4.枷と絆
大きな水滴が、浮いている。それはまるで世界を表しているようだった。私の身体より一回り二回り、いやいやもっと、五回り大きいまんまるの水滴が浮いている。青々としたその球体に触れてみると、ゼリーのような弾力があった。押せるけど、決して痕は残らない。へこむけど髪の毛三本程度しかへこまない。
周りには何もない。ただ、白い空間が続いているだけ。どこまで歩いて行っても、扉はおろか壁さえ見えず、振り返ると必ず水滴が目の前にあった。離れようとしても離れられない。私は気味が悪くなって走り出した。水滴を見たまま。水滴は追いかけてこない。でも、なんだか、不思議と引き寄せられる感じがして、気が付くと、私の方から水滴の目の前まで歩いていた。
逃げられない。
ふと、水滴の奥に黒猫が見えた。にゃあと鳴いた。
突然私は思い出した。亡くなる前、お父さんが言っていた。夢の中でびしょびしょになったら、おねしょしたってことだよ。
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目を覚ますと、私はすぐさま股下を確認した。濡れてない。よかった。
ふと見ると、リビングの電気が付いている。お母さんはまた飲んだまま寝ていたらしい。スーツ姿のままテーブルに突っ伏している。ボサボサの茶髪に、ニキビの出来た左頬、微妙に剥がれたまつげがとてもだらしなかった。
私はさっさと着替えてお母さんに薄い布団を掛けると台所に立った。
冷蔵庫にあったはずのおつまみは、中身が空になって皿だけがおかれていた。私はほぼ空の洗剤を絞り出し、水道の蛇口をちょっぴりひねる。ツーっと流れる水の線でスポンジを湿らせて泡立てる。ざっとお皿を洗い、テーブルに置かれたアルミ缶も回収する。
お母さんは、まだ寝たままだった。
私は棚から食パンを二枚取り出して、トースターの中に入れる。二分半にセットしたら、洗面所に向かい、洗濯機の蓋を開ける。すすぎが終わって洗濯槽に張り付いた洗濯物をぺりぺりと剥がしていく。そのままズボン、タオルと干していると、トースターがチンと鳴った。私は手を止めて、お母さんを起こしに行く。揺らせば揺らすほど、ビールの臭いが上がってきて吐きそうになる。
「お母さん、起きて。朝ごはん出来てるよ」
お母さんはもぞもぞと頭を揺り動かして起きようとしない。いつも通りだ。私はフライパンを取り出して目玉焼きを作り始めた。目玉焼きをお皿に乗せたら、再びお母さんを揺らす。次に野菜炒めを作り、出来上がったらまたお母さんを揺らす。そうして、ようやく寝ぼけ眼のお母さんが顔を上げる。お母さんが顔を洗いに行っている間に、私はトーストをお皿に盛り付ける。
私は、お母さんが来るのを待つ。でないと、また始まるからだ。
水道の音が止まったかと思うと、お母さんがのそのそと歩いてきて席に着いた。私はお母さんが手を合わせるのを見計らって「いただきます」と言う。
お母さんはパンくずを散らかしながらトーストを食べる。私はそれを見ないフリをして、ひたすらに朝食を胃にかきこんだ。早々に食べ終えて、私はお皿を流しに置いて洗面所に向かう。私が洗濯物を干していると、朝食を終えたお母さんが洗面所に現れた。私はさっさと洗濯物をまとめて和室に移動する。お母さんが服を洗濯籠に入れる音が聞こえた後、お風呂の扉が閉められるのが聞こえた。
洗濯物を干している途中の私は、その音を聞いて、息を吐いた。やっと、一段落だ。ここまで、お母さんは何も言わない。朝は機嫌が悪いからだ。私も必要以上のことは言わない。いつものことだ。うん、いつものこと。いつものことなのに、私は何かとても、とても大きな何かに押しつぶされそうだった。涙が流れそうになるのを、私が、世界が拒んだ。
私は、残りの洗濯物を干し終えて、シンクに置かれたお皿と、テーブルに置かれたままのお皿を洗い始めた。
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また、水滴が浮かんでいる。中学生の私は、何もない白い空間で一人ぽつんと体育座りをしていた。靴下には穴が空いていて、ズボンの裾は擦れて少し千切れている。シャツの袖に着いたトマトの染みは消えることがなく、髪の毛はとかさなくてもバレないボブカット。いつも押し入れの奥に隠した専用のハサミを使って雑に、でもお洒落を目指してお手入れをしている。そんな私は、水滴の前で体育座りをしている。
水滴には、お母さんが映っていた。お母さんは、私の方を見た。
「なにこれ、全然点数とれてないじゃん」
私は俯いた。しかし、お母さんが上を向かせた、私の顎を掴んで。
「どうしてあんたはいつもこんな点数しか取れないの!」
お母さんは私をテスト用紙を持った右手でぶった。正確には、その様子が水滴に映っていた。今の私は、それを呆然と眺めていた。その時の痛みを、確かに感じながら。頬がじんじんと赤くなるのを感じる。
「ごめんなさい」
私が言う。今の私も言う。
――ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい
私の心が恐怖に囚われて、謝罪が自己防衛を始める。もう、何も考えられない。
「謝るくらいならちゃんと勉強しなさいよ!」
お母さんは私の頭を叩く。私は両手で頭を抑えて呪いのように謝罪の言葉を吐くことしか出来ない。今の私の、後頭部と目頭が熱を帯びる。考えないことが私を守った。でも、痛みだけはずきずきと私の身体以外の大事な何かを粉々にしていった。
