第3話 夢の中の三すくみ
オカルト映画を見たその日の美穂は、なかなか寝付かれないでいた。
最初の書き出しであったが、その日というのは、最近にはなく、季節外れの暖かさで、急激に気温が上がったことで、余計に寝苦しさがあったのだろう。
美穂の場合は、一度眠くなってしまうと、一気に眠れるのだが、その途中で、少しでも気になることが起こると、気分が覚めてしまい、そのまま睡魔もなくなってしまうのだった。
しかも、考えることがどんどんネガティブになっていくので、
「鬱状態に入りやすい」
と思うのだった。
そもそも、躁鬱症というものを感じるようになってきたのは、大学に入ってからのことだった。
下手をすると、
「小説を書くようになってからだったのかも知れない」
と思うようになっていた。
ただ、子供の頃苛めに遭っていた時も、似たような躁鬱の感覚はあったような気がする。
しかし、思春期を迎える前だったので、その頃の感覚は、記憶ほど鮮明ではない。
まるで、
「前世の記憶のようだ」
であったり、
「夢の中の出来事のように感じられる」
というものだったのだ。
思春期というのを思い出してみると、
「一番遠い記憶だったような気がする」
というものであった。
というのは、本来であれば、
「子供の頃、思春期、大人になってから」
というのが、正しい時系列のはずなのに、記憶の奥に封印されている順番というのが、
「思春期、子供の頃、大人になってから」
という、少し不可解な記憶なのであった。
ただ、普通に繋がっているということを考えると、
「記憶の奥の封印に、まるでインデックスか何かがついていて、辻褄を合せるようになっているのではないか?」
と考えるようになった。
その感覚というのは、まるで、
「デジャブ」
という現象への、
「辻褄合わせではないか?」
と感じられるのだ。
昔の記憶の繋がりが、いかにうまくかみ合わせるかを実現するために、
「昔にも似たような感覚があったような」
という架空の意識を今の記憶から植え付けるということを辻褄合わせとして、意識することになるのではないか?
美穂はそのように考えるのであった。
その日は、確かに夢を見ていた。
夢を見ていたか、見ていないかというのは、あくまでも、その時の感覚によるものなのだが、自分では、
「夢というのは、基本見ているものだ」
と思っているのだった。
つまり、夢を見ていないというのは、
「忘れてしまっている」
という感覚がマヒしているからではないかと思うのだった。
つまり、
「意識していないわけではなく、マヒしている」
というのは、
「感覚を意識しているわけではないというのは、一旦意識したものを、自分でしていないと否定する」
ということであり、
「マヒしている」
というのは、そういう感覚を味わう以前の問題ではないかと思うのだ。
そういう意味で、マヒしているという方が、忘れてしまっているという意識に強いもので、それだけ。
「忘れてしまっている」
ということが、無意識になるほど、夢というのは、
「奥が深いものなのかも知れない」
と感じるのだ。
だから、
「夢を本当は毎日のように見ていて、ただ忘れてしまっているだけなんだ」
と言われれば信じるし、しかも、それを自己暗示のように、自分がいうのだから、それも当然のことではないだろうか?
ただ、自分の中で分かっているつもりになっているのは、
「夢を見た」
と感じる時でも、
「覚えている夢と、覚えていないと思う夢との二種類がある」
と感じていることであった。
覚えている夢というのが、印象深い夢だということは当たり前のことであり、逆に、
「印象深くない夢を覚えているくらいなら、全部の夢を覚えているに違いない」
と思うと、夢の記憶というのは、
「ある意味、自分にとって都合のいいものなのかも知れない」
と思っているのだった。
ただ、覚えている夢というのが、そのほとんどが、怖い夢なのであった。
というのも、その内容が、本当にオカルトチックなもので、その怖いものというのが、
「もう一人の自分を見た」
というものであった。
「もう一人の自分」
というものを考えると、それは、いわゆる、
「ドッペルゲンガー」
と言われるものであり、
「世の中には、自分に似た人が、三人はいる」
と言われているが、この、
「ドッペルゲンガーというのは、自分に似た人というわけではなく、本当の、もう一人の自分なのだ」
という考え方である。
同一の次元で、同一の時間。つまり、パラレルワールドでもなく、マルチバースでもない、現実という世界において、まったく同じ人間が存在しているというのは、物理学の観点からも、あり得ないことなのかも知れない。
「タイムパラドックスでもあり得ないこととして、ビックバンを語る人だっているというのに」
ということを考えると、
「ドッペルゲンガーというものが、どれほどの大きな問題なのかということに繋がってくるのである」
と言えるのではないだろうか?
