第4話 真夜中の奇妙な電話
そんなことを考えていると、目が覚めたと思った瞬間、身体が動かなくなった。
「あっ、金縛りに遭っちゃった」
と感じたが、とりあえず、どうすることもできないので、冷静になることを心掛けた。
すると、またしても、血の臭いを感じるようになり、その時に閃いたのは、
「これは夢ではない」
ということであった。
というのは、
「夢の中では、臭いというものを感じないのではないか?」
という思いからであった。
確かに、夢の中では、臭いも色も、さらに痛みも感じない。
しかも、夢というものほど、実に都合のいいものはないであろう。
というのも、その考えの裏付けとして、
「夢というのは、実に都合のいいところで目が覚めるものだ」
ということであった。
夢から覚めた時、例えば怖い夢で、いきなり殺されそうになっていたとして、ナイフが胸に突き刺さる前に、現実に引き戻され、
「夢か?」
と思い、ホッとした瞬間、身体から滲むような汗が噴き出してくるという感覚だったのだ。
ただ、都合がいいという言い方自体が、ある意味都合のいいもので、
「楽しい夢」
というものを見ている時は、
「ちょうどいいところで目を覚ましてしまい、悔しい思いをする」
ということではないかと感じていた。
だから、楽しい夢というものは、
「見た」
という意識は残っているのだが、実際の記憶としては残っていないというものなのではないだろうか?」
と感じるのであった。
ただ、そう考えると、
「楽しい夢というのも覚えていてほしい」
と感じるのだ。
「ひょっとすると、楽しい夢というのを覚えている、その時というのは、色も臭いも、記憶の中に封印されただけで、引き戻すことができれば、思い出すことができるのではないだろうか?」
というのが、たまに、起きている時にふと感じる、
「デジャブ」
なのではないか?
ということであった。
というのも、
「デジャブというのも、デジャブが起きるという感覚になる予感めいたものを感じるからだ」
という感覚が残っているからだ。
これを口で説明するのは、かなり困難なもので、
「デジャブ」
という現象が果たしてどういうものなのか?
ということを、証明できなければいけないのではないだろうか?
そもそも、
「それができるくらいなら、もっと早くに、学者のお偉い先生たちが、この不思議な感覚を解明してくれているはずだ」
ということだ。
「デジャブ現象」
というものを、最初から言葉もなく、皆が同じレベルで意識をしていなければ、
「自分だけが感じる不可思議な意識で、こんなことを感じているなどということを他人に話すと、笑われるに決まっている」
ということで、きっと、誰もが、
「タブーだ」
ということで、誰にも話していないに違いない。
だが、誰かが研究したことで、これが、
「誰にでも起こる不可思議な感情の表れのようなもの」
ということで、名前をつけて、学会で発表したりすることで、知名度を得たのだ。
実はそれと似たことは、世の中にごまんとあることだろう。
心理学者や、精神医学者などが研究を重ねたものは、相当数あることだろう。
たとえば、
「躁鬱症」
などと呼ばれる精神的な病があるが、これも、千差万別に種類があるようだ。
普段は、現れないが、何かのきっかけで襲ってくるというところは、どの人にも言えることなのかも知れないが、それだけではなく、その程度の度合いに、たくさんの種類がある。
精神的に、
「何をやってもうまくいかない気がするだけ」
というようなものから、
「身体中に痛みが走っていて、それを薬による痛み止めの効果によって和らげるしかない」
という重度なものまであることだろう。
だから、一つの病気をその言葉によって、十把一絡げというわけにはいかない。
「人の数だけ、病気がある」
といってもいいだろう。
特に精神的な病というのは、デリケートなもので、本当に、一人一人と向き合うことで治療していかなければいけないものではないだろうか。
中には、
「すぐに死にたくなる」
というようなものもあり、
「自殺菌」
などという発想が頭の中に生まれてしまうということだって、無きにしも非ずということである。
「自殺菌なるものがあって、それのせいで、死にたくなる」
などといえば、
「何を変な妄想しているんだ」
と言われるかも知れないが、学者によっては、真剣、そんな菌が存在しているのではないか?
