第2話 小説執筆
大学祭の時に、いくつかある文芸サークルで、ほとんどのサークルが、
「機関紙」
のようなものを発行し、部員が皆オリジナル作品を載せていた。
内容は、ミステリーやホラー、SFに恋愛小説と、多岐にわたっていたのだ。
美穂は、その中で、オカルト系の小説に興味を持った。
まるで、昔テレビであった、
「奇妙な物語」
シリーズの短編を一時間番組で数本放送していたような感じだった。
「こんな小説、書けるようになれば楽しいだろうな」
と思って雑誌を手に取って見ていると、
「興味ありますか?」
といって、部員の女性が話しかけてくれた。
それまで、同性とあまり話をしたことがなかったので、戸惑っていると、
「この人は引っ込み思案な人なんだ」
と思った相手は。必要以上に話をしてこなかったが、やたら、
「興味があるのかどうなのか?」
ということが気になるようで、何度か聞き直していたのだった。
「ええ、私にも書けると楽しいだろうなと思いました」
と正直に答えると、
「そうでしょう?」
といって、とたんに前のめりになる。
「そうだと思っていました」
と相手がいうので、
「どうして分かったんです?」
と聞き返すと、
「あなたの表情を見ていると、その真剣な目線が紙に何かが乗り移ったかのように見えて、次第に姿勢が前傾姿勢になってくるのを感じたんです。真横から見てると、特に感じましたよ」
というではないか。
「女性の直感というのは、こんなにも鋭いものなんだろうか?」
と感じるようになっていた。
特に今まで、異性との付き合いは多かったが、同性の友達はほとんどいなかった。
「ひょっとすると、同性から、自分が異性のように見られ、どこか警戒のまなざしで見られていたのかも知れない」
と感じるほどであった。
同性が異性のように感じられるようになると、特に女性を見ていて、
「まるで鏡に写った自分を見ているような気がする」
と思ったことで、
「同性と付き合うのは怖い」
と思っていたのは、
「自分というものを見つめることが怖いのだ」
という感情に至ったからではないだろうか?
そんなことを感じていると、気になって入った文芸サークルのエリアで声をかけてきた女性を見ても、まるで、
「鏡に写った自分」
という意識がなかったのが不思議だったのだ。
「いきなり声をかけてきた相手」
だったからなのか、それとも、
「同性でありながら、性別意識を感じさせなかったかなのか」
美穂にとって、不思議な出会いだった。
しかし、その理由というのがおぼろげに分かってきた。
というのが、その人をすぐに尊敬するようになったからである。
尊敬というものは、
「自分にできないと思っていることを、軽々とできる人だ」
というのが定義になると思っている。
もちろん、その程度にもよるのだろうが、
特に、興味を持ち始めた小説を、いとも簡単に書けると思っている相手だからであった。
そもそも、小説というものは、
「私には、絶対にできないことだ」
と感じていることであった。
だから、余計に、できるというだけで尊敬に値するものだった。
しかも、その尊敬に値する人から、声を掛けられた。きっとあの時の衝撃は、そういうことだったのだろう。
小説というものを書くというのは、結構大変だと聞いた。
まずは、構想を練ることであり、そのために、プロットと呼ばれる、一種の、
「設計図」
を書くことが先決であった。
ただ、書き始めで、素人であれば、そう簡単に書けるものではない。書こうと思っても。最初の構想が中途半端であれば、書けないというものだ。
それでも、何とかプロットを書き上げるのだが、その時も、
「どこまで落とすか?」
ということが問題であった。
実際に、プロットを完璧に書いてしまうと、本文を書こうとすると、なかなかうまくいかないということもあるようだ。
その理由にもいくつかあるが、一つとして、
「プロットを努力して完成させたことで、安心してしまい、本文に集中できない」
ということがあり、もう一つとして、
「完璧すぎて、それを文章に起こす時、どんな言葉を使えば、プロットがブレずに済むか?」
ということも考えられる。
「つまりは、プロットというものが、小説執筆の中心になっている」
