royale
パリの街は、今日も雨だ。
いつになったら、晴れるのだろう。
透明なガラスの向こうから、僕はまた、空を見上げた。プチ・ブルボン宮の、小さな窓から。
本番が近くなったので、バレリーノは宮殿に籠って、最後の調整をしている。僕も決して例外ではなくて、客間の隅を陣取って、脚を上げる練習をしていた。
姿勢を正して、つま先を放る。
un, deux, trois. un, deux, trois.
上げて、下げて。また、上げて。
……そんなことを、している時だった。
急にどんどんどんと、扉を叩かれたのは。
「失礼。この扉、開けてはくれないか」
急ぎなのだ、開けてくれ。凛と澄んだその声を、僕は何度も聞いたことがあった。だから僕は、慌てて銀のノブを捻る。
──その途端、国王陛下が転がり込んできた。まるで、無邪気な子犬のように。
「ああ、助かった。君の部屋で、本当に、良かった」
途切れ途切れに、陛下は言った。相当急いでいたようで、はぁはぁと肩で息をしている。
一つ、廊下を走ってはいけません。
一つ、髪を乱してはいけません。
一つ、息を切らしてはいけません。
陛下は王宮での約束事を、ほとんど破っているみたいだ。フランス国王であるLouis ⅩⅣが、お決まり事を全く守っていない。
僕はもう、何が何だか分からなくて、しばらく呆然としてしまった。
「礼を言う。少しの間で構わないから、ここに居させてはくれないか」
──ああ、やってしまったよ。Mazarinに呼び出されたが、逃げてしまった。私とて、自主練習の時間が欲しいのだ。
陛下は一気にそう言って、ふぅと大きく息を吐いた。肩に掛かった細い髪が、顔の周りでさらさら揺れる。
「君は、練習中だったか。邪魔してしまったな」
「いえ、そんなこと……」
「いや、邪魔をした。君が練習熱心であることぐらい、私には容易に分かるからな」
陛下は「あはははは」と笑った。声を上げて、面白そうに。
こんな陛下、僕は見たことない。
いいや、フランス中の誰だって、こんな陛下を見たことない。
「して、Yvesよ。この前のステップは、理解できたか?」
「はい。まだ、あの踏み込みには、慣れませんが……」
「良い、良い。君は飲み込みが早いから、じきに出来るようになる」
ぽろぽろとそんな話をしていたが、追っ手にバレては元も子もないということで、僕たちはじきに黙りこくった。
手持ち無沙汰になった陛下は、自分の太ももをいじり始める。治りかけの痛々しいかさぶたを、爪の先でぴんと弾いた。
フランスの国王陛下でも、脚にかさぶたができるんだ。そんな当たり前の考えが、ぼんやりと頭に浮かんだ。
「……痛く、ないのですか」
「ああ。こうしていると、落ち着くのだ」
かり。かり。
丁寧なようで、どうでも良い風に。陛下は傷をいじくり回す。
そうやって、あまりに引っ掻いているので、そのうち「つぅ」と、赤い血が垂れた。
「おっと」
ソックスに血が付きそうになって、陛下はさっと端をめくる。白く、美しいはずの御御足。そこには、無数の切り傷があった。
それを見てしまった、僕は。思わず心がざわついた。
──あれは一体、なんの傷だろう。
どこかで転んだのだろうか。それとも、誰かにやられたのだろうか。
ひょっとして、……自分でつけたのだろうか。
いや、理由なんか、分からない。僕なんかに、分かる訳がない。
でも、傷を隠すために、あえて厚いソックスを履いているのなら。……こんな悲しいことが、あっていいのだろうか。
「良いか、Yves。ここでのことは、内緒だぞ」
「はい……、もちろんです」
僕の返事を聞いて、陛下は安堵の表情を浮かべた。それはまるで、人に懐いた子猫のようだった。
「では、よしなに」
陛下は優しい笑みを浮かべて、扉の隙間から廊下を見る。そして追っ手が居ないことを確認すると、軽やかな足取りで駆け出した。
陛下の小さな背中を見て、僕は思った。
僕はただ、バレエをしているだけでいい。踊っているだけで褒められるし、踊らなくなった時のことなんて、考えたこともなかった。
でも陛下は、踊っているだけでは許されない。フランス中の誰だって、そんなことを望んじゃいない。陛下がただの踊り子になってしまったら、彼は彼じゃなくなってしまう。
それなら、彼は。一体何のために、踊り明かしているのだろう。
あんなに儚そうな顔をして。
白い腕を光の方へ伸ばして。
だから、僕は。誰にも頼まれていないのに。
陛下の孤独を勝手に感じて、小さく涙を零してしまった。
"Ballet Royal de la Nuit" 中田もな @Nakata-Mona
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