と考えている人もいるかも知れない。
いや、
「そういう菌やウイルスを作ることで、それを戦争における兵器として使用すれば、まだ誰にも認識もされていないものだから、まさか、ウイルスによるものだとは思わないであろう」
と言えるだろう。
そう考えると、
「バイオテロ」
というものは、実に恐ろしいもので、まったく予期していないことが起こった場合に、「これからは、そのバイオテロの可能性も視野に入れなければいけないだろう」
と言えるのではないだろうか?
この時の金縛りに遭っている時、そのことと、もう一つ考えたのが、
「血の臭いの正体」
ということであった。
子供の頃に、確かに血を見たという記憶はないはずなのに、
「なぜ、こんな血の臭いを鮮明に思い出すんだろう?」
ということであった。
血の臭いというのは、ずっと鼻についているもののように感じるのだった。決して忘れないものであり、それはやはり、意識の中で忘れてはいああいものだといえるのではないだろうか?
そんなことを考えていると、金縛りに遭いながら、また血の臭いを感じたのは、
「今考えているからだろうか?」
それとも、
「血の臭いを感じたから、こんなことを感じているのだろうか?」
と、まるで、
「ニワトリが先か、タマゴが先か?」
という感覚のようであった。
ただ、
「今回はこの血の臭いとは別の臭いが含まれている」
というのを感じたのだ。
その臭いというのが、どんな臭いなのかというと、
「いつも嗅いでいて、それほど嫌な臭いというわけではないのに、血の臭いと混ざると、ここまで気色の悪い臭いになろうとは?」
という思いであった。
そこまで感じると、その臭いの正体が何であるか、少し分かってきた気がする。
「そうだ、これは汗の臭いなんだ」
ということであった。
「自分の身体から発するものであれば、それほど嫌な気分になることはないが、これが他人の臭いだと思うと、これほど嫌なものはない」
というものは、実はたくさんあったりする。
例えば、吐き気を催すようなものが特にそうなのではないかと思うが、
「例えば、ニンニクの臭い」
これは、ガムを噛んだだけでは、臭いが消えることはない。身体から蒸気として湧き出しているということで、
「風呂に入ったりして、身体全体から臭いを発散させなければ消えない臭い」
というものであった。
他には、汗の臭いもそうであろう。
自分の身体から出る臭いは、そうでもないが、他人が汗を掻いているところを通り過ぎたりなんかすると、嗚咽を伴う気持ち悪さが襲ってきて、思わず臭いの元の相手に対して、
「こいつ、何てやつだ」
と思い、思わず、睨みつけてしまうことだってあるに違いない。
また、何とも言えない臭さを認識していないのは、本人だけだということは、結構あるだろう。
まるで、自分の姿を、鏡のような媒体を使わなければ見ることができないということと同じ感覚なのではないだろうか?
