嬉しそうに頷いた。
「皆さん、今日は本当にありがとうございます。うちの姫も喜んでいるようで良かったです」
他の者たちに向かっては、夏菜の従者である朱夏が丁寧に頭を下げている。
「夏菜様。これ、私からです。気に入ってくれるといいのだけど」
霞は夏菜に笑顔で駆け寄ると、プレゼントの包みを差し出した。雷妃はパッと笑顔になる。
「ありがとうございます!」
あれ、と首を傾げる。いつもはもっと大人びた印象を受ける夏菜が、年相応の少女のような反応をしたことが少し意外だ。
他の妃たちがプレゼントをあげても、皆に対して同じような反応を返している。
(これが、夏菜様の素なのかしら)
そう密かに思いながら、霞はそっと椅子に腰掛ける。先程から一人でいる雲母を気にしてのことだ。陽炎もひっそりとそれに付き、霞の背後に立つ。
(全く……昔から、本当に気の遣える人)
生きにくくないのかと思うが、陽炎はとことん紳士である。初心な娘ならば、すぐにでも惚れてしまうだろう。それで無自覚なのだから、やれやれ、うちの従者は罪な男である。
さて、会場がいたく盛り上がったところで、いよいよ茶会という名のパーティーが始まった。
「美味しい……こんなに素敵なケーキ、食べたことないわ」
昼餉の後に出てきたケーキを頬張り、霞は幸せそうな表情で頬に手を当てた。
今日用意されたのは、帝都で有名なケーキ屋のパティシエが作った苺のケーキだ。苺が好物だという夏菜は、幸せそうな顔で凍雲と話している。
「そうね。この紅茶ともよく合うし、とても美味しいわ。ね、幻月」
月姫は隣でケーキを摘む従者に声を掛ける。珍しく、従者たちにも振る舞われていた。
「そうですね、月姫。俺はあまり甘いものは食べませんが…これは甘すぎず、とても上品な味わいです」
「この会場も、なんだか雰囲気があっていいですよね。主上も気が利くわ」
「そりゃあ、あんなに愛らしい姫君が妃として身を削っておられるんだもの。天王とて、盛大にお祝いしたいんじゃないかしら」
「今日は、夏菜様に御通りがあるかも知れませんね。何かプレゼントを用意されているかも……」
「あらあら、それは良いわね。では霞様、主上のお誕生日の時は、貴女が祝って差し上げたらどう?」
「そうですねえ……媚薬でも飲もうかしら」
「それはやめてくださいよ。俺が困ります…」
霞の冗談に、陽炎は呆れた顔で首を振る。いつの間にかガールズトークに発展していたが、下品なものは良くないらしい。
霞は少し考えてから、「そうだ」と声を上げた。
「最近、王弟の縁談が進みつつあるそうですよ。どこか良いところのお嬢様を輿入れさせるのか…その辺りは、よく分かりませんけど」
「まあ、王弟様が?王妹様のお話はよく聞くけれど、そちらもだったのね」
「王妹様の方は、まだ十五歳ですから。慎重なんだと思います」
「そうね…霞様や雲母様は十五歳で入内されましたけど、本来良くないことですものね。王太后様や先王様も可愛がっておられるし、まだ先かも知れないわ」
「ですね。何せ主上の妹君ですからお美しいですし。そう考えると、王弟様も大層な御方を召し上げられるのかも…」
「……あの、すみません」
ケーキを食み、紅茶を飲みながら会話を楽しんでいると、後ろから突然声を掛けられた。
「あら、朱夏くん。何か用?」
後ろを振り返り、微笑んで返したのは霞だ。霞はこの同い年の少年にだけは敬称を付けず、比較的砕けた口調で話す。
朱夏の方は少し緊張した顔で口ごもり、軽く首を振った。
「いえ。その……用事というか…少し、相談事がありまして。陽炎先輩も一緒に、来てくれませんか?」
朱夏は先程の笑顔とは違い、真剣な顔でこちらを見ている。陽炎は戸惑っているようだが、一瞬の判断で霞は気丈に立ち上がった。
「月姫様、少し席を外してもよいですか?」
「ええ、構わないわ」
「ありがとうございます。陽炎、行きましょう」
「……御意」
いつになく真剣な主を見て、陽炎も鋭い顔つきで頷いた。
いつかまた、此処であなたと。 かれん @mitsumatakasumi
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