12.必要なのは誰か
時計の針が午前一時に差し掛かる頃だった。スマホの上部に「非通知」と書かれたワイプが出てきて、小刻みにバイブした。ラインの着信ならともかく、今どきスマホの携帯電話の方に着信がかかることなど滅多にない。ましてや非通知。愛華は動揺してしばらくそのまま放っておくことにした。
一分ほど、震えるスマホを落とさないように、でも気味悪い何かを抱えるように指だけで支えていると、バイブは止まり、やがて留守電になった。ワイプに表示された留守電の時間が一秒、また一秒と過ぎていく。愛華のスマホの留守電は、録音中は中身を聞くことが出来ない。だから、ただ、時間が過ぎるのを眺めていた。三十八秒に切り替わるか切り替わらないかのあたりで、電話は切れて、ワイプも消えた。そして動画の続きが再生され始めた。
一体なんなんだろう。
好奇心に駆られた愛華は動画を止めて、留守電を聞くことにした。
新着の録音メッセージが一件、そこにはあった。愛華は躊躇なく、その再生ボタンを押した。
――愛華先輩、お久し振りです。突然の連絡、ごめんなさい。最期にお別れを言いたくて、電話してしまいました。僕、先輩に迷惑を掛けてしまって、申し訳なく思ってるんです。僕、どうしようもない馬鹿だから。でももういいんです。馬鹿は馬鹿なりの救済があるって話、覚えてます?だから、僕、いきますね。青山はとても綺麗です。愛華先輩、ありがとうございました。さようなら。
「……」
電話は、
凪は高校の部活が一緒だった一つ下の後輩で、よく面倒を見ていた子だ。見た目やしぐさが可愛らしいものの、少しメンヘラ気質なところがあり、あまり友達のいない子だった。愛華はよく彼の相談に乗って励ましてあげていたのだが、愛華が卒業した後も、彼が大学に入学した後も、彼から愛華への相談が絶えることはなく、そのしつこさはエスカレートしていった。
愛華がそれを友人に相談すると、さっさと縁を切った方がいいということになり、三か月前に凪との連絡をぷっつり切ることにした。ラインだけでなくその他のSNSでも彼のことをブロックすると、凪から連絡が入ることはなくなった。
少し残酷な切り方だったかもしれないと思うものの、あれでよかったと友達に励まされたこともあり、もうすっかり凪のことは忘れていた。
その凪から、今、留守電が入っている。それも、着信拒否にしていた彼のスマホからではなく、非通知から。
愛華は少しの間動くことができなかった。今聞いた言葉を信じることができなかった。
あれは、一種の遺言だ。彼は以前にも似たようなほのめかしをしてきていた。それが嫌で縁を切った。
今日もそうすればいい。無視すればいい。
でも、もし、これが本当だったら……?
心の中にいくつも言葉が浮かんできた。三か月越しにまた……。止めなければ。どうして自分が。きっと本気だ。だって、わざわざ今までしてこなかった非通知での連絡をしてきたのだから。これは彼が本当に死ぬってことだろう。彼は、今どこにいるのだろう。また振り回されるのか。彼はまた馬鹿なことを言っている……。
(凪くん、死なないで。私に――――ないで……。)
そこまで考えて、愛華は頭を振った。そして、留守電の存在を報せる画面から目を背ける。息が浅くなり、喉の奥がねばつく感覚がして、ごくりと一度唾を飲み込んだ。エアコンがよく効いているせいか寒気がして、ぶるりと身を震わせると、愛華は居ても立ってもいられなくなった。
とにかく、行かないと。彼はきっと、死のうとしている。それを止めないといけない。
愛華は強い使命感のようなものに駆られて、部屋着に上着だけを羽織った状態で急いで家を飛び出した。夏の終わりの夜はまだ涼しいとは言えず、走り出した身体を生ぬるい湿気が絡みつくように覆ってすぐに汗ばませる。雑に履いたスニーカーのかかとは折れて違和感で一杯だったが、走りながら地面に叩きつけるようにして適当に直した。
凪は、「青山はとても綺麗です」と言った。この土地の名前にもなっている「青山」は、青山町駅から真北にあるそれなりの高さの山で、駅から街道沿いに真っ直ぐに歩くと有名な登山道に突き当たる。伝説があるとかないとかという話だが、凪の言う通り、青山から見える街並みはとても綺麗で、よく地元の雑誌でも紹介される。
五分ほど走り、ようやく青山町駅に辿り着いた。そのまま人通りが少なくなった駅前を通り過ぎて、シャッターが降りている街道を全速力で駆ける。一秒でも惜しいと思うのに、この気持ちを理解してくれる人はいない。きっと友達に話しても気にし過ぎだと一蹴される。駆け抜ける愛華の周りではわずかなコンビニと一定間隔に置かれた街灯だけが光を放つだけで、街全体は暗く寝静まっていた。