そのことを、大人になって理解しているから、夢を見ることに、ものすごい恐怖を感じるのだが、そんなことをまったく知らない子供の頃であれば、
「もう一人の自分」
というものが出てくる夢というものを、理論的に怖いと感じることはないだろう。
だから、子供の頃に感じた恐怖は、どこまでが、本当の恐怖だったのかということを分かっていないということになるであろうか?
それを思うと、子供の頃に忘れなかった夢のほとんどが、
「もう一人の自分に出会った」
という夢だったというのが、子供としても、何かの潜在意識を持っていたということであろう。
ドッペルゲンガーというものを見た時、どのような現象になるかということは、昔からいわれていることで、実に恐ろしいことである。
しかも、著名人や有名人が、過去にドッペルゲンガーを見たことで、どういう運命になったのかということが言われ続けていることから、できた伝説なのか、それとも、昔側言われていることの通りに起こるから、余計に恐怖を煽るかということを考えた時、ドッペルゲンガーの真の正体に触れるのではないかと思うのだった。
ドッペルゲンガーを見ると、
「その人は、数日以内に死んでしまう」
という言い伝えがあった。
特に、その言い伝えがたくさん残っていることから、その信憑性についていろいろと言われていたりする。
しかも、ドッペルゲンガーの特徴も、行動パターンから、その行動範囲まで、定説のように言われるようになり、それが、信憑性であったり、説得力のように言われるようになったのであった。
だが、その行動範囲からいえば、
「夢の中」
ということを言われているわけではないので、一般的に言われている、
「ドッペルゲンガー」
には、
「夢の中に出てくるものは含まれない」
といってもいいのではないだろうか?
それを考えると、
「数日以内に死なないからといって、ドッペルゲンガーの信憑性を疑うに値しない」
といってもいいだろう。
ただ、夢の中に出てくるドッペルゲンガーには、
「それなりの、信憑性や理由のようなものがあるのではないか?」
と感じるのであった。
もう一人の自分が夢の中に現れた時、相手は、夢を見ている自分を見つけるのだろうと思っていたが、どうやら、少し違うようだった。
というのも、
「ドッペルゲンガーが見つける自分」
というのは、
「夢を見ている自分」
というわけではない。
「夢に出ている主人公である自分を見つけた」
ということなのだ。
つまり、夢というのは、夢を見ている時点で、
「主人公である自分と、夢を見ている自分との二人が存在している」
ということになるのだ。
夢を見ている自分の姿を、現実世界でも見ることができないわけなので、意識としては、夢を見ている自分が、現実の自分に一番近いのだ。
しかし、夢の中ではその意識はない。主人公である自分が、意識していると思っているのだろう。
それを考えると、
「夢を見るということが、最初から、夢を忘れるということを意識させている、一種の、減算法のようなものではないか?」
と感じるのであった。
「夢の世界に存在している世界は、元々、現実世界における一瞬のコピーのようなものであり、その時点で、100%のものだということになるのではないだろうか?」
という考え方であった。
減算法と加算法、それらの考え方が、見ている夢をそれぞれに、
「覚えている夢」
「覚えていない夢」
それぞれにいざなうのではないだろうか?