ということであった。
だから最初は、プロットに起こすことなく書いていたが。次第に、
「プロットが大切だ」
と思うようになったのは、それだけ、
「執筆中というものが、自分を妄想の世界に連れていくものだ」
と感じた一つの要因でもあった。
だから、小説を書いている時は、別の世界が広がっていて、その世界に入りこんでいる。
その世界において、感じたことは、次に小説を書こうとすると、その間に、広がった、
「俗世間」
というものが邪魔をするので、
「前に書いていた時の感覚を覚えていない」
ということが多かったりする。
それを考えると、
「前にも、似たようなことを感じたことが結構あった気がするな。しかも、一度ではなく、何度でもなんだけどな」
と感じるのだ。
ちょっと考えると、それが何だったのかを思い出すことができ、比較的難しい感覚ではないことで、思わず、自分で笑ってしまいそうになるのを、意識してしまうのだった。
「ああ、夢の世界のことか?」
と感じるのだが、
「確かに夢の世界というのも、目が覚めながら、忘れていってしまうところがあるんだよな」
と思うと、
「夢を見たのか見なかったのか?」
ということすら分からなくなってしまう自分を不思議に感じるのだろう。
それが小説を書いていて、小説世界に入りこんでしまい、こちらの世界に戻ってくる時に。次第にその内容を忘れてしまうという意味では似ているだろう。
しかし、小説の世界では、夢の世界と違って、
「現実に引き戻される時、夢であれば、次第に忘れる感覚があるのだが、小説の場合は、それを意識しない」
ということであり、
「そのため、また執筆しようと考えた時、前の内容を覚えていないことが自分の中で、不思議に思えることだという考えがなく、ただ、焦りしか残らない」
というものであった。
だから、
「プロットが大切だ」
というよりも、
「書きながら、書いている内容を箇条書きでもいいから、残しておく方が、次回また、頭から小説の内容が消えていたとしても、自分の中で考えて書いている以上、完全に抜けてしまうわけではない」
ということで、
「小説を書くことに何も、法則のようなものはなく、別にプロットのようなものがなくても書くことができるという人は、プロットなしで書けばいいのだ」
ということであった。
小説に興味があるのかということで声をかけてくれた人は、当時の部長をしている人で、
「どうして私に声をかけてくれたんですか?」
と再度聞いてみると、
「まるで昔の自分があんな感じだったんだろうなって思うと、声を掛けたくなったんですよ」
といってくれた。
それを聴いて、美穂は満足した。
いや、満足というよりも、
「スッキリした」
といった方がいいかも知れない。
モヤモヤしたものがあったわけではないか、それよりも、単純に、
「知りたい」
という思いだった。
思春期の後の感情に近いものがあるということを感じると、
「やっぱり、このサークルに入ってよかったな」
と感じたのだ。
そして、同時に、
「何かを作るということが、私にとって、至高の悦びとなるんだ」
と感じたのだった。
毎日というものが、それだけでまったく違った長さに感じられ、
「あっという間に過ぎてしまった」
ということを感じるのだった。
書いていた小説に、
「花が咲く」
ということはなかった。
実際に、少しは、
「何かの新人賞にでも、入賞してくれれば」
という思いはあった。
もちろん、そこから、
「プロになる」
という思いがあったわけではない。
というのも、プロになるというのが、どういうことなのかということを、自分なりに分かっているつもりだったからだ。
まず、プロになるということは、
「出版社と、契約するか?」
あるいは、
「フリーの作家としてやっていくか?」
ということになる。
出版社と契約するということは、出版社の決めた企画に沿ったものでなければならない。いくら自分が書きたい作品があっても、それに沿っていなければ、ボツにされ、下手をすれば、二度と原稿要請がないという、いわゆる、
「飼い殺し」
のようになってしまうかも知れない。
フリー作家になれば、企画も自分で考えて、それを持ち込む形になる。
きっとこちらの方が難しいのではないだろうか?