わかってもらえなくてもいい。
愛華は焦る自分を肯定した。
再び五分ほど走ってようやく登山道の入り口に着いた所で一度足を止め、解けたスニーカーの靴紐を結び直す。
ふと視界の右端に白く光る公衆電話が見えた。
「あぁ……」
凪はきっと、ここから電話をしたらしい。
直感でそう思った。
凪は目立ちたがり屋だった。病んだ時もなるべく人目を引こうとした。周りの人に「死ぬよ」と脅したり、「自分は孤独だ」とアピールしたり、自分に注目が集まるように、自分の価値を他人から見出すように、そうしていた。そんなことばかりしているから、結局凪は余計に孤独になっていって、その孤独が彼をより一層暗くさせた。凪は成績がよくて頭もよかったから、きっと自分の行動が自分を孤独に導いていることをわかっているはず。それでもそういう過剰な行為をやめないのは、たぶんそうやって孤独になることで自分が可哀想な人であるというブランド化を図っていた。言い換えたら、それでしか凪は自分に価値を見出せなかった。
だからきっと、今回も彼は、すぐに人の目に付くこの公衆電話から電話したに違いない。
そして、愛華はそんな凪のことを助けたいと思ってしまった。愛華はあくまでそれが善意のつもりだった。
息を整えて、凪が進んだであろう道を考える。彼のことだから、一番目立つところにいるに決まっている。それはきっとこの山の頂上の少し下にある広場だろう。頂上は確かに目立つところだが、この山の頂上は意外となだらかで、スリルがない。だから、それなりの高さの崖がある青山第一広場に彼はいるんだと思われる。自分の死を演じるには最高のステージというわけだ。そして愛華が、それに招かれた悲劇の観客。
愛華は勢いよく地面を蹴って走り出す。それなりの傾斜があってすぐに息があがるが、それでも休んではいられなかった。土が舞って、汗ばんだふくらはぎに張り付く。
ぜぇはぁと暗い山道をスマホの光を頼りに十分ほど進んでいくと、ようやく開けた場所に出た。青山第一公園だ。
見回しても、森とベンチしか目に入らず、そこには誰もいなかった。奥に銀色の柵が、そしてその下に黒い何かがある。走って近づいた瞬間、愛華は息を呑んだ。黒い何かはスポーツシューズだった。綺麗に揃えられて、崖の外を向いている。
愛華はこの靴を知っていた。
崖の下を恐る恐る覗いてみたが、樹々が生い茂っていてよく見えなかった。しかし目を凝らすと、枝が折れているようにも見える。ただ、愛華はそれを「そのせい」だとは信じなかった。
息が浅くなっていくのを感じたが、それは走って疲れているからだけではなかった。
「嫌……」
周りの景色が遠くなって、視界が魚眼レンズから覗いたように歪んだ。風の音が耳鳴りと重なり、周りの音が何も聞こえなくなる。静かなはずなのに、とてもうるさかった。
凪は愛華に自分の死に際を見せたかったはずなのに。愛華に引き留めて欲しかったはずなのに。どうして彼は待たずに行ってしまったのだろう。
頭に次々とハテナが浮かび、思考を埋めていく。
「け、警察……」
愛華のわずかに残っている正気が彼女の口を動かして、今すべきことを確認させた。そして自身のスマホを取り出してダイヤルの「11」を入力したところで、愛華は手を止める。心の中に、こんな考えが浮かんだ。
私に迷惑を掛けないで……。
それは凪からの録音メッセージを聞いた直後に考えないようにしていたことだった。
「嫌だ……」
はっきりと、愛華は口に出していた。愛華はそれまで、親切心から凪の話を聞いてあげていたはずなのに、突然彼のことが嫌になった。彼の行動が酷く鬱陶しいものに感じられた。彼が自分にとってとても重たい荷物のように感じられた。愛華は凪を遠ざけたくなった。
その時、愛華の頭に、麓の公衆電話のことが思い出される。
ああ、そうしよう……。
愛華は今にも固まりそうな左右の足をなんとか動かして、のろのろと山を下りた。誰にも、何も悟られぬように、愛華は山を下りた。
そして、何分経ったかわからないころ、麓のあの白い公衆電話が見えてきた。のそのそと電話ボックスに入り、受話器を取るとそのままぽちぽちと番号を入れる。
すぐに電話が繋がり、女性の声が愛華に尋ねた。それに、
「人が……死んでます。青山第一公園です。靴が揃えてありました」とだけ答えてすぐに電話を切った。