そんなことを考えていると、血の臭いも同じことであり、だからこそ、
「自分の出血には、さほど、気持ち悪さを感じないが、他人が出血したりしたところを見てしまうと、貧血を起こして倒れてしまうという人がいるというではないか?」
ということであった。
だから、痛みをいかに感じるかということは、
「その本人にしか分からない」
ということで、人間の中にある、妄想であったり、想像力というものが、果てしないということを証明しているに違いないと思うのだった。
「自分の痛みは、自分で理解できるが、他人のことは、同じ感覚になるはずがない」
という前提の元に考えられている。
だから、無意識のうちに、
「自分は自分、それ以外は他人だ」
と思っていて、
「自分というものと同じレベルで他人を図ることはできないのだ」
と感じているということである。
もっと言えば、
「自分に限界はあっても、他人に限界はない。だから、自分は、どうあがいても、他人に勝てるわけがない」
と感じている人がいるということだ。
かくいう、美穂も同じことを考えているようで、ただ、このことは、たぶん、自分だけでなく、皆が、
「大なり小なり感じていることに違いない」
と思っているのだった。
それが、
「デジャブ現象」
のように、
「自分だけのことだと思っていたが、実際には、皆にあることで、それは、世の中には無限に存在している真理なのではないだろうか?」
ということを考えているのだった。
そんなことを考えていると、血の臭いが、
「実は、前世に感じたことではなかったか?」
と考えさせられた。
そんな状態において、一瞬にして、湿気が乾燥に変わってしまった瞬間があった。
その時は自分でも、ハッキリとそれが分かった。というのは、眠っていた頭が、完全に目が覚めるという瞬間に置き換わった時であった。
普段であれば、鳴るはずのない、いや、鳴らないと思っていたはずのケイタイが鳴ったのだ。
夢を見ていたのか、気が付けば、目が覚めていた。そして、それまで感じていた思いすべてが、
「まるで夢だったんだ」
と思ったのだった。
「目を覚ました夢」
というのを、何度か見た気がした。だから、夢を何度も見たような気がするのだし、その夢が、
「まるでマトリョシカ人形のようだ」
という感覚になったのだった。
「マトリョシカ人形」
それは、ロシアの民芸品であり、大きな人形が蓋のようになっており、それを開けると、中から少し小さめの人形が出てくる。そしてそれを開けると、また小さな人形が……。
ということで、どんどん小さくなっていくのだった。
そんなに小さくなっていくのを見ていると、またしても、
「この感じ、今までにもどこかで味わったような気がする」
と感じるのだ。
それが何だったのかということを思い出してみると、それが、
「合わせ鏡のようなもの」
だったということを思い出すのだった。
「合わせ鏡というのは、まず、自分が真ん中にいて、その前後か左右に鏡を置き、その鏡の一つを見ると、まず鏡に写る自分がいて、その向こうに鏡が写っていて、その鏡には、反対方向からの自分が写っている。さらに、それを写す向こうの鏡……」
ということで、これも、マトリョシカ人形のように、果てしなく続いていくと考えてしまうものだった。
だが、どんどん続いていくものであるが、理論的に、
「どんなに小さくなっていったとしても、最後にはゼロになるわけではない。かといって、限界があるのかどうなのか、肉眼で確認できるというのは、人間の限界が先に来てしまyからだった」
と言えるであろう。
だから、無限なのかどうなのかが分からない時点で、ゼロになることがない物体が存在する時点で、
「理論で証明されない限界が存在している」
ということになるのだろうか?
そんなことを考えている間にも、目が完全に覚めていないのか。本当は一瞬にして目が覚めてしまったことで、今一度、夢の世界に引き戻されようとしているということなのか、自分でも分からない状態から、
「今が夢の世界なのか、現実なのか分からなかったのだ」
と思うのだった。
ただ、目が覚めてもまた睡魔が襲ってきたというのは、電話のコールが一度だけで、いわゆる、
「ワン切り」
というものだった。
「ワン切りであれば、間違えて掛けたと相手が思ったのか、気にすることはないんだわ」
と思った。
だから、安心したというべきか、今一度夢の世界に誘われたいと感じたのは、楽しい夢でも見ていたからだろうか。
ただ、その夢をぶち破った電話のコールに腹立たしさを感じながら、確実に睡魔が襲ってきているのは、間違いないだろう。
「気が付けば、睡眠時間に入っていたのだ」
と平気で言ってみたが、表現としてはおかしい。
「睡眠時間に突入していたことを、気が付くのだろうか?」