どちらにしても、
「主導は出版社であり、作家の意見や考えは二の次だ」
ということだ。
それは当たり前のことである。お金を出すのは、出版社。作家は、
「雇われている」
というだけだからである。
作家にももちろん、
「得手不得手」
あるいは、
「好き嫌い」
だってあるだろう。
好き嫌いがそのまま、得手不得手につながる場合だってあり、特に小説を書くというのは、デリケートな作業であり、創作という、
「ものを生み出す」
という難しい仕事である。
それを、型に嵌めてしまうと、
「できる人、できない人」
に別れるだろう。
もちろん、できない人は、そこで、
「プロとしては失格」
という烙印を押されてしまう。
新人賞受賞には、自分の得意なところを自分で選んで応募すればいいわけで、たくさんの新人賞があり、どこが自分の作品にふさわしいかということを研究すればいいわけで、入賞できるかできないかは別にして、その時点では、
「作家主導」
なのである。
しかし、受賞して、出版社と契約をしてしまうと、後は、出版社の意向に沿わなければ、切られてしまっても、それは当たり前のことである。
これは一般の会社だってそうだろう。入社試験、そして面接を経て、入社ということになるが、あくまでも、
「その会社の仕事を一社員として、遂行する」
という契約なのだから、
「俺はそんな仕事をしたくない」
といってしまうと、あっという間に首になるか、左遷されるかになるだろう。
「子供がいて、学校を変わらないといけないから、転勤ができない」
といっても、解雇の理由になる。
ほとんどの会社は、
「就業規則」
というものがあり、それに従わない社員は、解雇できるということになる。
出版社と恵沢する作家はある意味、
「契約社員」
というような形であり、それだって、就業規則があるのだから、趣旨にそぐわない作家は切られたり、干されたりしても、文句はいえないのだ。
だから、小説家というものになろうと思わず、
「自分の作品を、書ける時に書く」
というスタンスで行こうと思うようになった。
そして、その作品が、
「いずれ、一冊でいいから、本として出せればいいな」
と思うようになっていた。
そういえば、昔、
「自費出版社系の会社」
というものがあり、それが、
「詐欺商法だった」
という事件があったのを覚えている。
まだ、自分が小さかった頃だったと思うが、何となく、そういう事件があったという意識だけが残っているが、意識として残っているのは、小説を書きたいと思い、書けるようになって、誰もが思う。
「小説家になりたい」
あるいは、
「本を出したい」
という思いに至った時、
「どうすればいいか?」
ということを、ネットでググってみたことで出てきたものだった。
「ああ、これはひどいな」
とも思ったが、よくよく調べてみると、
「いかにも、詐欺だ」
という臭いがプンプンしていた。
そもそも、やり方が自転車操業で、
「どこまでが本当にできることなのか?」
と疑いたくなるものだった。
どうやら、
「送付された原稿を漏れなく読んで、批評を返すということが、作家にとって、暖かさと信憑性を感じた」
ということであろう。
それまでの出版社には、持ち込み原稿というのは、そのまま、
「ゴミ箱にポイ」
というのが、当たり前だった。
しかし、自費出版社系の会社は、必ず読む。なぜなら、読んだうえで、その本を出版するための、費用の見積もりをしないといけないからだ。
しかも、その見積もりというのは、出版社の利益分、そして自転車操業における経費すべてを含めたところで、作家に出させるというものだったからだ。
見積もりにある定価というのは、原価や経費を含めたところから算出したものではなく、あくまでも、
「これ以上の値段にすると、そもそも、誰も買わないだろう」
というギリギリの線である。
どうせ売れるはずのないものではあるが、消費者センターなどに引っかかればまずいので価格は、正当な値段にしておかなければならない。
つまりは、本当は定価2,000円で売らないと、元が取れないものを、定価1,000で売ろうとする。そうなると、作家に対して、すべての経費をすべてだと、契約に違反することになるのっで、せめて、一冊1,500円負担でお願いしようということになるのだろう。
しかし、これだって、経済学の理論からいけば、それだけで、詐欺である。
次第に、この自転車操業の補填をさせているというカラクリに気づいた本を出した人たちが、訴え出たので、出版社に勝ち目はないのだ。
そもそも、
「出版社が、このやり方で、本当に長くできると思っていたのだろうか?」
というのも疑問である。
何事も、
「辞め時が肝心」
という言葉を聞いたことがある。
言い方は悪いが、
「逃げるが勝ち」
ということであろうか?