水滴に映る景色が変わった。
私はテーブルに問題集を広げて勉強をしていた。夕ご飯は全て冷蔵庫の中に作って置いていた。私はどうしても数学は苦手で、先生に訊いてもわからなかった。私はいつもわかったフリをしてしまう。怖いから。
どこがわからないのかもわからず眺めていると、玄関のドアが開けられる音がした。私は時計を見る。まだ八時なのにお母さんは帰ってきた。私は急いで問題集をリュックに隠したが、遅かった。リュックを和室に押しやるのをお母さんに見られてしまった。
「何、あんた勉強してんの」
まずいと思った。そしてそれは予想通りになった。
「私があんたのために働いてやってるのに、何あんたは自分のためなんかに勉強してんの!」
お母さんはいつも、帰宅するときは不機嫌だった。私はまた俯く。
「どいて!」
お母さんは私を乱暴に押し退けて鞄を床に投げ落とすと、冷蔵庫からご飯とビールの缶を取り出した。そして、私を睨んだ。
「お前は疫病神だ。誰のために働いてやってると思ってるんだ!」
お母さんは椅子に座る。
「私の前から消えろ!」
こうなると、私は廊下に出ざるを得ない。玄関のドアの隙間から、冷たい風が入り込んでくる。私は生まれたての子羊のようにお腹を空かせるが、それでも自分自身では私はただの疫病神なんだと信じていた。子羊なんて可愛いものに私はなれない。
私はただ、小声でごめんなさいと言い続けた。目に映るのは、回る事のない冷たいドアノブ。体育座りの私のお尻は、熱を帯びることなく冷えた床の暗さに沈む。
これは、夢なのに、夢のはずなのに、現実へと私を釘付けにしていた。水滴に映るそれは私の過去であり現在(いま)だ。私はもう、逃げられない。
水滴から、水の鞭のようなものが私に伸びてくる。そしてそれらは、私の両手と両足に絡みついた。まるで枷のように。私は抗わなかった。抗えないのではない。抗わなかった。無駄だと知っているから。体育座りの私に、水滴は段々と近付いてきた。私の身体の何倍もの体積のあるそれは私の上に覆いかぶさろうとした。水の鞭が私の首にかかる。じとじととした冷たさが私の首を強く掴んだ。
――お前は疫病神だ
それはお母さんの姿をしていた。それが、世界が、私を飲み込もうとする。私の頭が水滴の中に囚われる。私は涙を流したはずだった。でも、水の中では涙すら意味を持たない。世界が泣くことを拒絶する。私は諦めた。宙ぶらりんの腕と脚が段々と飲み込まれていく。私はもう世界から抜け出せない。
その時、黒猫が言った。
「私は愚か者が大嫌いだ。だが、お前は愚か者じゃない。だから、チャンスをやろう」
刹那、鋭い光が私の視界を眩ませた。水滴はその光源によってねじれるようにして真っ二つに裂け、切り口から散り散りにはじけ飛んだ。私は地面に投げ出される。
ゴホッゴホッ。
喉に入り込んだ水に咳きこむ。身体が空気を求めていた。
そこら中が水浸しになったが、瞬く間に乾いていった。
顔を上げると、視線の先に黒猫がいた。ペロペロと自分の前足を舐めている。黒猫は私を見て言った。
「早く、顔を拭け」
そう言われて、私は自分がびしょびしょであることに気付く。地面に落ちた水滴は乾くのに、私の服や髪は乾かない。
「お前はもう自由だ。顔を拭け」
黒猫は言うと、私に背を向けて歩き出した。
「ま、待って……!私、どうしたら……」
私が黒猫に手を伸ばすと、黒猫は立ち止まって言った。
「自分で考えろ」
そして黒猫は振り返って続ける。
「それより、夢の中でびしょびしょになったら、おねしょしたってことだぞ」
その時、黒猫の笑顔に懐かしさを感じた。
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いつもと何かが違った。
知らない大人が何人かいて、お母さんが話している。
お母さんは怒鳴っているけど、知らない大人たちは相手にしていない様子だった。女の人が私に近づいてきた。
「大丈夫?」
私は寝ぼけていて、まだ夢を見ているのかと思った。そしてはっとして自分の股下を触る。
あ……。
私は急に恥ずかしくなって俯いた。女の人はその様子を見て言った。
「お風呂、行く?」
私がこくりと頷くと、女の人、お姉さんは私の背中を優しくさすって、大丈夫だよ、と言ってくれた。私は、お姉さんに連れられて、怒鳴り散らかすお母さん、母の横を通り過ぎた。
後から聞いた話では、隣に住んでいる人が警察に通報してくれたのだそうだ。以前から児童相談所と母がもめることはあったが、結局なんら進展がなかった。しかし、今回の通報までにそれらしい証拠が集まったとかどうだとかで、虐待が認められたのだそうだ。私には難しい話はよくわからないが、とにかく、私は世界から解放された。
別に楽になったわけでもなんでもない。今は新しい生活に馴染もうとしている段階。でも、私は確実に自由になった。もう、囚われる必要はない。
私は、施設の人に許可をとってお墓参りに行くことにした。母に会うかもしれないからということで、あのお姉さんがついてきてくれることになった。今はお姉さんが来るのを待っている。
何を話そう。何を言えばいいのだろう。でも、そうだ、私が言いたいのはただ一つ。
ありがとう。
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