その日の夢がそういう夢だったのか、まだ目が覚め切っていない頭の中で、何か感じられるようだった。
いつもであれば、その夢の恐ろしさを身体で感じるはずなのに、自分で意識ができていないというのは、何とも言えないといってもいいだろう。
ただ、くるまっている布団の重みが感じられ、それが、湿気によるものであることは、目が覚めていない状態でも感じることができる。一種の本能のようなものだといってもいいのではないだろうか。
汗を掻いているから、当然布団が水分を吸うわけなので、重たくなるのは当たり前のこと、それが意識して感じられているのかどうか、目が覚めていない状態であれば、何ともいえない状況だったのだ。
さて、夢から覚めようかとしている時、時々デジャブを感じるのだ。
普段、
「あれ? 今何か過去に感じたことがあるような思いをしたような気がしたんだけどな?」
と感じるのが、一種のデジャブであるが、それは普段、
「起きている時にしか感じないものだ」
ということを、当たり前のことのように感じていたのだった。
しかし、今から思えば、そうではなくて、
「寝ている時、しかも、夢から覚めようとしている、起きているか寝ているかという意識が、一番曖昧な時に感じることであって、それを感じさせない何かが働いているのではないか?」
と感じたのだ。
「それが、ドッペルゲンガーの正体?」
と思ったのは、かなり突飛ではあるが、自分の中で、どこか信憑性があるのだった。
「デジャブというものが、夢の中だけのことなのだ」
ということになれば、
「デジャブに、ドッペルゲンガ―が絡むと考えることで、まるで、夢の世界が、不可思議のオンパレードだ」
と思うと、不可思議なオカルトであっても、辻褄が合っているかのように感じさせるのだった。
オカルトというものを、
「都市伝説」
のようなものと考えると、ホラーなどと、一線を画してみることができるというものであり、
だとすると、
「デジャブ」
に、
「ドッペルゲンガー」
さらには、
「夢の世界」
というものを考えると、そこに、一種の、
「三すくみ」
という考えが絡んでくると思うと、面白い現象なのかも知れない。
三すくみというのは、前述のように、
「抑止」
という問題であったり、お互いの位置を入れ替えるということで、違った景色を見せるものだと考えると、夢の世界と、現実の世界。さらに、もう一つ知らない世界が、どこかに広がっていると考えるのは、突飛すぎるだろうか?
ただ、そう思うと、夢の世界からこちらの世界に戻ってくる時という間に、実に曖昧な時間が存在していて、異次元を思わせるものであると考えると、その間に、
「三すくみを形成する、意識することすら許されないような世界が広がっていて、その世界を予期させないように、ドッペルゲンガーを見ると、数日で死ぬというような、都市伝説的なことが言われるようになったのではないか?」
と考えるのであった。
ただ、ここで、急に、
「三すくみ」
という考えが、急浮上してきたというのが、大いに発想を豊かにさせるものでもあり、素人とはいえ、物書きとして、何かを感じさせるものではないかと考えると、実に面白い感覚になるのだった。
そんな真夜中の静寂の時間、時計を見たわけでもないのに、時刻は、午前二時を少し回ったくらいであり、いわゆる、
「草木も眠る丑三つ時」
という言葉にピッタリであった。
最近の世の中では、
「眠らない街」
というのが、一般的になっていて、それは、都心部に限ったことではなく、田舎街においても言われていることではないだろうか?
特に、コンビニというのが、基本、24時間営業ということになっているので、さらには、ファミレスでも、24時間のところもあり、
「学生が勉強するには、ちょうどいい」
という感じにもなっていた。
高校生は数名、屯して勉強している姿など、今に始まったことではない。昭和の頃から、すでに、
「眠らない街」
は、徐々に郊外にも増えていったのである。
しかし、昨今では、その状態に陰りが出てきているのだった。
というのは、
「世界的なパンデミック」
というものが流行ってきたからであり、それは、
「今の時代に、警鐘を鳴らしている」
といってもいいだろう。
パンデミック、つまりは、
「伝染病の大流行」
であった。
ここ数年、世界で起こっている流行は、留まるところを知らない。
しかし、政府は、国民の命などどうでもいいとでもいうかのように、
「経済を優先」
ということで、人流抑制を伴う、発令を行おうとしない。しかも、各自治体も同じことで、要するに、
「金を出したくない」
ということなのだろう。
それならそれで、ちゃんと説明すればいいものを、
「経済を回す」
ということを言い訳にして、宣言をしないというのは、いかがなものであろうか?