ということであるが、正確にいえば、
「睡眠や夢というのを破られたことに気が付いたので、それまでが睡眠だったということに初めて気づくわけで、それでも、このような表現をするということは、自分が、矛盾だと思いながらも、無理もないこととして認識しているからではないだろうか?」
そして、それが現実になったのは、2度目の電話が鳴り響いた時だった。
最初は、アラームなのかと思った。
「もう起きる時間なのか?」
という錯覚を感じたのは、
「その前に一度起こされているという思いから。自分の中で時間の感覚がマヒしていたからではなかったか?」
と、目が覚めてから感じた。
もし、目が覚めるまでに考えたことは、
「きっと夢の中を彷徨いながら感じたことであり、その考えこそが、夢というものの、具現化ということではないだろうか?」
と感じたのだった。
とにかく、今回の電話は一度だけのコールではなかったので、
「間違い電話というわけではないのではないか?」
と感じ、
「もしもし」
といって、まだ完全に覚めていない状態で答えていたので、相当にハスキーな声だったことだろう。
前が見えているわけでもない。
「これほどブサイクな顔を「しているなどと思うのは、目覚めの時だけなんだろうな?」
と感じるほど、さぞや、顔がくしゃくしゃになっていることであろう。
これは、目覚めの時に毎回感じるもので、さすが、女性というべき感覚であろうか、
「こんな表情、何があっても、誰にも見せられないわね」
と感じたことであった。
今まで、誰か好きになった男性にも感じたことであろうか。
ワンコールごとに、目が覚めていくのを感じていた。実際に受話器を取ったのは、何コールめだったのか、定かではないが、電話に出て、返事をした瞬間、
「あれ? これって夢の続き?」
と思ったに違いない。
そうでなければ、またしても、そのまま眠ってしまっているとは思えないからだった。
気が付けば、今度は目が覚めていて、目を覚ます本当の時間だったのだ。
今度の目覚めは、正真正銘の、アラームによるものだった。
朝のいつもの時間。いつものように身体を伸ばし、いつもの朝を迎えたつもりでいた。
この瞬間には、まだ、夜中起こされた。しかも、2回もであることは意識できているわけではなく、身体が正常に戻りつつある中で、意識も次第に働くようになってきた。
そこで、
「何かが違っている」
と初めて感じた。
そして、
「ああ、そういえば、電話が鳴ったんだっけ?」
ということを思い出すと、
「目が覚めた瞬間が、今である」
と気が付いたのだ。
夢の世界から現実に引き戻されているその間は、
「夢の世界からは離脱しているが、まだ、現実世界に完全に引き戻されてはいない」
ということで、
「目が覚めた」
といってはいけない時間なのだろうと思うのだった。
つまりは、
「目が覚める」
という瞬間は、
「それまでの瞬間を、すべて夢の世界だと感じた時からである」
ということになるだろう。
ただ、その瞬間は、意識として、夢から完全に離脱したとは思っていないので、この間に思い出せた夢を、
「覚えている」
というに違いないと感じるのだ。
「見た夢で、覚えている夢と忘れている夢がある」
という理屈は、
「この目が覚める時のメカニズムにあるのではないか?」
と感じるのも当たり前のことではないだろうか?
目が覚めたことで、まずは、電話が夢だったのかどうかを確認したくなった。電話のアイコンをタップし、履歴を見て見ると、
「なるほど、夜中に2回着信があったことを示している」
ということを感じた。
1度目の着信は、非通知になっていて、時間的に、2時10分くらいであろうか。まさに、
「草木も眠る丑三つ時」
だったのだ。
しかし、もう一度の電話は、4時前くらいであった。
明らかに、一度目の電話で我に返ったはずだったが、すぐに寝てしまい、確かその電話は、すぐにかかってきたものだと思っていたのだが、まさか、2時間近くも経っていただなんてと考えると、
「2度目に目を覚ましたと思ったのは、それこそが夢だったのではないだろうか?」
と思って、電話を見ると、今度は電話番号が出ていた。
しかし、この電話は自分が登録しているわけではなかったので、少なくとも、スマホ同士での、赤外線による登録ではなかったということであろう。
それを思うと、
「普段から連絡を取っている」
あるいは、
「連絡を取るつもり:
という相手ではないということになるのであろう。
電話の内容が気になったのだが、無意識のうちにか、自分で録音していたようだ。普段から録音などするくせがついているわけではないのに、それでも録音していたというのは、少なくともその間、
「目は覚めてはいなかったのかも知れないが、意識はハッキリとしていた」
ということであろうか?