これは、戦争などでも、いえることである。
特に、大日本帝国のような、
「国土が狭く、資源に乏しい小国」
ともなれば、
「相手を完全に粉砕する」
であったり、
「侵略して、占領する」
などという戦い方はそもそもできるはずがないのだ。
領土を広めるというのは、あくまでも、
「戦況を有利に進める」
ということが目的なのだ。
つまり、大日本帝国が戦争をする場合に、唯一といってもいい勝ち方というのは、
「負けない方法」
といってもいいだろう。
「最初に、相手の主要基地に対して、先制攻撃をかましておいて、相手に、かなりの打撃を与えたり、作戦行動がしばらくの間できないようにしておいて、その間に、領土を拡大し、相手が、戦意を喪失してきたところ、タイミングを見計らって、どこかの国に仲介を頼むことで、講和を申し込み、自分たちに有利な条件で、講和を結ぶ」
という方法しかないのであった。
日露戦争の時は、戦争に協力してくれる同盟国として、イギリスがいて、さらに、講和の仲介を、アメリカにお願いできたのだが、大東亜戦争では、その米英が敵であった。
しかも、すでに時遅しの状態で仲介をお願いしようとした国が、ロシアの後継国である、
「ソ連」
というのも、歴史の悪戯であろうか?
特に、20世紀初頭に起こった、2度の世界大戦など、
「昨日の敵は今日の友」
とでいうように、敵味方が入り混じってしまっていたという、
「カオスな時代だった」
といってもいいだろう。
そもそも、大東亜戦争では、せっかく、出鼻をくじけたにも関わらず、講和に持ち込むことをせず、結局、そのまま、戦争を遂行しようと考えたこと自体が、間違いだったのだ。
「勝ちすぎた」
ということなのであろうが、
そもそも、戦争において、資源もないくせに、占領地が広くなりすぎて、戦線が伸び切り、補給だってままならない状態え、占領地を確保しなければならないということは、
「軍人」
としては、いささかお粗末な考えである。
戦国時代の戦であっても、
「絶対にやってはいけないこと」
ということで、たえず、自分の方を有利に戦を継続させるということを考えていた、戦国武将の方が、よほどしっかりしているということだろう。
しかも、どんどん、戦争は近代戦に持ち込まれているにも関わらず、まったくその有利性を考えようとしないのは、自殺行為だといってもいいだろう。
「戦線が伸び切れば、補給がままならないこと。占領地が増えれば、捕虜をたくさん抱えなければいけないということ」
それらが、戦争継続にどれほどの足かせになっていくのということが、どうして分からないのだろうか?
「特に海軍も陸軍も頭が硬いというのか。どちらも、昔の旧態依然とした戦い方を、まるで、武士道とでも思って勘違いしているのか、戦争継続などできるはずがない」
と言えるだろう。
サークルで小説を書いていると、いろいろなジャンルに挑戦してみたくなる。
本当は書いてみたいのだが、最初から、
「私には無理だ」
と思うのが、ミステリー系であった。
理論詰めて書かないといけないという感覚があるのか、最初から敬遠してしまった。それよりも、漠然とした感覚で、
「最後の数行で、面白いと思うような作品が書ければいいんだろうな」
というものを目指すようになったのは、今まで読んできた本の中でも、
「大人の作品」
と思えるところからだった。
とにかく文章表現が巧みで、そこに、リズミカルでスピーディさが溢れていることから、読んでいて、まったく疲れる感じがしない。
美穂は、
「自分で小説を書きたい」
と思っているくせに、本来なら、他人の作風などを研究するものではないかと思うのだろうに、他の人の作品を読もうとはしないのだった。
というのは、もちろん、
「面倒くさい」
というのもある。
ぶっちゃけ、子供の頃など、活字が億劫で、セリフ以外のところを読み飛ばして見ていたりしたくらいだった。
ギャグマンガなどで、内科文章を読んでいて、
「漢字を飛ばして読んでいる」
とでもいうような感じであった。
そんな人間が、数年経ってから、小説を書きたいと思うのである。そのための最低限のマナーとして、小説というものに向き合う前に、勉強としては、ハウツー本を読んだり、人の作品を読んで、自分なりに研究をするというのも、よくあることではないだろうか?