ただ、民間企業もさらに輪をかけてひどくなっている。
特に鉄道会社などは、最終電車を一時間以上前倒しして、まるで宣言が出ていた時のように、
「午後11時には、すでに後は最終電車だけ」
というようなひどい状態だ。
これも、パンデミックを言い訳にして、
「最終を遅くまで走らせていても、赤字になるだけだ」
ということであろう。
これは、パンデミックの前からのことで、本当は最終を前倒しにしたいと思っていたのを、今回のパンデミックを言い訳にして、自分たちの都合のいいように、最終を辞めてしまおう」
という、悪質な考えである。
まるで、消費税の時の、
「便乗値上げ」
のようではないか。
それを考えると、
「いかに民間もひどいか?」
ということである。
だから、最近では、コンビニまで24時間ではなくなり、ほとんどのファミレス、ファストフードの店が、キリのいいところで閉店時間を迎えるようにしている。
完全に、
「人件費をいかにねん出するか?」
ということなのであろう。
それを思うと、
「政府も民間も、同じ穴のムジナだ」
と言えるのではないだろうか?
草木も眠ると言われた、
「丑三つ時」
であるが、この丑三つ時というのは、元々、方角のことである。
0時を来たとして見た時に、東北東の方向が、ちょうど、丑三つ時である、午前2時の方向にあたる。
この方向は、そもそもが、
「鬼門」
と呼ばれるもので、不吉の現れであった、
「読んで字のごとく」
ということで、
「鬼が出入りする門」
ということで、名付けられたといってもいいだろう。
だから、今では考えられなくなったが、人が出入りすることのない午前二時というこの時間に、不吉な時間である、
「鬼門」
というものを結びつけてくることで、
「草木も眠る丑三つ時」
という言葉が生まれたのだろう。
一日のうちで、似たようなことが言われている時間帯というのが存在する。
それは、夕方の時間帯で、こちらも、
「逢魔が時」
という不吉な名前を賜っているのである。
この時間帯というのは、いわゆる、
「夕凪」
と言われている時間に近いものである。
というのも、
「風が吹かない時間が、夕方には存在する」
というものだ。
海水温と、地表の温度の微妙な差や、温度が交差するあたりに起こる自然現象なのだろうが、その時間帯に、不思議と、事故が起こったりするというのが、実しやかに囁かれたりしていたのだ。
これには、根拠はある。
というのは、逢魔が時と言われる時間帯は、
「目が見えにくくなる時間帯」
ということでもあった。
というのも、光の屈折の微妙な角度から、瞬間的に、
「色を感じなくなる時間がある」
という。
だから、信号機が見えにくかったり、保護色によるものなのか、まるで色盲になったかのようになることで、その分、事故が多いのだろう。
しかも、それを本人は、
「見えている」
と思っているのだから、完全に錯覚しているということである。
それを思うと、
「事故が起こりやすいというのも分かる」
というものである。
とにかく昔の人は、自然現象や方角を、被害が起きやすい時間帯に何かの理由をつけて、表すようにしていたということなのであろう。
「逢魔が時」
にしても、
「丑三つ時」
にしても、問題は、錯覚なのではないだろうか?
丑三つ時であれば、夢がその錯覚に関わっているとしても不思議なことではない。それを思うと、占いであったり、祈祷であったり、人が恐怖に陥る時、
「何かにすがりたい」
と考えるのは当たり前のことであり、しかも、その時間帯が一番眠りの深い時ではないかと思うのだが、果たしてどうだろうか?
