8.起承転結を意識する練習
何もかもをやり直せたら、正しい道を選択できるはずなのに。
時を遡ることはありえなくて、今までの選択は消すことが出来ないまま、私は今を生きている。
そう、これはどうしようもできない事実だ。
でも、もし、その事実から目を背けることが出来たら。
私は幸せになれるのだろうか。
花は言った。
「どんな願いも一つだけ叶えてあげる」
花は深い青と紫の光を妖しく放ちながらゆらゆらと揺れている。
私はそれにそっと手を伸ばした。
私の願いは、もう一度、人生をやり直すこと。
小鳥のさえずりが聞こえる。気が付くと私は玄関のドアを握り締めて立っていた。
「どうしたの?」
振り返るといつもより大きなお母さんが立っていて、首をかしげながら私を見ていた。いや、大きいのはお母さんだけではない。下駄箱も、絨毯も大きく見えた。そして全体的に物が高く見える。ふと、玄関に置いてある姿見に目をやると、見慣れない自分の姿が映っていた。
小学校の時の、私だ……。
私は、ランドセルを背負った自分の姿がとても信じられず、しばらく固まったままだった。
「美奈……?」
お母さんが私の肩に手を伸ばす。私は咄嗟にそれを避けてお母さんの顔を見た。
「大丈夫……?」
心配そうな顔をしている。私は頭をフル回転させて答えた。
「だ、大丈夫。いってきます。」
ああ、声まで幼くなっている。
私は可愛らしくなった自分の声に若干の抵抗を覚えながら急いで家を出た。
どうやら本当に、人生をやり直している、らしい。
外に出ると、全てが大きかった。家の横にある車も、公園に生えたクスノキも、狭い道路に置かれたガードレールも。自分が小学生の時から見慣れていたあれこれが、大きくなってからちっぽけに感じていたあれこれが、とても大きなものに見えた。
「美奈ちゃん、おはよ」
小学校に向かう途中にある大きな交差点で一人の少女が声を掛けてきた。私はその少女の顔を見た途端、自身の顔から血が抜ける感覚を覚えた。
真田心(さなだこころ)。小学校四年生の頃に私と同じクラスで、私のことをいじめてきた女の子だ。
私はしばらく固まって声を出せずにいた。
「美奈ちゃん、どうしたの……?」
心ちゃんは動かない私を心配そうに見つめている。
その時、ふと気が付いた。奥の山の木々は青々と茂っているが、まだセミは鳴き始めていないことに。
そうだ、まだ、夏じゃない。私はまだ、蝉がうるさく鳴いていたあの時を迎えていない。
私は勇気を出して口を開く。
「ううん、なんでもないよ」
久々の作り笑いに顔が強張るのを感じたが、心ちゃんは何も感じていないらしく、そっか、と笑顔で返してくれた。私はほっと胸をなでおろして彼女の隣を歩き始める。
すると、心ちゃんが私に尋ねてきた。
「美奈ちゃん、登校班はどうしたの?」
「登校班、あ……」
うちの小学校では、毎朝自分が住んでいる地区の班のメンバーで集まって登校するのがルールとなっていた。
「集まるの、忘れちゃった」
私は適当な理由を付けることにした。
「え、何それ、大丈夫なの?」
「まあ、たぶん」
心ちゃんはびっくりしたと言った具合に目を広げていたが、特に気にしていない様子だった。やはり、まだ私と心ちゃんは仲が悪くはなっていないらしい。
それでも私は気になって尋ねることにした。
「あのさ、今日って、何月何日だっけ」
「五月八日だけど?それがどうかしたの?」
「ううん、気になっただけ」
今はまだ、春。だからやっぱり、大丈夫。
私は小学校四年生の初夏、図画工作の授業で誤って絵の具の入ったバケツをひっくり返し心ちゃんに引っかけてしまう。でも、今はまだその前だから、大丈夫。