それから愛華はぼうっとしたまま家に帰り、なんだか気持ち悪くて玄関に塩をまいて、シャワーを浴びた。お母さんがトイレに起きて何をしていたのか聞かれたけれど、適当に誤魔化して悟られないようにはにかむ。そうして、ベッドに顔をうずめて、何もなかったことにした。
翌日、愛華は昼過ぎに起きた。ぼさぼさの髪を手櫛で整えながらリビングのテーブルに座ると、お母さんが昼食を置いた。テレビの番組を回していると、あるニュースが目に留まる。メディアは本当に早いものらしい。青山町での自殺のニュースが流れていた。
「嫌ねぇ、青山第一公園ってすぐそこじゃない」
家事をしながら何気なく言うお母さんの言葉に、愛華は何も返事ができなかった。
「亡くなった
淡々と述べるアナウンサーの言葉が耳を通り抜けていく。
愛華は昼食もほどほどにして自分の部屋に戻り、再びベッドに顔をうずめた。
自分のことでも書いているのだろうか、という不安が愛華を襲う。縁を切ったことを、彼は怒っているのだろうか。これは、彼の復讐なのだろうか。
どうすることもできない状況にただただ愛華の脳みそは考察を深めていくばかりだった。そうして、愛華は警察が自分の家を訪ねてくることを待つことにした。
しかし、それから数日が経っても、警察は愛華の家を訪ねてくることはない。そのまま、テレビのニュースでは凪のことも報道されなくなった。
愛華はその間、ずっと凪に心の中で謝り続けている。報いを受けなければと思っていた。でも、その時は一向に訪れることはなかった。
愛華は高校時代の友達に連絡をとることにした。
「あ、もしもし、久し振り」
「おお、愛華、久し振り!どうしたの?」
「あの、凪くんのことなんだけど、覚えてる?」
「あ、凪くんか……大変なことになったよね……」
「何か聞いてない?」
「何かって?」
「その、亡くなった理由とか……。いじめに遭ってたってニュースで言ってたけど……」
「ああ、あれ嘘だよ、嘘。被害妄想」
「……そうなの?」
「私もよく相談されてたんだけど、ありゃもう相当のやつだね。愛華も相談されてたんじゃないの?」
「私は、そうでもない。めっきり連絡切っちゃったから」
「ああ、それがいいよ。私も適当に相手してただけだから。でも、彼、相当な相手に相談してたらしいのよね。まあ、結局、誰も頼れなくなって、耐えられずにって感じみたい」
「そう、なんだ」
「ま、あんま深く考えないことだね。あいつも自業自得だし」
「そっか……」
「あ、ごめん、ちょっと行かないと。また今度話そ!」
「あ、うん……、じゃあね」
流れるような会話で、あまりにもあっさりと事の真相を知らされることになった。
凪は愛華以外にも沢山の人に相談をしていた。凪のことだから、それは予想できることだった。でも、愛華はその事実を考えないようにしていた。愛華は、自分だけが相談されていると信じていた。そう信じていたかった。
なら何故凪は愛華に最後の電話をしたのか。
その疑問が愛華の頭に浮かぶ。
しばらく考えて、愛華は一つの答えに辿り着いた。
最初から、私なんか必要なかったんだ……。
凪は誰かに認められたかった。誰かに自分の存在価値を認めてもらいたかった。しかし、本当に限界で、今回は本当に死ぬつもりだった。それでも、やっぱり自分が死んだことに誰かに気付いてほしいから、誰かを呼んだのだ。
そう、「誰か」を呼んだのだ。凪が求めていたのは、死んだことを認識してくれる「誰か」で、愛華ではなかった。
そしてたまたま、連絡をすれば必ず好意的な反応を示してくれる愛華を選んだ。ただそれだけ。
凪にとって、愛華は大多数の中の一人でしかなかった。
愛華は自分の行きついた答えに愕然とした。そして心の中で凪を軽蔑した。これまで親身になって関わってきたのに自分を蔑ろにする彼が許せなかった。
心の奥底にマグマのように黒く粘り気のある憎悪がたぎるのを感じた。
(何やってんだろ……。)
自分がしてきたことが全て無駄になった気がして、ため息を吐く。愛華は、凪のことを忘れることにした。そうして再びスマホのユーチューブを開く。何事もなかったかのように。
愛華は自分が求めているものが何なのかを、見ようとはしない。見ない方が楽に生きていけるから。そうして、自分と同じはずの人間を憎む。物足りなさの根本を見つめないのは、幸せに生きるため。
そして愛華は、またため息を吐く。
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