夢というものをいつ見て、目が覚める時というものの関係を考えると、少し違う感覚になるようだった。
そんな午前二時を少し過ぎた時間。その日も相変わらずの静けさだった。このあたりは閑静な住宅街なので、なるほど、静なのはいつものことであるが、何か耳鳴りがしていたのだ、
それが違和感で目を覚ましかけているのだろうが、静かなところに持ってきて、どこか耳がツーンとなっていることだった。
まるで、どこかの山に登っているか、高層ビルのエレベーターを一気に昇っている時のようだ、
とっさに、
「ああ、気圧が低くなっているんだな」
と感じた。
そして、自分の今のこの中途半端な、眠気と目を覚まそうとしている狭間で、
「まだ布団から抜けたくない」
と思ったのは、自分の身体が重たくなっていることに気づいたからだ。
その原因が、汗を掻いているということだったからだ。
身体にへばりついたような汗を感じていると、身体を起こすことが億劫だったのだ。
目が覚めているにも関わらず、身体を起こせない感覚は、それだけ、表が生暖かいということで、それが汗の原因だと思った。
そして、その原因は空気の湿気にあると感じたのだった。
ということは、先ほどの耳鳴りと、空気に交じっているであろう、
「重たい湿気」
これは、意識の中で矛盾しているものであった。
ただ、実際には稀にではあるが、湿気を含んだ空気の中でも、ツーンという耳鳴りがあったり、目が覚めた時に汗を掻いているからといって、絶対に空気が重たいような、湿気を含んだ空気ではないということだって、あったりするので、
「自分の勘だけを信じるのは、いかがなものか?」
と感じるのだった。
そんな状態の中で、身体を何とか起こすと、耳鳴りがなくなっているのを感じた。
「ああ、夢の中で感じたことだったのかな?」
と思うと、先ほどの自分の錯覚が、気のせいだったということに気づき、ちょっとホッとしたような気がしたのだった。
次第に目が覚めてくるのを感じると、やはり、先ほどまで、夢を見ていたような気がしていた。
ただ、その夢に、
「もう一人の自分」
が出てきたという意識はなかった。
それというのも、
「夢を見た」
という感覚はあるのだが、その夢がどんな夢だったのかというと、意識がハッキリしないのだった。
美穂は、目が覚めるまでに、大体10分くらいはかかるだろうと思っている。だからアラームもそれを計算し、
「どの時点で目を覚ませば、それほどきつくないか?」
ということを計算して目を覚ますようにしている。
その時間にも、自分の中で余裕を持つようにしていて、慌てないということが大切だと思うようになった。
慌ててしまうと、自分が、
「せっかく目を覚まそうとしているのに、自分で自分の邪魔をしているようで、そんなことをしていると、目を覚まそうとしている自分の邪魔をしているように思えてきて、このまま永遠に目が覚めないのではないか? と感じてしまうのではないか?」
と思い、怖くなるのであった。
もちろん、目が覚めないなどということが今までにあったわけではない。ちゃんと、
「眠りに就いた回数と、目を覚ました回数は、ピッタリ同じはずだ、それこそ、永遠に逢わない辻褄を、追いかけているような錯覚に陥って、眠るのが怖いという感覚に陥ってしまうのではないか?」
と感じることだろう。
それを思うと、
「今にも目を覚ましそうになっている自分の背中を押すような気持ちに、自然となっている」
ということに気づいていたのだ。
それが、午前二時であるということを、分かってのことだったのかどうか。その時に感覚があったわけではなかったのだ。
夜になると、最近は急に冷えてきていたので、寒い分には慣れていたが、暖かくなるという想像はしていなかったので、この湿気が頭痛を誘っているということに、後になって気づいたのだった。
暖かさがどこか気持ち悪さを運んできて、何か嫌な記憶を思い出させるという予感を感じさせた。
あれは、確か子供の頃の記憶だった。
子供の頃というと、小学生低学園だったので、まだ、児童と呼ばれるくらいの子供だっただろう。
あれは、今はもうなくなってしまったが、テーマパークだったか、遊園地だったか、遠足で小学校から出かけた記憶があったので、たぶん、テーマパークのようなものだった気がする。
家に帰ると、まだ、その時のスタンプラリーのようなものが、小さな冊子として残っている。それを見ると、