そんなことを考えていると、
「意識というのは、夢の世界、現実世界の両方にあるもので、その帰属する世界は、最初に感じた世界にある」
ということではないかと思うのだった。
早速、録音されているボタンを押してみた。
ちなみに、録音時間は、2分弱くらいであったが、その時間が長いのか短いのか、美穂には分からなかった。
とりあえず、再生してみることにしたのだった。
何かが騒がしいような気がしたのは、電話による回線の場合があるというのは、ネットによる電話や、音声チャットのようなもので感じていたことだったので、
「無理もないことだ」
というのは感じていたのだ。
そして、次に感じたこととして、
「そこが、密室のように感じたことだった」
というのは、音がこもっていて、
「まるで、お風呂場のような感じがした」
というものだった。
だが、その、
「風呂場」
というものを感じた時、少し、自分で気持ち悪いと感じたのだ。
風呂場というところは、
「湿気を帯びた密室」
なのである。
そして、
「その場所には、基本的には裸で入るものだ」
という思い込みがあり、今自分が服を着ているという意識があることで、どうしても、風呂場を想像すると、
「服を着ていて、風呂場にいる」
という感覚になるのだ。
だから、湿気を感じている自分を意識していて、それだけに、とてつもない気持ち悪さを感じるのだ。
美穂は、いつも、
「自分の体調は、ちょっとしたことで悪くなる」
と思い込んでいることで、環境の変化に、自分は敏感であり、そのため、風呂場のシーンなどを想像すると、てきめんに、体調が悪くなりそうになるのを自覚してしまうのであった。
体調の悪さが、悪寒や、吐き気に繋がる。ゾクゾクしてくる感覚が、発汗作用にもつながっているのだろう。
汗が出るくらいに身体がほてっていて、きついことで、ブルブル震えを感じさせる。
「汗を掻いたシャツは、すぐに着替えないといけない」
ということは分かっているくせに、
「どうせ、また何度も着かえなければいけないのが分かっているので、それこそ、睡眠時間がなくなってしまう」
ということを考えると、
「体温で、汗を引かせればいいんだ」
という怠慢意識が芽生えてくるのだったが、それだけ身体を動かすことが億劫であり、難しいことの証明であったのだ。
そのまま、寝ていると、
「気持ち悪い」
と思いながらも、起き上がれないでいると、
「金縛りに遭うのではないか?」
と考えるのもいつものことだった。
そういえば、
「さっき、金縛りに遭ったと感じたような気がする」
と思ったのだが、身体に金縛りの感覚は残っているのだが、意識としては、今夜のうちに、金縛りに遭ったというものが残っていなかった。
ということは、
「昔夢で見たことを、記憶から引き戻されて、意識に変わったところを、夢として見たのを、現実だと認識したのかも知れない」
と感じた。
だからこそ、身体に金縛りの感覚が残っていたというのは、決して無理なことではなかったということなのかも知れない。
実際に夢を見た感覚が身体に残っていることは少ないわけではなく、特に、湿気からなのか、体調からなのか分からない汗が身体に滲んでいたと考えると、自分でも、金縛りが、夢によるものなのか、現実だったのか、分からなくなってしまう。
ただ、自分を納得させることができるとすれば、それは、
「夢の中だった」
と思うことであり、
「どうして夢に走ったのか?」
ということであれば、
「それは、今夜のことではなく、遠い昔に感じたことだ」
という意識があるからではないだろうか?
そんなことを考えていると、今夜、
「本当に夢を見ていたのかどうか、怪しいものだ」
と思うのだった。
電話に残された録音メッセージを流していると、そこから声が聞こえてくるわけではなく、時々、
「カツーン」
というような音が聞こえてくるだけで、その音が、風呂場からだという感覚は、否めないものだったのだ。
風呂場を思い出すと、気持ち悪さが前述のように襲ってくるわけで、それが、金縛りに変わったのだと思えば、納得がいく。
ただ、その納得もかなり意識が歪んだものであり、屈折した感覚を、どうしても、感じさせるのであった。
そして、
「風呂場」
という感覚を、一瞬にして、
「密室」
という言葉に置き換えているという感覚になったのだった。
今は、
「絶滅危惧種」
となっている、以前は街の中に一つはあったと言われている、銭湯。昔のドラマなど、有料放送で見たことがあったが、そこに描かれている
「富士山の絵」
というものが特徴である、銭湯を、一度も味わったこともないくせに思い出すというのは、一体、どういうことだというのか?