美穂は、そんな、
「奇妙な話を書けるようになると、まず自分の中で、それまでにため込んでいたアイデアを、ノートに書く殴った。
結構な分量であったが、まだ、プロットに起こして書けるくらいの技量はなかった。
普通のサークルであれば、
「ちゃんとプロットを作って」
というくらいに、プロット談義、あるいは教室のような感じで、人それぞれの工夫を発表し合うというような感じになっていることもあったようだ。
だから、
「漠然とした内容として描くことができる奇妙な物語系」
の作品を目指したのだった。
だいぶ慣れてくると、プロットも書いてみることにした。
そもそも、プロットには法則などないのだ。自分さえ分かり、他の人に分からなくてもそれでいい、ただ、プロ作家などで、プロットが企画としての資料になるのだとすれば、編集者がその形式を決めてくるだろう。
そして、出版社がOKを出さないと、作品として完成されることはない。
だから、プロットを描いた時点で、ある程度の構想が練られていたとしても、
「ボツ」
と言われてしまうと、それ以上はない。
よほど編集者を納得させられるだけの意見を持っていなければ、一小説家としては、どうしようもない。
表向きは、
「先生」
といっておだてられているが、本当に主導権を持っているのは、出版社だ。
「何しろ、こっちは金を貰っている身」
ということで、本当に雁字搦めといってもいい。
「作品が完成するまで、ホテルで缶詰め状態」
というのは、昔からドラマでも描かれているところであり、
「今も昔も変わらない」
という意味では、
「ブラック企業なるものも、昔にも普通に存在したのではないだろうか?」
とも思えるのだった。
ただ、ブラックをブラックと思わない、バブルの時代、本当に、
「24時間戦えますか?」
という時代だったのだ。
小説を書き始めるようになって、どうしても短編しか書けなかった。読んでいた小説が、どうしても、
「奇妙なお話:
だっただけに、短編が多いので、それはしょうがないことだった。
だが、そのうちに、推理小説がどうしても気になるので、
「長編小説を読んでみたい」
と思うようになった。
ただ、美穂は、最近のミステリーや推理小説は好きになれなかった。どちらかというと、昔の小説で、今とは、
「時代が違う」
と言われるようなそんな小説を読みたいと思うようになったのだった。
いわゆる、
「探偵小説」
と呼ばれるジャンルで、元々、ヨーロッパで始まったジャンルであり、シャーロックホームズものだったりポアロものであったりが、有名なところであった。
日本に入ってきてからは、大正時代あたりからの、いわゆる、
「黎明期」
と呼ばれた時代であったが、当時の時代背景が混迷期だったこともあり、どうしても、暗い作品が多かった。
しかし、今のように、
「作られた暗さ」
というわけではなく、実際に暗いと言われる時代背景から、本格探偵小説や、変格と呼ばれる探偵小説が生まれたりしていた。
本格というのは、トリックや物語性を生かした、謎解きに特化するような探偵小説であり、変格というのは、精神的に病んでいる人間が起こす、猟奇的な犯罪であったり、人の心の奥に潜む異常性癖が、犯罪に絡んでくるというものであった。
その例として、SM系であったり、耽美主義であったりなどというものが、探偵小説に絡んでくるのであった。
探偵小説というのが、長さから考えるとすれば、
「本格探偵小説に、長編小説が多く、変格探偵小説と呼ばれるものに、短編が多いという感じがする」
ということであった。
あくまでも、個人の意見であって、言い切れるわけではないが、
「本格探偵小説に、長編が多い」
というのは、
「トリックや、ストーリー性を生かした謎解き」
という定義から考えて、どうしても、連続殺人が多くなったり、いろいろな伏線であったり、捜査における叙述的なところがあったりするからではないだろうか?