「ああ、このスタンプを押したものだ」
と、その時のことを思い出した気がした。
スタンプを思い出していると、そのテーマパークがどんなところだったのか、思い出してきた。
そこは確か、どの時代なのか、定かではないが、
「昔の街並みを再現した」
という感じのところであった。
「子供が楽しく歴史を勉強できる場所」
ということで作られたものだったようだ。
「思い出そうとすれば思い出せるではないか?」
と感じたのも当たり前のことで、その場所には、何度も出掛けていたのだった。
というのも、小学生の時だけだと思っていたのは、その後に行った時と、あまりにも記憶の中のその場所と、かけ離れていたからだった。
その時は大学に入ってから、初めてできた彼氏と出かけてきたものだったが、その彼氏が、
「歴史が好きなんだよな」
ということで、初めてできた彼氏だったので、逆らうこともできないというか、逆らうつもりもなかったので、
「ただ、ついていくだけ」
という、三行半的な考え方をしていたのだった。
見ているだけで、
「どこか可愛い」
と感じたことが、付き合い始めるきっかけだったのだが、相手もまさか、美穂に、彼氏が今までいなかったと思わなかったようで、それを聞いた彼氏は感激していた。
その様子を可愛いと思うのであって、男性に対して自分が、
「可愛いなどと思うなんて失礼じゃないかしら?」
と思ったのだが、
「感じてしまったものはしょうがない」
と思うと、
「このまま、ずっと付き合っていければいいな」
と感じるようになった自分が、おかしな感覚を持っていると思った。
しかし、それ以上に、
「こんな感覚になったのは初めてだ」
という新鮮な気持ちが勝ってしまって、
「別れなどという言葉は、頭にまったくなかった」
ということであった。
その何度目かのデートで出かけたそのテーマパークに寄った時、その日は、実にデート日和といってもいいくらいに、きれいに晴れていた。
確か、季節は秋だったと思う。そろそろ日陰に入れば、寒さを感じる時期であったが、日差しが容赦なく降り注いでいると、ちょっと歩いただけでも、身体から汗が滲んでくるのを感じるほどであった。
小学生の頃も同じような天気だったのだろう。デートをしている間に、
「前にも来たことがある」
というのを感じさせたのだから。
もしその感覚がなかったら、ずっと初めてきたと思ったに違いない。
ただ、デジャブを感じたもう一つの理由が、臭いだったのだ。
その臭いを感じた時というのが、昔の農家にあった納屋のような建物に入った時だっただろうか、完全木造のその建物は、虫よけなのか、カビ防止なのか、脂のような臭いがしていたような気がした。
そんな中、カラッと晴れ上がった天気の中、本来なら、湿気がなくなっているであろうと思っていたのだが、そんな中、急に湿気が襲ってきて、その湿気の中で、鉄分の臭いを感じたのだった。
それが、何を意味しているのか分からなかった。
ただ、それは、
「血の臭いだ」
ということを、小学生の自分が感じることなどできないはずだと思ったのに、大学生になってその場所まで来た時、ハッキリと、その鉄分を含んだ臭いがしたわけではないのに、いきなり。
「ああ、血の臭いだ」
と、一足飛びに感じたのだった。
なぜ、こんな感覚になったのかというと、やはり小学生の時の記憶がよみがえってきたからなのかも知れない。
ただ、ハッキリ言えるのは、
「今までに、自分の血以外に見たことがない」
という記憶だった。
自分の血であれば、今までに何度か見てしまったという意識があるが、他人の血を見れば、たぶん、ゾッとしてしまって、震えが止まらない気がしたからだ。
予防注射を打つ時、前の人が打たれているのを見るだけで、そっとして、身体の震えが止まらなかったくらいだ。
しかも、自分で腕をアルコールで消毒した時の感覚が、実は一番気持ち悪いと思う瞬間であり、最後に腕に針が刺さる時は、それほどでもなかったのだ。
だが、刺された瞬間、いきなり腕に力が入らなくなってしまったのを感じると、
「この瞬間のことを、アルコール消毒の時に想像してしまい、その瞬間、ピークが訪れることで、いつも腕に針が刺さる前から、どういう痛みなのかが想像できることで、意外と刺さった瞬間。そんなに痛いとは思わないのだろう」
と感じるのだった。