前述のような、
「夢というものの正体」
を考えていた時、たまに頭をよぎることがあったが、いつも、
「そんな非科学的なことは」
といって、考えるのをやめることが多かった。
それが、どうしても気にはなっているのか、夢で疑問を感じた時、いつも意識されることであったのが、
「夢というのは、前世から引き継がれているものではないか?」
ということであった。
今の世の中で、普通は、前世というものを意識することは、ほとんどといっていいほどはない。
先祖というものを意識することはあるが、それは、あくまでも自分の、
「家系」
ということであり、宗教的な、いわゆる、
「仏教思想なのではないか?」
と思うが、先祖を敬うというのが、当たり前のように感じられている。
これは、よく考えてみると、
「種の保存」
という、人間以外の動物であれば、本能で脈々と受け継がれているものであり、そこに疑問も思考もまったく挟まることはない。
何しろ、
「動物というものに、意識はないからだ」
と言えるのではないだろうか?
「種の保存」
ということであれば、それは、動物だけにいえることではなく、
「植物にだって言えることだ」
というものだ。
だが、そんな、動物も植物も合わせた、
「生物」
すべての中で、人間だけが、意識、さらに、発展した意思というものが持てる、唯一の生物なのである。
それを考えると、
「先祖などという、血の綱がりだけではなく、もっと他の、自分の前世から、さらにその前の前世という繋がりをどうして大切に思わないのだろうか?」
という考えである。
なぜか、
「自分の前世が誰であったのか?」
ということが分からない。
敬うべきはずのものであれば、そこまでハッキリとしていないと、できないものではないか?
と言えるだろう。
しかし、もし、前世というものが分からないのが、実は無理もないことだということであるならば、
「元々、前世というものは、どこにも存在していないのだ」
ということになるのではないだろうか?
前世という発想は、人間が勝手に考えたものであり、その信憑性はないものなのかも知れない。
占い師などが、
「前世」
という言葉を使っているが、それはあくまでも、
「人間が勝手に作りだした妄想」
というものでしかないのかも知れない。
実際に、
「前世の存在を考えれば、理屈に合う」
ということも考えられるわけで、その理屈を、いかに解釈するかというわけが、すべてであるとすれば、
「前世というのは、理屈で解釈するためだけのために、人間が勝手に作り出した、妄想の一種ではないか?」
と言えるのではないだろうか?
だから、人間は、その前世を勝手に妄想し、占い師は、その意識を分かったうえで、占いを依頼した人に、
「都合よく聞こえるように話すことで、信憑性と、信じるだけの意識を植え付けようとする」
ということなのだろう。
だから、決して、いいことばかりをいうわけではない。そういう意味で、
「占い師の言葉には信憑性がある」
と言われるのではないだろうか?
占い師というものは、昔から、
「当たるも八卦、当たらぬも八卦」
というではないか。
いかにも、
「いいことを言っている」
とでもいうように錯覚してしまうが、それはあくまでも、占いを受けるくらいなので、「占い自体を信じている」
ということから始まっているのだが、占い師としても、すべてのものを的中させるなど不可能だと思っているのだろう。だから、
「当たるも当たらないも、それが占いというものだ」
といって、言い訳をしているのである。
考えてみれば、占いというのも曖昧なもので、
「そもそも、一体、当たった当たらないというその境目はどこにあるというのだろうか?」
と考えるのだが、
「すべてが当たっていなければ、外れた」
と考えるのか、逆に、
「一つでも、理にかなった当たり方をしていれば、当たっているということになるのであろうか?」
それとも、そこまで極端ではなく、
「どこかに、妥協というか、落としどころのようなものがあるということになるのであろうか?」
という考えがあったのだ。
もっと言えば、
「どこまでの信憑性が、占いにおける、当たりになるのかという決まりのようなものがあるのかどうか?」
であった。
今のところ、
「そんな決まりなどない」
ということであろう。
それが分かっているのであれば、もっと、誰もが占いをしてもらおうと思うことだろう。
だが、逆に、
「頑なに、占ってもらうのを拒否しよう」
とする人もいるだろう。
なぜなら、
「自分の運命は自分で切り開くものだ」
と思っているからで、テレビなどでは、よく聞かれる言葉だった。
だが、本当にそうであろうか?