探偵小説でトリックなどを駆使するとなると、どうしても、読者を真相から遠ざけるような筆者による伏線が必要だったりする。それが、叙述と言われるもので、
「作者による、読者に対してのトラップ」
といってもいいだろう。
ただ、これは、今の時代のように、
「トリックがほとんど、出尽くしてしまった」
ということであったり、逆に、
「科学の発展とともに、今までは使えたトリックが通用しなくなった」
ということが、大きいのであった。
特に、アリバイトリックや、死体損壊トリックなどがそうであろう。
アリバイトリックは、科学の発展というだけでなく、世情の変化、それこそ犯罪の多様化などによって一気に普及したものによって、そのトリックが阻まれるようになってきたのだ。
いわゆる、防犯カメラや、ドライブレコーダーなどの普及である。
防犯カメラというのは、街角での通り魔的な犯罪などの抑止という意味でも大きいが、犯罪に関係のないところでも、
「ネットのサービス」
としての、いわゆる、
「ライブカメラ」
というものが、普及してきたことで、街の至るところが、撮影されるようになってきたのだ。
しかし、これが、
「よく大きな問題にならなかった」
という発想もある、
確かに、犯罪の抑止という意味では、重要なことなのかも知れないが、それ以上に、ここ、20年くらいの間に急速に言われるようになったこととして、法律でも規制のある、
「個人情報保護」
というものが、よく問題にならなかったというものである。
ひょっとして、問題にはなったのだが、知らなかっただけなのかも知れないし、それ以上に、やはり、防犯ということの方が比重が思いと判断されたのだろうか?
街の至るところに防犯カメラ、ライブカメラなるものが設置してあると、犯人の特徴がバレバレである。顔を隠していたとしても、大体の特徴で分かってしまうものだ。どんなにアリバイを作ったとしても、映像ということになれば、
「動かぬ証拠だ」
ということになるだろう。
それを考えると、
「個人情報保護」
という観点よりも、犯罪の防止の方が大切であろう。
そういう意味で、警察や当局では、特に、
「守秘義務」
ということが余計に大切になってくる。
犯罪捜査のために、
「犯罪とは関係のない、他人のプライバシーを犠牲にするわけなので、犯罪捜査上知りえたそれらの個人情報は、よほどの犯罪に抵触しない限りは、口外してはいけない」
ということであろう。
それが守られないということになっれば、警察というものへの信頼は失墜してしまい、
「治安国家」
としての立場がなくなるということであろう。
特に今の時代は、昔と違って、
「民主主義の時代」
である。
基本的人権という、自由と平等は、永久的に個人として守られるというのが、モットーではないだろうか。
それができるのは、平和国家というものが守られているからで、昔の大日本帝国との決定的な違いとしては、
「有事の際には、自由がある程度制限されてしまう」
ということだからである。
これは、
「戒厳令」
とも似たもので、天皇が発した、各戦争における、
「宣戦布告の詔」
を見ればよく分かるというものだ。
宣戦布告の詔というのは、
「戦争において、まず、万世一系の天皇が、日本国を代表して、敵国に宣戦を布告したということを述べて、天皇直轄の軍部、さらに、戦争遂行のために一丸となる普段は、国民と言われている、臣民たちに対して、最優先で宣旨に当たってほしいということを述べる。そして、その後で、なぜ、戦争をしないといけないのか? ということを述べている」
というのが、宣戦布告の条文ともいうべき、詔である。
つまりは、当時の日本人は、戦争に当たって、一致団結して、勝利に邁進するというのが、大日本帝国というところの、
「臣民」
と言われるものだった。
つまり、今の日本は、
「立憲民主制」
であり、
大日本帝国では、
「立憲君主制」
だったという違いなのであった。
美穂は、そんな立憲君主制の時代を挟んだ、戦前、戦後と呼ばれるそれぞれの時代の探偵小説を読むのが好きだったのだ。
それぞれの時代で違いはあるだろうが、問題は、戦時中を挟んでいるということである。