私は自分の心に言い聞かせながら、ふらつく足を抑えるようにして心ちゃんの隣を歩いた。
「心ちゃん、おはよう!」
教室に着くと、明るい笑顔の女の子達がどんどん近寄ってきて、心ちゃんを取り囲んだ。私はそれを一歩後ろで眺めながら、酷い吐き気に襲われていた。
「ねえねえ、昨日のドラマ見た?すごい可愛かったよね」
「そう、本当にすごかった」
懐かしい顔が酷く恐ろしいものに見える。私は耳の奥がツンと鳴り、視界が眩み、その場にうずくまった。
「あれ、美奈ちゃん、大丈夫?」
心ちゃんがしゃがみこんだ私に気付き、近づいて肩を触る。
「嫌っ……!」
私は思わず口に出してその手を払いのけていた。心ちゃんの顔が曇る。
しまった……。
私は口をわなわなとさせながら、床を這いずって教室を出た。
お願い、誰か助けて……。
階段に差し掛かると、私はバランスを崩す。そして天井と地面が真っ逆さまになった時、視界の中央、階段の上にあの青と紫に光る花が見えた気がした。
目が覚めると、目の前に穴だらけの天井が見えた。
「美奈……!」
椅子がすれる音と共に私の名前を呼ぶ大きな声がした。お母さんの声だった。
首を持ち上げると、私の顔に不思議な管が繋がれていることに気付いた。
「ああ、美奈、よかった……。待ってね、すぐに先生呼んでくるから」
そう言うと、お母さんは走ってどこかに行ってしまった。
取り残された私は辺りを見回す。どうやらここはカーテンで仕切られた病室の一角らしい。そして私の両腕は包帯でぐるぐる巻きにされていた。窓の外には青々と生い茂った木々が見える。落ち着いて呼吸をすると遠くから蝉の鳴き声が聞こえてきた。
「近藤美奈さん」
突然声を掛けられたので振り向くと、カーテンの脇に白衣をまとった女性が立っていた。
「先生に代わって体調確認をさせていただきます、真田です。よろしくお願いします」
看護師であろうその女性がお辞儀をするので、私もお辞儀を返す。
「先生、忙しいんだって」
お母さんが看護師の後ろから顔を出して私に言う。
「あなた、階段から転げ落ちたのよ。覚えてる?」
「……ううん」
お母さん曰く、私はどこかの公園の階段から転がり落ちて全身を打撲、所々骨折して気を失っていたらしい。たまたま近くにいた人に救急車を呼んでもらって今に至るそうだが、その周辺の記憶は一切なかった。
「それでは、先生が来るまで、しばらくお待ちください」
諸々の確認を終えると看護師の女性はまたお辞儀をしてさっさと歩いて行く。その時、揺れたカーテンの奥、病室の自分とは反対側の角の棚に置かれた花瓶に、青と紫に光る花が見えた気がした。
「……ねえ、お母さん、ちょっとカーテン開けて」
お母さんは、うん、と頷いてカーテンを開けてくれた。しかし、その先にさっき見えたはずの花瓶も、花も見ることは出来なかった。
私はしばらく呆然と何もないはずの空間を見つめ続けた。
「どうしたの?」
「ううん、なんでもない」
私がお母さんに向き直ると、お母さんは私の顔を半泣きのまま見ていた。目元は赤く腫れあがっていた。とても心配していたらしい。
私はなんだか申し訳なくなった。
「でも、本当によかった」
お母さんが涙を浮かべた笑顔で私に言う。
「うん、そうだね」
私も頷いた。私はしばらく考えてから、口を開いた。
「お母さん、私ね、今が幸せだよ」
お母さんは、縁起でもないと言いたげに眉をひそめる。
私はそんなお母さんのことを見ながら、くすくすと笑った。
うん、私は、今が幸せなんだ。それでいい。
私の夢は晴れやかな初夏の昼間に覚めた。
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