これこそ、言い訳に聞こえてくるのだ。ただ、運命というものをどこまで決まっているのかが問題であり、運命には、
「決まっていて、変えられないものと、本人の努力によって、いくらでも限界のないものがあり、それを伸びしろと感じる」
ということであれば、この言葉はいいわけではないだろう。
「運命は、最初から決まっていて、変えられるものではない」
という考えは、宗教から来ているのかも知れない。
そんな風に考えると、
「宗教など信じる気にはなれない」
と思う人の一定数いて、
「宗教依存が激しい人と、自分ファーストのどちらがいいのか?」
ということを考えると、
「後は、自分の意識がどちらに向くか?」
という問題であり、個人個人で決められるものなのかどうかも、分からないことなのであろう。
録音された音を聞いてみると、最初は、相手から何も反応がなかった。少しずつ、静寂になれてくるようになると、浴槽で感じた音だけではなく、そこから先の音が、かすれているようにも思えた。
言ってみれば、
「ハスキーな喘ぎ声」
という感じであった。
ただ、その声の主は男性であり、女性である美穂には、
「聞いていて、嫌な気分にしかなれないものだ」
といってもいいだろう。
その声を辿ってみようと思ったが、声が銭湯のようなところで籠って聞こえることで、男だと思っているその声も、本当に男なのかどうか、自分でも分からないくらいであった。
その声を、最初は、
「男だ」
と思っていると、気持ち悪さがひどくなってくる。
「自慰行為をしている変質者」
というイメージになったからだ。
「その声を、しかも、自分が録音してしまったのだ」
と思っただけで、ムカツキがひどくなり、嘔吐をもよおしてきた。
その瞬間、美穂は、
「あ、月に一度のものがやってきた」
ということを感じた。
大体分かってはいたが、後から思えば、そのための、
「血の臭い」
だったのだろう。
ということであった。
「血の臭い」
というのは、
「なるほど、確かに、この臭いだった」
と感じたが、
「自分では、感じたことがなかったのにな」
と感じるのは、やはり、自分でけがをし、出血した時には、それほど血の臭いを感じないという感覚に似ているのだろう。
それを思うと、相手が男であり、
「こちらのことを何でも知っている」
という感覚になると、気持ち悪さしか感じなくなった。
その思いがあるからか、自慰行為をしているように感じたのだが、あくまでも、妄想でしかないと思うと、妄想に振り回される自分に嫌気が差していたのだった。
だが、自慰行為は錯覚であるということが分かってくると、今度は、自分の身体から、想像以上の出血があるのを感じていた。
「意識が遠のいているような気がする」
と思うと、完全に貧血状態になっていた。
普段であれば、何とか耐えられるというもの、今回は、簡単に耐えられるものではなかった。
「今回の血の臭いが、貧血を誘発し、抑えの利かない気分の悪さ」
になっていた。
本来なら、薬を飲むのだろうが、それすら億劫になっていて、このまま、眠ってしまった方が楽だと自分なりに判断したのだろう。
そう思うと、前を向いているだけでもきつくなってくるのを感じ、瞼が重たくなってくる。
いつもであれば、瞼が閉じるまでに意識を失っているのだろうが、今回は、完全に瞼を閉じてしまっても、意識はまだあるようだった。
「今日の私は、どうかしてる」
と感じ、目を閉じた状態で、目の前を見ていると、その瞼の裏が真っ赤に見えていたのだ。
真っ暗な中で目を閉じたはずのに、まるで目の前に日が差している中で、そのまま目を閉じたという感覚だった。
それを思うと、
「電話の声が、自分をおかしくしているのではないか?」
としか思えなくなっていた。
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