とにかく、戦時中というのは、何をおいても戦争遂行のために、自由すら制限されるという時代だったので、探偵小説のような、俗世間的な小説は、悪書ということで、廃刊になったら、
「書いてはいけない」
ということになった。
戦争が激化してきて、長期化してくると、
「敵国のものはすべてダメ」
ということで、言葉に外国語が入るものですら、禁止になったほどである。
今から考えれば、
「英語を話さないといって、戦争に勝てるわけではないではないか」
と、実にバカバカしく思えたのだろう。
しかし、これは大まじめなことである。
「戦時中は、気の緩みというものが、大きな弊害となる場合がある」
ということだ。
特に、誰か一人でも、戦争反対ということを言い出して、もし、それに対して何ら対策も打たない自由国家であれば、あっという間に戦争反対運動が巻き起こり、戦争遂行どころではなくなってしまい、内部から、国家が崩壊してしまいかねない。
そうなると、外敵は、一気に襲い掛かって、あっという間に国が占領されてしまうことになるだろう。
そうなると、植民地となるか、少なくとも占領という憂き目に遭い、国民は、全員捕虜という形になってしまう。そうなると、反戦運動どころではなくなるのだ。
そうならないための、戦争であったのに、占領されてしまえば、本末転倒もいいところだといえるのではないだろうか。
だからこそ、
「戦争を初めてしまえば、まずは、勝利することだけしか考えてはいけない」
ということになる。
だったら、
「反戦という考え」
は、
「国家を一つにして、外敵と戦う」
という趣旨に逆らうことになる。
そうなると、反戦運動を行っている人達だけではなく、戦争に邁進し、それが正しいと思っている人たちまで巻き込んで、国家が占領されるということで、国民全員が、捕虜となるのだ。
今の時代の企業であっても、そうではないか。
「きれいごとばかりを言っていても、結果は、会社が倒産してしまっては、本末転倒であり、従業員はおろか、一歩間違うと関連会社、関連取引先まで巻き込んで、すべての家族が路頭に迷うことになる」
というものである。
だから、少々のことであれば、法律に抵触しないことであれば、企業が生き残るために必死になって、社員が一丸となるという状況とどこが違うというのだろうか?
国家においても同じことで、
「せっかく、国がよくなるために、戦争をしているのに、それをいまさら戦争反対だなんて、国家を滅亡させる帰化?」
といって、反戦を唱える人を攻撃するというのは、彼らとすれば、当たり前のことではないのだあろうか?
それが、日本という国の、当時の体制であり、
「今とは時代が違う」
ということである。
だから、あの時代が、
「間違っていた」
と、ハッキリといってもいいのだろうか?
もし、今後、日本が戦争に巻き込まれたり、巻き込まれそうになっているのだとすれば、今の憲法のある、第九条で、自衛隊を承認する条文を入れるくらいでは、中途半端ではないだろうか?
戦時になった場合のことを細かく規定するようなものがなければ、結局国民は何をしていいのか分からず、混乱するだけである。
そういう意味で、
「平和国家を貫くというのであれば、憲法改正をする必要はなく、もし、今後未来において、有事を想定するのであれば、中途半端なことはできない」
と言えるのではないだろうか?
美穂は、当時の探偵小説を読んだり、当時の時代背景を、明治維新あたりから勉強していくと、そう思えてならなかったのだ。
そんな壮大な時代の違いを勉強しながら、探偵小説に親しむようになってくると、
「やはり、自分も探偵小説を書いてみたい」
と感じるようになってきた。
もちろん、戦前戦後という時代の話を書けるということはないのだが、それでも、叙述的なトリックを使った小説は、元から書きたいと思っていたので、大学で書いている時、どこまで書けるかということを考えるのも、楽しいことであった。
何作品か書いてみたが、果たして、自分が書きたいと思っていたようなものが描けたかどうかわからないが、少なくとも、
「書き上げることができた」
ということは満足に値するものだったのである。
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