血の臭いを感じた時も、そうだったのかも知れない。
かつて、記憶の中にある臭いと、実際の臭いがリンクすることで、痛みを勝手に想像させるのだろう。
だが、美穂は今までだって、手術をしたり、大きなけがをしたということもなかったはずだ。
ましてや、児童の頃までというと、意識に残るようなそんな感覚があるわけもない。それを思うと、
「この地の臭いの意識はどこからくるのだろう?」
ということであった。
「記憶というよりも、意識に近いのかも知れない」
というのを感じた。
記憶と意識というものは、
「記憶が、遠い過去にあり、封印されているものを一度ほどいて、そこから、意識できる形に戻すことで、思い出すという感覚になるのではないか?」
と思っていた。
ただ、記憶というのは、あくまでも、
「封印されている」
というものでしかない。
つまりは、
「記憶の格納されている場所は、時系列できれいに並んでいるものではない」
と言えるのではないだろうか。
つまり、それだけ、記憶として格納されているものを感じるためには、
「記憶という形に戻す必要がある」
ということである。
ただ、記憶を意識に戻すスペースは、ある程度限界があるとはいえ、
「記憶を呼び起こした」
という気持ちになれるほどの、ある程度のスペースと、
「遠い記憶として、意識できるだけの、整然とした序列を持つ必要があるだろう。ただ、時系列だけは、そうはいかないもので、そのせいで、辻褄が合っていないような記憶の蘇り方をすることがある」
と感じていた。
つまり、
「記憶の引き出しという意識がある程度広くなければ、記憶を意識として復活させることはできないであろう」
と言えるのではないだろうか。
ただ、夢というものと、
「過去の記憶」
というものを、混乱してしまうことがある。
ただ、夢というのは、
「過去の記憶を思い出すために使われる」
と言われることもあるようで、だからこそ、
「目が覚めるにしたがって、忘れていく」
と考えれば、納得のいくこともあるだろう。
「夢を見た時、覚えている夢と忘れてしまう夢」
この違いを、
「怖い夢と、そうでもない夢」
という括りで思っていたが、それはあくまでも、
「覚えている夢のほとんどが怖い夢であり、しかも、もう一人の自分という恐怖の存在を思わせる」
という感覚になることで、自分が納得できるものに、都合よく変えているのではないかと思ったのだ。
だが、
「過去の記憶を意識として思い出す時に、夢を使うことがある」
と思うと、理屈としては分からなくもない。
いったん、記憶の封印を解いた時点で、まずは、
「その日に見るはずの夢」
というスペースに、その記憶が置かれるのではないか?
という考えである。
その日に見るはずの夢が、そこにまだ格納されていなければ、
「夢の候補」
として、優先的に見ることになるのだ、
夢は、いくつかの意識の中から、
「予約のような形で格納される」
と考えると、
「格納した場所に何もなかった」
と思えば、その日、夢を見ていなかったといえるのではないだろうか?
そう考えると、
「夢を見ていない時の方が多いのではないだろうか?」
と考えられる。
一時期、いや今でも、
「夢というのは、毎日のように見ていて、目が覚める時に、忘れるか忘れないかで、記憶されているかが決まるだけのことである」
と思っている。
ただ、最近になって、
「夢の予約」
というような考えが浮かんでくることで、自分が、見ている夢と、実は自分自身で無意識のうちに、
「コントロールしているのではないか?」
と感じるようになったのだ。
それを考えると、
「過去の記憶と、意識、さらに、そこに夢が絡んでくる」
ということで、何か自分の意識の中にある考えに結びついてくるのを感じた。
「そうだ、三すくみという考え方だ」
と感じた。
それぞれを抑止する考え方で、片方だけを意識しているわけにはいかず、必ず、正対する二つを監視しておかなければいけない。そして、迂闊にも自分から手を出すことになってしまうと、間違いなく、襲い掛かった相手を抹殺できるかも知れないが、同じ瞬間に、自分も抹殺さえることになり、この三すくみというのは、
「動いた瞬間、すべてがなくなってしまう」
ということになるであろう。
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