9.キャラの深掘り結果と起承転結を文章に落とし込む練習

「店長、今日の確認、終わりました。」

厨房に入ってきた一人のアルバイトが高い声で僕に言う。木曜日のシフトは彼女と、今テーブルの消毒をしてくれている男の子の二人が入ってくれているから、比較的早く片付けが終わる。

「ありがとう。それじゃあ、今日は上がって大丈夫だよ」

「はい、失礼します」

「お疲れ様」

駅から徒歩五分ほどの場所にある「フルール」は、去年の秋から開いている僕の念願のパン屋だ。それまで専門学校やバイトでパン作りに関する知識や経験を増やしてきたものの、経営に関してはまるきりだったため、その方面に強い友人のアドバイスをもらいながら資金調達やら場所の検討やらを行い、やっとの思いで開業に至った。

しかし、最近の物価高の影響でパンの値段を上げざるを得ない状況に追いやられ、それに伴う売れ行きの不調が僕の気持ちをさらに焦らせていた。皆に笑顔を届けるために開きたかったはずのパン屋から人が離れていく。その上、このままでは人件費をまともに払うことも出来なくなってしまう。

奥の方で店の裏口が開く音がした。アルバイトの女の子が帰ったのだろう。

溜息を吐いていると、声を掛けられた。

「どうしたんすか」

「あ、いや、なんでもない」

もう一人のアルバイトが心配そうに僕を見つめていた。僕は苦笑いを浮かべながら「気にしないで、君ももう上がりな」と遠ざけるように言った。

「わかりました、無理、しないでくださいね」

僕は彼に申し訳なくなって、一瞬だけ息を呑んだが、すぐに返事をした。

「ありがとう、お疲れ様」

アルバイトの二人が帰ってしまうと、店からは一切の音がなくなった。駅からは、なんだかんだで距離があるし、線路沿いでもなければ、大通りに面しているわけでもない。住宅街の中にひっそりとあるこの店は、コンクリートの隙間から咲く一輪の花のように、あっても不思議ではないけれど、どこか場違いな雰囲気を感じさせた。

これまでは、思い立ったら即行動。やってみればなんとかなる。そう信じて色々なことに挑戦してきた。実際それで上手くいっていた。しかし、人生は甘い蜜ばかりを吸っていられるばかりではないことを、大人になった今になって思い知る。

このままだと、この店は潰れる。

どうしようもない現実が僕の前に巨大な壁のように立って、行く手を阻んでいた。今更ながら、どうして経営に関してもっと学んでこなかったのだろうと後悔した。閉じられたオーブンの黒い取っ手に反射した電灯の光が、カーブに沿ってだらしなく延びている。また一つ、溜息を吐いた。

コンコンとドアをノックする音が聞こえた。店の正面の方だった。

見ると、ドアの向こうに小学生くらいの少年が立っていた。近づいてドアを開けると、少年は涙目で僕の顔を見上げてくる。よく見ると、頬に擦り傷と青い痣がついていた。

「どうしたの……?」

少年はしばらく黙ったまま僕の顔を見つめると、一瞬目を逸らして鼻を啜り、また、僕の顔を見た。

「パン、ください。」

僕は目を瞬かせながらしばらく固まる。そして我に返ったかのように早口に答えた。

「ご、ごめん、もうお店終わりの時間なんだ」

僕がドアに描かれた閉店時間の表記を指差すと、少年もそれを見る。そして、また鼻を啜り、それから顔をくしゃくしゃにしながら目から大粒の涙をゆっくりこぼした。

僕は声を堪えるようにして泣く少年に戸惑った。

「あ、いや……」

僕が困っていることに気付いたのか、少年は袖でごしごしと目から溢れる涙を拭うと、「ごめんなさい」と言って立ち去ろうとした。とぼとぼと歩いて行こうするその背中が、まるでいじめられた後の子猫のようで、とてもかわいそうに思えた。

僕はどうすればいいか悩み、店の中を見る。すると、カウンターの脇に置かれた余り物のパンが目に入った。

「ねえ、待って!」

呼びかけると、少年は歩みを止めて振り返った。

「これ、あげるよ」

差し出したパンはすっかり冷えていた。それでも、少しでも、力になればと思った。

「いいの……?」

涙を流して腫れぼったくなった目をこすった少年は僕を見上げて尋ねた。その言葉に一瞬でもひるむまいと僕は意地を張る。すんなりと、さりげなく、若干不愛想な感じが混ざってしまったが、それでも自然な感じに、返事をした。

「うん」

上手く、笑えていただろうか。

少年はパンを受け取ると、瞳の奥に輝きを取り戻す。ニパァと花が開くように笑顔になった少年は、僕のことをまっすぐと見つめると、「ありがとう!」と元気に言って走って行った。

事情は、何一つとしてわからないし、何も解決していない。でも、あの笑顔を見ることが出来ただけで、心の奥底から幸せの噴水のように吹き出してくる。温かい。僕は、こういうことがしたかったんだ。僕はしばらくそのまま、少年の姿が見えなくなったあの曲がり角の電柱に付けられた、今にも消えそうになりながらそれでも点いている灯りを見つめていた。

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